kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

「文にあた」っている人の誠実な仕事ぶり  牟田都子『文にあたる』

2022-10-27 | 書籍

三浦しおんさんの『舟を編む』は、映画を見てから、原作を読んだが、辞書編纂という途方もなく手間のかかる作業描写が臨場感溢れていてとても面白かった。その辞書をいくつも調べ、それではもちろん足りないので、専門書にあたる。そのために図書館や資料施設に当たり、現在ではネット情報まで渉猟する。校正の仕事とはそういうものだと、ぼんやりと想像していたが、まさしくそうだったのだ。それでも「落とす」(誤植等を見逃す)こともあり、ひたすら「拾う」(誤植等を見つけ出す)作業に従事する。とても地味な仕事だ。でもその地味な世界の広さと深さと言ったらない。

著者は、人気校正者という。校正に携わる人に人気かどうかがあったのも驚きだが、その徹底した細かな仕事ぶりと、それを自慢げに開かさない謙虚さが魅力だ。しかし、仕事は微細に及ぶ。「てにをは」や漢字の間違いは初級で、文系には門外漢?の理系の記号や単位の確認といった高度なものまで。著者が専門とする文芸誌には、当然小説も含まれるが、そこに登場する地名や時代考証、固有の店舗の正否まで。2021年に「すかいらーく」はあるはずなく(2009年に全店舗閉店)、2002年には「セブンイレブン」は四国にはなかっただの。『海辺のカフカ』に出てくるこれら実在の店舗の記述に読者からの指摘を受けて、村上春樹は重版で訂正したそうな。店舗程度では現在なら「ググれ」ば、事実が容易に判明するが、パンダの尻尾が白いことの典拠は?大辞典も専門の動物辞典にも、パンダは目の周囲と耳、首の後ろ、四肢は黒く、それ以外は白い、と書いてあるが、尻尾が白いとは書いていない。ならば、生物学の専門書にあたった末、図書館司書経験もある著者は、子ども向けの動物図鑑にたどり着く。パンダの尻尾が白いとちゃんと書いてある。

校正に完璧、終局はないと言う。むしろ、あれも拾えなかったのではないか、落としたのではないか、との後悔、葛藤の連続とも言う。著者のようなフリーで校正を生業とするほどの実力にしてこの謙虚さと向上心が、より読み手や書き手に寄り添った裏方を裏方せしめているのだろう。けれど、書物に限らず、裏方あっての完成形と言うのは成果物全てに言えることだろう。ところが、読み手には書き手と完成物しか見えず、その間に校正や印刷、装丁などに携わる者の姿は見えにくい。それら間に介在する黒子の努力、研鑽があってこそ、完成された「書籍」に見えることができるのだ。だが、著者はまだまだと言う。

その昔、産地偽装問題が起こった頃、「根室産蟹」とするから偽装になるので、手作り風コロッケみたいに全て「根室産(風)蟹」と「風」を入れれば全て解決すると、私は冗談で言っていたが、本書の著者は許さないというか、納得して世間に出すことはないだろう。それくらい厳しい世界なのだが、その追求心、妥協のなさが本当に面白いのが本書の魅力だ。

著者が関わった仕事ではないが、アメリカのモード誌『ニューヨーカー』に英国の詩人W・B・イェイツの少年時代を過ごした通りに、そのことを記した青い陶板がロンドンの小さな通りにあるという話が出てくる。イェイツが過ごしたことも小さな通り名も裏が取れたが、「青い陶板」かどうか。陶製ではないのではないか。『ニューヨーカー』誌のロンドン支局長が自転車を漕いで確認しに行ったと言う。ウィキペディアだの「ググる」だの、ネットで確認できる世界は限られる。実見主義の大事さを彷彿させる話だ。仮想空間より、辞書や図書館、過去文献など世界には校正だけが知る限りない別の「世界」がある。(『文にあたる』牟田都子 2022年 亜紀書房)

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ボーダーーを作らずに一人ひとりの居場所を 陳天璽『無国籍と複数国籍 あなたは「ナニジン」ですか?』

