kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

魅せられるダンス、ボニーノとチャップリン Dancing Chaplin

2011-04-29 | 映画
ルイジ・ボニーノの「小さなトゥ・シューズ」は芸術品である。もちろんバレエそのものが、映画そのものが芸術(品)であるのであるが、ボニーノのそれは匠の技、魅せられてしまうからである。「小さな…」は、ボニーノが大阪は厚生年金会館だったかの公演で披露してくれたので知っていたが、あの時も唸った覚えしかない。そのボニーノがあのローラン・プティの「息子」として様々なダンスをなした中で、とりわけ、力を注いだのがダンサーとしての絶頂期の後、170回もの公演をこなした「チャップリンと踊ろう」。
チャールズ・チャップリン。喜劇王としてもちろん名高いが、サイレント映画の時代、その圧倒的な動きには理由があった。そう、チャップリンは類まれなダンサーだったのだ。
もちろんチャップリンがバレエの正規教育を受けていたのではないし、最初からダンサーとして成功しようとしていたわけでない。けれど、チャップリンのあのステッキを振り回し、絶妙のタイミングで山高帽をあげて挨拶する仕草を思い浮かべてみればいい。ステッキと山高帽という小道具に目を奪われがちだが、その間の動きの柔らかさ、複雑さ、意外さといったらない。チャップリン初期の小品は、一見というか多くの場合単なるドタバタだが、その次々と繰り出される軽やかなダンス、に魅入ったのは、それがダンスと認識していなかったからかもしれない。そう、チャップリンの動きは紛れもなくハイレベルのダンスであったのだ。
バレエダンサーとしてのボニーノの功績は言うまでもない。しかし、プティが振り付け、ボニーノがずっと望んでいたチャップリン役の集大成たる「チャップリンと踊ろう」以前、ボニーノはわざとチャップリン作品を見なかったという。そのボニーノが60歳の体で渾身のダンスを見せる。バレエダンサーを引退した草刈民代とともに。
本作は2部構成。プティの振り付け、ボニーノのダンスを映像に残しておかなければとイタリアに飛ぶ監督の周防正行。プティに構想を説明し、了解を得ようとするが、野外撮影に「この話はなかったことに」とにべもない。一方、撮影のための準備は着々と進む。来日し、草刈と再会、またの共演を喜ぶ間もなくハードなレッスンへ。草刈も体力的限界を感じてのクラシックバレエを引退した身。その草刈をリフトする若手ダンサーはクラシックの経験は浅いという。還暦のボニーノは足を痛め、リフトのためだけに新たなダンサーを招請することに。さて、本番は。
第2部はチャップリンへのオマージュともいうべき、原作に忠実で、楽しいエピソードの数々。「犬の生活」も「モダン・タイムス」も「キッド」もお馴染みのチャップリン作品であるが、やはりボニーノの「小さなトゥ・シューズ」が絶品である。これはチャップリンが「黄金狂時代」で見せた2本のフォークを使ったテーブルでの即興がモチーフであるが、ボニーノのそれは本当にバレエダンサーの足の動きに見えるから不思議だ。「見える」と書いたが「魅せられる」のである。他に「警官たち」の激しくファンキーな動き、そして、リフトのだけのために招請したリエンツ・チャンが草刈を空中に舞わせる技も見ものだ。リフトする方もとてつもない筋力が要請されるのはあたりまえであるが、持ち上げられる方の腹筋、背筋力もすさまじい。クラシックを引退したとはいえ、40の齢を超えた草刈の鍛え抜かれた肉体に感心する。
本作で、夫婦のタッグとなった周防と草刈は、テレビなどでもよく取り上げられ、ある番組で周防が、草刈のヌード(も入った)写真集について問われた時、「肉体もそれを見せることも彼女の作品だから」旨の回答をしていた。そう、草刈の作品なのだ、肉体は。
60歳のボニーノが哀しきチャップリンよろしく一本道をさびしく去ってゆくフィナーレ。バレエと違い、チャップリンの退場は祭りの後の独りに戻るとき。ボニーノの姿を「今撮っておかなければ残らない」と急いだ周防の狙いは見事に成功している。ただ、「それでも僕はやってない」よりかなりマニア向け作品と感じたのは筆者だけであろうか。
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一人ひとりが紡ぐ「自立」像   サラエボ、希望の街角

