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岡城址



天候はよくなかったけれど、桂子の提案で
まったく久々に岡城址に登りました。竹田岡藩のお城跡です。
規模が大きく、非常に堅固な山城です。
山の上にこんなに立派な石垣を造るのは大変なことだったでしょう。
大坂城の石垣を造った職人集団が造ったといいます。

惜しいことに、明治維新のときお城はすべて解体されました。
解体された建物の柱類は一般に払い下げられたとかで
エンジェルファームの蔵に使われている大きな柱も
岡城からきた柱だと言う地元のかたもあります。

岡城は、お城が解体されたことで荒れ放題になりました。
その風情を歌った曲が瀧廉太郎作曲「荒城の月」です。



岡城に瀧廉太郎像が座っています。
同じ竹田出身の朝倉文夫の作。

瀧廉太郎(1879~1903)が少年時代を過ごした旧家が
竹田市街に残されており、一般公開されています。
彼が「荒城の月」を作曲したのは22歳のとき。
そして23歳には夭折しています。


土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲

春高樓の花の宴
めぐる盃影さして
千代の松が枝(え)わけいでし
昔の光今いずこ

秋陣営の霜の色
鳴き行く雁(かり)の数見せて
植うるつるぎに照りそいし
昔の光今いずこ

いま荒城の夜半(よわ)の月
変らぬ光たがためぞ
垣に残るはただかつら
松に歌うはただあらし。

天上影は変らねど
栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなお
ああ荒城の夜半の月


日本ペンクラブのWebサイトの物故会員のコーナーに作詞者・土井晩翠の
「荒城の歌及び回想」という一文があります。

それは瀧廉太郎没後45年祭に招かれた土井晩翠(1871~1952)が
岡城址で読み上げた文です。
ちょうど第二次世界大戦敗戦直後の昭和22年でした。

 國破れて山河あり、全国が荒城そのものである。
 私の詩は四十余年の昔に今日あるを豫言したやうな
 感があるではないか。

 天上影は変らねど
 栄枯は移る世の姿

 しかしこれを他の一面から考へると春夏秋冬の推し移る通り
 全く弱り切つてる冬枯の日本も、いつかは春が來るであらう。
 この希望を抱き、在来のミリタリズムを振り棄てて
 祖国愛と人類愛とを兼ねる新天新地の理想を抱き、
 邁進すべきである。前途は遠いだらうが
 日本の復興は必ず来ることは私の第六感である。


瀧廉太郎が亡くなって100年以上
土井晩翠が亡くなって50年以上の時が流れました。
日本は今、世界で最も豊かな国のひとつとなっています。
土井晩翠の第六感は正しかった・・・
でもこの繁栄は晩翠の理想とする世界だったのでしょうか?



石垣の際に寄ると、足がすくみます。




絶景の地です。




石垣の間から生える樹木。

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