kenroのミニコミ

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「生きて帰ってきた」事実にひざまづく思い 「消えた画 クメール・ルージュの真実」

2014-11-28 | 映画
歴史社会学者の小熊英二さんが『世界』で父親の半生を聞き取っている(「生きて帰ってきた男  ある日本兵の戦争と戦後」2014年10月~)。小熊健二さんは1925年生まれ。1944年19歳で召集、中国大陸に送られ、現地で敗戦。ソ連軍によりシベリアに抑留され4年間強制労働に従事させられる。多くの仲間が死に絶える中で「生きて帰ってきた」。筆舌に尽くしがたい世界を生き抜いてきた人の証言は、人間が二度とそのような世界を生み出してはならないとの教訓でとても大事である。ホロコーストからの生還者、日本軍慰安婦、そしてカンプチアでポル・ポト時代を生き抜いた人たち。
「消えた画」監督のリティ・パニュは実際13歳のときポル・ポト派の政策によって親兄弟とともに過酷な集団生活を強いられた。親とも兄弟とも引き離され、ただ「番号」によって呼ばれ、意味のない開墾作業に従事する日々。極度の飢えと容赦ない「粛清」で親も兄弟も失う。しかし彼は生き抜いた。小熊健二さんのように。そして難民キャンプを経てフランスに渡り、映画監督して大成する。パニュ監督が描くのはポル・ポト派の時代ばかり。
日本の商業ベースで公開された作品は多くはないが、それでも何本かドキュメンタリー作品が知られているらしい。今回「消えた画 クメール・ルージュの真実」が広く公開されたことによって、言わば名作「キリングフィールド」のトラウマが溶解されるのではないかと感じた。一つひとつ説明したい。
まず「キリングフィールド」が名作であるかどうか。映画上映後、国連広報官としてカンプチア国際法廷に関わっていた前田慶子さんのお話を伺う機会を得た。前田さんの話では「キリングフィールドはポル・ポト派時代を知るためのバイブル的映画」だという。たとえばプノンペンのいたるところで上映されているとも。「キリングフィールド」が街のいたるところで上映されているというのも驚くが、85年当時はポル・ポト派(ひいては中国共産党)に対する悪辣なプロパガンダだと指弾された「キリングフィールド」は今やその時代を知る有用なアイテムとなっているのだ。前田さんは言う。「キリングフィールド」の記者は、国連の法廷設置委員会でも証言したと。
トラウマとは言うまでもない。「キリングフィールド」の評価と同時に、あのような時代を生きた人たちが実際にそれを語るのかできるのかということ。日本軍の従軍慰安婦であった金学順さんが1991年にはじめて自身の告白したことによって、「慰安婦問題」は日の目を見ることになったが、当然、金さんをはじめ「従軍慰安婦」経験のある人たちには語りがたいトラウマがあるし、「慰安婦」を「買った」日本兵の中にもそれもある人もあるだろう。
「溶解」は難しい。本作で、あるいはこれまでの作品でパニュ監督が描きたかったのは何か、映画の力で何を目指そうとしたのか。ポル・ポト派の下級兵士は都会から強制移住させられた農村の普通の人々であった。だから、ポル・ポト派が敗走、瓦解したあともその地に住まい、迫害された都会の「新人民」と近くで暮らした人たちだ。「新人民」と「(旧)人民」との間に和解はあるのか、そう、両者の間に心の溶解はあるのか。
実は、パニュ監督が描くのはトラウマであるし、溶解であるし、「キリングフィールド」の再解釈でもあるし、そうではない。あの時代に実際生きた者の実相、それだけだ。おぞましいことにはちがいない。体験は過酷を極めたが、やさしい―あえて言う―泥人形で表現することによって、むしろ、過酷さへのイマジネーションが広がる。生き永らえたのが不思議、奇跡の体験。肉体も、精神も。
パニュ監督も「生きて帰ってきた」。その映画に託された証言は、二度とあのような時代を到来させないための「語り(部)」なのだ。
先ごろ世界中で現在でも奴隷的拘束下にある人の割合がNGOによって発表された。最大数はインドであったそうだが、日本も0ではなかった。その意思に反して労働を強いられ、人間的思惟を許されない環境。残念ながら、「豊かな」日本でも「明日」のない「生きる」だけのために働き続ける被用者層が存在し、それらの層を生み出す構造はシベリア抑留やポル・ポト派のそれに無縁ではないように見える。
「消えた画」は決して「消した画」であってはならないのである。
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あるがままに生きた画家 タカハシノブオを視る

