間もなく、平成も終わり昭和は遠くなった。
昭和の想い出を一つ。
2012年5月6日のブログ。
5月5日こどもの日 7時20分自宅を出る。
小田急線急行小田原行き新宿発8時41分に乗車。
新松田駅下車 タクシーに乗車 高松山入り口で下りる。
10時40分、舗装された緩やかな蛇行山道をゆっくり歩き出す。
上下ジャージ、靴はジョギングシューズ、
簡易リュックには駅前で購入したポカリスエット1.8リットル
着替えの下着 シャツ、ズボン、ナイロンタオル、浴用タオル
バスタオルも詰め込んでぱんぱんだが軽い。
前日までの風雨は去って、春の陽射しを浴び、濃い緑、薄い緑の山並みの
稜線が富士へと連なる。
谷沿いの水音、鳥のさえずり、樹間からやってくる颯風。
静かな林道を一人歩む時、心身に浮世の煩悩が失せ、新鮮な酸素が注入される。
汗ばむ毎に体内の毒素が放出され森林のフェロモンが体内に吸収。
心身が高揚し始める。
集落を過ぎて11時12分滝が現れる。山ゆりの滝
何段にも流れる立派な滝だ。一口飲んだ。沢水の味だ。
11時45分 蛇行する道の間から雪富士が見え出す。
蛇行して見えない所で話し声がする。
若者二人が道端に座り携帯電話をかけている。
11時48分 分岐標識まで来た。
高松山まで1時間20分だ。
舗装された山道はなくなり、樹林と大木の根がむき出しの道になった。
前夜の雨で道はぬかるむ。
山道の落葉ががさがさ動く、茶色の蛇が潜り込もうとしていた。
先ほどの若者が会話しながら追いついてくる。
あっと言う間に追い抜かれた。
やはり体力差はい如何ともしがたい。
かなりの汗とぜいぜいしながらゆっくり登っていると
前方から犬が二匹下りてきた。
4本足で身軽な足取り?
2匹は止まり動かない、後ろからオジサンがやってきた。
犬は待っていたのだ。
オジサンは私を見て、持っている杖を差し出し
「使いなよ、結構楽だよ」。
切り落とした枝だがしっかりしている。
若い頃は 冬にピッケルとスキーのストックは使ったが
元気もありプライドもあったので、杖突き爺さんのようで嫌だった。
頂いた杖を登り斜面前方に刺しながら歩く
意外や楽でバランスも崩さない。
12時16分 高松山まで40分の標識まで辿りつく。
若者二人が休んでいた。
私は一度も休まず追い越した。
亀と兎の競争!このままいけば私が先に頂上に着くと思った。
休まずにゆっくりと登るのが疲労せず体力消耗しないのだ。
12時26分 高松山の標識があり、男坂 女坂のルートがあった。
当然 急登の男坂を登ることにした。
これを一気に登れば高松山頂上だ。
その時、背後に人声がする。
近づく足音、またまた、若者二人に抜かれてしまった。
会話しながら足取り軽く私の視界から遠ざかってゆく。
13時2分 801mの高松山頂上に着いた。
頂は草地になっていて前方に富士がくっきりと見えた。
幼い頃 風呂屋に描かれていた雄大な絵のようだ。
頂いた杖
素晴らしい富士 冬季だったら美しい冬富士が眺められる
春霞の今、めったに見られない皐月富士だ。
以前 冬富士登頂を書いた。
頂の草地に座りポカリスエットを少し飲む。相模湾も臨める。
草地に寝転び富士と漂う白雲見詰めた。
20歳の春、保育園の卒園写真に隣同士で写っている女性と
高松山にハイキングに来たのだった。
あの頃は林道沿いにみかんの花が咲き、藁葺きの集落があって牛の鳴き声していた
のどかな山村だった。
二人で寝転び富士を眺め青春したのだった。
彼女は高校卒業して銀行に勤めていた。
私は大学に遅い入学を果たしたばかりであった。
私は青臭い自分勝手で、大人ではなかった。
彼女は既に社会人 大人だった。
その後まもなく、「お嫁さんに行くの」と目黒駅で告げられた。
橋の下、幾多の流れに浮き沈みを繰り返しながら、歳月は流れた。
40代半ば「あの人は今何処に」?風に父親の転勤に伴い
行方知れずになっていた私をクラスメートが探し出したのだった。
そして臨時のクラス会が開かれ、私の隣に彼女は恥ずかしそうに座った。
彼女はそっと呟いた「あの頃、あなたは学生、無理だと分かっていた」。
実は幹事に度々クラス会が開かれ、あなたが来ないのが寂しかった。
幹事に昔の事話したら「何とか見つけてやる」
旦那は大手新聞社に勤め、子供は男の子が一人
幸せに小田急沿線に住んでいる。
二人は20才の時、伊豆西海岸の砂浜にいた。
40才で再会
落ち着いた女性になっていた。
