波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

「ともに食事をする喜び」

2018-09-24 10:07:23 | Weblog
我が家の住まい(アパート)の周りでお天気が良いときは一日一回(夕方)賑やかになる時がある。近所のぺっとを飼っている老人が(主に婦人だが)
5~6人連れ立って散歩をさせる時間である。時折犬の鳴き声と話し声が賑やかになる。普段は全く静かで物音ひとつしないのでその時間は世界が変わった感じすらするほどだ。私自身はペットの世界は正直よくわからないのだが、高齢者がその連れ合いを亡くすとその寂しさを紛らわす意味もあってペットを飼うことが多いらしい。私の尊敬する作家の曽野綾子さんもご主人がなくなってから猫を飼うようになったらしい。今では二匹の猫と一緒に食事をしたり、寝る時も一緒らしい。犬の散歩をする人も夫人が多いことも含めてどうやらぺっとは女性の必需品の傾向があるようだ。(男性ではあまり見たり聞いたりすることはない)猫は生来「温もり」を恋しがる傾向があり、その「温もり」を人も享受する傾向があるようだ。
かくして猫は人間と必要な存在として共存できるのだが、人間は他の人に対して「必要な存在」とはなかなかなれないのではないだろうか。何故なら深く関わればどんなに親しくても何となく「煩い人」と思われそうだし、わずらわしいとも思われることはどの家庭でもどんなに理想的な家庭でも夫婦でも同じではないだろうか。従ってどんなに親しい人でも家族でも特別なものにすることなく自然体でのありかたが良いのではないかと思っている。
一人暮らしは(妻を亡くして27年)気楽でよいのだが時々一人で食べる食事は味気なく寂しく思う時がある。9月のある時娘からラインで「明日一緒に食事しましょう」と招かれ、出かけて行った。地方に人るだけあるデパートのレストラン街で二人で「お寿司」を食べ、その後「お茶」をしながら、いつ果てるともなく話していた。話題は孫の二人の娘のことから始まり自分のバイトの仕事のことなど話題は尽きなかったが時間の過ぎるのも忘れ、日頃のストレスを忘れて話し続けていた。(敬老の日を祝っての
こうしたことを考えると食卓に会話があるのとないのとでは、食事の意味がだいぶ違うことがわかる。毎日ではなくても一人暮らしでも会話のある食事はその内容は違ってくることは間違いないと思う。2年前まで月に一度会食の時間を持ち気楽に昔話から最近お話までできた唯一の友人がいたたが、「脳腫瘍」)何十年かの生涯を生きたのち
「あの人とは良く一緒に食事をしたなあ」といえる人が多いほどその人は幸せなのかもしれない。

「一日を考える」

2018-09-17 10:44:22 | Weblog
「若いときはいくらあっても足りなくて年を取ると余り過ぎて困るものなーんだ?]というなぞなぞをかけられたら、あなたは何と答えるでしょう。
私なら即座に「それは時間です」と答えると思う。それほどに若いときは、いくら時間があっても足りなくてあれもこれもと夜も眠るまもなくうごいた。
(お断りしておくが、必ずしも仕事や学びの時間で過ごしていたわけではなく、遊びの時間も含めむしろ遊びの時間が足りなくてかもしれない)それほどに体も動いて人間関係も多く(必ずしも必要な人間ばかりとは言えなかったが)毎日無駄な時間を過ごしていたような気がしている。
そしてその時間が年を取るほどにあまりはじめ仕事をやめ家族とも離れ離れになると(つまり一人暮らしになると)まるで時間が止まってしまったかのように余り、考えられる予定を済ませてもまだこんな時間か?と思うほどに時間の過ぎるのが遅く感じるのである。(一人暮らしは特別な理由があるわけではなくむしろ自分の意思であるが妻が早世したことが大きいかもしれない)
それ程に自分で自分を動かし出来ることも少なくなってしまうのである。庭の草抜きであっても手入れであってもどんどんできていたのに、少しやっても30分も体を動かすと足腰立たなくなるほどで休憩を余儀なくさせられることになる。
そしてむなしく一日が過ぎていくのである。考えてみると残された時間が少なくなるほどにできることが少なくなるのである。理屈から言えば残された時間が減るごとにしなければいけないことが増えなければいけないと思うが人生は皮肉なものである。
そんな日々を過ごしながらどうしたら一日を「悔いのない一日」にして過ごすことができるか、それは今の私にとって最大の「課題」になっている。
当然ながらその前提には自己の「健康管理」が第一であり、この上に立ってのことであるが、現在のところ医者の薬は欠かせないが最低限の管理ができていると考えられるので、何とかその範囲で充実させたいとしている。
考えられるのは「聖書通読」「ブログ作成」「以後学習」「テレビ囲碁鑑賞」「趣味読書}長時間が持たないが続けたい・
そのほかに家事もある。そして最近始めた「アルバイト作業」となる。
昨日敬老の日にちなんで牧師から祝いの言葉を受けたが「アブラハムは75歳で神の召しを受けモーセは80歳アロンは83歳に召しを受けた」と教えられた。人はそれぞれに召されるまでそれぞれに役目を負わされている。そのことをしっかり考えたいと主思う。

世代交代?

