遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『そろそろ旅に』 松井今朝子 講談社

2012-03-07 00:57:19 | レビュー
 本書は十返舎一九の伝記小説である。歴史年表を見ると、江戸時代享和2年(1802)に「東海道中膝栗毛」と記載されている。本書のエピローグを読んで目から鱗だった。というのは、年表記載の作者名・作品名を学生時代に暗記した以外は、弥次さん、喜多さんの名コンビによる珍道中記という伝聞情報で部分的に内容を理解していたに過ぎなかったからだ。
 なんと、享和元年正月に、一九は『浮世道中膝栗毛』という江戸から箱根までの道中記を出していたという。その主人公が弥次郎兵衛と北八であり、作者一九は「駅々風土の佳勝、山川の秀異なるは諸家の道中記に精しければ此に除く」と宣言して、風景描写はほとんどなしに、二人の登場人物が繰り広げる滑稽な珍道中記を書き上げたのだ。これが世間に当り、翌年に『東海道中膝栗毛』と銘打った第二編がだされたようだ。その結果、こちらが歴史年表に載っていることになる。つまり、これで十返舎一九が戯作者として大ブレークしたのだ。(今まで一冊の道中記を書いたと単純に解釈していた!)
 これ以来、弥次郎兵衛と喜多八による東海道の旅、『膝栗毛』が延々と続き、続編として書き継がれて行ったことなど知らなかった。実に二十年に及んぶ長旅のロングセラーになったとのこと。大坂編で完結した後、続編として金比羅、宮島、善光寺参りまですることになったそうだ。どこかの段階で、二人の名前の表記も弥二郎兵衛と喜多八に変わったらしい。

 本書は、後に十返舎一九と名乗るようになる重田与七郎貞一という武士の半生記である。駿府から江戸に出て、そして江戸から大坂へ。「そろそろ旅に」と再び江戸に戻り、また「そろそろ旅に」と、箱根に出かける。下山するまで、つまり『浮世道中膝栗毛』を書きだす直前までを著者は描いている。

 「ひとつの影法師が桟橋にながながと伸びている。・・・・ひとつの影法師はやがてふたつに割れた。ふたりは共に菅笠をかぶって、色あせた伊賀袴のすそをしっかりと脚絆で巻いた旅人である。・・・」こんな書き出しから始まる。
 与七郎の父は駿府町奉行同心である。駿府町奉行を務めていた小田切土佐守に仕官したいと理由づけて弟に家督を譲り、与七郎は江戸に出る。最初の旅立ちの真の理由は後ほど分かってくる。これが「そろそろ旅に」の始まりといえる。だが、江戸に着くと、小田切は大坂東町奉行として転任していた。数日の江戸逗留の後、大坂まで長旅をした与七郎は小田切を訪ねていき、その家来にしてもらう。
 与七郎は町方同心、津守によって大坂での人形浄瑠璃芝居に引き込まれていく。芝居の検閲も町方同心の仕事の一部なのだ。与七郎は津守の助けを得て、大坂という商人の町、社会構造の在り方に馴染んで行く。そして、芝居に惹かれていくことになる。
 この作品で初めて知ったことだが、当時(天明年間)は東町奉行所の与力30騎、同心50人という規模であり、「両町奉行所と城に在番する旗本や諸藩の蔵屋敷の役人すべてをふくめても、大坂にいる武士はわずか2000人にすぎない」という状況で、片や町人は40万余が住んでいたようだ。
 芝居小屋がきっかけで、与七郎は美しい娘の危機を救うこととなり、その出会いからその娘、お絹を恋するようになる。世は田沼意次が失脚し、徳川家斉が第11代将軍を相続した時代。天変地異が日本全土を覆い、大坂でも米騒動、打ち壊しが起こる。そして白河侯松平定信による質素倹約へと世間は様変わりする。さらに大火の発生。そんな世相と大坂の町を背景に、芝居との関わりを深め、人生が転換していく与七郎の青春時代が描かれていく。

