kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

「表現物」で戦争を、原爆を問う 『反戦平和の詩画人 四國五郎』

2023-12-25 | 書籍

戦争を経験した世代がどんどん少なくなっている。ただ、そういった世代の多くが戦争を語ったり、その経験ゆえ反戦運動に関わったりしたわけではない。むしろ少数だろう。亡くなった私の父も中国戦線での軍隊経験があるが、その体験を語ったことはほとんどないし、戦争はいけないと言いながら靖国神社参拝への憧れを口にし続けていた。

四國五郎はその生涯を反戦表現に捧げた人だ。職業画家ではないが、数えきれないほどの作画をなし、文を紡いだ。その姿を最も間近に見てきた子息の四國光さんが父の詩画人としての活動、それにかける思い、背景と一生をまとめ上げたのが本書だ。光さんもプロの伝記作家ではないし、いわばアマチュア画家を素人作家が評伝に著したように見える。しかし、五郎のアマチュア性は、市井に生きる従軍経験のある一人の広島出身者ゆえの責務を体現しているし、光さんは等身大の父を描くことで画業にとどまらない四國五郎の姿を読む者に教えてくれた。アマチュアと言ったが、幼少の頃から画才に秀でた五郎の技量は著者のみならず、多くの認めるところだ。けれど画家への夢は招集、満州へ、そしてソ連軍の侵攻によりシベリアに抑留されたことにより絶たれた。ラーゲリでの生活は3年以上に及び、広島では最も愛したすぐ下の弟直登を原爆で失う。やっとことで帰国した五郎を迎えたのは破壊された故郷と弟の死だった。

戦後、市役所に職を得ながら、反戦活動に従事する。ともに活動したのが峠三吉。原爆詩人の峠と、画と詩を組み合わせた「辻詩(つじし)」=反戦反核のポスターをいく枚も書き上げる。しかし時代はまだ占領下。そして朝鮮戦争でGHQの言論統制も厳しい。それでも辻詩のほか、『反戦詩歌集』の発行など戦争と原爆への告発をやめなかった。ところで「辻詩」とは著者によるとバンクシーのような活動、神出鬼没で違法の抵抗アートのことだ。広島に原爆を落としたGHQ=アメリカが最も統制、弾圧の対象とする運動を繰り広げていたのだ。

やがて、占領下は終わるが、今度は逆コースの時代。日本にまた軍隊が、後の自衛隊が創設され、レッドパージも吹き荒れる。その中にあって、五郎は次々と活動の幅を広げ、市民に戦争の記憶の継承に道筋をつけた。1974年から始まった被曝体験者による「原爆の絵」募集や『絵本 おこりじぞう』(初出は1973年)の挿画などはその代表的な活動であろう。なぜ、五郎はそこまで反戦反核運動に生涯を捧げることができたのか。それは軍国少年としてそういうものだと従軍し、無知であった自己、そして不合理極まりない軍隊経験と仲間が次々に斃れ、次は自分の番と死を覚悟した収容所生活、そして原爆が落とされたその時広島にいなかった悔しさなどが合わさって作り上げられたものだろう。けれど思いだけで運動ができるものではない。若い頃から日記やすぐに絵にする画才、そして収容所ではソ連軍に隠れて記し、描き持ち帰った綴りものなど。飯盒に引っ掻いて描いたものまである。

父の生涯を丹念に追った光さんの筆致は正確で、あたたかい。それは光さんが何よりも父を尊敬しているからに違いない。尊敬できる人であったということだ。実は、身内、それも親を尊敬できるというのは難しい。世襲政治家が「父を尊敬します」というきな臭さとは正反対の尊敬のあり方だ。父としての実際の五郎は穏やかで声を荒げることもなく、いつも絵を描いている姿ばかり思い出されるという。近年、戦時トラウマの存在がクローズアップされる中で、己を律し、終始冷静かつ大胆に活動した四國五郎の凄さが改めて思い知らされる。

尊敬する戦争世代の中で「戦争出前噺」の本多立太郎(1914〜2010)さんがいる。本多さんは中国人を手にかけたこと、シベリア抑留の経験話を行脚なさっていて、一度話してもらったことがある。本多さんもシベリアから帰国後、ベ平連運動などずっと反戦活動に従事された。本多さんに四國五郎が重なって見える。ただ一点違うのは、本多さんが天皇(制)にたいする反駁を語っていたことだ(だから、「ムラの靖国」である箕面忠魂碑違憲訴訟をずっと支援されていた)。本書では、五郎にはあの戦争の一番の首謀者である天皇に対する思いがほとんど出てこない。本多さんもそうであるが、ソ連帰りということで実際以上に目の敵にされていたのではないか。右翼勢力からすれば「アカ」の頭目として。

