橋長戯言

Bluegrass Music lover, sometimes fly-fishing addict.
橋長です。

EHAGAKI #359 ≪ご当地資本主義≫

2018年11月29日 | EHAGAKI

お世話になります

11月29日、本日発売の新刊を買いました
当日、スマホで目にして何となくポチっと

鎌倉資本主義
ジブンゴトとしてまちをつくるということ
柳澤 大輔 (著)

そして何かで小耳に挟んだ、多分昔読んだハズ?の
本を読み返しました

筒井康隆が1968年に書いた「にぎやかな未来」という
ショートショート(文庫本 1972年)
50年前に未来を描いたSFです
(以下、最後の決めセリフ以外はコピペの無い様に表現しました)

◆ ◆ ◆ ◆

未来のある日

ゆっくり音楽を楽しもうとラジオをつける
30秒音楽が流れるとCM
その繰り返し

イヤになって外に出る
外も宣伝だらけ
レコードを配っている
当然そのレコードは宣伝だらけ

※橋長所感
流石の筒井康隆さんもレコードの未来はここではスルー?

そこへ政府の宣伝カー

「政府は公共放送のCM料金を値上げします
ラジオは一日中付けっ放しにしてもらいます
うるさいからとスイッチを切ると犯罪です、罰します
尚、レコードを聴く場合はラジオを消してもかまいません」

これはえらいことになった

では
静かなクラッシックなんかのレコードを聴こう
とレコード屋へ

108円! 安い
かけてみて
お、静かないい曲
が、またもCM

どうしてCMが入ってるんです?

スポンサーが付いているから安いんです
216円なら30秒に一度
324円のレコードなら1分に一度
540円なら5分に1回CMが入ります
それでも、ラジオよりましなんで売れてますよ

CMの入らないレコードは無い?

あります

How mach ?

108,000円

え!、ど、どんな曲が入ってるん?

何も無し、無音!

レコード屋はしたり顔で

「 現代でもっとも高価なものは、静寂です」

◆ ◆ ◆ ◆

という50年前のお話し
CMに関してはほぼその通りになってしまってます

で冒頭の新刊は「鎌倉資本主義」
今回はその一章
Part 1 のみご紹介お世話になります
もくじ(・)とコメント(◆)です

◆ ◆ ◆ ◆

Part1 資本主義が面白くなくなった? 

・日本中が東京にならなくてもいい 

◆判断基準は「面白いか否か」

東京は素晴らしい、が何処もが東京では面白くない
多様性が認められる社会が面白い

一社一社が地域が特徴をもつ
問題点は、地球環境汚染と富の格差の拡大
GDPという指数を国しばりで全体として見る傾向がある
それでいいのか?

・ジブンゴト化すると面白くなる

◆自分ごと、にすると面白い
「面白い」には人を動かす力がある 

・GDP以外にもモノサシを持とう 

◆GDPに変わる、あるいは補足する指数が必要
それは地域コミュニティに関連したものではないか

・「地域資本」という考え方 

◆3つの資本
地域経済資本~財産や生産性~お金
地域社会資本~人のつながり~持続可能
地域環境資本=自然や文化~持続可能

それが「鎌倉資本主義」

Part2 何をするか?誰とするか?どこでするか? 
Part3 なぜ人はカマコンに夢中になるのか?
Part4 鎌倉資本主義をかたちにすると?
Part5 地域資本主義はどこにいくのか?

