kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

ホロコースト作品が私を離さない  アウシュヴィッツからの生還2作

2023-08-23 | 映画

「シモーヌ フランスに最も愛された政治家」は欧州議会議長に女性として初めて選出されたシモーヌ・ヴェイユの生涯を綴る物語だが、その大きく占める枢要部分はアウシュヴィッツなど強制収容所の体験談である。そして「アウシュヴィッツの生還者」は、主人公の戦後の人生に強制収容所での体験がフラッシュバックする描き方だ。

かくも映画ではホロコーストが幾度も描かれてきたし、たくさん観てきた。なぜ、幾度も描かれるのだろう。そして何度も観てしまうのだろう。人類史上最悪とも言うべき大量殺戮を可能にした経緯と、そこに至る差別や優生思想の発露など歴史の汚点を最大限追体験できるからだろうか。その戒めによって、もうあのような歴史を繰り返してはならないというヒューマニズムの発露なのだろうか。そう言う面ももちろんあるが、自分自身を振り返るともう少し別の意味もあるように思う。

1944年、16歳で捕えられたシモーヌは母、姉ミルーとともにアウシュヴィッツに送られる。しかし、ソ連の進軍でナチス・ドイツが敗退を重ねていた時期、別の収容所への死の行進。次々と斃れゆく中でも親子三人は生き流れえるが母はついに事切れる。解放後、男性社会を懸命に生きたシモーヌはやがて法務官として刑務所改革に取り組み、国会議員として中絶合法化を成立させる。そんなシモーヌがアウシュヴィッツを訪れ、その頃の経験を詳しく語り出したのは2004年。78歳。その時点ではまだ政界を引退していなかった。

一方、「アウシュヴィッツの生還者」では、ボクサーのハリー・ハフトの現実に強制収容所での体験が挟み込まれ、彼はその記憶に苛まされている。ポーランド系ユダヤ人のハフトは「生還者」として英雄視されるが、なぜ生還できたのか。それは彼がナチスの軍高官の余興で開かれた収容所でのボクシング・マッチに勝ち続けたからだった。敗れたユダヤ人はその場で殺された。そのような過去を明らかにしたのは収容所送りで生き別れた恋人レアに自分の無事を伝えたいからだった。しかし、名を売るために挑戦したとんでもなく格上の相手にコテンパンにされて、レアを探すのを諦め引退を決める。しかし、戦時トラウマは拭いきれなかった。

シモーヌに加害体験はないが、目の前で母を助けられなかったサバイバーズ・ギルトの思いはあるだろう。ましてや、ハフトは多くの同胞を死なせ、また彼を支えた妻にも打ち明けられなかった収容所での壮絶な体験は、解放後彼を苛むに十分だ。ボクシングしか教えることのないハフトは、肉体戦には向かなそうな息子にトレーニングを強要し、息子もまた父親と距離があり疎ましいようだ。けれど、レアと再会できたハフトはやっと息子アランに全てを打ち明ける。アランが書いた父親の体験談が映画となった。だから「アウシュヴィッツの生還者」は全くの創作ではない。ホロコーストは描ききれていない。いや、描くには個々の物語がありすぎるのだ。

現在、自身を顧みてもホロコーストのような生か死かといった究極の選択を迫られる状況にはもちろんなかった。けれど、個々の関係で他者への思慮を欠いた言動は、ときにその時の思惑以上に他者を蔑んだり、傷つけたりしたことがあるはずだ。だから、それを思い出すことで苦しくなる。ましてやホロコーストだ。

戦時のPTSDは、やっとアメリカのイラク戦争帰還兵で明らかになり、ベトナム戦争時のそれも後追いで明らかになりつつある。

人を傷つける、あるいは、傷つけてしまったという悔悟を大事にしたいと思う。

(「シモーヌ フランスに最も愛された政治家」は2022、フランス。「アウシュヴィッツの生還者」は、2021年、カナダ・アメリカ・ハンガリー作品)

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学芸員の矜持だけでは救えない文化政策の貧弱さ 「わたしたちの国立西洋美術館」

2023-08-17 | 映画

私がアジアの国へあまり行かなかったのは、たいてい海外旅行は美術館目当てで、それも西洋美術に触れるためであるからだ。だから、身辺事情の変化やコロナ禍、昨今の円安、原油高などで海外渡航が叶わなくなった現在、国立西洋美術館(西美=セイビ)は数少ない目標地となった。

その西美が2020年10月からル・コルビジェが構想した創建時の姿に近づける整備のために休館した。休館中の内部にカメラが入り、収蔵品の移動・整理、館長をはじめ学芸員(研究員)らのインタビューを交えた構成で、西美及び日本の美術館の歴史、役割、課題等に迫るのが本作である。監督は「春画と日本人」を撮った大墻敦(おおがきあつし)。大墻は長らくNHKで美術をはじめ様々なドキュメンタリーを制作してきた。

描かれるのは、学芸員らの美(術作品)に対する愛と、それをどう美術館に集う人に提供できるかと試行錯誤する姿である。しかし、日本最大の西洋美術の殿堂にして、職員はたった20人という。ただ、修復部門を含めて職員全てが学芸員とも考えられないし、任期採用も多いだろう。そして、美術館の仕事は展示や収集だけではない。企画はもちろん、海外美術館やギャラリーなどと対外折衝、広報、図録の制作やグッズの販売など多岐にわたる。在仏美術ジャーナリストはフランスの美術館はそれらを網羅的に備える態勢になってきたと話す。だが、西美は「国立」ながら独立行政法人。自前の予算は悲しいほど少ない。そして、日本で開催される美術展が新聞社やテレビ局の大手メディアの予算で成り立ってきた歴史も明らかにされる。

