岩手の頑固親父

恵まれた自然、環境に暮す 老農のつぶやき、ぼやき

一族意識

2016-07-19 18:14:01 | 日々の暮らし

 我が一族の遠い祖先は南朝に召されて熊本から奈良へ、奈良から八幡丸良尹王を守護し石巻を経て山田の船越に上陸、やがて遠野に至ったという。
 時代は下って、遠野在で金山奉行を務める 平清水駿河(本姓菊池)は花巻城、北秀愛の養子北十左衛門に娘を嫁がせた。
 十左衛門は後に、秋田鹿角で金山を発見し、金山奉行として初期の南部藩の豊かな財政つくりに貢献したが慶長19年(1614)突然藩内から姿を消した。
 十左衛門は姿を消して西へ向かう途中、その頃江戸詰めの義父に会うために立ち寄った先で義父から鶴の吸い物で接待を受けた。
 大坂冬の陣に至って、十左衛門は南部十左衛門信景と名を変えて豊臣に味方したが、のち捕えられ主家に背いたとして盛岡藩二代南部利直により酷刑に処され、西に向かう途中立ち寄った先で鶴の吸い物で接待した平清水駿河は同罪とされ切腹した。
 その妻と遺児3人は所払いとなり草深い東和町石鳩岡に移り住んだ。
 持参した十一面観音の僅かのお賽銭で糊口をを凌ぐこと15年余、里に下り浄珠院に草鞋を脱ぎ、それぞれの道を選んだ。

 長兄は石鳩岡に戻り土着帰農、三男與右衛門は下小山田館地区に、次兄次郎右衛門は前郷の知人を頼る。
 浄珠院の過去帳には土沢、菊池の租(松林院春陽浄正居士 寛文九年 三月四日)と記されているという。

 次郎右衛門種胤の三人の子、長兄、平清水孫八郎重広は亀ヶ森、次兄 治兵衛武治はその優しい性格から矢沢に分家、矢沢村次郎ェ門 我が一族の本家初代となる。
 頭脳明晰な三男次郎衛門武綱(改 光矩)は士分を取り戻すべく本家を構えた。 「入内島一崇著 遠野菊池党」

 3人の兄弟は別れの時、後世所在が不明にならないようにと各々、代々に渡り玄関先には柳の木を植える約束して別れたと言われている。

 そして現代・・・・苦難を強いられた先祖のDNAを継いだせいだろうか、当地に暮す我が一族は一族意識が高い。そのせいもあって集まって飲む、機会が多い。
 夏、恒例のバーベキューは大本家宅に集合、30人余の一族が集まってビール、焼き肉・・・・・時には真剣な話し合いも。
  楽しい催しの主役はやっぱり子供 スイカ割、花火に歓声・・・・・

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