◆ ◆ ◆ ◆

ということでした

続きは次回ということで
CMに影響されている私が紹介するのもなんですが


参考)
2017年の一人当たりのGDP( = GDP ÷ 人口)

1位:ルクセンブルク(ヨーロッパ)    
2位:スイス (ヨーロッパ)    
3位:マカオ(アジア)    
4位:ノルウェー(ヨーロッパ)    
5位:アイスランド (ヨーロッパ)
6位:アイルランド (ヨーロッパ)
7位:カタール(中東)    
8位:アメリカ(北米)    
9位:シンガポール(アジア)    
10位:デンマーク (ヨーロッパ)  
11位:オーストラリア(オセアニア)    
12位:スウェーデン (ヨーロッパ)
13位:オランダ (ヨーロッパ) 
14位:サンマリノ (ヨーロッパ) 
15位:オーストリア (ヨーロッパ)
16位:香港(アジア)    
17位:フィンランド  (ヨーロッパ)
18位:カナダ(北米)    
19位:ドイツ (ヨーロッパ)
20位:ベルギー (ヨーロッパ)
21位:ニュージーランド(オセアニア)
22位:イスラエル(中東)    
23位:フランス (ヨーロッパ)
24位:イギリス (ヨーロッパ)
25位:日本(アジア)    
26位:アラブ首長国連邦(中東)
27位:バハマ(中南米 )
28位:イタリア (ヨーロッパ)
29位:韓国(アジア)    
30位:スペイン (ヨーロッパ)

ではまた


EHAGAKI #358 ≪静的理屈と動的理屈≫

2018年11月09日 | EHAGAKI

お世話になります

人間関係、難しいですよね
いろいろあります

まさにそれは一人一人が違うから難しい
結論なんて出ない問題かも知れません

これが「会社」となると話を単純化して語る傾向が
ある、と愚考します

そして「国」となると、
さらに単純化してしまっているのでは無いでしょうか

「大きな主語を使うヤツは信用ならない」
と誰かの話を薄っすら覚えています


さて、今回のお題は「静的理屈と動的理屈」
前回と同じくラジオで紹介→電子書籍kindle版サンプルを読
というパターンであります

文化放送、朝の「ザ・ニュースマスターズ」で紹介された
「スッキリ中国論 スジの日本、量の中国」田中信彦著
サンプルからであります

 ◆ ◆ ◆ ◆

中国の日系企業「あるある」の類の話なのだが、
例えば、オフィスと社員食堂をつなぐ通路があったとする。

昼休みの前後など、かなりの人がこの場所を通るので、
通路の幅は結構広くて、余裕のあるつくりになっている。

ある日、日本人赴任者の田中さん(仮名)が
その通路を通りかかる と、
その真ん中に4~5人の中国人従業員が立ち止まって談笑している

話が盛り上がって、とても楽しそうだ。

先に述べたように通路の幅はそれなりに広いので、
この従業員たちが立ち話をしていても他の人は十分に
横を抜けて通ることができる。

道をふさがれて通れない状況では全然ない。
こういう場面があったとして、
皆さんはどうお感じになるだろうか?

田中さんの発想はこうである。

「ったく、こいつら鬱陶しいなぁ。
通路ってぇのは、そもそも通るためのところであって、
立ち話をする場所じゃあねえんだ
通れればいいってもんじゃあねえんだよ」

これが「べき論」発動の瞬間である。

日本人の「相場観」からすれば、まず問題になるのは
そもそも通路とは何か、という「スジ」である。

自分や他の通行人がその場所を
「通れるか、通れないか」はほとんど関係がない。

立ち話の一団が、誰かの邪魔になっていよううがいまいが、
そんなことはどうでもいい。 

「通路で立ち話をしている段階で
すでにアウト、なのである。


一方、通路に立って立ち話に興じている中国人従業員たちの
思考はそうではない。

普通の中国人の頭の中にある判断のメカニズムは
「量」を基準に回っているので、
「いまこの通路で仲間と話をした い」
との欲求が頭をもたげてきた時、
そこで行動に移すか、移さないかを判断する材料は

