橋長戯言

Bluegrass Music lover, sometimes fly-fishing addict.
橋長です。

EHAGAKI #427≪文七元結≫

2022年09月02日 | EHAGAKI

COVID-19は相変わらず
パッとしない話題ばかりですが
そんな中では尚更に「善意の話」が気になります


そして善意の裏を探ってみたりと
修行が足りないコトをしてしまいがちですが

「利他」という言葉を調べると
他人に利益を与えること。
自分を犠牲にして、他人のために尽くすこと。
人々に功徳(くどく)、利益(りやく)を施して救済すること。
と出て来ます

さて、今回のお題は
4月に「料理と利他」EHAGAKI #421で取り上げた
土井善晴さんとの対談相手である中島岳志さんの
「思いがけず利他」であります

読むと落語、立川談志の話が多くを占めておりました

思いがけず長文になってしまいました
(いつもですやん)

参考図書)
「思いがけず利他」
中島岳志:著(ミシマ社2021/10/25)
https://amzn.to/3AGHB43

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇◆


「利他」には独特の「胡散臭さ」がつきまとう
利他的行動に積極的な人に対し
「意識高い系」という言葉が揶揄を込めて使われたり
「偽善者」というレッテルが貼られたりすることもある

しかも
利他行為の「押し付けがましさ」は
時に暴力的な側面を露わにする

誰かから贈与を受けたとき
うれしい

お返しをしなければならない、という負債感

あげる人、もらう人、という上下関係
「支配」「被支配」の関係

利己的な利他?
利他には様々な困難が伴う
偽善、負債、支配、利己性
利他的になることは、簡単ではない
しかし
自己責任論が蔓延し
人間を生産性によって価値づける社会を
打破する契機が「利他」には含まれている

「利他」を考える際、核心に迫っている落語の噺がある
「文七元結 ぶんしちもっとい」
明治中期に三遊亭圓朝が創作した
明治政府の多数派である薩摩・長州出身者に対して
「江戸っ子気質」を提示した噺と言われている

◆ 「文七元結」あらすじ

腕のいい左官職人の長兵衛
しかし、あるときから博打にはまる

妻のお兼と娘のお久は、貧困生活に
家財道具や着物は、大概売ってしまう
それでも長兵衛は博打をやめない

ある日
長兵衛が博打を終え帰る
お兼が「お久が昨晩からいない」と

そこに吉原の「佐野槌」という店の番頭が来て
「お久さんはうちへ来ています」と

長兵衛はお兼の身につけている着物を借り、吉原に
すると
佐野槌の女将が出てきて、長兵衛に説教

せっかく腕のいい職人なのに
博打ばかりして家族を困らせている
時に暴力まで振るう

お久は吉原に身を沈めることで
お金を作ろうとしている
「長兵衛さん、悪いと思わないのかね、どうする気なんだね」

女将は提案する
五十両を貸す
真面目に働き、来年の大晦日までに返しに来ること

それまでお久は自分が預かり、諸々手伝ってもらう
もし、返せなければ、お久は店に出す
「どうする長兵衛さん、性根据えて返事をおし」

長兵衛は女将と約束し、五十両を受け取る
そして、女将に促され、お久に礼を言う

威張っていた父が、自己の不甲斐なさを突きつけられ
娘に頭を下げる


店を出た長兵衛は、帰り道を急ぐ
そして
吾妻橋にさしかかったところで
若者が川に身投げをしようとしている
長兵衛は慌てて若者を抱き抱える

近江屋の奉公人の文七は
売掛金の五十両をすられてしまい
絶望のあまり大川へ身を投げようとしていた

ここで長兵衛は苦しむ
懐には先ほど借りたばかりの五十両がある
これを若者に渡せば、彼の命を救える
しかし、この五十両はお久が作ってくれた
これを手放してしまうと、借金返済は不可能に