 われこそは近松半二の弟子だと矜りを持つ近松東南と知り合い、人形浄瑠璃の台本の筆を執ることを勧められる。一方、与七郎がかつて恋心を抱いた豊後屋の娘・お絹は若後家になっていた。そして、材木商豊後屋の求めに応じて、与七郎は武士を捨て婿養子となる道を選ぶ。与七郎は、大坂で武士から町人への「旅」に出ることになる。
 材木商としての心得を学びながら、一方で芝居の深みに入って行く。人形浄瑠璃『木下蔭狭間合戦』という新作の合作者の一人になるのだ。この作品への関わりかたが面白い。人形浄瑠璃作品がどんな形で作られていくのか、そんな副次的なことも解ってくる。
 近松東南のもくろみは成就し、与七郎は「近松余七」と名乗る。これが「筆への旅立ち」となる。
 寛政元年12月に大坂を襲った大火(上町大火)で、被害を受けなかった豊後屋は材木の商いで焼けぶとる。そして、寛政3年10月、島之内全域の大火となったときも、豊後屋自体の被害は僅少だった。大火後、材木の値段高騰を抑えたい奉行所と材木商との軋轢がつづく。その渦中に投げ込まれる与七郎。一方、お絹は懐妊するが、死産という結果になる。与七郎は商人になりきれぬ男だった。彼は放蕩の道に染まっていく。
 そして、ついに「そろそろ旅に」出たい心境につき動かされる。

 離縁の後、与七郎は江戸に出る。江戸では紅絵問屋蔦屋重三郎の許で世話になる。このあたりから、江戸の浮世絵や本の出版事情がいろいろと書き込まれ、戯作者をめざす与七郎の置かれた当時の出版業界がどんな状況であったかがうかがえるという副次的な楽しみが加わる。同時にそれは、与七郎が戯作者として一つの高峰を築くには、何ができるのかということへの葛藤の幕開けでもある。
 その中で、蔦重を介して山東京伝、滝沢馬琴と与七郎の関わりが深まっていく。式亭三馬も一九の前に自ら顔を出してくる。後半は、京伝、馬琴や三馬についてのエピソード風簡略伝記の色彩も併せてもっていき、読ませるところである。
 
 江戸に出た与七郎が十返舎一九と名乗った経緯が本書に出てくる。
 京伝の『初役金烏帽子魚』という即席本の挿絵を描く画工の雅号として「一九」と名乗る。著者はこんな風に記す。「岩瀬と昔よくした花カルタで一九はぶた、つまりはまさかの札で負ける数である。『九仞の功を一簣に欠く』という唐土の故事になぞらえたところもある。何事も順調に運ぶように見えながら、最後の一歩、まさかのことで失敗った己が過去を忘れないようにするためでもあった」(p291)
 ウィキペディアを検索すると、「『一九』は幼名の市九から来ている」という説が載っていた。いろいろな見方がありそうだ。
 歌麿の絵「青楼十二時」と題する12枚の連作から着想を得て、十二人の客が一人の花魁の手練手管に乗せられてしまうという『心学時計草』を出すときに、「十遍舎一九」と名乗る。著者は、「・・・あの蘭奢待は、長い旅路の果てにたどり着いた国で、十遍聞いても末枯れないという十返りの名香だった。一九はおこがましいのを承知の上で、自らの筆もまたそうありたいと願ったのである」(p315)と記す。
 ウィキペディアも、同じ解釈を載せている。著者は、「後に文字を十返舎と変えた一九にはさまざまな思いがあった」(p315)とだけ記している。ウィキペディアには、「初めは『十遍舎一九』であったが、『十偏舎』『十偏斎』『重田一九斎』なども用い、享和ころから『十返舎一九』に定まった。」と記されている。
 『浮世道中膝栗毛』では「十返舎一九」と名乗っていることが確認できる。(以下のネット検索結果を参照いただければよい。)

 山東京伝の紹介で、与七郎は二度目の見合いをし、相模屋という質屋の娘・八重の婿養子となる。八重の小さい頃から京伝は彼女を知っている。その八重は大人になり、どこか京伝に惹かれているところがあると与七郎の目には映る。微妙な心理を抱きながらも、一九には戯作者としての道を拓くことに邁進できる環境が整ったことになる。だが、京伝という高峰の存在、京伝とは異なる高峰を目指すことに思い悩む。
 一九は過去を語らず八重と一緒になる。八重は一九の過去の領域には入れない。京伝との関わりに「道は迷わず」という歌の下の句が絡んでくる。一九は郭に入り浸ることとなる。一九の内奥に燻るのは、一九、八重、京伝の三角関係の心理だ。それが一九の深層にある心を引き出していく。一九の解せない行動に八重は絶えられなくなるという。
 「もうこの家にはおれん。そろそろ旅に出るだ」
 八重の許を飛び出し、「そろそろ旅に」の突き上げる思いが箱根への旅となる。大坂時代の同僚、岩瀬の一言が、その後の一九の転機となっていく。
 