「他の人が通れるか、通れないか」
 「他人の通行に影響を与えているか、いないか 」
「影響を与えているとしたら、それはどの程度の影響か」

ということである。

つまり、自分たちがこの通路で立ち話をしたと して、
他の人が支障なく通れるだけの通路の幅(=空間の量)が
確保されているかいないかに、まず頭がいく。

そうはいっても……と感じる方がたくさんいると思うので
繰り返しておくが、これは「よい、悪 い」の話ではない。

言い方が妥当かどうかわからないが、
天然 に、天真爛漫にそういう見方をするのが
社会の「お約束」なのである。


この 「スジ」 と 「量」 がぶつかると、 どうなるか。

中国人側からすると、

自分が「通れる」十分な幅(=量)があるのに、
黙って通らずに異論を唱える田中さんの発想が理解できない。

「え?あなた、ここを通りたいんでしょ。通れるよね?
通ってく ださいよ。 他に何か目的があるんですか?」

という話である。


こんどは日本人側の見方をしてみよう。

「通路での立ち話」という状況を眼前にした時、
たいていの日本人は反射的に

「そもそも通路と は何ぞや」
という「原則論(スジ論)」がムクムクと頭をもたげてくる。

それは、そうなるように子供の頃から躾けられているからであ る。

そういうクセがついていて、
それができる人間が「優秀な人」であり、
その発想ができない人は「出来が悪い」
「しつけがなっていな い」と、社会から判定される。

一方、中国の人々は、同じく「通路での立ち話」を前にした時、
 「他の人が通れるか、通れないか」
「どのくらいの現実的影響がある か」などなどの、
「通路の幅」や「影響の大きさ」という
「量」を判 断する思考がムクムクと湧き上がってくるように育てられている。

だから、人が「通れない」ような状態で立ち話をする人には
もちろん文句を言うし、
中国社会でもマナーが悪い奴と判断される 。

同様に、どの程度なら人に迷惑にならないかを適切に判断し、
臨機応変な行動ができる人が中国社会の「優秀な人」 である。


判断基準が揃う日本、 バラバラの中国
さて、 この結果として社会全体ではどうなるか。

日本社会では、ある事象を前にした時、
誰が判断しても結論は同じになる。

「通路での立ち話」は日本人の誰が考えても、
いつでも、ど こでも、どんな状況下でも、
そもそもよくないことである。

そこ に判断のブレはない。

しかし、中国の社会は「量」を判断する思考だから、
通路にどのく らいの幅(空間の量)があれば
他人の通行に影響しないのか、各人 の判断にはバラつきが出る。

「幅が1.5mぐらいないと人は落ち着いて通れないよね」
と思う人もいれば、
「いや、50 ?もあれば人は通れる」という人もいる。

だから中国人は人によって判断が不揃いで、
みんな言うことが違う。

ここに日本人は戸惑う。
「規範というものがないのか、この国は?」である。 

かくて私も含む日本人は 
「中国の人が言うことはスジが通らない、 規律がない」
と、ストレスを感じる。

もともと「スジ」で判断する習慣を持たないのだから
それも当然で、このイラ立ちを多少なりとも 解消するには

「相手はスジではなく量で考えるんだ」
という現実を理解しておくしかない。

スジか、量か。

これは社会がそこに所属する人々に植え付ける一種の
「思考のクセ」とか「条件反射」のようなものであって、
そこに「よい、悪 い」の違いも、
「正しい、間違っている」の差も、
もともと存在しな いと私は思う。

だが、お互いに相手のことを、
「理解できない」「お かしい」と感じるのもまた
当たり前である。

相手が「人間として出来が悪く」見えてしまう問題は、
自分自身の慣れ親しんだ判断基準を
うまく運用できない相 手を「出来が悪い」
と思ってしまうことにある。

無理もないことでは あるが、
相手のことを「出来が悪い」と思っていたのでは
人間関係はうまくいかない。

日本人は自分たちが、ものごとを判断する際に
「通路とは通るところであって立ち話をするところではない」
という「普遍の原則」を基準にし、
それが(たぶん)世界人類共通の真理だと思っている。

