kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

社会が変わるということは、地べたが変わるということだ  ブレイディみかこ『子どもたちの階級闘争』

2021-08-30 | 書籍

以前、このブログでジソウを紹介した(見捨ててはいられない。見ないふりはできない。「ジソウのお仕事」https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/3511eee03c4e43beccd6466aef756e18

著者の青山さくらさんは現役の児相職員であるが、ブレイディみかこさんは、「底辺託児所」の保育士である。イギリスでの保育士資格が日本より厳しいのか、どれだけ異なっているのか分からない。しかし、これだけは言えるだろう。イギリスの「底辺託児所」(貧困層の暮らす地域にあり、利用者の多くがそうである。)の現実は、イギリスで独特の世界を形作る「階級」と、日本よりはるかに多く雑多な移民層を抱えているという意味でキツく、予見不能で、リアリズム故の希望があることを。

「底辺託児所」と呼んでいるのは、利用する層が底辺であるから。通う子の保護者はたいていシングルマザーで、アルコール、ドラッグなどの剣呑を抱え、子どもたちはその影響を直に受けている。母親が殴られる「面前DV」を日常的に経験している子は、暴力的で2、3歳といえども気が抜けない。年齢以上に表情の乏しい子、そのような年で大人を舐めきっている視線の子、「ファッキン」とまだ少ない語彙の合間に必ず挟まれる「下品な」口癖。不安定な母親に育てられた子どもらは安定を唯一この託児所で得る。が、それは簡単ではない。一つは、そういった親らが自立、自律することの困難。自業自得や自己責任と突き放すことは簡単だが、突き放しても子どもらは救われない。重層的、複雑さをまとう差別の構造。「成功した」移民層が、努力しない(と見なす)同じ移民や、英国白人層という恵まれた環境にありながら堕落した人たちとして、差別、時に排除する。うちの子をあんな人の子と遊ばせないで、と時に露骨に保育士たちに詰め寄る。しかし、ブレイディさん自身が東洋からの移民で、連れ合いはダンプの運転手という決してアッパークラスではない。所の責任者はイラン系である。それでも労働党政権の頃には、補助金もあり、それなりに運営がなされていた。ところが保守党政権になるや、補助金カット、移民のための英語塾併設でなんとか凌いでいたもののそこも危うくなり、やがて底辺託児所は閉鎖へ。フードバンクとなった。

本書の構成が面白くできているのは、最初に著者が底辺託児所の後経験した「緊縮託児所」(底辺託児所が、数年後復活したが、予算が限りなく減らされ、設備もろもろ悲惨なくらい「緊縮」を厳然と示しているから、そう命名)のお話がきて、その後に懐かしい!「底辺託児所」の項が続くというもの。そう、はちゃめちゃだけれどもなんとか回っていた底辺は、もう、はちゃめちゃの前に回らなくなった緊縮も姿が。そこから取りこぼされる貧困層が減ったわけでもないのに。

本書は、著者が「みすず」に連載してた寄稿エッセイをまとめたものだが、金言、名言にあふれている。「社会が変わるということは地べたが変わるということだ」、「アンダークラスの腐りきった日常の反復の中にも祈りはある」「わたしの英国は、ロックやグレアム・グリーンではない。路傍に落ちた温泉饅頭だ」…。そして「インクルージョンは、人間関係の計り知れないもやもやを濃厚に増大させる」から「政治は議論するものでも、思考するものでもない。それは生きることであり、暮らすことだ」。

ブレイディさんがこの書を上梓した後、素晴らしいバイタリティとエネルギー、そして時に非情に見えるリアリズムで好著を連発しているのはご存知の通りである。

(『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』2017年 みすず書房)

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「ユニオンって趣味でしょ」にうなづきつつ、考える   『コミュニティユニオン 沈黙する労働者とほくそ笑む企業』

