お世話になったお宅に、先祖様に線香をあげさせてもらおうと、彼岸に尋ねた。
お茶をいただきながら、「お宝」大好きを知る奥様が、こんなものが見つかったと見せてくれた。
古い古い新聞とかポスターが、土蔵の長持や母屋の古い箪笥の底に敷いてあったという、よくぞ虫にも食われずに・・・
訪ねた旧家は昭和30年代に大きな家を大幅に改造したので、古いものは全てかたずけ、整理処分されたものだと思っていたが「お宝」は残っていた。
昭和17年ころの新聞や、終戦前後、今から60年前の昭和38年には「電灯の下で正月を・・・」と言うニュースもある、その頃に電灯が点いたところもあったらしい。
10部余りの新聞やポスター、今の新聞に比べて字も小さく、老眼の進む身にはつらいので、全部、お借りして帰り、ゆっくり読みなおそう。
この手の古いものは大好きだが、手に余る、古いものにも手を焼いている。
住む人のない、我が家の母屋は築150年余り、住みよい小さな家に家人は移り、古い大きな母屋は空き家となり、古い什器や布団置き場となった。
40年ほど前にかやぶき屋根を鉄板葺きに変え、外回りを改装したので住むには何の問題もないが、昔の大きな家ゆえに、夏涼しい分、冬は寒いという欠点がある。
建築関係の人に見てもらったら「あと、100年は大丈夫」という太鼓判、とは言え空き家、いつかは片付けないと・・・
解体業者に見てもらったら「700万もあったら・・・」と。
新しく作るのならともかく「無」にするために数百万は 悩める話である。
古いものは見せてもらって楽しませてもらえば十分、「お宝」にならない、古い大きなものは手に余る。
敬老の日も近いというのに、早池峰三山、早池峰、中岳、鶏頭山よりも大きな入道雲が今日も現れている。
その② おばあさんの巻
どういうグループだったか、覚えていないが、私のおばあちゃんと、おじいさんグループだったから、多分、地区の老人クラブだったかもしれない。
小柄で活発なおばあちゃん、逆算してみたら当時72才、おじいさん達はそれより下の60代、この人たちが老人クラブとは、現代では考えられないが、当時、60年近く前の平均寿命は女性は74才、男性はまだ70才に届いていない。
一行は、多分、バスで、早池峰山ろくの、岳集落に着いた。
一人だけの女性参加、おばあちゃんは「私は女だから、東のお山には登れない」
明治の人だから女人禁制はかたくなに守る。
年長のおばあちゃんの言葉に、本音は早池峰山に登りたかったろうが、グループは納得して鶏頭山に向かった。
カメラも貴重な時代、記念写真がないのが残念。
老人クラブ、御一行様は良く歩いて、夕方のバスで無事に帰った。
当時、高校2年か3年の私が、どんな、いきさつで、老人クラブ一行の鶏頭山登山の案内をしたんだろう。
おそらくは、勉強そっちのけで、毎週のように山登りしてる孫を自慢したくて、おばあちゃんが老人クラブ仲間を誘ったに違いない。
そんなおばあちゃんは82才で、一緒のおじいさんたちも長生きして、そのうちの一人のおじいさんは100才まで生きた。みんな元気なお年寄りだった。
おばちゃんの亡くなった、年齢に近づきつつあるが、まだ、時折早池峰山に登る。
健康、体力、おばあちゃんが守ってくれているのだろう。
毎年、この時期、敬老の日が近づくと、自分を棚に上げて、年寄りのことが思い出される。
その① おじいさんの巻
近くを走る、JR釜石線が、10/10に全線開通70周年で記念のラッピング列車や、津軽、大湊線を走る、人気の「リゾートあすなろ」の記念運行をするという。
70年前、近くの矢沢第二小学校では、子供たちが、紙にお椀を伏せて丸を描き、その丸に、赤いクレヨンを塗って日の丸を作り、2㌔ほど離れた、花巻から三つ目の小山田駅に行った。
当時の小山田駅は駅員さんが何人かいて、ホームには手入れの行き届いた、植木がいっぱいあり、植木越しに、三郎堤の水面が光っていた。
きれいに飾りつけのされた汽車に、一生懸命に日の丸を振った。
現在の小山田駅は、おしゃれで、ちっちゃな駅舎が人気。
おじいさんは、その列車が通る10日ほど前に亡くなった。
「大きな汽車を見ないでしまった」、と大人が話していた。
タバコは好んだが、酒は飲まず、その分、甘いものが好きで、物のない時代、「おばあさんには内緒だよ」二人で砂糖を舐めた事、
掃除好きで、家の周りに雑草はおろか、落ち葉一つこぼれていたことはなかった、キャラの生け垣は、いつもきれいに手入れされ、 今でいう環境美化?・・で、表彰された事もあったように記憶している。
まじめで、几帳面、怒ることもなく、ひたすら孫の成長を願って、62才でなくなった。
穏やかで、優しく、面倒見の良かった、おじいさんに菩提寺の住職は
「積善院治徳良道禅居士」 戒名をつけてくれた。
酒飲みで少々生臭の和尚さんだったが、よい戒名だと感謝している。