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碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
見たり、読んだり、書いたり、時々考えてみたり・・・

2012年 こんな本を読んできた (5月編)

2012年12月23日 | 書評した本 2010年~14年

「週刊新潮」の書評ページのために書いてきた文章で振り返る、この1年に読んだ本たちです。


2012年 こんな本を読んできた(5月編)


真保裕一 『猫背の虎 動乱始末』 
集英社 1680円

著者の時代小説も3作目となる。ただし明智光秀、細川政元など実在の人物を主人公にした前作までと違い、本書では町奉行所同心の活躍が描かれている。

舞台は安政年間の江戸。亡父の跡を継いで同心を務める大田虎之助は、六尺近い大男だが温和な性格だ。気丈な母と出戻りの姉たちに圧倒され、身を縮めながら暮らすうち、いつか“猫背の虎”と呼ばれるようになっていた。

ある夜、江戸の町が激しい揺れに襲われる。安政の大地震だ。急ぎ自邸から奉行所へと駆けつけようとする虎之助。しかし、町のいたる所にいる傷ついた者、助けを求める者に手を貸さずにはいられない。

また、この未曾有の災害の陰で、いくつもの出来事が同時多発する。恨みをもった相手を追う板前、赤子の誘拐、謎の焼死体の発見。遊女の脱走、そして虎之助の父にまつわる疑惑問題までが浮上するのだ。猫背の虎は、これらをどう始末していくのか。

物語全体を包む大きな謎と、個別の謎とが絶妙に絡み合う巧みな構成。そこには著者ならではのユーモアも漂っている。非常事態にこそ人間の本性が現れるが、絶望的な大混乱の中で成長していく若者と、それを支える人々の姿が清々しい。
(2012・04・10発行)


坪内祐三 『父(おとこ)系図~近代日本の異色の父子像』 
廣済堂出版 2100円

著者の「父と子」に対する強い好奇心と執念が生んだ異色の人物評伝集だ。取り上げているのは、明治から現代までの“知る人ぞ知る”12組の父子である。

たとえば岸田吟香と岸田劉生。息子は誰もが知る近代日本最高の洋画家だ。父の吟香はあまり知られていないが、幕末から明治にかけてのジャーナリストであり事業家だ。明治初年に東京日日新聞の記者として、いち早く言文一致の記事を執筆。後に主筆となる。また銀座に目薬などを扱う店を出し大成功した。そんな父が熱心なクリスチャンだったことが、間接的に息子を画業へと向かわせるのだ。

名著「齋藤英和中辞典」の英語学者・齋藤秀三郎と、小澤征爾ら多くの音楽家を育て、「サイトウキネンオーケストラ」に名を残す齋藤秀雄もまた父子だ。息子が父から受け継いだものは「文法的な頭脳」だった。秀雄によれば、音楽も語学同様、単に勘に頼るのではなく文法的解釈法を必要とするという。父の英語メソッド(論理的・体系的方法)は、見事に息子の音楽メソッドへと移植されたのだ。

本書には他にも九鬼隆一と九鬼周造、辰野金吾と辰野隆、杉山茂丸と夢野久作など魅力的な父子が多数登場する。読者が自らの父子関係と重ねて読んでみるのもまた一興である。
(2012・03・31発行)


堀江敏幸 『時計まわりで迂回すること~回送電車Ⅴ』 
中央公論新社 1995円

散文集である最初の「回送電車」が刊行されたのが11年前。5冊目となる本書も題材は絆創膏や眼鏡からサッカーの観戦まで多岐にわたるが、いつも通り静謐にして余韻のある文章が並ぶ。評論やエッセイといったジャンルを超えた、著者独自の境地が味わえる。
(2012・03・25発行)


小日向 京 『考える鉛筆』 
アスペクト 1575円

鉛筆1本をめぐって、堂々1冊の本が書かれたことに驚く。それほど鉛筆の世界は深いのだ。誕生の秘密と歴史。ナイフで削る際のバリエーションが5つ。握り方もまた5タイプ。著者の蘊蓄と遊び心に乗せられて、机の引き出しに眠る鉛筆を取り出してみたくなる。
(2012・04・06発行)


円満字 二郎 『漢字ときあかし辞典』 
研究社 2415円

引くだけでなく、読みたくなる辞典。たとえば、愛について「その根源に“気になってしかたない”という心の動きがあることには、うなずく方も多いことだろう」などと書かれている。また臆を指して「どこか頼りなさそうな漢字である」。2320字との出会いだ。
(2012・03・30発行)