2011-04-18 | 映画
おかしな言い方だが、ユーゴスラビア映画は、映画のできそのものよりも題材でもう勝ちである。いや、本作もできが悪い、というわけではない。ユーゴ映画、それも日本の商業ベースで公開されるような作品は、質もいいとうことではある。しかし、ユーゴスラビア崩壊、内戦時、その後を描いた作品は、題材それだけで重く、引き込まれるのである。そして言うまでもなくこれまでの作品はどれも秀作ぞろいで、忘れ難い。パーフェークト・サークル、ノーマンズランド、ライフ・イズ・ミラクル…。
ただこれまでの作品は、内戦そのものやその後遺症、トラウマなどを扱っている作品が多かったが、「サラエボの花」でそのトラウマと向き合う母を描いたヤスミラ・ジュバニッチ監督が今回挑んだのは「戦後」のユーゴスラビアそのものである。

フライト・アテンダントのルナは恋人のアマルと暮らし、妊娠を望んでいる。航空管制官のアマルは内戦時の兵士体験でアルコール依存症。執務中の飲酒がばれ停職に。たまたま再会した戦友バフリヤに誘われ、イスラム原理主義のコミュニティへ。酒もたばこもやめ、ルナの服装にも意見をしだしたアマルに不安を感じるルナ。実はボスニア人である二人はもともとムスリム(イスラム教徒)。しかし、酒もたばこもセックスも謳歌する、イスラム原理主義とはかけ離れた西洋的なライフスタイルであったのだ。ラマダンあけを祝うルナの親戚の宴席で、今や信心が足りないから戦争が起こったのだと説教するアマル。以前は一番酒を飲み、醜態を晒していたのに。そしてルナもまたボスニア紛争でセルビア人に両親を殺され、家を失った経験があるのに。
アマルの変化に二人の子どもを持つこと不安を感じたルナは人工授精をやめてしまう。けれど思いがけず妊娠し、今やアマルとはともに生きていけないと悟ったルナは。

重く、きつい題材である。しかし、ルナが最終的に出した答えは自立である。ジュバニッチ監督はイスラムに対する批判ではないと述べているが、少なくとも宗教が原理主義的であればあるほど、女性の自立を妨げる方向に行くことは多く、イスラムではそれがフィーチャーされる。ルナは結局、アマルと別れ、一人子どもを産む覚悟のようだが、映画では結末まで詳しく描かれてはいない。けれど、ルナのこの回答は誰しも応援したくなるだろう。共産党によって異なった宗教の民族が共存していた時代、それは言わば「上からの民主化」であった。少なくとも、建前としての平等や、官僚主義が席巻する中、個の自由が抑圧されていると感じていた層はそうであろう。しかし、見せかけの平等を推進していた共産党が崩壊し、いったん、民族間の乖離・分断そして内戦を経験した個々の市民にとって次なる民主化は「下からの」のあるべきであった。それは、イスラムに限らずどの信仰であっても、女性や子どもは女性である、子どもである以前に個として尊重されるといった民主主義を語る際の普遍的な価値観であった。
本作の原題は「On the Path(途上=英語版)」。ボスニア紛争から15年。今や日常の戦火はなくなったが、セルビア人が脱出し、ムスリムが圧倒的となったサラエボに生きる人にとって「途上」は、ムスリムが多数派になったからといって安寧な土地になったということではない。いい加減なムスリムであるルナの生き方こそ、「途上」を「希望」に変える小さな営みの一つである。「共存」とはただ一種類の形ではない。アマルを失ったルナにはたった一人の恋人を失った悲しみではない、サラエボに生きる人の未来をも共存させるために前を行くのだ。そして、クロアチア紛争以降、多くの犠牲を生んだユーゴの地に、宗教の力を借りず自己の決断として生を大事にするルナを応援しない者はいないだろう。私もそうだ。
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常設展の豊穣     伊藤財団寄贈作品と「具体」展(兵庫県立美術館)