2014-11-17 | 美術
なんという激しさだ。画面に叩きつけた筆跡は、具象、抽象を超えて肉体からほとばしった血潮や、吐血さえ思わせる。「あるがままに生きた画家」高橋信夫。神戸は港湾現場を中心に日雇い労働に従事した高橋は、安定した生活とは無縁で妻の死後、生活苦のため、娘とは生き別れとなる。
ただ一人、不安定な生活の中でも絵と詩の創作はほとんど途切れることなく続けた。高橋は自身の画作にタカハシノブオと記した。漢字であるとただ普通の日本人に見えるところが、カタカナで表記することによって日本人であるとか、高橋という日本ではありふれている属性から自分を解放しようとしたのか、自分は何者でもないタカハシノブオという他に代えがたい一個の存在であると。
タカハシノブオの画題は、身の回りを中心に実に狭い。なかでも繰り返し魚(の頭)を描いた小品群は、逆説的だが圧巻だ。というのは、魚の頭など取るに足りない題材で、タカハシの描くそれは市場から買ってきた塩鮭の頭だとか、せいぜい鯛ではない生の小さな安魚のそれでしかないのに、その生気あふれる様に圧倒されるのだから。絵画を格闘と言ったのはゴッホだったか、白髪一雄だったか。数多の画家が描画に格闘し、その闘いは果てるともなく、ある者は筆を折り、ある者はキャンパスを御したと嘯き、そしてある者は、格闘したまま果てていった。タカハシノブオはどうだろうか。少なくとも果ててはいないし、果てようとしたのでもない。あるのは、眼前にある魚の頭と格闘し続けるエネルギーだけだ。しかしそのエネルギーは止まるところを知らない。
ものすごく単純化するとある種の画家はエネルギッシュすぎる人種である。体が言うことをきかなくなっても描き続けたルノアールやモネ、セザンヌといった印象派の面々やピカソ、日本ではとてつもなく長生きの小倉遊亀や先ごろ文化勲章を受章した野見山暁治なども入るかもしれない。そのエネルギーはどこへ向かうのか。2回の結婚、数人の愛人など性的に旺盛だったピカソは女性性器をかたどった作品も多い。タカハシノブオも女体や女性器そのものの作品もある。しかし、タカハシノブオの興味は、次第に街の風景や、出会った飲み屋の女性、娼婦?のポートレート、そして先の魚の頭を描くようになる。そしてタカハシノブオをして晩年はほとんど制作できなかった深酒は体を蝕んでいた。
絵画の歴史のなかですでにある区分から見れば、タカハシノブオの作風はフォービズムか抽象表現主義か。おそらくそのどちらも入っていて、そのどちらでもない。画材は水彩をはじめ、油絵、クレパス、線画など多岐にわたるが菓子箱や段ボール紙を使うなど決して恵まれた環境ではなかったタカハシノブオの描画意欲を支えたものはなにか。それは怒りではなかったか。2度の応召、炭鉱そして神戸は新開地に流れてきての窮乏生活、その中で妻を失い、愛娘との決別。しかし描き続け、詩作もやめなかったし、港湾労働者としてベトナム戦争反対運動に参加する。貧しさへの怒り、社会的不公平・不公正への怒り、どうにもならない自身への怒り。
画家が世に出る、後世に遺るのはきちんと画家の作品を受け止め、収集し、散逸の危険を防いだコレクターらの苦労があるからだ。その点、タカハシノブオを早い段階から見出し、収集に励んだ「神戸わたくし美術館」の三浦徹氏の功績がとても大きい。感動できる心と言ってもいい。三浦氏の慧眼なくしてタカハシノブオが私たち眼前に広がることはなかった偶然に感謝の念をささげたい。(無題)
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