クラス会幹事も亡くなり
再会することもない。
ひとしきり、沸き消え去ってゆく雲のごとく思い出は富士の頂を越え
紺青の空に飲み込まれていった。
13時49分 下山を違うルートで歩いた。
北斜面で陽射しは無く、道は荒れて滑りやすい、杖は役に立つ。
ビリ堂という標識があった。半分は下ったと思った。
途中二股があり、鉄柵で閉じられ、悪路注意と書かれている。
方向ではこの道なのだが、別のルートを下山。
しかし、間違えたのだ。
入山口には遠ざかるようだ。
大きな道なのでトラブルはないと判断。
15時 県道に出た。道路標識に山北駅方向が示されていたので
黙々と人影なき舗道を歩き、15時34分 御殿場線山北駅到着
駅裏にある「山北町健康福祉センターさくらの湯」に直行
町の人も登山客も利用できる公営施設。
400円で露天風呂、サウナ、もあり休憩場所もある。
アルコール類は置いていないが気軽で安く
隣が駅、ツーリングの若者達が多数利用する。
露天風呂に浸かり全身を洗いまくる、体重計に乗ると朝の体重より4キロも減少
大半が水分だが嬉しい。
ジャージからスポーツシャツと黒ズボンに着替える。
御殿場線山北駅から新松田まで二駅間乗車しようとするが
駅の券売機は閉じられ人もいない、戸惑うがホームに2連結の
車両が止まっている。ホームで車掌が切符を販売しているが
御殿場行き反対方向だ。車掌が叫ぶ、「国府津行き列車がまもなく来ます」
「下車駅で山北から乗車と言ってください」
御殿場線はJR東海なのでスイカは使用できないのだ。
ここは無人駅なのだ。列車が入ってきたが、扉が開かない
自ら扉横のプッシュボタンを押さないと開かないのだ。
それも開かない扉と開く扉が駅によって違う。
車内は人と荷物でギュウギュウ、ツーリング用の自転車が布袋に包まれて
若者が多数乗っている。彼らは「すいません。すいません」と謝っている。
17時6分二駅目の松田で下車、対面が小田急線の新松田駅だ。
さて喉の渇きはそろそろ限界だった。
新松田駅の隅っこに「焼き鳥」の看板
「生ビールと焼き鳥を頼む」
先客は一人だけ、5人が座れるカウンター席と テーブル席が二つ。
元は田舎のスナックで働いていた風の中年オバサンと爺さんでやっているようだ。
生ビールがカウンターに置かれた。ジョッキから黄金色のホップが輝き
空気の粒があがり上に白い泡立ちができた。
喉を通る爽快感、このために飲まず食わずに我慢したのだ。
ホッピーも追加した。後からハイカー達が入って満席になった。
土日祝は午後3時半開店、登山客を取り込むためのようだ。
18時、小田急で新宿に出て帰宅を考えたが、御殿場線に乗り
国府津に出ることにした。スイカが使えないので国府津までに切符を買う。
久しぶりの国府津なので駅外に出たかったが、東海道線東京行きが直ぐにやってきた。
通称湘南電車で高校が藤沢にあったので沿線に友人もいたので懐かしい。
二宮には貧しかった高校同期がいた、二人で野毛の図書館で語り合った。
苦学の末、政治家になり保守系の県議団幹事長をしている。
その後、県会議長になった。
うつらうつらしていると大船駅に到着、真向かいの総武横須賀線、上総一ノ宮行きが止まっている。慌てて乗り換える。その時弊社のデザイナー女性からメールが入った。
19時52分 今大船駅にいるとメールした。
後で彼女からメールが来て、丁度その時刻に鎌倉に行き、
車で大船駅を通りすぎたと、偶然に驚いたメールがきた。
21時半 船橋駅着、海老川沿いを25分歩き
居酒屋 あんこうでビールを飲む。
その時 ハッと気付いたことがあった。
前立腺肥大になってから長時間の電車では排尿が我慢できないので
トイレのある車両しか乗らないのだが、役3時間半尿意は感じなかった。
水分取っていないから当たり前か!
自宅に10時半着くと 又ビールを飲んだ。
急に腹が減りだした。いろんなつまみを食べた後、してはいけない
夜のラーメンを食べた。
就寝後、夜中に喉の渇きで2回起き、牛乳と水をがぶ飲みした。
翌朝、起床後 体重計は元の体重を示していた。
4キロ減ったが翌日には4キロ戻ったのだ。
お金は懸命に働いても減るだけで増えないが
食欲と金欲は反比例する。
自転車で尺里峠までは良く行くんですが、山頂へ上がったのは山登りをやっていた20代の頃以来40年ぶりです。
思ったより大変で若い頃の記憶と現在の自分の体力とのギャップを思い知らされました。