遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『天佑なり 高橋是清・百年前の日本国債 (上)』 幸田真音  角川書店

2013-09-15 11:02:14 | レビュー
 本書はタイトル作品の上巻である。高橋是清生誕の経緯から、明治26年(1893)9月23日、馬関(山口県下関)の日本銀行西部(さいぶ)支店・支店長として着任し、10月1日に無事支店を開設する。「こうしてついに是清は、銀行家としての第一歩を踏み出したのである」という末文まで、つまり是清0歳から 40歳までの人生を描き出している。この半生を読むだけでもその生き様が興味深く、読んでいておもしろい伝記小説になっている。百年前に日本国債を発行し、2.26事件で暗殺の標的になって殺された人物(享年82・満81歳没)の半生として上巻だけ読んでも楽しめると言える。そこでまず本書の読後印象を記すことにした。副題部分の展開を知るには、下巻を読む必要がある。後半は銀行家・高橋是清のその後の人生譚になるのだろう。
 現時点では、中公文庫で『高橋是清自伝』(上・下)が出ている。インターネットの青空文庫では、高橋是清自伝(2666)の公開が準備されている。(資料1)『高橋是清随想録』という本人の口述記録本、『随想録』(高橋是清・中公クラシックス)などが市販されている。たぶん、高橋是清の研究者による論文も数多くあるだろう。ウィキペディアに掲載の「高橋是清」もかなり詳細に記載されている。
 学生時代に、日本経済史で多少高橋是清を学んだ記憶がある程度で、経済学部で学び関連書を購入しながら積ん読本になった。自伝を含めそれ以上深く突っ込んでみようとしていなかった。高橋是清の伝記について読むのは本書が最初である。ウィキペディアもこれがきっかけで検索した次第。学生時代に一歩突っ込んで踏み込んでいたら・・・という思いである。
 つまり、事実あるいは準事実記録が数多ある中での伝記小説化なので、記録で語られていない背景にどこまで創作としての想像力が羽ばたいていくか、その展開に自然さ、納得度が感じられるかが読ませどころになるのではなかろうか。ウィキペディアの「高橋是清」にある「年譜」がかなり具体的なので、ここを読むだけで時系列的な是清の人生のエポックは史実としてほぼつかめる。この年譜で言えば、1854年(嘉永7年)閏7月27日の項から1893年(明治26年)9月の項目までが、本書で描かれているということになる。(資料2)この期間における箇条書きの年譜事実が、小説という形で躍動していくのだから、やはりそのおもしろさはこの年譜では味わえない。この年譜に記載されていず、事実記録資料に記載のことと、著者が描き込んだ事実内容と想像の局面との間に、どれだけのギャップがあるか、その対比をしてみるのも興味深いかも知れない。そのためには、上掲の自伝・随想録に立ち戻っていく必要がある。いずれ自伝類も読みたくなってきたところだ。

 この上巻は、序章「その朝」で始まる。「雪が、すべての音を呑み込んで、闇の底に沈んでいる」という一行から始まる。昭和11年(1366)2月26日の朝の情景が描き込まれ、2.26事件に巻き込まれるクライマックスの直前を暗示する。
 第1章から第5章がこの上巻を構成する。伝記小説なので時系列的な描写である。以下、ウィキペディアの「年譜」と各章を対比させながら、若干の感想を述べてみたい。

第1章 金の柱の銀行
 1854年(嘉永7年)から1869年(明治元年)。仙台藩士の子弟の中から、横浜に出て英語教育を学ぶ対象者に是清が選ばれたということが、その後の是清の波瀾万丈の人生へのトリガーとなったのだ。この時から、もう一人選ばれた鈴木知雄(ともお)との生涯を通じての関わりが深まるとともに、それぞえの対照的な人生の歩みとなる。この二人の違いが維新後の建国揺籃期を象徴しているといえるかもしれない。
 ここの読ませどころは、やはり渡米して奴隷という境遇に放り込まれてしまった経緯とそこからどうして抜け出したかという展開だろう。
 特筆すべきは是清が、文字・書籍からでなく、クララ・ヘップバーンから会話を中心に、対話形式を基本として英語を学び、柔らかい頭に英語音と英語を吸収していったことだろう。彼女はヘボン式ローマ字表記法を考案したあの医師であり宣教師でもあったヘボンの夫人だった。
 英国系銀行チャータード・マーカンタイルの横浜銀行の門が鉄でできていたので、金(かね)の柱の銀行と一般に呼ばれていたというのがおもしろい。シャンドという人がこの銀行の支配人級の人物。そこのボーイの仕事に就くことが是清の英語人生の始まりだったのだ。

