kenroのミニコミ

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『死刑すべからく廃すべし 114人の死刑囚の記録を残した明治の教誨師・田中一雄』 「大逆事件」の過酷がまた明らかに

2023-06-28 | 書籍

著者には『大逆事件 死と生の群像』(2010岩波書店)という労作がある。労作というのは、『大逆事件』の取材に10年以上の歳月をかけ、その後も『飾らず、偽らず、欺かず 管野須賀子と伊藤野枝』(2016 同)、『一粒の麦 死して 弁護士・森長英三郎の「大逆事件」』(2019 同)と徹底して「大逆事件」を追及してきた最近作であるからである。実は、著者の田中伸尚さんには30年以上前に講演をお願いしたことがあり、その中で「大逆事件」で死刑判決、減刑、獄中で自死した高木顕明のことを取り上げられた。であるから著者にとってこの労作には40年いやそれ以上を超える取材とこだわりがあると考える。

著者は『大逆事件』で、幸徳秋水、管野須賀子ら以外の著名ではない被告人に思いを馳せる重要性を指摘している。そうである。24名もの冤罪で「大逆」を問われ、うち12名が判決後まもなく頚きられた戦前日本で最大級の国家犯罪であるのに、その雪冤が全くなされていない。『一粒の麦』では、死刑を免れた坂本清馬の戦後の再審請求を担当した森長を取り上げたが、本書の教誨師・田中一雄はさらに資料がない。どこに光を当てるのか、当てられるのか。田中一雄の手記には森長の調査の過程で出会ったという。200人を超える死刑囚の教誨師を務めた田中は浄土真宗の僧侶であった。そして著者の記するように当時の教誨は「教育勅語にもとづく国民道徳を説き、極悪人の心を落ち着かせて死を受け入れさせる『安心就死』であった」(4頁)。しかし、田中は死刑(制度)に違和があった。教誨を通して、死刑囚が自己を振り返り、十分な機会が与えられれば更生の可能性が大きいと感じていたからだ。制度としての死刑の壁はあつく、田中の悲憤はどう描かれたか。

本書は4章構成である。教誨した114名分の記録を残した田中のその全体像から、死刑囚に寄り添う姿勢を分析する第1章。多いのは強盗殺人や田中が取り上げる「情欲殺人」といった現代の刑法概念で捉えると、動機の背景や態様が複雑ではなくどちらかというと「粗暴犯」に分類される事案かもしれない。しかし、そのようないわば単純な動機や犯意を持つ被告人は、更生の可能性こそ高いと田中は考えた。「手記には、情欲に絡んだ殺人事件は十数件を数えるが、いずれについても田中は『死刑の必要なし』『死刑するには及ばず』『死刑は無益なり』などと言い切っている。」(43頁)

さて、人を実際に殺したわけでもなく、その「謀議」にかかずらったとされるだけであるのに24名もの死刑判決を出した大逆事件を扱う第2章。判決からわずか6日で12名の死刑が執行されたこともあり、どの死刑囚にどのような教誨がなされたか不明な部分が多い。執行には立ち会った田中も手控えには判決をそのまま写すのみで、感想もない。著者は「『大逆事件』が政治的でっち上げでもそれを見抜ける立場にはいなかった田中は紛れもなく明治人で、同時代のほとんどの人びとに共通する明治天皇への敬愛は強かったろう。それゆえ押し黙ったように寡黙になったのだろうか。」(101頁)と推しはかる。同時に「『沈黙』を貫いたのは田中のぎりぎりの抵抗だったのかもしれない。」(104頁)。しかし手記から田中が管野須賀子の明晰さを読み取り、著者によればお互いを尊重する交流があったことを示す資料もある。ただ、やはり大逆事件の核心は実行行為ではなく、思想そのものを刑死させる(当時の)刑法第七十三条の存在であった。大逆事件後の田中の教誨メモは一気にそっけなくなる。

田中の手記が残された経緯を辿るのが第3章。その最重要のキーパーソンたる教誨師がキリスト者の原胤昭(たねあき)である。田中から手記を託された原がその保管と分析に尽力した。田中一雄が旧会津藩士で前歴があり、医師でもあった。それがなぜ東京で僧侶となり、教誨師を務めることになったのか。真偽を確かめる道行きが第4章である。結局決定的な立証とはまではいかないまでもその可能性は十分にあり、幕末維新の激動期、その激動の目撃者たる旧会津藩という特殊な出自、さらに天皇教には完全に絡め取れなかったクリスチャンの原に手記を託した必然性。