佐々木俊尚 『「当事者」の時代』 
光文社新書 998円

本書のテーマは「この国のメディア言論がなぜ岐路に立たされているか」だ。メディアと権力はオモテの「記者会見共同体」とウラの「夜回り共同体」の二重構造の関係にあり、メディアが標榜する「市民感覚」と現実の「当局依存」の間に落差があると著者は言う。

また自身の新聞記者時代の体験を交えつつ、メディアが「少数派・弱者」に憑依していく現実を明らかにしている。一方、人々を当事者化していくのがネットのソーシャルメディアだ。現在起きているのは両者の衝突であり、その変化の行き先はまだ見えていない。
(2012・03・20発行)



藤田宜永 『和解せず』 
光文社 2100円

伊木章吾はクラシックを手がけるプロモーターだ。父・清之介は元国会議員だが、折り合いの悪い長男だった伊木は政治家にはならず、弟が跡を継いでいる。またクラシックの世界ではそれなりの実績を持っているが、芸術に携わっているという意識はない。歌謡曲の世界と同じ興行だと割り切っていた。

準備を進めていたのはアントニオ・リーヴスというチェロ奏者の全国ツアーだ。チケットの売れ行きは順調だったが、ツアー開始の前日にリーヴスが大麻吸引で現行犯逮捕されてしまう。興行は中止となり、大きな負債を抱えた伊木はその処理に奔走するしかなかった。

そんな時、かつて関係があったソプラノ歌手・沢島美香子と再会する。美香子は以前伊木の実家で働いていた女性の娘だが、伊木の父親は亡くなる際、なぜか彼女に遺産を分与していた。その意味を考える余裕もないうちに、リーヴスの興行をめぐってライバル関係にあった同業者が殺害される事件が起きる。しかも雑誌記者が伊木周辺の取材に動き出していた。

それまで家族に対しても、関係する女性に対しても、自分のルールに則って距離を保って生きてきた伊木。それが見えない力によって崩され始める。男にとって血縁とは一体何なのか。
(2012・04・20発行)


高山文彦 『どん底~差別自作自演事件』 
小学館 1995円

ノンフィクションはどんなテーマも扱えるとはいえ、よく書ききったものである。何しろ陰湿な差別事件と思われたものが、被害者だったはずの男による“自作自演”だったのだから。著者は一切の予見を排し、長年の解放運動の根幹を揺るがす、衝撃的な事件の深層に迫っていく。

それは一枚のハガキから始まった。宛先は福岡県立花町に住む山岡一郎(仮名)。出身者である彼が町の嘱託職員でいることを許さないという内容だった。翌日、同様の内容のものが町役場の社会教育課長にも届く。差出人は不明。平成15年のことだった。以後、5年にわたり、最終的には44通もの敵意に満ちたハガキが送り続けられた。

“被害者”である山岡は警察や行政に自身の苦しみを訴え、解放同盟はこの悪質な差別行為を取り上げ、積極的な運動を展開させていく。その過程で山岡は徐々に悲劇のヒーローへと成り上がる。ところが、捕えられた犯人は何と山岡自身だったのだ。

そもそも山岡とはいかなる人物なのか。なぜ、そんなことをしたのか。また、いわば“内部の犯行”に対して解放同盟はどう対処していったのか。見えてくるのは現代における差別の奇怪な構造であり、解放運動が抱えるジレンマだ。
(2012・04・07発行)


内田 樹 『街場の読書論』 
太田出版 1680円

2400万アクセスを超す著者の人気ブログや、雑誌などに寄稿した文章から、「書物」と「書くこと」についてのエッセイが厳選されている。人は何かにつけ「自分宛てのメッセージ」であれば受容するそうだが、本書がまさにそんな一冊であると感じる人は幸いだ。
(2012・04・29発行)


宮沢章夫 『素晴らしきテクの世界』 
筑摩書房 1575円

テクとはテクニックのことである。だが、そこには単なる技術とは異なる気安さと思想があると著者は言う。リコーダー(たて笛)の吹き方から旅の流儀、墓地選び・墓造りまでを素材に、様々な書物と勝手な妄想でテクの世界を探求していく最新宮沢ワールド。
(2012・04・10発行)