2021-08-15 | 書籍

申し訳ないが、自分のことから話させていただく。組合(ユニオン)の役員を長らく勤めていた。その職場は、ユニオンショップ(被用者が自動的に労働組合員。雇用者指定の労働組合を脱退すると解雇されるのが、クローズドショップ。)ではなかったため、どんどん組織率が下がっていた。私が所属していた都道府県単位の支部を束ねるのが地方支部(地域連合会=地連)で、北海道とか中部とか近畿といった単位である。支部執行委員だった私は、ある時地連の専従書記長を引き受けてもらえないかとの打診がきた。専従とはいったん休職し(復職は保証、休職中の賃金は労働組合が支払う。)、数年後職場に復帰するという労働組合法上の身分(働き方)で、引き受ける人は少ない。キャリアの断絶や、復職後干されるのではないかといった不安を多くの人が持つ。私自身はキャリアアップにはあまり興味がなかった(そもそもその対象でもなかった)ので、引き受けてもいいと考えた。若い人が加入せず、どんどん組織率が下がっていく労働組合をなんとかしたいと思ったし、男性中心の執行部のあり方にも疑問を持っていたので、私が引き受ける条件に挙げたのは「地連執行委員を半分女性にすること」であった。現状も将来的にもそれは困難と判断したのか、地連は私を書記長に据えることを断念した。

自分のことを長々と書いてしまったのは、著者の梶原公子さんが紹介する若者がユニオンに魅力を感じない実態が痛いほど分かるからだ。企業内ユニオンと、梶原さんの活動するコミュニティユニオンとの違いはあるが、就職する若い世代のユニオンに対する見方は、カタイ、怖そう、自分の利益にすぐにはつながらない、だろう。そして、ここが現状の労働破壊の決定的な要因であるのが、そういった若者自身が「自己責任」の発想を内面化していて、それに縛られていること自体に無自覚であるということだ。「若者」と書いたが、ゼロ世代のみならずその観念はロスジェネにまで及ぶ。だから、非正規雇用が当たり前の世代は、今や、被用者ではなく請負、自営業者として、労働者としてなんのセイフティネットもない働き方で、デリバリー業などのギグ・エコノミーに3、40代まで多く見られるのが実態だ。

団塊の世代より少し下で、高校教員として勤めてきた著者が、何度も実感し、強調するのが、上の世代「戦う労組員」の現役世代に通じない理屈、現状認識と、若い世代の将来への希望のなさとギャップである。それは資本主義の論理といってしまえばそれまでで、もちろん、労働者の国が夢想である限り、何らかの妥協や取り引き、着地点は必要である。しかし、冒頭で紹介される高橋まつりさんの事件(電通で過労自殺)に、全ての人が追い込まれる訳にはいかない。だから、一人でも助けたいと、梶原さんもコミュニティユニオンの相談者となったのだろう。けれど、ここでもその多様な実態と過酷な現実に直面する。そもそも就業規則がない職場が多く存在するということだ。大手広告会社である電通には就業規則は一応あった。しかしその通りの職場ではなかった。ましてや就業規則のない職場では、全てが自己責任になる度合いが高まる。

本書に描かれ、一貫して流れていると感じたのはもどかしさだ。ユニオンの年配相談者は、最終的は訴訟と、金銭解決や謝罪をすすめる。しかし、相談にきた人の中には、とにかく穏便に辞めたいと訴えたりする。最初から相談して解決というより、カウンセリングを求めているかのように見える人もいる。しかし、このもどかしさが現状の本質なのだろう。そしてこのもどかしさこそ著者が伝えたかったことではあるまいか。そこでフィーチャーされるのは、労働環境悪化の中で続々と出版される(ブラック)雇用の実態や、闘い方を指南する書籍にはあまり描かれていない等身大の被用者の悩みと、それと付き合うユニオンの将来像なのかもしれない。