長兵衛は悩み抜いた末、五十両を差し出す
そして
大金を持っている事情を話し

娘が客を取ることになっても悪い病気にかからないよう
「金比羅様でもお不動様でもいいから拝んでくれ」と言う

そして五十両を投げつけて、その場を去る
文七は五十両を手に近江屋に戻ると
盜まれたと思っていたお金が届いており
取引先に置き忘れてきたことがわかる
文七は動揺する
そして
吾妻橋での出来事を主人に打ち明ける

主人は五十両を差し出した男に感銘を受け
番頭を使って探し出す

やっとのことで
家を突き止め、文七と共に五十両を届けに行く

「いったん人にやったものは受け取れない」と渋る長兵衛
なんとか五十両を返却した主人は
表に声をかける
すると
そこにはきれいに着飾った娘のお久が立っている
五十両を佐野槌に渡し
着物を買い与え、お久を連れてきていた

「お久が帰ってきた」

と長兵衛が言うと
着物を長兵衛に貸して裸のままのお兼が飛び出し
親子三人、その場で抱き合い涙を流す

その後
文七とお久は結婚し
「文七元結」という小間物屋を開業した

◆五十両と共に起動する「利他」

父を助けようとする娘
長兵衛を助けようとする女将
文七を助けようとする長兵衛
そして近江屋の主人
利他的贈与が連鎖し、五十両が循環し
皆に幸福がもたらされる

重要なことは長兵衛が
根っからの善人や
規範的な人間ではないということ
むしろ
博打に明け暮れ、家族に暴力を振るうような人間

そんな長兵衛が
大切な五十両を、たまたま出会った若者にあげてしまう
しかも
名前も告げずに去る

◆その動機は何なのか

【解釈A】「文七への共感」
近江屋にとって大切な五十両を、自分の不注意で盗まれた
主人に申し訳が立たない
この文七の「主人への忠義」「正直さ」
「まっすぐな生き方」に長兵衛が共感した

【解釈B】「江戸っ子の気質」~なかなか説明がつかないが
「俺も江戸っ子だ」
「見殺しにしては目覚めが悪いから」と
あえて明確な理由を提示しないが「江戸っ子」の
気風を表現する

◆三代目古今亭志ん朝
 ~【解釈A】と【解釈B】を重層的に語る
長兵衛は五十両を差し出す寸前に、ふと
「ばか正直なんだな、てめえは」
と漏らす

ぶっきらぼうな言い方で、青年の純粋さへの共感が
さりげなく示される

長兵衛が文七の人柄に惹かれ
何とかして、誠実なこの青年を助けたい
という意志を持っていく様子
これが【解釈A】の部分

一方
長兵衛は「黙って帰ると格好がつかない」と言い
五十両の受け取りを拒否する文七に対して
「一度出したものを引っ込めるわけにはいかねぇ、持ってけ」
と突き放す
これは【解釈B】の部分

志ん朝は【解釈A】と【解釈B】を巧みに織り込み
あっという間に長兵衛と文七の人物像を浮かび上がらせる
さすが名人

◆立川談志
 ~明確な【解釈A】の欠如

「江戸っ子だ、言ってみろ」
「江戸っ子だからな」と語り
「江戸っ子気質」が繰り返し強調

そして
「吾妻橋を通った俺が悪いんだから」と
偶然生や運命を贈与の理由にする

自分に対し
「何か言え、畜生」
「あーっ、あーっ」と逡巡し
さんざん苦悶したあげく、仕方なく
「五十両やろう」

談志は夜の吾妻橋に、霧をかける
すべてが霧の中で展開する
つまり誰も見ていない
長兵衛の行為を誰かが見て「あいつはえらい奴だ」
といったような社会的評判になることはない

