kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

「修復的司法」を問う好著 『当事者は嘘をつく』『プリズン・サークル』

2022-06-18 | 書籍

この2冊を同時に紹介するのは、どちらも「修復的司法」に深く関連した内容であるためで、どちらの著者もお互いの業績を詳しくご存じだと思うが、両者を直接つなぐからではない。

小松原織香さんの『当事者は嘘をつく』は読了後、この欄などで紹介したいと思ったが、著者自身の性暴力被害のカムアウトとその後の葛藤が重すぎて、評しようとする筆者の任には負えないと感じた。しかし、『プリズン・サークル』の著者坂上香さんもまた、自身の凄惨な暴力被害と、それの反動から弟にひどい暴力を振るっていたこと、弟さんのオーバードーズ、罪を犯しての入獄に直面した経験を言わばあけすけに語っていることに接し、何か書かなければと思ったのだ。

『当事者は…』では、自身の記憶を反芻する思い自体が上書きされているのではないか、書き替えられているのではないかと自身にしかないはずの「真実性」を疑う様が吐露される。著者は自助グループでの出会い、そこで自身の回復を得た。しかし同時に、長い時間が経ってからの加害男性への追及とその時の相手の反応や、支援者の曲解・決めつけとも取れる当事者を置き去りにした対応、あるいは、性暴力を学問として極めんとすることへの無理解など様々な齟齬、非難、攻撃も経験した。それらは全て著者の求めていたものとは違う姿勢だ。著者は、被害者と加害者が相対したり、加害者が被害者からのコミットにより加害を直視して、解決を企図する修復的司法が性暴力の場でも可能か考え、それを学問として生業とすることによる研究者の道を歩むことになる。もちろん、その途は簡単ではない。研究対象と研究者が一致し、主観と客観のせめぎ合いに自身が悩まされることになるからだ。精神医療の現場では北海道浦河町の「べてるの家」での当事者研究という先駆的な成功例があり、本書でも紹介される。著者の場合、被害者がフラッシュバックやPTSDなど、働き、安心して普通に生きていくことがずっと困難な場合もある中で、研究者の道を得たのは幸運だったろう。もちろんそこには著者の努力と少なからぬ同伴者、理解者がいたからに違いない。そして、研究者として進む覚悟と自信が高まっていた著者は、修復的司法の可能性を戦後最悪、最長の公害ともされる水俣病を研究対象とすることで、その道を深めていく。水俣病を直接知らない世代の著者が現場に幾度も入り、地元の人と交流を重ねていく、次第に打ち解けていく様は、「研究者」という一見オカタイ立場に見える一人の人間が、水俣と関わっていく「随伴者(ヒト)」になっていくようで素敵だ。

「修復的司法」が日本で広く知られるようになったのはおそらく坂上さんの映像によるところが大きい。1990年代の早くからからアメリカの「修復的司法」(元々は、Restorative justiceの和訳である)を取材、映像化してきた坂上さんが今回取り上げたのは、日本の島根あさひ社会復帰促進センター、官民混合運営刑務所での前進的な試み、TC(回復共同体:Therapeutic Community)である。TCとは「依存症や犯罪などの問題を、当事者たちの力を使って共同体の中で解決していこうとする試み」(2頁)であって、受刑者同士が援助者のファシリテイトとともに、自分の過去や内面を捉え直し、仲間から共感や共有、時に厳しい指摘を受けて、直視する学びとエンパワメントの場が描かれる。日本で刑務所にカメラが入るなど前代未聞でしかも、TCユニットの実際が細かに映し出される。しかし、受刑者の顔出しは禁止、様々な制約の中で刑務所内の撮影に2年間、周辺取材や準備、編集作業に10年以上を費やした労作で、頑なだったり、発言も少なかったTCユニット参加者が次第に心を開き、自身の虐げられた過去を思い出し、その被害者が加害者に転ずるメカニズムを体感していく様は感動的だ。そう、犯罪加害者は多くの場合被害者だったのだ。

父親からの凄まじい暴力、親からの遺棄、児童保護施設でのいじめ、親戚からの性暴力など、誰か手を差し伸べられなかったのかと暗澹とする。幼少の頃から自尊感情が育まれない子らはやがて、他者への想像力も著しく欠く。島根あさひのTCユニットには殺人などの重大事犯はなく、窃盗や詐欺などが多いが、それでも傷害致死の例もある。登場する一人ひとりの物語を丹念に辿り、その過去と未来を否定しないTCのプラクティスは、彼らを再び犯罪者にしないという確固たる眼差しに満ちている。それはTCでは受刑者を番号ではなく「さん」付けで呼ぶなど、「ヒト」として尊重する姿勢からも窺える。しかし、島根あさひの試みは例外中の例外で、坂上さんの取材後は、TCが縮小しているとも。