ずいぶん昔、高校教員だった友人の話。「生徒に20歳の自分を描いてみたら、と訊いたら、「そんな先のことは分からない」という反応だったのに驚いた。」高校生ならあと2、3年で20歳になる。目先に囚われるなと年配者は言いがちであるが、それほどまでに若い世代の実感している人生のサイクルは短く、ある意味儚い。しかし、嘆いていても仕方ない。著者が最後に強調するのはユニオンを使っての一人ひとりの繋がりの大切さだ。新型コロナウイルス禍で、巣ごもり、リモートワークでますます人と人との繋がりが弱まっている、としたり顔の傍観者視線ではいけない。

「ユニオンって趣味でしょ」。著者が相対した若者の言葉だ。痛い指摘だが、趣味だから一所懸命になっていいのだ。(『コミュニティユニオン 沈黙する労働者とほくそ笑む企業』あっぷる出版社 2021年)

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「自助、共助、公助」との共生、自分自身の特性との共生   私はダフネ

2021-08-12 | 映画

イタリアはトリエステでの実践から、法律で精神科の閉鎖病棟を無くした先進的な国として知られる。そこには障害の有無やその軽重に関わりなく、誰でも通常教育を受けられるようにしたインクルージョンの発想が完徹しているからだと説明される。幼稚園から大学までの全ての学校教育段階でそれは実践されているそうだ。しかし、だからイタリアのインクルーシブな環境のおかげでダフネは伸び伸びと育っている、と考えるのは早計であると作品解説で堤英俊都留文科大学准教授(学校教育学・教育社会学)は述べる。教育や社会環境に完成形はない。日々葛藤、逡巡、失敗と改善などの繰り返し、制度の見直しと継続、悩み続けているというのが現実のところだろう。

ダウン症のダフネは、スーパーマーケットで充実して働き、仲間に恵まれ、両親もそんなダフネを受け止めている、ように見える。しかし母親マリアの突然の死。それを受け入れられず、落ち込み、日々の仕事、生活にも支障をきたしたのはダフネではなく、父(夫)のルイジであった。ダウン症の人の中には、そうでない人より几帳面すぎるこだわりを見せる人もいるという。ダフネも同じところにしまわないと気が済まないとか、横断歩道でもない道を必ず手を上げて渡るとかの所作を見せる。今までいつも側に必ずいて、自分を受け止めてくれる存在が突然いなくなった衝動は、ダフネにはとても大きいように思える。しかし、落ち込んだ父親を立ち直らせようとするのはダフネの方であったのだ。

監督のフェデリコ・ボンディは俳優でもないカロリーナ・ラスパンティに出会い、この人こそダフネだと感じたという。ダウン症のラスパンティは実際、地元のスーパーで働き、小説も2冊出しているそうだ。その言語能力の高さから人気のYouTuberでもある。ボンディは実際にラスパンティに会い、用意していた脚本ではなく、彼女に自由に演じてもらうことにしたという。それは、彼女が地域社会で共生するとともに、自分自身のダウン症という症状、状況とも共生していることが分かったからという。

遠く離れたマリアのお墓まで歩いて行こうとルイジを誘うダフネ。後半は娘と父、その折々に出会うイタリアの人たちとの会話がはさまれるロード・ムービーになっている。出会う人たちの眼差しは、それは決して「腫れ物」に触るような対応ではない。イタリア全土でいろいろな障害を持った人たちが、普通に暮らし、周囲にいるのが当たり前というこの国の国民の「普通」を垣間見た気がする。

しかし普通と普通でない、ことの境界は曖昧で、グラデーションだ。人と人の間に、あるいは人の心の中に超えるべき壁を作る方が容易く、考え続ける、悩み続けることを避けたいのもまた人間の性だろう。だから民主主義や自由といった簡単には答えの出ない難問に、終止符を打つべく分断を煽るトランプのような人物への人気が衰えない。