談志曰く
世の中、これを美談と称し
長兵衛さんの如く生きなければならない
などと喋る手合いがゴロゴロしてる、大きなお世話だ

長兵衛の贈与を「美談」とすることを拒絶する



◆共感の危うさ

「共感に基づく利他」
通常、利他的行為の源泉は、「共感」にあると思われている

「頑張っているから、何とか助けてあげたい」
「とってもいい人なのに、うまくいっていないから援助したい。
そんな気持ちが援助や寄付、ケアを行う動機づけになる

他者への共感、そして贈与

コロナ危機の中でも
窮地に陥おらいった人たちへの贈与は
様々な共感の連鎖があった
とても意味のあること

しかし
共感が利他的行為の条件となったとき
日常的に他者からの援助・ケアが必要な人は
どのような思いに駆られるか

「共感されるような人間でなければ、助けてもらえない」

人間は多様で、複雑
コミュニケーションが得意で
自分の苦境を語ることができる人
逆に
他者に伝えることが苦手な人もいる
笑顔を作ることも苦手
人付き合いも苦手
だから
「共感」を得るための言動を強いられると
そのことがプレッシャーとなり
精神的に苦しくなる人は大勢いる

そもそも
「共感される人間」にならなければならないとしたら
自分の思いや感情、個性を
抑制しなければならない場面か多く出る

「こんなことを言ったらわがままだと思われるかもしれない」
「嫌なことでも笑顔で受け入れなければいけない」

一方で
感情をさらけ出すことにより共感される人もいる
こうなると
感情を露わにしなければならないという
「別の規範」が起動する

そうすると
「自分をさらけ出さないと助けてもらえない」
 という新たな恐怖が湧き起こる

「共感」は当事者にとって
命にかかわる「強迫観念」になる

◆「人間の小ささ」を大切にする

さて、談志

長兵衛の利他行為から
文七への「共感」をそぎ落とした談志は
五十両を差し出す動機づけを、どう捉えたか

談志の落語の定義は
「人間の業の肯定を前提とする一人芸である」

要は「業の肯定」
人間のどうしようもなさを肯定することで
救いをもたらすのが落語

人間というものは眠くなれば寝てしまう
飲むなと言っても飲んでしまう
そういう深い欲望(すなわち業)というものを
一切合切認めてしまっているのが落語

例えば忠臣蔵

講談
忠臣蔵の主題は「成せば成る」
講談は討ち人りをした人たちの忠義を描く
人間の格好良さを描くのが講談

落語
討ち入った四十七士はお呼びではない
逃げた残りの人たちが主題となる
そこには善も悪もない
良いとか、悪いもとか言わない
ただ「あいつは逃げました」「彼らは参加しませんでした」
と言ってる

「つまり、人間てなァ逃げるものなのです」
そして
「その方が多いのですョ」
そして
「その人たちにも人生があり、それなりに生きたのですョ」

人間の業を肯定してしまうところに
落語の物凄さがある

家族もあれば生活もある
討ち入りをして、自分が死んだらどうなる

人殺しも切腹も怖い
死にたくない
だから逃げる
逃げて生きていく
生き延びて、やがて名も残さず死んでいく

そんな選択をした人間の人生を
肯定するのが、落語の物凄さ

人間は愚かで間違いやすい
時に誘惑に負け、身を持ち崩すこともある
しかし
人は世の中と折り合いながら、たくましく生きていく

そんな
人間のどうしようもなさを肯定するのが落語

これは
無秩序や無規範の肯定とは異なる
むしろ逆
人間の愚かさを見つめることで
良識や良心の重要性があぶり出されるのが落語

人間は小義にこだわる

落語のなかには
人生のありとあらゆる恥かしさのパターンがある
落語を知っていると、逆境になっても
そのことを思いつめて死を選ぶことにはなるまい
と談志は言う

卑小なる人間の「業」を見つめ
温かく包み込むことで存在そのものを肯定する
「いのち」を抱擁する
人間の不完全性を容認し、大らかなまなざしを向ける
そのことによってこそ、人間は救われる


◆落語と人情噺

人間には
「いいことをやってしまうという業」がある
それが人情噺

談志は次のように言う
「なら、良いこと、立派なことをするのも業ですネ」
と言われれば
そうだろう、ではあるものの
そっちの業は、どっかで胡散臭い
そして
「それは違うなァと、若き俺様はどこかでそう感じ
そのまま今日まで生きてきた
そのギャップに生きている。とも言える」

