kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

視る者のワクワク感を刺激する   「化学反応実験」松井桂三展

2022-04-27 | 美術

百貨店の催し物も、コンサートや舞台の案内、美術展覧会のお知らせまで、頼みもしないのに(登録しているからだが)どんどんメールやSNSで送られてくる時代に紙の宣伝媒体は不要か?いや、意味がないものだろうか?そんなことは決してないと思う。

百貨店の催し物は、大呉服市だろうが北海道物産展だろうが自分に全く関係なさそうなものであっても、電車の吊り広告はしげしげと読んでしまうし、美術展はいまだに館のチラシコーナーを漁っている。それくらいポスターやチラシに描かれたデザインが自分にとって大きな訴求力を持っていると感じる。

松井桂三は、米アップルのMacintoshのパッケージデザインやヒロココシノのアートディレクションで知られる。松井の仕事は、ポスターはもちろん、プロダクトデザインや大阪芸術大学での後進の育成など多岐にわたる。しかし、広島に原爆が投下された翌年に生を受けた松井はその点については深くこだわっていたようだ。ニューヨーク近代美術館に永久保存となった「惨劇への発令」(1980)は、アメリカ国立公文書館所蔵の「原爆投下指令書」がモチーフとなっている。松井の反核(兵器)の姿勢は、他の作品にもうかがわれる。しかし、膨大な量の仕事の中でそれはほんの一部で、見るものを圧倒する多彩さに驚く方が優ってしまう。同時に、松井が手がけた政府広報ロゴは有名、定着しているし、また、高松宮が関わる行事のポスターも手がけるなど、政治的には「色なし」と言っていいだろう。

商業デザインを志す者が、(たとえ後に「ブラック企業」などと批判されることも含めて)無節操であることは重要かつ必然で、政府が決めた意匠しか許されなかったり、広告主がデザイナーの発想に大きく介入するような社会では自由なデザインといったものは成り立たないだろう。また、デザインに限らないが、視覚表現の多くは、現状への皮肉や問いかけ、違った角度からの追求によって、視る者に新たな観点や論争を生み出す効用もある。そしてそのオルターナティブな姿勢を担保するのが、さまざまなデザイン、ポスター、プロダクト、WEB広告などを問わず、より斬新な切り口を提示する力量だろう。

松井は、大学を中退後、フリーの仕事をしながら独立するまで高島屋宣伝部に席を置いた。関西の優れたデザイナーの先達には百貨店に勤めた者も多い。住友銀行のポスターやメンソレータムのデザインで知られる今武七郎は、戦前の神戸大丸、画家としての知名度の方がおそらく高い菅井汲は阪急電鉄、泉茂は大阪大丸にいた。百貨店業界が厳しい現在、各店舗ごとにデザイナーを雇っているとは思えないが、百貨店広告はもちろんのこと、見てすぐわかるポスターやパッケージデザインといった類のものは、購買意欲を高めさせ、たとえ買わなくても中身についてもっと知りたいと思わせるワクワク感に溢れている。

ずいぶん昔、職場の労働組合新聞の編集をしていた頃、アメリカがイラク戦争を始めた際には、通常記事を全部ぶっ飛ばして、一面を「NO WAR」だけとしたことがある。組合の新聞なんてほとんどの人が読まないという冷めと編集権がいい加減なためにできたごくごく個人的な「驕り」ではあった。あのデザインが優れていたとは決して思わない。けれど、政治性ももちろん含めて、描いた先を想像、期待させるデザインはやっぱり大切だと考える。

松井桂三展の題は「化学反応実験」。実験は時に素晴らしい新構成物を生み出すかもしれないし、爆発して周りを雲散霧消させるかもしれない。だがデザイン提供におけるワクワク感もそういった反応を楽しみにしているのだろう。(松井桂三展は宝塚市文化芸術センター 5月14日まで)

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理想のために個は圧殺されて良いのかという問い  「親愛なる同志たちへ」

2022-04-15 | 映画

1980年光州事件。1989年天安門事件。国家権力がその独占的暴力を用いて国民を虐殺したのに、その事実を伏せ、あまつさえ事件さえも語ることを許さず、「なかった」ことにした事例は戦後において数多くある。光州事件は、民主化した韓国でその事実が明らかになり、首謀者への断罪も進んでいるが、天安門事件はそうではない。同事件より20年以上前の1962年、実際あったノボチェルカッスク事件は知らなかった。ソ連が崩壊し、ロシアになるまで語られることが許されなかったからである。

それがドキュメンタリーのようなモノクロ画像によって蘇った。描かれるのは、事件の真相究明や、首謀者・責任者への断罪、あるいは、それを見過ごしてしまった市民の悔恨ではない。ソビエト共産党の指導方針をつゆとも疑わず、党に近しい立場であるゆえの特権階級、そうではない一般民衆を下にみている一女性の視点、視線である。けれど、事件の真相と隠蔽、その国家的謀略に触れるにつれ、特権階級といえども地方の一公務員に過ぎないリューダは国家への疑念が生じたようだがその先までは描かれない。多分、リューダはその疑念を押し殺して、事件以前と変わらぬ顔で過ごしていくことだろう。そうでないと生きていけないからだ。

時はスターリン後のフルシチョフの時代。先立つ1956年の「スターリン批判」を経て、もう粛清には怯えなくて済む「自由」の時代かに見えた。しかし、そのフルシチョフ政権がノボチェルカッスクの労働者・市民の自然発生的デモの弾圧を命じたのだ。映画は、市民への発砲・虐殺はKGBの犯行説を採用しているが、軍そのものの蛮行という説もあり、事実解明は難しいだろう。そもそもスターリン時代を良かったと考える層には、事件そのものが信じられず、デューダのように実現場を目撃している者でも、党の誤謬を信じないのであるから、実際に経験していない者には「間違い」に気づくことはないだろう。それくらい党は絶対的であり、国家=自分であったのだ、末端細胞であるデューダのような人物でればなおのこと。

多分、デューダも党の誤り、事件の真相を気付いている。しかし、気付いていないと自己を納得させることが生きていく術であったのだ。それが、騒乱に巻き込まれて行方知れずとなった愛娘を探し回り、やがて死亡したかもしれず、その遺体さえ秘密裏に埋められている事実に直面し、疑いがどんどん大きくなっていったことだろう。党は過ち、そして市民に銃口を向けるのだと。

本作は実際のモデルがいるわけではなく、デューダも創作であるそうだが、あのような経験を持つ母親、市民、労働者はきっといただろう。モスクワの南西、国境も近いノボチェルカッスクという地域は、革命に反したコサックの地元であり、地域に対する差別と冷遇が労働者・市民の大規模デモにつながったことも伺われる。労働者は皆平等で、人種的な差別などない社会主義国の理想は、達成できていなかったことが微細に暗喩される。

「民主主義は最悪の政治形態といわれてきた。他に試みられたあらゆる形態を除けば」(ウィンストン・チャーチル)

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