第2章 まわり道
 1869年から1872年まで。満14歳から満18歳、多感な年代だ。明治元年、徳川幕府が崩壊し、仙台藩が朝敵となっている最中での帰国。森有礼の書生となるまでのプロセスの苦労話、そんなことがあったのか・・・・動乱期の様子が伺える。本作品から森有礼という人物にも関心が出てきた次第。
 大学南校に入り、その直後にはや学生兼教官補佐役となったというのだから、是清の英語力がかなりのものだったことと、当時の英語熱、教師側の人材不足がうかがえる。
 章題「まわり道」が示すように、是清は16歳で、大学南校の下級生3人の借財の面倒をみることから、放蕩の世界にのめり込んでいく。この放蕩生活が、それも日本橋一の売れっ子芸妓「枡吉」と情を深めたとか。このエピソードが実におもしろい。戦国時代から江戸時代を考えると、16歳では既に元服してしまっている年齢だろう。遊蕩に足を向けるというのも社会体制的、心理的に抵抗感の少ない時代でもあったのかもしれない。
 この3人に関わった250両の借財が、是清にとっての国内における巨額借金人生の始まりなのかも知れない。そして、転変人生の始まりになる。大学南校への辞表提出。唐津藩での英語学校耐恒寮の教員となり、英語学校創設、運営を実践体験していくのだ。ここでの学校運営に是清のマネジメント能力の萌芽がみられるようだ。是清の潜在能力が顕在化するきっかけである。

第3章 広き世界へ
 1972年から1886年(「年譜」では1885年の記載まで)。
 海外渡航、海外生活経験があり、英語が縦横に使える人材というのは、明治の建国揺籃期には、人材が払底していたのだろう。英語力があり優秀な能力がある人材なら、その私生活に多少の瑕疵があろうと、気にならなかった時代かもしれない。まさに需要と供給の極度のアンバランスが、沈没してもすぐさま引っ張ってでも浮かびあがらせるという作用が働いたというところか。明治維新の動乱期、社会を引っ張る側に立った多くの人々が幕藩体制から明治維新の中で、それぞれ有為転変の人生体験を経てきているのだから、是清の私生活の瑕疵など、相対的に気にならぬところ、一歩譲って、大目にみられるということだったのか。まさに能力主義の時代だったようだ。太平の世の中では、考えられないこと。高度経済成長期以降の「実力主義」「能力主義」というフレーズが色褪せて見えてくる。
 東京に戻った是清の役人生活の転変時期が描かれる。フルベッキに厚意を持たれており、その屋敷に居候をして、役人暮らしを始めるということだから、是清の本質はやはり見るべき人が見れば、評価に値する人物だったのだ。
 国の行政諸機関を、その時々の事由により辞表を提出して、再び別機関の相手方からの引きで役人暮らしを転々としていくというプロセス。ある意味、明治の国家機構には、その省に立つトップの自由裁量や闊達さがあったのだろう。そんなことは、たぶん今の国家公務員の採用過程では考えられないこと、夢の世界とも言えるのではないか。そう考えると、高橋是清という人物も時代が生み育てたという側面が強くあるという気がする。
 末松謙澄(のりずみ)と知り合いになり、生活のために始めたこととはいえ、翻訳生活に没頭するという局面の描写がおもしろい。
 さらに、是清が相場の世界を知るために、わずか4ヵ月という期間とはいえ、「六二商会」という米の仲買店の開店を実験的に実行していたということには驚いた。仲買店を開店できるだけの資金を準備できたということと、真実を知るためには、自らその世界にまず飛び込んでみる、体験してみて考えるという是清の人生哲学にである。まさに、体験・経験という行動優先主義、実践主義であり、アクション・リサーチを自らの人生で実行した生き様に対してだ。放蕩生活も含め、是清の経験がいずれ様々に生かされていくのだから、実におもしろいと言える。著者の想像部分、創作部分がどこに織り込まれているのだろうか。
 発明、商標、版権という特許局の礎を確立する推進者になったのが是清だったということを、本書で初めて知った次第である。この草創期のプロセスが克明に書き込まれていて参考になる。そこにも様々な政争が背景にあったということも。
 是清が商標登録専売特許制度視察のため欧米各国を巡歴し、知見を深める経緯の展開描写も興味深い。英米が独立した特許院に権限を持たせている実態と真意を体得して、是清が日本への帰路につくところで、この章が終わる。