菅義偉首相の「自助、共助、公助」発言は、すこぶる不評だ。この発言は、菅首相がこの順番に頼りなさいと言ったように捉えられたからであると思う。反対に、ホームレスや不安定雇用から放り出されて、今日の食べ物にも困っている人たちを支援する側は、「まず公助だろう」と指摘する。最後に、バックに、公助があるからどこまで自助で頑張れるか、と自己を叱咤激励する生き方、というのはその通りだろう。同時に、ダフネを見ていると自助も共助も、公助ともうまく付き合って日々を謳歌しているように思える。ダフネに連れ出されて、マリアの墓に辿り着いたルイジの顔に生気が戻ってきた。

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アメリカはどう映っているか、見えているか  「17歳の瞳に映る世界」

2021-08-03 | 映画

朝日新聞の夕刊にたまに載る藤原帰一の「時事小言」は、国際政治の今を分かりやすくまとめてくれてはいるが、例えばトランプ大統領に対する批判など明確でないと思え、その政治姿勢そのものには興味が持てなかった。けれど、藤原は国際政治学者というより映画マニアの側面には興味があり、藤原がテレビで紹介する作品は見てみようと思うものも少なくない。「17歳の瞳に映る世界」は、藤原に推されたから足を運んだ。

物語は至ってシンプルだ。17歳のオータムは学校とバイトの日々。学園の催しでステージで歌う彼女に「メス犬!」との差別的野次が飛ぶ。幼い妹らの父親である義父とは関係がよくない。そんなオータムの妊娠がわかる。ペンシルベニア州では親の同意なしに中絶はできない。州のウイメンズ・クリニックでは明らかに中絶反対で、「中絶は殺人」とのビデオを見せ、養子縁組のパンフレットを渡される。これにはアメリカが抱える現実的な背景がある。オバマ大統領に8年間にわたり政権を奪われた共和党は、中絶の合法化をひっくり返そうと州レベルでクリニックを減らしたり、中絶できる期間をどんどん短くする州法を成立させていく。そして決定的であったのが、トランプが大統領選で「当選したら中絶を非合法化する。場合によっては女性や執刀医を罰する。」とまで公約にあげ、福音派キリスト教徒の票を固めたからだ。当然、トランプ大統領誕生後も抗議デモやウイメンズ・マーチが起こったが、共和党は着々と上述の政策を進めた。そしてトランプが去った後も最高裁の構成が、保守派6対リベラル3となった現在、連邦最高裁が中絶の非合法を判断する危険性が高まっているのだ。オータムが住まうペンシルベニアは2020年の大統領選で激戦を繰り広げ、僅差で民主党が制したが、いまだにトランプが選挙不正を唱え、それを支持する層も厚い。それが暴徒による2021年1月の議会乱入、死者まで出した事件に至ったのはつい最近のことだ。しかしそういった政治的背景が、口数の少ないオータムの辛さを説明するものではない。

地元で解決できないと知ったオータムはいとこで、ただ一人の友だちスカイラーとニューヨークを目指す。しかし、一つ目のクリニックではその妊娠周期では対応できないと別のクリニックを紹介される。ホテル代など用意していない二人は地下鉄やゲームセンターで過ごすが、2カ所目のクリニックは手術は2日がかりだという。申込金を支払ったら、もう二入にお金はない。行きのバスで声をかけてきたジャスパーに連絡を入れて、ご飯を奢ってもらい、時を過ごすが、本当は現金が欲しい。お金を貸してあげるよというジャスパーはスカイラーを夜の街に連れ出すが。

手術前にオータムに質問するカウンセラーの描き方が丁寧だ。手術の内容に始まり、オータムの経験、プライベートなことも訊く。それは決して威圧的、教訓的でもないし、「あなたを危険から守りたいから」。「暴力的な性行為はあった? 4択で答えて。Never Rarely Sometimes Always?」本作の原題だ。

オータムを孤独と危険に晒したのは、直接的にはオータムの交際相手だが、それはそもそも「交際」だったのか、彼女を支える医療的、精神的ケアが地元にあったのか、では大都会のニューヨークでそれは充足されたか。ぶっきらぼうなオータムに、寄り添ってきたスカイラーが救いだ。アメリカの現在(今)を伝えるいい作品であると思う。

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