2011-04-05 | 美術
日本の美術館にはルーヴルやメトロポリタンのような巨大な規模のところがない分、多くの場合常設展より企画展に力を入れ、また、それで集客している。国内で数館しかない国立の美術館のうち、上野の国立西洋美術館でさえも常設展はそれほどの規模ではない。
しかし、多くの美術館はそれなりに自慢の収蔵作品を持ち、国立新美術館のようなところを除いて、収蔵作品を展示する自前の常設展に自信を持っている。関西でいえば、伊丹市立美術館は、ドーミエの版画を多く有しているし、姫路市立美術館はベルギーの近代絵画、滋賀県立美術館は小倉遊亀といったそれぞれ特徴のあるラインナップである。
兵庫県立美術館は、常設展示室としては神戸の画家、小磯良平と金山平三の常設室を有しているが、それ以外にも西洋、日本の近代絵画を中心によい作品を多く持っていて、阪神・淡路大震災後に開館したこともあり、常設スペースも広い。
今回、入れ替えた常設展は「伊藤文化財団設立30周年 寄贈作品の精華」展。伊藤財団とは伊藤ハム株式会社が設立した文化寄贈財団であり、創業社長の伊藤傳三が兵庫県立近代美術館(兵庫県立美術館の前身。阪神・淡路大震災で破損した同館が手狭なこともあり、現在の美術館が2004年に開館したもの)に寄贈した作品を回顧するもの。小出楢重や安井曾太郎のスケッチや水彩画などの後の巨匠の足跡を知るすばらしいコレクションも魅力であるが、伊藤傳三の蒐集は現代美術、つとにアプレゲール、すなわち戦後美術にも造詣が深く熱心に集めたことに関心が向く。
日本の戦後美術は戦争に対する姿勢や距離、評価からはじまった。猪熊弦一郎や藤田嗣治に対する画家の戦争責任追及は有名であるが、それより後、1954年に結成された「具体美術協会」の精華ならぬ成果は現在とても新しい。
本展に展示されているのは「具体」の創設者、吉原治良をはじめ物故者の白髪一雄、田中敦子、そして存命の元永定正などであるが、吉原の「人の真似をするな」は「具体」の面々の作品群に十分現れているし、真似をしないまま50年後も古びかない作品群として息づいている。
白髪の足を使った描画法、田中の電気服、元永の単純かつ大胆なドローイングなど、現在でも度肝向かれる発想は、50年代から60年代のその頃は、最初、奇天烈加減を競ったほんの一部の好事家にしか受けなかった「キワモノ」であるまいか。それらを熱心に集めた伊藤傳三も先見の明があったというよりほとんどゲテモノ好きにすぎない。しかし、近年「具体」再評価を見ても分かるように、アプレゲールさは平和をこれからつくる「戦後」を実感するものとして出現する必然性があったし、高度経済成長を迎える上げ潮の日本社会を象徴するものとしてあったに違いない。
バブルに浮かれた1980年代後半、ゴッホのひまわりを当時の最高額で落札しただの、メセナの名もとに今から思えば「薄っぺらな」「当時の」現代アートに多額の、いや、身の程以上の高値をつけ、もてはやした虚妄が、50年後の「具体」再評価によって忘れ去られている実感を伊藤傳三の目利きによって簡単に覆されるとすれば、それはそれで悲しいものがある。しょせん、バブルでなく持つ者がその矜持を体現したものとして。
けれど、伊藤財団の太っ腹に感心している場合ではない。阪神・淡路大震災を経験した神戸人が兵庫県立美術館の提供するアートの役割を自覚するように、東北・関東大震災を経験した人々もまたアートを欲する時期を想像できるように、寄贈する人も、美術館も、そしてまた訪れる私たちも、現代とアートは無縁ではないと再確認するべきなのであろう。
「具体」の遺した問題提起は、脱構築ともいえるが、実は、できるところから始めよう、というアーティストと市井の人とをつなぐ処方箋を「バブル」でもなく、美術は難しいものという一般概念に疑問符をつけてくれたことではないか。
美術は今すぐに見ている人を豊かにす力も、現時点で美術を楽しむ余裕ない人も豊かにする力はないが、明日を語る、明日を描く人にとっては希望の一断面足りえるのではないか、でないと寄贈も鑑賞もあり得ない。
(元永定正「ポンポンポン」)
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