携帯歴10余年、退職した頃、御用済みかと思いつつズルズル持ち続けてしまった。メ-ルやカメラは子供だましと思っていたがメ-ルは産直の売上状況を刻々と伝えその状況を見ながら明日の出荷準備をする。心機一転携帯メ-ルに挑戦した。
細かい字の説明書に悪戦苦闘、冬眠中の頭に良い刺激を与えた。
携帯からの投稿、第1号は農業生産者研修に参加している会場から。春の農作業に向けて動き始めた。※写真 研修会場、盛岡 繋温泉 ホテル「紫苑」からの夕焼けの岩手山は美しい。これから懇親パーティ 頑張るぞー!
祖母は明治22年生まれで若い頃に機織(はたおり)を習ったことがあると聞いたことがある。その昔、 近所のお母さん、おばあさんを集めて機織を教えていた。
現在のように欲しいものが何でも手に入る時代ではなかったから生活必需品は手作りが多い。麻(大麻は今は栽培ご法度)を植えて2~3mほどの丈になった頃、刈り取って良く乾かしてから水に長く漬けて表皮を剥す。皮を剥がれた芯は乾燥させて茅葺屋根の乾燥、通気性に優れた断熱材となる。 ※写真 オガラ(麻の芯) 一方剥ぎ取った皮は薄く延ばして繊維だけを残しその繊維が撚られて麻糸になり※写真右下 糸車 紺色に染められ農作業衣となる。
通風が良く乾きが早いので午前の作業が終わったら洗って干す、午後の作業はもう乾いている。「ヌノモモヒキ」を履いて藁で二ヶ所締めると気持ちも新た・・・・その姿は東和町館迫のあの百姓踊りである。農家の女性は「ヌノモモヒキ」だけではない。着古した色とりどりの衣類を細く 「裂」いて横糸にし「裂き織」を作る。観光地の民芸品としてではなく暮らしの実用品として「裂き織」でコタツ布団を作る。
新調して色鮮やかな、おろしたてのコタツ布団は正月や「お振る舞い」から利用する。子供心に晴れがましさを感じた 覚えがある。
※「裂き織」のコタツ布団地 左 「裂き織」のコタツ布団は作る人の感性、感覚で出来栄えが微妙に違う。
祖母は機織をしながら小声でつぶやくような唄うような仕草をしていた。思えばあれは色や糸の数を数えたり仕上がりを頭に浮かべていたに違いない。
知人に珍しいといわれて「裂き織」を差し上げたことがある。彼はこれは芸術品だと言って立派な壁飾りにして貰ったことがある。
そんな祖母の「裂き織」はコタツ布団だけに留まらず帯地まで作り上げていた。 ※写真
子供四人の内、戦死含む三人の子供と夫、おじいちゃんを戦中戦後に亡くし「子供の年を食って生きる」と言って孫の私の成長を楽しみに生きたおばあちゃんは生きていれば今年117才、もう30年程前に亡くなった。
※写真 栗駒山の紅葉
「美しい国 日本」ならぬ「キレイな日本」
より便利、快適、清潔な「キレイ社会」は私たちの体に住んで体を守る皮膚常在菌や腸内細菌までも排除し結果としてアトピーや喘息などのアレルギー疾患を発生させた。
虫も食べない「キレイな野菜」を殺菌、殺虫剤を使って作り、いつまでも「腐らない食品」は防腐剤が多量に使われ「便利さ」を追求して多量の食品添加物を利用し今では添加物のための添加物まで現れ食の化粧品とまで言われている。
朝食を食べない中高生は8.7%、30代男性では23% 20~60代の男性肥満は増加の一途で30% 3人に1人 お酒は日本酒にして3合以上飲む人は5.3%(これは理解できる・・・・・)
現代農業 12月号を参考にさせていただきました。
そして運動不足、牛乳や乳製品のカルシュームを多く含む食品の摂取量は年々減る一方 「キレイ社会」「不健康な生活」日本の平均寿命はこのまま伸び続けられるだろうか
今、ペコちゃん(不二家)がみんなに怒られている。期限切れ、工場のネズミも悪いがポコンと出た自分のポコちゃん(お腹)を見直してみたらいかが。
※写真 熊本菊池神社 菊池武光公像
集落には菊池姓が多い。そのルーツには興味を抱いてはいたが、いまいちわからずにいたが群馬県在住の菊池一族の末裔 入内島一崇氏の著書「遠野 菊池党」でまさに目から うろこ。「岩手の頑固親父」は大きな感銘を受けた。
藩命で金山開発を手がけた平清水駿河氏の流れだという。娘婿が豊臣に組したため連座して切腹。知行、家名、財産没収 その遺族は遠野、小友から和賀郡、石鳩岡に蟄居を命ぜられた。
切腹した駿河の菩提を弔うために鋳造した十一面観音(重大なヒント)を祀り住居兼用の小堂を建て参拝者からの寄進によって糊口を凌いで十余年、蟄居を解かれた駿河の孫が土沢に下り曹洞宗、浄珠院に旅装を解き孫、三人は身の振り方を話し合った。
長兄(武栄)は石鳩岡に戻り土着帰農、次兄(武胤)は前郷の知人宅に身を寄せ士分復帰を目指し、三弟(重知)は下小山田に帰農した。士分復帰を目指した次兄、武胤はその代で目的を果たせずその子、才気溢れる長子 重広に士分復帰の道を模索するよう厳命し亀ヶ森(川原田系)に住まわせた。
重広とは反対に穏和な性格の次男武治は安穏な人生を過ごさせるべく矢沢村に田畑を求めて土着帰農させた(百目木系)。
三男武綱(後の光矩)は父武胤の命に従い士分復帰を目指し(川端系)を興す。
後の各系統は活躍、業績は非常に多く亀ヶ森系に至っては海軍中、大将を輩出し畏れ多いことに皇族方にも繋がっている。昔の事とはいえ切腹、お家断絶の憂き目に遭ったその遺族がどうして地方有数の豪農、文化人を輩出したかは・・・・・・同書をお読みいただきたい。
すばらしい物語が展開する。
中国が進める西部大開発の水資源確保のため森林減少に歯止めをかけようと青海省、西寧の山間部の貧しい楽都県で「退耕還林」(耕地の森林化)が安い補償金を払って進められていると去年(’06)夏の新聞で見かけた。
日本では昭和30~40年代、食糧増産を目ざして大規模に里山を崩して水田が拓かれた。
しかし40年代半ばにはもう米が余り始めて作付を制限する減反が始まった。いらい40年余、ほぼ毎年米が余り続け現在では減反、転作は30~40%あまり。
減反も当初は手厚く保護されたが次第にあの手、この手でその保護は超、薄くなり耕作放棄も増えつつある。
麦や大豆を作付ける転作の集団化うんぬんも水はけの良くない条件下では大方、採算が取れない。農村部の高齢者は自分の代だけは守りたいと年金を注ぎ込んで田んぼを守っているのが現状、これでは次の代は見放すに違いない。
転作や耕作放棄して水は使わないのに田んぼの水代として土地改良区の賦課金はいつまでも、しつこく追いかける。
若者に田んぼは要らない、棄てたいといわれる由縁でもある
願わくは、せめて山間部に拓かれ作業が厳しく荒廃が進む田んぼは
「退耕還林」して改良賦課金なる水の代金の呪縛から逃れたいものである。