闘病と執筆と。大変なお体で光さんが書き上げた四國五郎の実像とその執念に改めて敬意を抱く。(『反戦平和の詩画人 四國五郎』2023.5 藤原書店)

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「国」とは無縁のアイデンティティを   追悼 徐京植さん

2023-12-20 | 書籍

私が「中世最後の彫刻家」ティルマン・リーメンシュナイダーの名を知ったのは、徐京植(ソ・キョンシク)さんが「日曜美術館」で取り上げていたからだ。徐さんには『私の西洋美術巡礼』(1991 みすず書房)ほか、西洋美術にまつわる著書がいくつもある。その中には、20世紀美術、それもナチスによる迫害の時代強制収容所で命を落としたユダヤ人画家のフェリックス・ヌスバウムや二度の世界大戦の十分経験があり、戦争の悲惨さ、愚かしさを描いたオットー・ディックスも詳しく取り上げている(いずれも『汝の目を信じよ! 統一ドイツの美術紀行』(2010 みすず書房)。さらにご自身が在日コリアンであり、言葉をはじめとする置かれた環境に対する複雑さゆえ、その視座はユダヤ人に象徴的なディアスポラへの洞察へと続く。徐さんが、今年の7月31日東京で関東大震災100年、朝鮮人虐殺を取り上げた集会で講演されると知り、聞きに行った。そこで新著も購入した。

その徐さんが12月18日に亡くなった。ほんの5ヶ月前に講演されていたのに。報道では循環器系の持病とある。あの時も体調を押して話されていたのだろうか。とてもとても残念だ。

徐さんの姿は「美術評論家」だけではもちろんない。韓国に留学していた兄二人が当時の軍事政権にスパイにでっち上げられ、収監され、拷問を受ける。二人の救援活動を続ける中で同時に思索を深めた在日コリアンという立ち位置の複雑さ、不安定さ。徐さんをはじめ、在日コリアンがいるのは日本による植民地支配が原因で、第二次大戦後敗戦国日本は植民地であった朝鮮半島の南には韓国の国籍を認め、北には野晒しにした。ゆえに韓国籍を選択しない人々は無国籍者となった(国としての北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を表すのではない「朝鮮」籍を日本は認めていない)。徐さんも韓国籍がなかったため海外渡航もできなかった。しかし、後に欧州に出国でき、さまざまな国と美術作品と見え、したためた。その中で、自己にとって国籍とは何か、母語(自国語、祖語の概念も含めて)とは何か、そもそもアイデンティティはどこに存するのか?を問い続け、その明確な答えがないからこそ問い続ける意味を書き綴ってきた。その中で、ユダヤ人としてのアイデンティティゆえに殺されたヌスバウムや、アウシュビッツから生還したもののその経験と、イタリアを含め戦後ヨーロッパがその総括を個々のレベルできちんとできていない齟齬に悩み続けて自死に至ったプリーモ・レーヴィの生き様を追い続けた。そう、ヨーロッパの深い桎梏であるユダヤ人とともに、徐さん自身「在日朝鮮人」という国や言葉から規定できない、規定できるはずもないアイデンティティの存在としてのディアスポラを自認していたのだろう。

7月の集会で徐さんが紹介されたのは、韓国人映画監督が制作したルワンダの戦後を描く作品であった。ルワンダは1994年に多数派のフツ族が少数派のツチ族らおよそ100万人を虐殺した内戦の歴史を持つ。ルワンダは今やアフリカの新興国の筆頭で、イギリスは経済援助と引き換え自国の移民を送り込もうとしている件でも知られる。では、「内戦」後人々はどう暮らしているのか? 虐殺の歴史はどう継承されているのか? カメラは淡々とルワンダの人々の日常を追うが、虐殺の歴史が克服されていないこと、歴史のアーカイブ化、記憶の継承自体が困難な現状が垣間見られる。しかし、その現実を映像化することが大切なのだ。営みはすぐには始まらないし、遅々として進まないが、営みそのものを止めることは記憶の暗殺に繋がりかねない。

徐さんが問うたのは、アイデンティティの不安定さゆえに、個々のアイデンティティが問われない、問うことをやめてしまう思考停止。集団主義、全体主義の危険性ではなかったか。徐さんには寄るべき「国」がなかった。兄弟は内戦の果てに生まれた国に生を脅かされた。ディアスポラゆえに国を想い、国を欲すると同時に自分を助けてくれる国もない。ガザを無差別攻撃するユダヤ人の人工国家イスラエルはもちろん徐さんの欲する国の姿ではないだろう。

