岩手の頑固親父

恵まれた自然、環境に暮す 老農のつぶやき、ぼやき

村の診療所

2021-07-30 10:23:21 | いなか暮し

 
 今朝、孵ったばかりだろう、色鮮やかにまだ飛び立つことができずにいる。

 終戦後、間もなくの事である。世の中混乱中の事とて、当時はお医者さんでも病院どころか住む家もなかった時代があったらしい。
 我が家は茅葺の大きな家で、東京から疎開していた一家が同居していたが、終戦と同時に帰京した。
 戦死者もあって少ない家族が大きな家で過ごしていたが、世話してくれる人がいて、お医者さんが同居することになり、座敷を診察場に診療所を開設した。
 「村の診療所」はそこそこの患者もあったと思うが戦後の極貧時代、少々の病気は我慢していたことだろう、ある日、隣村まで往診したら、お金がないのでとカボチャをもらったことがあると後日談、多分2年くらいしてその先生は宮城県古川に移住し本格的な病院を開いた。
 開業初日に患者さんが30人ぐらい来たらしい、岩手の我が診療所では1週間に20人しか患者さんが来なかったと後日、笑って話していた。
 その後再び、病院、住まいを持たないお医者さんがみつかり、地域の人たちが資材と労力を出し合い、戦前までは軍馬の育成していた厩屋を改造し、粗末ながら小さな玄関、診察場、トイレ、更にはお医者さん一家の、たしか5人家族だったと思う、その生活の場を作り上げた。
 手伝いの人の中で達筆の人がいて、その人は診療所の案内看板を書き上げた記憶がある。
 先生のお母さんという人は、生け花の先生で、近所の娘さんたちを集めて生け花を教えたので、我が里の90才年代の女性は今でも生け花の心得をわすれていない。
 その先生もやがて隣町の診療所に迎えられて、我が診療所は再び”休診”した。
 数年の空白の後、今度は村の中央の診療所のお医者さんが、空き家となった診療所を利用して出張診療所を開設してくれた。
週に3日、午後から来てくれることになった。スクーターの後ろに看護婦さんを乗せて颯爽とやってきた。
 世の中も落ち着き、豊かになり、出張診療所は、いつもお年寄りの患者さんがいっぱいで、先生もよく話し相手になってくれていた。
 昭和50年ごろまで続いた出張診療所も、先生が高齢になり閉鎖された、 戦後間もなくからおよそ30年、3人のお医者さんに、狭い地区にも関わらず、尽くしていただきました。
  ありがとうございました。
 
 ある会合で自己紹介する機会があり、「私の家では敷地内に病院があり建物を貸しています」といったら驚かれたことがある。
 「実は 昔、馬屋だった建物を素人が改造した建物です」とは言わなかった。

 

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「早起き・・」

2021-07-27 14:50:43 | いなか暮し

 欲しいと言う人もなく、売れ残ったいっぱいの梅、おいしそうに色づいた梅の皮を取り、蜂蜜をつけて食べてみたら結構おいしい・・が2、3ヶでもう結構。

今朝も早くから田んぼの畔草を刈る機械の音がしている。
 今でも、早起きして田んぼに出る人はいるが、昔とは大分様子が違ってきとた。
 かって、どこの家でも朝の仕事は決まっていて、夜明けとともに起きて、涼しい朝のうちに田んぼに出かけ、畔の草を刈る、朝露の含んだ草は鎌で良く切れる。
 時折、畦にしゃがんでは持参の砥石で鎌を研ぐ、そして又、草を刈る。
 このぐらいでいいだろうと、およそ見当をつけて、縄で束ねてリヤカーに積み込む、もっと昔は刈り取った草は背負って帰った。
 リヤカーにいっぱい積んで帰った、おいしそうな草を馬屋から牛たちが見つめている。
 「さぁ、朝ごはんだ、いっぱい食べて大きくなれ・・・」牛に刈り取った草をやる、 その頃畑に出ていた主婦は今朝、収穫したばかりの野菜を、かごいっぱい持ち帰り、ようやく朝餉となる。
 夜明けから朝食までの仕事は”朝仕事”といわれて大事な習慣の一つだったしどこの家でも競って早起きした。
 明治から大正にかけていくつかの書を残した「雲峰」という方の『農ノ勧メ』にも・・・・朝起きを厭うな 昼寝をするな 夜更かしをするな・・・・と耳の痛い言葉が並べられている。
 現在にも通用する、早起きして野良仕事を片付けてから朝食、会社に出勤、昔から言われる「早起きは三文の徳・・・」三文どころか、もっともっと大きな徳になる。