だからそういう発想をしない中国人を 「出来が悪い」 と思う。

 一方、中国人は、その場の状況を的確に認識し、
どういう行動を取るのが最も合理的か
「今の状況下、他人が通路を通るための空間は
どれだけあったらいいのか」を瞬時に判断して、
臨機応変な行動をするべきだと思っている。

同じくそれが全人類普遍の真理だと考える。

だから、どんな状況であっても原則にこだわる日本人を、
頑迷固陋(がんめいころう)で頭の回転が遅い
「出来が悪い」人間だと思いやすい。


まあ、 なかなか難しいというしかないが、
要はお互いに悪意があるわけではないし、
もちろん双方とも 「出来が悪い」 わけではない。


「どういう角度からものごとを見るクセがついているか」
が違う「だけ」なのである。


 ◆ ◆ ◆ ◆

ということでした

固定された理屈と、動く理屈

日本人=「べき論」好き、「話にスジ が通っているか」を重視
スジが通っていれば損得勘定は二の次

中国人=「量」で判断、 「現実にあるのか、ないのか」
「どれだけあるのか」 という「量」 を重視

ということですね

ここに時間軸も加えて考えるべきなんでしょうか
複雑です、世の中は

ではまた


EHAGAKI #357 ≪思考の錯覚≫

2018年11月02日 | EHAGAKI

お世話になります

サンプルを読んだだけで、
もうその本を全部読んだような気になってしまい、
人に“解ったような口を利く” ってこと最近多くなってしまった
と反省しています

こういったことは「思考の錯覚」というモノらしいです

『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている
というタイトルの本  金1,620円也

今までなら絶対に手にとることもしなかった本

朝のラジオで推薦していたのでメモ
夜、覚えていれば検索
面白そうなら、図書館に予約
読む → 気に入ったら買う

というパターンの私

ところが最近は、電子書籍があり
無料サンプルで「1章ほど」は読めます

まぁ、タイトルに“人生”がついてる本
今まで敬遠していたのは間違いではなかった
と、思う次第です

お勧めはしませんが情報としそのサンプルを今回のお題とします
「錯覚資産」としてお納めください


 ◆ ◆ ◆ ◆

人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている
ふろむだ  (著) kindle版 サンプルより


1974年、カナダで選挙があった。 
その選挙を調査したところ、イケメンの政治家は、
そうでない政治家の2.5倍もの票を獲得していた。

イケメンたちの圧勝だったのだ。

そりゃそうだろ。
どんな世界だって、
美人とイケメンに人気があるのは当たり前だよ。

いや、ここで重要なのは、イケメンに投票した理由なんだ。

調査の対象となった投票者の73%は、
「私が彼に投票したのは、 彼がイケメンだからではない」
と思っていたのだ。 

「イケメンだから、投票しちゃった部分もあるかな」 
と思っていたのは14%にすぎない。

人々は、「イケメンだから投票した」という自覚なしに
イケメンに投票しただけでなく、「人柄が信頼できるから」とか
「経済政策に期待できるから」とか「実績があるから」とか、
容姿とは別の理由で、投票したのだと思いこんでいたのだ。

たまたまそういう結果になっただけだろ。

いや、 同様の研究は、 山ほどあるよ。

たとえば、「採用面接で、身 だしなみが、どのような影響を与えるか」
という研究がある。

その結果、
「仕事に必要な資格よりも、
身だしなみのよさのほうが採用決定に大きな影響を与えていた」

ということがわかった。

そしてここでも、 面接官自身は、
「外見は、 ほとんど採用決定には影響しなかった」
と考えていたのだ。

 つまり面接官は、「外見で採用したわけじゃない」
と自分では思っていたが、
実際は、外見で採用していたということだ。

どうしてそうなるの?