物語は多分終わらない。「死刑制度」は「未決の問題」であり続けるからだ(204頁)。田中の、生きていてこそ更生が得られるという考えは、浄土に行く仏教概念より、肉体の復活を信じるキリスト教に近いとも言える。しかし、現実に死刑はあり、現在も続く。冤罪が明白である袴田巌さんの再審が決まったのはついこの間だ。だからこそ「死刑すべからく廃すべし」なのだ。

(『死刑すべからく廃すべし 114人の死刑囚の記録を残した明治の教誨師・田中一雄』2023 平凡社)

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なんと「うつくしく、やさしく、残酷」か    「怪物」

2023-06-13 | 映画

何十年も前なので記憶の上書きをしていると思うが、小中高を通して、いじめられないように立ち回る学校生活を送っていた。それは、いじめられたり、その1番のターゲットになりそうな同級生を見ていたからだ。けれど、逃げ通すことはできず、中学では殴られ、高校ではパシリを進んでしていた。幸い、大学ではいじめの対象とはならなかったが、就職してからも自分にキツく当たる先輩から逃れようと、彼の視界に入らないよう工夫もした。けれど、あちら側にすれば避けているのが見え見えだ。

子どもは実は残酷と言われる。ある面でそうであり、またそうでもないだろう。あるいは無垢とも言われるが、それもまた両面ある。しかし、子どもだけのことだろうか。大人にも残酷と無垢な面もあるだろう。ただ、違うのは社会性を備えた大人はそれらの面を自分の意思で操作したり、また、わざとそういう面を生きていることが多いということだ。そして善人、悪人の境目など常人には不確かで不可分だ。

「怪物」とは何者で、誰がそうなのか? あるいは、どんな人でも内なる「怪物」を有しているのか。安藤サクラ演じる麦野早織は、シングルマザーとして一人息子の湊を愛し、大事に育てている。その湊に異変が、突然髪を切り、スニーカーが片一方しかない。永山瑛太演じる担任の保利先生に暴力を振るわれたと訴えたため、学校に乗り込む。全く無表情、能面のような校長(田中裕子)、極限まで自己保身にまみれている副校長。無理やり謝罪させられる保利先生はやがて全校集会で謝罪、辞職する。保利先生の視点で描かれた現実は違っていた。彼には何の非もなく、むしろ湊がクラスメートの星川依里をいじめているように見えた。依里は同級生の中では小柄で、どこか他の子らと違ったところがある。そして湊の視点。

角田光代がコラムを寄せている。子どもからの視点に移った時点で「ようやく観客は、入れ子の箱のいちばん最後に隠されていた真実を知ることになる。なんとうつくしく、やさしく、残酷な真実だろうか」とネタバレになることなく本作をズバリと言い当てるあたり、さすがベストセラー作家だ。そう、おそらく港や依里のほんとうの姿が「うつくしく、やさしく、残酷」であったため、ある意味起こった事件と言える。そして、他の主たる登場人物、早織も、保利もその多面性を抱え、そして子どもも含めて他者に対して「怪物」であった時もあった。複雑な関係性 − 二者間ではその複雑さが理解されないことも多い ― そのものが「怪物」を育てていたのだ。人間関係そのものが「怪物」であったのだ。

「誰も知らない」、「万引き家族」をはじめ、子どもを中心に「家族」を問い続けてきた作品で高い評価を得ている是枝裕和監督は、自ら脚本を手がけるのに、本作は坂元裕二に任せた、いや、坂本の脚本ならと監督だけを引き受けたそうだ。坂本は、2022年度のテレビドラマの賞を総なめした「エルピス 希望、あるいは災い」の佐野亜裕美プロデューサーと組んで好評だった「大豆田とわ子と三人の元夫」の脚本家である。

映画が始まると、当初、居心地が悪かった。善人そうに見える早織も、その他の人たちもそんなに悪い、深慮遠謀を凝らした悪巧みを隠しているようには見えない。しかし不穏なのだ。そして子どもは、どこまで子どもで「小さい大人」なのだろうか。学校が舞台ということもあり、ある意味、日本的な描写だがラストまで一気にすすむ。目が離せない秀作だ。

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ぶっとばす対象は今もある 梶原公子『男社会をぶっとばせ! 反学校文化を生きた女子高生たち』