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我が集落は・・

2021-07-07 15:47:41 | いなか暮し

 西日本では大雨被害も出ているのに、我が里は雨なしが続く。
  久しぶりに雨の水たまりができた。我が家周辺に巣食うスズメどもが大喜びで水遊び、よっぽどうれしいのか、頭までずぶぬれになって遊んでいる。

 道で出会ったこの人は転入してきた人だったなぁ、空き家になったこの家は・・・。
 農作業がてら集落の移り変わりを思い出してみた。
 昭和20年代、それまではたまに分家で戸数が増えることもあったろうが、おそらくは長い間、集落の戸数なんて変わるものではなかったと思う。
 昭和25年ごろ、ほぼ全戸が農家で35戸ほど、冠婚葬祭や農業の共同作業が中心。
 戦後10年もして、30年頃から集落の様子が変わり始めた。
 仕事が多様化すると同時に住み慣れた集落を後にする人たちが増え、昭和50年ころまでに数戸減った。
 昭和60年の新幹線開業、新駅の設置、住居区域や周辺の空き地に住宅が増え、戸数が急増し、集落の戸数も50戸まで増えたが、最近は目立って増えなくなっている。
 この頃では、農家戸数も激減し専業農家も数戸のみ。
 この間の戸数は10戸減って新しく20数戸ほど増えて、現在は49戸。
 戸数が増えても人口は減っているから一戸当たりの家族数が少なくなり、少子、高齢化は激しく変わっている。

 話題の北海道、北東北縄文遺跡群 気の遠くなるほどの、長い間変わらない生活が続いたという、現代人より気持ち豊かに暮らしていたのかもしれない?

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「戦友・・」

2021-07-05 10:37:51 | いなか暮し

 里山に植えている梅が、今年大豊作、いっぱい実をつけた。
 数年前までは、人里を離れて、車も入れるので、適当に盗ってくれる人もあったが最近は御無沙汰の様子、間もなく色付きます、欲しい方はご自由にどうぞ、ただし、昨今、近くに熊が出没します。充分お気をつけて!!
 二回目のコロナワクチンを接種した。まずは一安心、集団免疫獲得するという接種率60%を一日も早く超えて、マスクなしで外出できる日が待ち遠しい。
 当地では後期高齢者の接種会場は元空港ビルを改装した交流会館で行われた。
 多くのスタッフの親切な誘導でスムーズに済ませた。
 広い空港ビルはびっくりするほど、お年寄りがいっぱい。
 沢山のお年寄りも幾分女性が多いような、・・75才以上と言えば昭和20年以前の生まれの戦中、戦前生まれ、昭和20年代の苦しい、貧しいころに小学を経験した人たち、それぞれにみんな頑張って生きてきた人たちである。
 みんな「戦友」ともいえる人たちでもある。
 「戦友」の皆さん、実に元気で、”まごまご”して、スタッフの手を焼かせるような方も見かけない、おしゃれしたおばあさん、背をまっすぐ伸ばして歩くおじいさん、おじいさんおばあさんと呼ぶのも申し訳ないほどだ。
 そして64東京オリンピックのころは花の20代、14インチの白黒テレビで興奮した人たちは2度目の東京オリンピックを心待ちしている。
 
 やがて始まる2020東京オリンピック、コロナに負けずに成功するように・・・

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