山崎 努 『柔らかな犀の角~山崎努の読書日記』 
文藝春秋 1785円

「週刊文春」連載の「私の読書日記」6年分である。森繁久彌、池部良など名家の俳優は多い。著者もまた滋味溢れる文章の達人だが、その背後にあるのが旺盛な読書であることがよくわかる。随所にはさまれる演技の考察や黒澤明監督についての回想も貴重だ。
(2012・04・25発行)



桜木紫乃 『起終着駅(ターミナル)』 
小学館 1575円

直木賞候補作『LOVELESS(ラブレス)』が評判となった著者の最新作品集。北海道を舞台に描かれる、女たちと男たちの喪失と再生の物語だ。全6篇に微妙な陰影を与えているのが北の国の自然である。

表題作に出てくるのは弁護士の鷲田完治だ。国選弁護しか引き受けないため周囲から「変わり者」と呼ばれている。そんな鷲田がある女の弁護をしたことから、ふと過去をふり返る。1960年代後半、学生運動のアジトで出会った冴子との日々、そして別れ。2人の女がなぜか重なってゆく。

「かたちないもの」の主人公は笹野真理子。大手化粧品会社で管理職を務めている彼女の元に、かつての恋人・竹原基樹の納骨式に出て欲しいという手紙が函館から届く。10年前、突然2人の関係を解消し、東京を去った竹原。北の街を訪れた真理子は手紙の差出人である神父の角田吾朗から、その後の竹原がいかに生き、死んでいったのかを聞く。

「海鳥の行方」のヒロインは新聞記者の山岸里和だ。希望に燃えて入社した新聞社だったが、配属先の釧路支社で、そりの合わないデスクから徹底的に叩かれる。そんな失意の中で出会ったのは初老の漁師だった。違う世界で生きてきた男と話をするうちに、里和の中の何かが溶けはじめる。
(2012・04・21発行)


都筑道夫 『黄色い部屋はいかに改装されたか? 増補版』 
フリースタイル 2100円

タイトルは、ガストン・ルルーの推理小説で、密室トリックの古典と呼ばれる『黄色い部屋の秘密』から来ている。このミステリ評論の名著が他社から出版されたのは70年代半ば。長い間ミステリ・ファンに愛されたが、今回絶版となったことから大幅な増補を加えた本書が誕生した。自身も推理作家である著者はポーをはじめヴァン・ダイン、エラリイ・クイーン、横溝正史などを材料に、「本格推理小説とは何か」に迫っている。

著者が示す本格推理小説の「三原則」は、発端の怪奇性、中段のサスペンス、解決の意外な合理性である。ただし最も大切なのは「論理的な解明」で、それを主とすれば犯罪の謎と意外性は従になる。その上で、謎とき推理小説が踏み込んだ袋小路が犯人によるトリックだと主張。トリックにばかり気をとられると、肝心の合理性が疎かになり、こじつけの遊びごとに堕してしまうと言うのだ。いわば「トリック無用論」であり、かなり刺激的な話だ。

さらに本書では、作家の佐野洋との「名探偵論争」も読める。著者が提唱したのは、人間観察と倫理的思考に長じた名探偵の復活だ。謎にみちた状況における犯罪。探偵と犯人との対立。“純粋な謎とき”への回帰がそこにある。
(2012・04・15発行)


伊井直行 『会社員とは何者か?~会社員小説をめぐって』 
講談社 2520円

会社とは何か。会社員とは何か。その謎を探るべく、作家である著者が「会社員小説」をめぐる精神的な旅に出た。俎上に載るのは源氏鶏太や山口瞳、黒井千次、坂上弘などの作品群だ。見えてくるのは会社という鵺のような存在の不思議さと、新たな文学論である。
(2012・04・26発行)


嵐山光三郎 『転ばぬ先の転んだ後の「徒然草」の智恵』 
集英社 1260円

「一事を必ず成さんと思わば、他の事の破るるをもいたむべからず」。兼好は単なる世捨人ではなかった。世の煩わしさは捨てながら、現実世界を見つめ続けた。著者の融通無碍な解説で、古文の教科書ではわからなかった、大人の男の美意識と哲学が浮かび上がる。
(2012・04・10発行)


本山賢司 『森で過ごして学んだ101のこと』 
東京書館 1680円

著者は自然派イラストレーターだ。手描きの博物画を思わせる美しいイラストと飾らない文章が、読む者を野外へと誘う。焚火で燻製、そして酒。シュラフだけの野宿。星で知る方位。さらに動物への対処法。水筒からナイフまでの道具類も男心をそそる。
(2012・04・09発行)