国とは一体なんなのか。徐さんの著作で考えたことを勝手に思い、書き続けるとキリがない。

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「ぼくは君たちを憎まないことにした」  繰り返される「争い」に終止符をとの希望

2023-12-01 | 映画

私ごとで恐縮だが、甥がお連れ合いを失った。まだ42歳。母親を亡くした子どもは5歳。甥は「まだよく分かっていないのではないか」。体調不全と聞いてはいたが、お正月しか会わない程度なので、詳しくは知らなかった。甥の母(私の姉)によれば、「もともと病気を抱えていたが、コロナに勝てなかった」。父子にかける言葉も見つからない。甥の場合は、日々弱っていく妻を見ていて、半ば覚悟もあったかもしれないが、アントワーヌとまだ2歳に満たない息子メルヴィルの場合はどうか。夕方明るくコンサートに出かけた妻、母のエレーヌを見送ったばかりなのに。テレビや親族、友人からの連絡にコンサート会場で無差別テロルに巻き込まれたと分かった妻と再会できたのは3日後。美しく横たわっていた。

2015年11月13日夜。パリの数カ所をISIL(イスラム国、IS)のジハーディストが襲撃した。最大の犠牲者を出したバタクラン劇場に居合わせたのがエレーヌと友人ブリュノだった。事件後すぐに病院を探し回ったアントワーヌはやっとエレーヌに会えた後、パソコンにメッセージを書き連ねる。「ぼくは君たちを憎まないことにした」。瞬く間に拡散し、ビューは2万5千。もともとジャーナリストにして作家の彼は文才があったのだろう。しかし、怒りや恨みではなく、犯人らに対する穏やかな「憎まない」宣言はなぜこれほど人々の心を打ったのか。

実行犯たるISILの戦闘員が、その行動の背景に西洋社会に対する憎悪を抱いていたことは、正当かどうかは別にして多分間違いないだろう。そして、アントワーヌの理解によれば、戦闘員が望んだのは西洋社会のイスラム世界に対する憎悪を煽ることだった。しかし、彼はその土俵に乗らなかった。「憎悪で怒りに応じることは、君たちと同じ無知に陥ることになるから。君たちはぼくが恐怖を抱き、他人を疑いの目で見、安全のために自由を犠牲にすることを望んでいる。でも、君たちの負けだ。ぼくは今まで通りの暮らしを続ける。」

実行犯らが「無知」かどうかは理解の分かれるところだと思うが、少なくとも、アントワーヌはフランス社会が恐怖のあまり極端な監視国家、自由や民主主義を放棄することに断固反対する。自由、民主主義国家であり続ける限り、このような事件は再び起こり得るかもしれないのにである。これは、自由のためには憎しみの増幅という方法は取らないとする宣言だ。

王政を武力で倒し、共和政を獲得したフランスは国歌にまで「武器を取れ」とある。18世紀の武器はもちろん軍事力そのものを指すが、現代では言論の意味合いが大きいだろう、理想的には。現にフランスは中東地域で繰り返される戦乱に武力介入、武器輸出を行っている。だからISILがフランスを攻撃対象としたことは故なしではないのだ。

けれど、国家のような組織も「イスラム国」も一人ひとりの集合体である。一人ひとりの意志ではなく、組織の意思が個を圧殺、統制する思考回路そのものをアントワーヌは拒否したのだろう。さすが「一般意志」や「アンガージュマン」を生んだ国と言えるかもしれない。

ちょうど、映画公開と同時期にパレスチナのガザ地区を支配するハマスによる、イスラエル攻撃、そしてその反撃としてのイスラエルによる容赦ないガザ地区への攻撃で数多の死者が出ている。国家としてのイスラエルを認めないハマスには、人工国家イスラエルによる土地簒奪に対する憎しみが、ハマスによるイスラエル急襲に対し、イスラエルはホロコーストにも準え憎しみを増していると解説されている。とにかく「殺すな」しかないのだが、どこかで憎しみの連鎖を断ち切らなくてはならない。が、とても難しい。

アントワーヌは憎まないが「赦す」とは言っていない。国家犯罪、組織犯罪と個人による殺傷とは様相は違うだろうが、憎悪の放棄と赦しが人類社会に普遍的に存在する「争い」の特効ではない特効薬とも思えるのだが、和解の道のりは遠い。けれど希望だ。

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