「容姿が優れている」という特徴が、
漠然と「その人間が全体的に優れている」
というイメージに変換されてしまう。

「全体的に優れている」という印象を持ってしまうと、
その政治家の政治手腕も、人柄も、政策も、
なにもかも優れているように見えてしまうわけだ。

ここで重要なのは、
「イケメン政治家の容姿に影響されて、
イケメン政治家に投票してしまったのに、
『イケメンだから投票したわけではない』 と言う人」 は
ウソつきでもバカでもないということだ。

彼らの「意識」は、たしかに容姿ではなく、
政治手腕、人柄、政策を見て、投票したのだ。

しかし、まるで夢遊病者のように、彼らの「無意識」が、
彼らの意識が知らないところで、
政治手腕、人柄、政策の評価値を
書きかえてしまっていたのだ。

彼らの「意識」は、いわば善意の第三者であって、
 ウソをついているわけではないのだ。

また、彼らはバカだから、そんな愚かなことをしたわけじゃない。

知能が高く、有能な人であっても、自分の無意識が、
自分の知らないところで、
勝手に脳内の評価値を書きかえるのを
防ぐことはできないからだ。

これは、脳のセキュリティホールなのだ。

どんなに超高機能かつ超高性能のシステムであっても、
セキュリ ティホールから侵入されたら、 やられてしまう。

「自分だけは大丈夫」と思っている人ほど危ない。

「人は見た目が9割」ってこと?

そうじゃない。

この現象は、容姿に限った話ではないんだ。


たとえば、2001年、9?11テロが勃発したとき、
ブッシュ大統領への支持率が急上昇した。

注目すべきは、このときブッシュ大統領の経済政策への支持率まで
47%から60%に上昇したということだ。

つまりこういうことだ。

テロが勃発したら、大統領のテロ対策の支持率が上がった。
すると経済政策への支持率まで上がったんだ。

有権者の脳内で、こういうことが起きたってこと?

テロ対策=優れている → 全体に優れている
 → 経済政策=優れている

そういうこと。

これは、「思考の錯覚」なんだ。

「目の錯覚」の場合、自分が錯覚をしている
とわりとすぐに気がっくことができる。

しかし「思考の錯覚」の場合、
錯覚をしていること自体に、 本人はほぼ気づけないのだ。

この世界は、思考の錯覚に満ち溢れている。

なぜなら、プラスのイメージを引き起こすものであれば、
なんでも「全体的に優秀」という
思考の錯覚を引き起こしてしまうからだ。

たとえば、

「売り上げを半期で73 %増やしました」 
「500万人のアプリのサーバを運用していました」
「株式会社凸凹商事の営業部長をやっていました」
「月間300万PVのブロガーです」 
「あの有名人のベストセラー本を担当した編集者です」

 なんていうわかりやすい実績は、
どれも「思考の錯覚」 を作り出す。

たとえそれが実力によるものではなく、
上司や同僚や部 下や顧客のおかげで達成できた
実績だったとしても
強烈な思考の錯覚を生み出すのだ。

もちろん、麻雀の強さでも、絶妙なタイミングのつっこみでも、
しゃれたジョークでも、住んでるマンションでも、
学歴でも、経歴でも、

あなたの想像もしなかったような、
実にさまざまなものが思考の錯覚を作り出す。

ここで重要なのは、

「人々が自分に対して持っている、
自分に都合のいい思考の錯覚」は、

一種の資産として機能するということだ。

本書では、これを「錯覚資産」 と呼ぶ。 

また、もう1つのポイントは 「全体的に優秀」は、
「思考の錯覚」の、ほんの一例に過ぎず、
さまざまな種類の思考の錯覚があるということだ。

複数種類の思考の錯覚が掛け算されることで、
とんでもない威力の錯覚資産が作り出されるのだ。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


ということでした

あまり好きな文章ではありませんが
今回お伝えしたかったことは、その内容ではなく
電子書籍のサンプル

この活用をお勧めしたい、ということです

読んだ気になって自分を錯覚させる分には、
人様にご迷惑をかけることもありませんから


ではまた