薬丸 岳 『死命』 
文藝春秋 1733円

登場するのは互いに重病を抱え、死期の近い殺人犯と刑事。乱歩賞作家が男たちの宿命の対決を描く異色サスペンスだ。

榊信一はデイトレーダーとして巨万の富を手にしている。だが、彼には秘密があった。性的興奮を覚えた女性を絞め殺したいという衝動だ。最初のそれは幼なじみともいえる恋人・澄乃に対して現れた。やがて自分が末期がんであることを知った榊は、行きずりの女性たちを狙い始める。

一方、連続女性殺害事件を追うのは刑事の蒼井凌だ。周囲からは勘に頼って暴走すると見られ、敬遠されてきた。また妻を亡くしてからも仕事一筋で、子供たちとのコミュニケーションもうまくいっていない。そんな蒼井が、がんで余命わずかと宣告を受ける。体調も悪くなるばかりだったが、娘と同年代の女性を襲う犯人を挙げることに命を使い切ろうと決意する。それは治療よりも刑事としての日々を選んだ男の使命ならぬ死命だった。

榊という連続殺人犯の造形が秀逸だ。抑えがたい暗い衝動と欲望はどこから生まれ、どこへ向かうのか。謎に包まれた榊の過去はこの物語の読みどころの一つ。そしてもう一つが蒼井による執念の捜査だ。鍵を握る澄乃の存在を軸に、事件は思わぬ展開を見せる。
(2012・04・25発行)


北原みのり 『毒婦。~木嶋佳苗100日裁判傍聴記』 
朝日新聞出版 1260円

去る4月13日、さいたま地裁は「木嶋佳苗」被告に求刑通り死刑を言い渡した。本書は今年1月に始まった裁判の傍聴記である。

コラムニストで女性のセックスグッズショップ代表でもある著者は、法廷に通うと共に佳苗の故郷・北海道別海町にも足を運ぶ。また被害者男性への取材も行っている。その過程から見えてくるのは、木嶋佳苗という鏡に映し出される男たちの姿と佳苗自身の闇だ。

どんなものでも聞くと見るとの違いは大きい。著者が法廷で目撃するナマの佳苗の印象が実に興味深い。公開写真からは想像できない完璧な白さの美肌。耳に優しいウイスパーボイス。そして被告人席で見せる優雅さ。著者は思わず言いそうになる。「なんだ、佳苗、魅力的じゃないの」と。

本書の持ち味は、こうした徹底的な女性目線にある。裁判で明らかになる大胆かつ残酷な行いと、それに対する言い分との落差。そこに罪の意識はあまりない。

また少女時代から「容姿を自虐することなく、卑屈になることもなく、常に堂々と振舞う」佳苗。男たちが求める“女”を熟知し、「不美人を笑う男たちを嘲笑うように利用した」佳苗。マスコミは彼女を「毒婦」と呼んだが、その毒の源泉にまで迫った力作ノンフィクションだ。
(2012・04・30発行)


和久井光司 『放送禁止歌手 山平和彦の生涯』 
河出書房新社 2520円

1972年に発表したアルバム『放送禁止歌』のタイトル曲が放送禁止。また収録した2曲がワイセツと判断され、アルバム自体が発禁となった山平和彦。自身も音楽家である著者が、52歳で事故死した“幻のフォークシンガー”の軌跡をたどった初の本格評伝である。
(2012・04・30発行)


吉本隆明ほか:著 宮川匡司:編『震災後のことば~8・15からのまなざし』 
日本経済新聞出版社 1680円

大震災について、戦争中とは違う「暗さ」を感じたと言うのは吉本隆明。「被災地だけじゃない、都会もまた紙一重で明日は焼跡」と語るのは野坂昭如だ。戦争そして戦後を体験した文学者・思想家7人による、3・11以後のこの国と日本人に対する深い考察が並ぶ。
(2012・04・23発行)


桐山秀樹 『おやじダイエット部の奇跡』 マガジンハウス 1680円

著者が提唱する「糖質制限ダイエット」を実践し、見事減量に成功した男たちの記録だ。この方法の利点はご飯や麺類を抜くだけという簡単さにある。皆、体重が落ちることで糖尿病などからの脱出も図れた。彼らが用いたメニューを参考に、自分も挑戦してみたくなる。
(2012・04・26発行)


芹沢俊介 『家族という意志~よるべなき時代を生きる』 
岩波新書 861円

3・11以降、再認識されたものの一つが「家族」だ。では、家族とは何であり、現在どんな状況に置かれているのか。家族や親子の問題を探り続けてきた著者がその本質に迫っている。キーワードは吉本隆明が創出した「対幻想」という概念。互いの命を受けとめ合う者同士という対幻想こそが家族を支えているのだ。