このギャップは、「文七元結」において頂点に達する
談志は、生涯を通じて
「文七元結」を人情噺とすることに疑問を持つ

それは落語と人情噺の差
「人情噺」とは、一体何を指すのか

◆「業の力」が長兵衛に五十両を出させた

そうでなければ、
「落語は業の肯定」という談志の卓越した定義が破綻する
ここに「人間の業」と「仏の業」が同時に働いている

ここに落語の凄みがある
どうしようもない人間を単に肯定しただけでは
落語を聞いたあとの余韻を説明できない

どうしようもない人間のどうしようもなさを
聞くことで、私たちはなぜ救われるのか
なぜ世界を温かく抱きしめる感覚を抱くのか

ここに深いレベルでの世界への信頼があり
救済がある

「たった一つだけの頼み」
「文七元結」の重要なポイントは、長兵衛が文七に言った
「たった一つだけの頼み」にある

長兵衛は五十両を差し出し
自分が大金を持っている事情を説明したあと
「だったら頼みが一つある」
「金比羅様でもお不動様でもいい。拝んでくれ」
と言う

談志は、そんな噺を落語の範疇に入れることを拒否した
しかし
人情噺の代表作と言われる「文七元結」を、何度も演じ続けた
それは「文七元結」が
単なる「いい話」に留まらない
「何かを表現している」と確信していたから

自分はどうしようもない人間である
そう認識した人間にこそ
合理性を度外視した「一方的な贈与」や「利他心」が宿る
この逆説こそが
談志の追究した「業の肯定」ではないか
つまり
人間の力を超えた「浄土の慈悲」であり
「仏の業」だったのではないか

◆親鸞は、次のように言う

人間は仏に照らされ、自己の愚かさに気づく
この「悪」の認識を持つことで
他者への「懇ろ(ねんごろ)の心」を抱くようになる
親身になって相手に接するようになる

仏の業に導かれた逆説の中に、利他的行為が発生する
親鸞は、そんな人間の摂理を見つめた

自己がどうしようもない人間だ
という認識を持った人間こそが
他者に親身になることができる
世界を愛することができる
落語を抱きしめることができる

いや
その瞬間に、世界に抱きしめられている
そして、落語に抱きしめられている
ここに現れるのが
いのちへの根源的な共感であり
そこにやって来るのが仏の慈悲

他力に押されて行う行為こそが、利他
そこにのちの幸福との因果関係は存在しない
それは因果の外部にある行為であり、理屈のつかない行為

単独で「利他」という観念が成立しているわけではない
大きな世界観の中で、無意識のうちに
不可抗力的に機能しているもの

「利他」が「利他」と認識されない次元の「利他」

長兵衛は、霧の吾妻橋で
そんなところに立っていたのではないか

◆談志の晩年

談志は高座で
「このあと演りましようか」
と言って創作した噺の続きを演じる


「なぁ、おい、お久も文七も幸せでいいなァ」

「でも、前から言おうと思ってたんだけど
あれ、金が見つかったからよかったけど
金が見つからなかったらどうするつもりだったの」

「そうだよな」

「でも、あそこで金をやっちゃったってのが
俺の最後の博打だったんだなァ、うん」

「あれば、ちんたらちんたら使っちゃって、なくなってたんじゃねえかな」
「裸になって分かった」

とサゲる
そして、次のように言う

「こう付け加えることによって
落語にリアリティを入れたというか、人情噺という作り話に対して
槍を一本入れたつもりだったんだがネ」

この解釈では、筋道がつきすぎる
最後の 「だがネ」
未完結性と余韻が残される

つまり談志は、まだ納得していない

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇◆

ということでした

長くなってしまいました
この本に書かれているコトと
違う解釈になったかも知れません

答えは風の中、ですかね

皆様におかれましても
心の栄養補給は怠らない様ご自愛下さい