2023-06-01 | 書籍

何十年も前の自分の高校生時代を思い返してみた。卒業後すぐに事故で亡くなった同級生がいた。格闘技系で横柄な彼を私は苦手だったが、いじめられた訳でもないのでお葬式には出た。その場で級友がつぶやいた。「Aは勉強は嫌いだったけれど、学校は好きだった。」。多分そうだろう。けれど、比較的いじめられっ子だった私は、「(科目にもよるが)勉強は好きだったけれど、学校は嫌だった」。

『男社会をぶっとばせ! 反学校文化を生きた女子高生たち』には勉強しに行くわけでもないのにせっせと登校する学校が好きな少女たちが主人公だ。「ヤンキー」である彼女たちを著者は「女版野郎ども」と呼ぶ。「野郎ども」とは、学校教育で成功を手にいれるという能力主義万能の世界とは正反対の「反学校文化」を体現したイギリスの労働者階級の少年たちを指す(ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』1985 筑摩書房)。学校の勉強に励み、規則をきちんと守っても社会で「成功」する地位にはならないと分かっているから、小さな反抗を繰り返す彼ら。著者の勤めた公立のH女子高校は、がんじがらめの管理教育校だったのがどんどん「自由な校風」になり、高校ぐらいはと進学してくるヤンキーの巣窟に。それとわかる服装に始まり、教室での化粧はもちろん、喫煙、禁止されているバイト、そしてセックスがある。高校生も真面目に、に重きをおいていた著者も彼女らの実態に触れ、話を交わすうちに変わっていく。学校はメリトクラシー(能力主義)が貫徹した社会、そしてある程度そこで勝ち上がったとしても勝ち続け、逃げ切れるわけではない。ましてやそのアリーナにも立てない底辺女子校に来る私たちなんてと自分らを客観視、達観していると気づくのだ。そしてその中でどう生きていくか、生きながらえていくか。すぐに男に頼ったり、そして稼がない、育児をしない、暴力を振るうなどの男はすぐに切る。そもそもセックス後の危険負担は全て女性だ。現実主義者なのだ。ここでは「高邁な」フェミニズムは不要。同時に個人的なことは政治的なこと。

H女子高校の生徒らは、自分らとは正反対の真面目で、学歴をつけ、働き続けられる正規労働に就けたとてしてもガラスの天井があり、決定の場からは排除され、就職時には対等だと思っていた夫は家事も育児も自分任せで、どんどん昇給・昇進していくことを見抜いている。そんなアホらしい現実に気づいている。体感していたからだろう。家庭で、学校の規則や教員らの姿勢で、バイト先で感じる社会に。

著者は、半世紀を超え、かつての教え子(と言っても、そもそも授業を聞かない生徒らに対し、「授業をしません」宣言した著者も相当「ヘンな先生」だ。)からあの頃の私たちの話を本にしたいと相談を受け、それなら私がと社会学も知悉しているので、したためたのが本書だ。著者が教員になった当初描いていた、学力優秀、勉強が好き、読書が好き、品行方正な「よい生徒」像が、自身の偏見や傲慢さ、教師という高みに立った歪んだ視線であることを生徒らとの「出会い」によって変えられていった。著者自身の「信念変更」の物語である。彼女らは勉強嫌いではあったが、学校に仲間を求め、確かに日々の成長を自分のものとしていた。教壇を離れ、ずいぶん経っているのに、ましてや「女版野郎ども」も40代。それでも話を聞けたのは、著者が彼女らとずっと繋がりを持っていたことと、彼女らに微妙な距離感を保つ著者に対する信頼もあったからだろう。熱血教師は要らないのである。

ちょうど「あまちゃん」が再放映中だ。主人公の母小泉今日子演じる天野春子は元スケバンで足首まであるスカートを履き、ぺしゃんこの鞄姿だった。著者が「女版野郎ども」と過ごしたのは少し後なので、スカートはとんでもなく短くなっていたが、現在の学校ではスケバンも「野郎ども」もいない。反対に学校に行けなくなった多くの子らと、学校に順応できる子らは小中とか中高一貫校でどんどん勝ち上がっていく(ように見えるだけ)。子どもらにとってオールタナティブなアジールなど存在するのだろうか。

(『男社会をぶっとばせ! 反学校文化を生きた女子高生たち』あっぷる出版社 2023年)

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