第4章 浮くも沈むも
 1886年(明治19年)11月の帰国(「年譜」では1887年)から1891年(明治24年)ころまで(「年譜」は1890年の記載まで)。
 欧米への制度視察から帰国した是清は、農商務省にたまたまできた8万円の金の使途として特許局の建物建設の進言をし、特許局の独立拠点づくりにかかる。そして、1887年には特許局長に就任する。1889年(明治22年)2月に、是清が情熱を注いだ工業所有権保護の条例が施行される。同月、是清を常に支援してくれたあの森有礼、当時文部大臣が暗殺されてしまう。翌月には義祖母の喜代子も逝去する。
 もし是清が特許局長にとどまり、役人の道をそのまま上っていたとしたら、どんな人生だっただろうか? そうはならないのが是清の人生。友人達に懇請され、自らも出資して、ペルーにおける日秘共同事業として、アンデスの山頂での銀採掘事業に、現地責任者として出かけていくことになる。日本人の豊富な労働力の海外進出の先駆けでもあった。だが、この計画は曲者だったのだ。特許局長にまでなった是清が、手痛い体験をする羽目になる。この失敗談の顛末が克明に描き込まれていく。だが、この失敗は結果的には是清にとっては、大いなる学びの機会ともなったのだ。実践行動体験主義者の是清には、ある局面において、失敗は次への成功の母である。その分析力、省察力が是清の優れた能力の一端なのだろう。これも読んでいておもしろく、一読者として学ぶことが多い。
 日本からのペルーへの本格的な集団移民が開始されるのが、それから9年後、明治32年だったという。ブラジル移民は明治41年からだ。
 ペルー銀山採掘事業の完全失敗で是清に残ったのは不名誉と1万6000円の債務だけ。貯金をすべて返済にあて、洋館と日本家屋の建つ1527坪の敷地、この不動産を処分し、高橋一家はすぐ近くの長屋住まいに転落。このとき是清は35歳。再婚した妻・品と息子2人、娘1人の家庭の柱になっていた。心理的には是清のどん底人生期だろう。たぶん、アメリカで奴隷の境遇に陥ったときでも、それほどには落ち込まなかっただろうと感じる。この転変にめげない品という妻女もすごい人だと思う。

第5章 実業の世界へ
 1892年(明治25年)から1893年。是清が実業の世界にシフトしていく転機の時期である。日銀総裁の川田小一郎が是清に会いたいと声をかけてきたというのだ。どん底生活期の是清と金融界の頂点にいる川田との出会いである。是清の思考・信念と態度、行動が川田の新任を得ていくのだ。この出会いの描写も読み応えがある。
 山陽鉄道の社長の職を川田から斡旋されるのに、即座にそれを断る是清。そこには、是清の生き様の哲学、譲れない信念があった。だが、それが結果的に、是清を銀行家として歩ませる契機になる。
 この章では、年俸1200円で建築事務所主任という職務からスタートしていく。このとき、かつて20年くらい前の教え子だった辰野金吾が技術部の監督として、是清の上司になるのだ。川田は気にかけるが、是清は全く気にかけない。ここにも是清という人の一面が明瞭にでている。彼のすごさだともいえる。
 日本銀行日本橋本店本館の新築工事の進行に携わり、そのプロセスでの問題点解決を主導的に進める是清の行動と結果・成果が、彼の能力の評価を増し、信望を集め、信任を高めていくことになる。このプロセスもおもしろい読み物だ。是清がこの期間に一から研究し、実業について、銀行についての知識の基礎作りを行っていたことが理解できる。やはり傑物であり、努力の人だったのだ。その果敢なチャレンジ精神に学ぶところは多い。
 もっと早く高橋是清の自伝を読むべきだった・・・・そんな思いも抱く次第。
 そして、1893年(明治26年)9月に日銀支配役・西部支店長として、馬関に単身赴任し、10月1日に支店を開設するのだ。

 「こうしてついに是清は、銀行家としての第一歩を踏み出したのである。」上巻の結びの一文である。

 それぞれのエピソードがある意味で問題解決プロセスである。そのプロセスに是清がどのように関わり始め、どのように問題解決し、手腕を発揮したか。失敗に終わったエピソードは、逆に是清がそこから何を学んだか、それが「失敗は成功の母」として生かされていったのか。高橋是清の人生前半だけからでも、学ぶことが無数にある。そして、小説を楽しむということも。
 後半人生がどう展開していくのか、期待感が高まる次第。2.26事件で暗殺され生涯を終えたという事実は知っていても・・・・。

 ご一読ありがとうございます。
人気ブログランキングへ
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。

参照資料
1)青空文庫 作業中 作家別作品一覧:高橋 是清 No.867
2)高橋是清 :ウィキペディア
 

いくつが語句をネット検索してみた。結果を一覧にしておきたい。

高橋是清 :「ニコニコ大百科」
ジェームス・カーティス・ヘボン :ウィキペディア
グイド・フルベッキ :ウィキペディア
森 有礼 :ウィキペディア
川田小一郎:ウィキペディア
鈴木知雄 デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 :「コトバンク」

開成学校 :ウィキペディア
「去華就実」と郷土の先覚者たち 第6回 高橋是清と耐恒寮:「宮島醤油株式会社」
耐恒寮の少年たち  宮島清一氏
  まちはミュージアムの会 耐恒寮の物語塾第1回 pdfファイル
日本近代建築の夜明け_高橋是清と辰野金吾、曾禰達蔵 :「洋々閣」

日本銀行 沿革 1850~  :「日本銀行」ホームページ
アジアにおける英系国際銀行 西村閑也氏  三田商学研究  pdfファイル
横浜正金銀行 :ウィキペディア


  インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

人気ブログランキングへ
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。

情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


下巻の読後印象はこちらに載せました。ご一読いただければうれしいです。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