巷間に言われるように「被害者の人権」が十分守られていない事例も多いだろう。しかし、再犯率の異様に高いこの国で、加害者を再び加害者にしない社会への投資は結果的にはムダにならない、経済的にも合理性があるのではないか。

『当事者は…』は被害者の立場から、『プリズン…』は、加害者の姿を追うことにより、一人の人間が生きていく、生きながらえて行く希望の路を示唆しているように思える。小松原さんは研究(者)という生き方を、坂上さんは加害の深淵にある被害と、そこからの救済を模索し、どちらも立ち止まったままにしない。どんな形でもいい、被害者にはサンクチュアリ(TCで参加者が感じる自己開扉の「聖域」)やアジール(避難場)が必要だ。(『当事者は嘘をつく』は、2022年、筑摩書房刊、『プリズン・サークル』は同年、岩波書店刊。なお、映画「プリズン・サークル」は、このブログで紹介「人は人の中で生き直すことができる プリズン・サークル」https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/e1c3174a519eabe3a07623c58879db7a

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不合理、不条理に慣れてしまうのが戦争 日常にその芽はある  「ドンバス」 

2022-06-08 | 映画

 戦争の不合理、不条理が語られることは多い。しかし、そもそも合理的な戦争、条理にかなった戦争などあるものだろうか。本作を見た第一の感想だ。そして、その不合理、不条理の被害を受けるのは戦争を開始し、指揮する指導層とは一番遠い存在の市井の市民、末端兵士などだ。

 本作とその後のロシアのウクライナ侵攻をめぐる情勢−姿勢と言った方がいいかもしれない−から、ロシアでは上映が禁止され、自身はプーチン非難をしないヨーロッパ映画アカデミーに抗議し、一方ロシア映画をボイコットせよとウクライナ映画アカデミーを批判したため除名されたその人こそ、監督のセルゲイ・ロズニツァである。

 ロズニツァ監督はこれまで数々の優れたドキュメンタリー作品を制作している。だから本作もリアルと見紛うが、完全な劇映画である。戦争の不合理、不条理は、例えば戦火を逃れ、ジメジメした地下で不衛生、不健康な生活を余儀なくされる住民に、ウクライナ軍の末端兵士が親ロシア軍兵士に捕らえられ、晒し者にされるが、その兵士を辱め、苛烈な暴力をふるい、そして「殺せ」と騒ぎ立てる親ロシア住民に見るころができる。そしてその暴力的な若者は結婚式では明るく祝う姿が。さらに、政治に距離を置きビジネスに勤しむ男は、ビジネスに不可欠の車を親ロシア軍に接収され、「車を軍に委任します」と書けと脅かされる。その上で法外な金銭を要求される。これでもかと描かれる不合理、不条理の連続にげんなりする私たちを欺くかのように、最初と最後に登場する被災者アクターたち。親ロシア勢力の宣伝のために、地域住民を装ったアクターに「(ウクライナ軍の砲撃で)人が死にました。本当に怖いです」と語らせる。ところが、アクターら全員と、軍との連絡役の人間まで、射殺する兵士。その現場に急行したのは警察や救急と共にテレビメディアであった。そう、全てやらせだったのだ。そうすると、途中の地下の避難住民も、うち殴られるウクライナ兵士も、全てやらせかと勘繰ってしまう。その証拠に、最初から最後まで当時人物は少しづつ、つながりがあり、全て一連の輪の中に収まってしまう、ある意味壮大なメタ構造を有しているのが本作のキモだ。

 これは戦争の本質、つまり、始まってしまえばどんどん誰が本当の責任者か、誰を追及すれば正当であるのか分からなくなってしまうという、終わりが見えない果てしない戦争の本質を表していると言えよう。そして、その責任追求の矛先の不明さとパラレルにあるのが、住民、兵士らを取り巻く不合理、不条理の連続だ。例えば、車を奪われるくらいの不条理は、命を落とすことに比べればマシに思えてくるし、あまりにも不合理、不条理が蔓延していて、戦争そのものへの反戦、厭戦感も麻痺してしまうかのようだ。そういう目で見ると、安倍政権以降何重にも、何度も重ねられてきた不合理、不条理−国会招集を怠ったり、モリ・カケ・サクラ、日本学術会議任命拒否などいくらでもある−は全て、この不合理、不条理に国民を馴致させるためであったのか、戦争準備だったのかと合点がいく。ロシアのウクライナ侵攻で「核共有」「敵基地攻撃」「憲法9条改正」と、好戦派が勢いを増している現在の姿がその証だ。

 ロズニツァ監督は自分をコスモポリタン(地球市民)であるとする。国境なきところに国境を超えた戦争など存在しない。そんな夢想を嘲笑うがの如く、あらゆる不合理、不条理に直面し、人間のいやらしさ、悲しさ、愚かさ、非道さをこれでもかと見せつける本作は劇映画であるゆえにとてつもなくリアルである。

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