2018-09-10 10:17:51 | Weblog
今年の流行語に「第三者委員会」が候補に上がるほどに今年は春からスポーツ界において様々な問題が発生し、連日のようにテレビを通じてほうそうされている。突然のように降ってわいたように起きたこれらの事件は、いったい何故。どうしてせけんをさわがせるようなことになってしまったのだろうか。
はじめは興味半分で見ていたが冷静に考えてみると自分たちの周囲にも同じよう問題は潜在しており、いつ起きてもおかしくないような問題であることがわかる。日本は歴史的にも島国であり、外からの影響は受けにくい、したがって長い習慣と伝統で自然にできてしまった行動規範はいつの間にか習慣化され良くも悪くもそのまま受け継がれていくことになる。(良くも悪くもそれを是とすることになっている)
21世紀になり、海外からの情報や影響を受け日本もその土壌がかわりつつあったのである。
平成になって生まれた新世代の子供たちの考えも習慣も行動も今までのものを受け継ぐのではなく、自らの考えで行動するようになってきたのだ。
それはこのきっかけや動機が彼らの自らの行動に始まっていることでわかる。津万井今までの基準をそのままうのみにせず、自分たちの考えを生かした新しい行動規範が生まれていたのである。そしてそれはある時、マグマのようにマスコミというメデイアを通じて爆発したのである。そのように考えるとこれらの問題は起こるべくして起きたものであり、その是か非かは別として起こるべくして起きたことといえるかもしれない。
したがってこれらの問題はスポーツ界で替えでなく(あるいはメデイアに乗らなくても)どこの世界にも潜在しているし、起きていることのようである。
私の身近にも実は同じよな事件が起きていたことを知らされたのだが、それは長い伝統を誇るある団体のことであった。それ所在は古く代表者と数人の役員で構成されているのだが、そしてその役員会は尊敬と信頼で結ばれて運営されていたのだが、ある問題をきっかけに代表者と役員の間でその信頼関係が対立することになってしまった。そして10年以上の長い間その会に尽くしてきた一人の役員がその責任を取るかのようにやめてしまったのである。
そこにどんな問題は発生していたかは詳しくはわからないが、会を退くほどのことになるということは想像できず、「なぜ?」と思わず慨嘆したのだが
実際にあったことであり、(私自身は今でも信じられないのだが)尊敬と信頼関係もかくももろいものかと、自らを見直す思いである。
現実の世界は理想郷ではない。ある町会でも長い間を町会長として貢献してきた人をある時、新しい団体によるひとったちによって多数決で町会長を自分たちの仲間から選んで始末ということも聞いたことがあるが、ことほど左様に人の心と考えは様々であり、ある意味事故よく根差して動いているのかもしれない。そんなことを考えさせられている。

新しき挑戦

2018-09-03 10:50:26 | Weblog
ブログ投稿を今年の春からいったん中断した。それにはいろいろな事情があるのだがそれはさておき、そのことにより生活が変わったことは事実である。
同じようでいてリズムが変わり、一日の過ごし方にストレスがあり何か物足りなさと不満が残る気がしていた。
なぜ中断を決意したか?その一つに「私自身に一つの考えが芽生えたことがある。}それはこのまま年を取り、老いさばらえていくだけでよいのか、何かできることはないのか、80歳の時気を失って病院に担ぎ込まれたときいったんは自分の人生が終わったことのようにとらえ、これからは静かに由を過ごすこと、健康に留意することだけを考えていたが、こうして元気になり体に自信がついてくると何かできるのではないかという意欲がわいてきた。
そんな時、「80歳を過ぎてもできる仕事がある」という情報を聞き、「シルバーセンター」への入会登録をすることにした。
説明会は手続きを終わると早速担当の係の人に「何かあるか」と積極的に頼み込んだ。正直駐輪場整理、公園の清掃、などあっても肉体的にには不可能なものしか期待できなかったが、(事務処理とか、文書整理など可能な仕事はほとんど皆無)「地域新聞社のポストイン作業はどうですか?」と言われた。
それぐらいなら何とか出来そうだ」と「お願いします」と答えた。偶然のように私の住まいの近所のちいきの担当が開いていて450軒ほどの数である。
7月の真夏の猛暑日が続く時ではあったが、一週間に一回の作業であるのと一日の屋内作業であり、体への負担も少なく、むしろ殻に刺激を与えトレーニングにもなる。そして2か月をクリアーした。
今月から3か月目に入るが、慣れてきたことと涼しくなってきたことで自信もついてきた。これならしばらく続けられそうだ。この年になってこんなことができることに自信と新しい挑戦に対する意欲がわいてきた。もちろん体調管理は大前提である。体調によっては近いこともあるので、休憩を取りながらマイペースで進めることもできるのもありがたい。
何よりぼんやりと日々を過ごすだけでなく、生活に対する意欲と自信がついてきたことが何よりうれしい。
そしてもう一度かつての生活のリズムを再構築したい、そんな思いである。
人生は長いようで短い。日々をいかに納得のいく形で過ごしていくか、無為に過ごすかで人生観は変わる。
私は今、もう一度人生を見直しながら生きているのだ。