資本主義と自由競争が招いた自己本位主義志向。個人の欲望や情念を優先する社会は対幻想を弱体化させ、「よるべなき状態」となっている。それを食い止める手立てはあるのか。本書は家族再生の方法序説だ。
(2012・04・20発行)



三田 完 『黄金街』 
講談社 1575円

『当マイクロフォン』などで知られる著者の最新短篇集。表題作の舞台は新宿ゴールデン街の一角にあるバー「カリフラワー」だ。ママの渚は元カリスマ書店員という変わり種。店でもほとんど黙っている。群れるのも、仲良しごっこも大嫌い。それでも店は3年続いていた。ある夜、ふとしたことから馴染みの老ギター流しを追い返してしまう。しばらくして、彼が入院したことを知った渚は・・。

「ファインプレイ」はバブル期に出会った男女の話だ。当時、男は30歳の売れっ子コピーライター。女は22歳のソープ嬢。体の相性だけでなく、どこか分かり合える存在となっていく。やがて女の結婚で別離を迎えたが、25年後、男は思わぬところで彼女の姿を目にすることになる。

また、「通夜噺」は弟子をとらないことで有名な落語家のたった一人の弟子が主人公。客には受けないが、師匠は辛抱強く見守ってくれていた。だが、そんな師匠が病に倒れる。弟子にできるのは師匠の好物である胡瓜揉みを作ることくらいだった。

収められた6篇に登場するのは、懸命に生きる市井の人たちばかりだ。著者は一人一人を温かい眼差しで見つめながら、何気ない出会いと別れの中にある人生の機微を見事に描いている。
(2012・04・17発行)


西村幸祐 『幻の黄金時代~オンリーイエスタデイ'80s』
祥伝社 1680円

なぜ1980年代が黄金時代なのか。それは日本が歴史上で最も経済的繁栄を見せた時代であり、文化的にも世界を席巻する成果を生みだした10年だからだ。しかも「絶頂期の日本の裏側に、現在の日本の危機を読み解く鍵が隠されていた」と著者は言う。平成の世に黄金時代を一瞬の“幻”としてしまった、その真相を探っている。

80年代という時代を切り取るいくつかのキーワード
がある。「ミーイズム」「しらけ世代」「タコツボ現象」などだ。さらに著者は当時の社会を包括する言葉として「柔らかい個人主義」を挙げる。生産より消費。社会より自分。そんな風潮は現在に至るまでの間に、子殺し、親殺し、イジメ、学級崩壊、年金崩壊、さらに関税自主権を放棄するTTP容認の日本へと、この国を変貌させていく。

また80年代に始まった動きの中で見過ごせないのが「反日」と言論統制だ。それは戦前の歴史のみならず、戦後史さえ客観的に相対化できない日本人の「知性の貧困」という結果を招いた。米国と中国との間で右往左往する現在の日本の惨状は、遠く80年代にその種が蒔かれていたのだ。

さらに本書で展開される村上春樹作品の分析も多くの示唆に富んでいる。
(2012・05・05発行)


塩田芳享 『医療に頼らない理想の最期~僕の延命治療拒否宣言』
日新報道 1470円

社会に氾濫する情報の多くは「発信者に都合のいい情報」か「宣伝」。特に医療情報で顕著だと、フリージャーナリストの著者は言う。豊富な実例で延命治療の問題点を指摘し、在宅で最期を迎える提言も行っている。医療に頼らず、任せず、利用するためのガイドだ。
(2012・04・20発行)


加島祥造 『ひとり』 
淡交社 1680円

雄大な中央アルプスを背に田園風景が広がる信州・伊那谷。著者がこの地に移り住み、独居を始めて四半世紀が過ぎた。89歳になった現在、「老子」を通じての思索はさらに深まり、その言葉は透明感を増している。「求めない、受けいれる」生き方がここにある。
(2012・05・11発行)


小林信彦 『非常事態の中の愉しみ~本音を申せば』 
文藝春秋 1785円

「週刊文春」連載の人気コラム1年分。本書には映画や本に関する愉しい文章も並んでいるが、軸となるのは東日本大震災である。作家として、また戦争体験者としての独自の見方は、マスメディアからは決して得られないものだ。社会を測る一つの物差しと言える。
(2012・05・10発行)



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