2022-10-06 | 書籍

「チコちゃんに叱られる!」では、「すべての日本国民に問います」という決まり文句があって、なぜ「日本国民」なのだろうと違和感をおぼえていた。番組制作側はそこまで考えていないかもしれないが、この「日本国民」は「日本国籍保持者」のことだろう。しかし、日本には外国籍の人が300万人くらいいるし、技能実習生など短期滞在者を含めればもっといるだろう。一方、出生率は下がり続け、「日本人」は毎年50万人以上減っている。「外国人」の割合は増え続けるのだ。そして、日本国籍がないからといって他国の国籍があるとは限らない。また、日本以外にも国籍を持っている人も。

『無国籍と複数国籍 あなたは「ナニジン」ですか?』は、著者自身がおよそ30年無国籍で過ごし、そのために経験する不便、不合理、不条理に苛まされてきた当事者である。それらは差別である。人が国民国家の枠内に生きている限り、何らかの線引きは必要という。しかし、本当にそうだろうか?その線は本人が引いたものではない。戦争や民族紛争、戦後の国家間の取り決めなどにより、個々人を無視して無理やり引いてきたのが「国籍」という線引きだ。著者自身、中国大陸出身の父と母のもと、横浜の中華街で生まれ育ち、一家は中華民国(台湾)の国籍を有していたが、日本が中華人民共和国と国交正常化し、台湾と国交を断絶した1972年に家族で無国籍となった。合法的な定住者であったため、生活が激変することはなかったという。ところが、海外渡航の際に、その不便さは一気に顕在化する。パスポートがないため法務省が発行する「再入国許可書」、渡航先国のビザなど沢山の証明書類を揃えてからでないと出国・帰国ができなくなるからだ。ビザを大使館に申請しに行く際には、健康診断書や所得証明書、残高証明書、相手国の機関が発行した招請状…。ところが、台湾発行のパスポートを持っていたのに、台湾のビザを持っていないとして入国できなかったことも。自分がこれほど苦労するということは、他にも苦労している人が大勢いる。さまざまなケースと付き合っていく中で、見えてきたのは「線引き」こそが、おかしいということだ。

日本が北朝鮮と国交を樹立していないことを知っている人はほとんどだろう。しかし、在日朝鮮(韓国)人の国籍が「大韓民国」はあり得ても、「朝鮮」がないことを知っている人は少ないのではないか。運転免許証などに書かれている「朝鮮」は、北朝鮮はもちろん、国を指すのではなく記号であることを。そう、サンフランシスコ講和条約で日本が植民地であった朝鮮半島のうち、韓国とだけ国交を結んだために、韓国国籍を選ばなかった人たちの出身を示すものが地域名、記号に過ぎない「朝鮮」となったのだ。定住外国人である在日コリアンは「朝鮮」であるからといって日常生活に不便はないという。しかし、東大阪で喫茶店を営む世界的詩人でもある丁章(チョンジャン)さんは、台湾の大学から招聘を受けたが、ビザ申請の項目に「その他(無国籍)」の選択肢がないため、渡航できなかった。台湾の旅券発行当局は、日本の「再入国許可書」の「朝鮮」を現在の北朝鮮と勝手に理解していたからだ。今や性別欄に「その他」があるという時代にである。

無国籍の反対に見える複数国籍。それは、日本のように多重国籍を認めない国と、アメリカのようにそれを認める国との間で生まれ育った人にも不便と不条理をかこつ。日本とアメリカのように先進国同士の国とは限らない。政情によって、国籍の線引きを急に変えたり、国内に自国民と認めない非迫害民を抱えている国からの避難でたまたま日本に来た例もある。それも子どもの時に。

「国籍」という国が引く線によって差別されない権利は、世界中すべての人が有しているはずだ。ところが、現実はそうではない。そして、その線引きもその時代の、その政権の思惑と相手国との関係で位置が変わったり、緩んだり、厳しくなったりする。ミャンマーから自国民と認められないロヒンギャの人は群馬県館林市に、トルコやイラク、イランで迫害されて逃げ来たクルド人は埼玉県蕨市に多いという。国籍をめぐる差別と、在留資格による差別はパラレルでどちららも一人ひとりの幸せ、それは確かな「居場所」を必要とする、が享受できるようにするべきだろう。

「親ガチャ」という嫌な言葉が流行っているが、「国ガチャ」もあってはならない。著者の本当に息の長い活動と研究に頭が下がる。(光文社新書 2022)

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