日本における西洋美術(画)の紹介、導入の歴史は幕末開国から明治初年の揺籃期を経て、黒田清輝を嚆矢とする海外留学組の存在、大正デモクラシー前後の前衛への傾倒、日中・太平洋戦争期の国策に沿った活動だけが許された時代を経験し、戦後の表現の自由の時代とそれを体現した西洋美術への渇望の時代へと連なる。そして同時にフェロノサ・岡倉天心に始まる日本美術の優位性からの攻撃、日本美術か西洋美術かの濁流に揉まれてもきた。その中にあって、松方幸次郎が日本にも本格的な西洋美術館をとの構想のもと、莫大な収集を始めるが、金融恐慌で断念。戦後、散逸したコレクションを日仏友好の証しとして日本へ返還(ただし、真にフランスを代表する作品は返還されなかった)され、その展示場所して建築されたのが西美であった。そして西美のあと、特に高度経済成長期に全国に美術館の建築ラッシュが起こる。それがいずれも今改装期に入っている。どれだけ西洋美術作品に特化した美術館ができても、西美の「王座」の位置は揺るがなかったはずだ。

上述したように西美の予算は小さく、自前の企画で収益を上げるのは困難極まりない。これはそもそものこの国の文化予算の貧弱さと、西美の独法化、いや、公立美術館の多くは指定管理者制度のもと採算重視を迫られている。そこでは新自由主義的な発想、「選択と集中」がそもそも儲けを前提としない学術や文化の領域まで侵食していることは明らかだ。

本作の焦点ではないが、公立の美術館(展)の抱える課題は表現の自由をめぐる世界でも大きくのしかかる。2019年の「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展」を始め、会田誠作品の撤去要請(2015 東京都現代美術館)、最近でも飯山由貴の映像作品の上映禁止(2021 東京都人権プラザ)もあった。

西美の一人ひとりの職員の矜持に敬意を表するとともに、図書館の自由ならぬ「美術館の自由」もぜひ守り抜いてもらいたいと思う。

(「わたしたちの国立西洋美術館 奇跡のコレクションの舞台裏」は7月15日以降公開中)

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「ボク」が「ボク」でいられることを感じられたあの頃 Concert for GEORGE

2023-08-12 | 映画

「ハーモニカがあまりにもできないので小学校を卒業できないのではないか」と恐れていた。歌うのも、楽器も全くダメ。このブログで音楽作品を扱うのは珍しい。しかし、大袈裟にいうとビートルズ少年だった自分のあの頃の存在価値、理由を思いおこさせるナンバーだったのだ。

現在、小・中・高の不登校生徒の多さが問題となっている。特に義務教育の小中にスポットが当たっているようだ。高校は嫌ならやめればいいからだ。陰湿ないじめに遭っていたわけではない自分は不登校にもならず、退学も考えたこともなかった。だが、力のある同級生のいじめの標的にならないよう「パシリ」の日々。学校にいたボクはボクではなかった。家でビートルズのカセットに耳を委ねている時だけボクがいた。そんな気がした。

音楽のことはまるで分からないのに、20世紀最大のミュージシャンは?と問われれば「ビートルズ」と賛同してくれる人も多いのではないか。レーベルを出してからのグループとしての彼らの実働はたった10年。しかし、その影響力は絶大で、「ボク」のように活動を直接知らない世代にまで夢中にさせた。

ビートルズというと、その圧倒的な音楽的才能からジョンとポールの合作作品が多く、年下のジョージは少ない。しかし、インドに傾倒し、そのエッセンスを取り込んだ名盤サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドでインドテイストを全開。最も好きなアルバムだ。そのジョージがおそらくグループ解散後、ソロ活動をなす中で自己の道を定めたのだろう。ビートルズ時代から親交を結んでいたエリック・クラプトンがジョージの没後1年で開催したコンサートの記録映像が本作である。

ビートルズ時代は、ジョンとポールの作品ばかりアルバムに採用され、自作が取り上げられず不満だったともされるジョージだが、クラプトンはじめ外部ミュージシャンとも積極的に関わった。だから、クラプトンはこのコンサートを発案した。ビートルズ全体の中では少ないジョージの作品、サムシングやヒア・カムズ・ザ・サンなど心地よいメロディが流れる。そう、あの時も同じだったのだ。

学校は勉強しに行くところ。部活動にも参加していなかった自分は勉強以外の部分で他者と関わりたくなかった。しかし、理数系が苦手な「ボク」が選んだコースは大学進学を考えていないクラス。ヤンキーぽい、遊んでいる生徒が多いクラスだった。休憩時間には化粧を直す女子生徒と、「おぼこい」「ボク」に分からない話で盛り上がる男子生徒。イジメの対象にならないためには力のある(と思われている)学年を代表する(と思われている)同級生に媚びへつらうこと。御用聞よろしく、「○○君。ボクがやるよ」と。

中学時代、粗暴な同級生に殴られたりしたこともあり、成績により彼らとは同じ高校に行くまいと得た地がやっぱり知力ではない力が支配する世界とは。ただ、程度の差はあれ、神童でもない限り、「ボク」のような凡庸な成績でちょっと上に行き、現状から逃れようと考えた者も多かったのではないだろうか。

幸い大学に進学し、彼らと関係は切れ、「パシリ」生活は終わった。だが、イジメや陰湿な攻撃は職場でももちろんあるし、その後「ボク」から「私」となった自分も経験した。

ジョージの一番傑作、代表作である「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」がなかなか演奏されないなと思っていたら、ラストにクラプトンが「泣きのギター」を奏で、歌い出した。もう、そこでは涙でぐちゃぐちゃだ。学校で仮面をかぶっていた「ボク」ではなく、ビートルズに癒された「ボク」を思い出したからだろう。

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