 冒頭に記される、「一つの影法師が二つに割れた」「ふたりの旅人」となる与七郎(一九)の相方は「太吉」と呼ばれる家来である。与七郎(一九)の行くところ、どこにでも現れて来る。家来ならそうかもしれないが・・・・この太吉がもう一人の主人公だったように感じさせる設定が面白いところでもある。正直なところ、本書の途中から、この家来・太吉の存在に違和感を感じ始めた。だがそこから一歩、奥を考えなかった。最後の土壇場で、その部分が何だったかがわかるという仕掛けがなされていた。

 エピローグの最後のくだりがおもしろい。著者は書く。

 若いときから、好奇心の赴くままに、どこへ行こうが、何をしようが、だれと一緒に暮らそうが、そのつどそこに馴染んでいるかに見せながら、時が来れば何もかもさらりと捨てておさらばできた男は、いうなれば永遠の旅人だったのだろう。
 辞世はまさしく人を喰った狂歌である。
   この世をば どりゃお暇と線香の
          煙と共に灰さようなら

 だが、まてよ。本当にそうだったのか? そこに馴染もうとして馴染みきれなかった。それ故に、時が到れば「何もかもさらりと」見せかける捨て方によって、旅立たざるを得ないぎりぎりの心理に突き動かされたのではないか。「おさらばできた」のではなくて、「おさらばせざるをえなかった」のではないか。いや、さらりと捨てられる強さがあったのか。はてさて。
「永遠の旅人」に位置付けることしかできない己の存在があったのでは・・・・
 最後のくだりを再読し、読後印象としてそんな思いも抱かせた。この点、私にはおもしろい。年表の記載一行が、生き生きした苦悩する人物として身近になった。

 最後に、印象に残る文章を抜き書きしておきたい。

*思えば小田切との縁は、武芸を披露して賞でられたのが始まりだった。武芸を磨くのは忠義を尽くすのと重なるようでいて、実は大きくちがうのではないか。  
 武芸であれなんであれ、およそ芸を磨き、芸を究める者はどこまでも自らを恃み、己れの力に賭ける。それは忠義とはおよそかけ離れた道だという気がしてきた。 p153

*最初は他人が通った道を歩いて、少しずつ前に進んでゆく。そしてある地点まで来ると、自らの足で新たな道を見つけなくてはならない。それがいわば芸に生きる旅の始まりだ。  p175

*一九は京伝を自らと同じく心弱き輩だと見た。並の人よりも心が弱く、魂が劣る人間だからこそ目の前の現実から心が離れて机に向かい、筆を執りたくなるのだ。が、現実から真剣に逃げたいというこころがあるからこそ、京伝が書いたものを読む人もまたたつかのまの憂き世から旅立てるのではなかろうか。 p297-298

*蔦重だけじゃねえ。版元はだれも一緒だよ。次から次へ何か書けといって餓鬼同然に押し寄せてくる。下手すりゃ丸ごと喰い潰されちまうから、くれぐれも用心しなせえよ。
 (→ 江戸時代も現代も同じか・・・・著者の心境もそこに・・・ )   p301

*にもかかわらず、ひとつ当たれば版元がかならず柳の下の泥鰌を狙うから、たちまち似たり寄ったりの二番煎じ三番煎じが氾濫してしまう。どこの版元もただその時々で本が売れたらよいとしか思わないようで、こんなことを長くつづけていたら、いずれ絵双紙自体が世間で飽きられて短命に終わるおそれもあった。   p400
 (→ 人間、同じ事を繰り返しているだけか。江戸時代も現代も・・・)

*一九はいくらか湿っぽい声になる。物足りないのはわが子がいないせいか。いや、そうではない。先々の期待も心配もなく、その日その日をうかうかと生き、うかうかと死んでしまう自分を思うと、すべてが虚しいのだ。   p387

*それもまたひとつの道だ。踏みだした者が先に行けばよかろう。が、己にもまた己の道を早く見つけなくてはなるまいと思えば、陽気な笑いがしだいに重苦しい響きに変わっていった。   p399

*生まれた家にずっと住み続けていられる者には、家を離れたくなる者の気持ちはわかるまい。生まれた土地を離れぬ者にもまた、旅を続ける者の心は推し量れぬだろうと思う。  p409

*京伝は絵双紙の中でよくおかしな自画像を描き、自宅の書斎を挿絵にして人目にさらした。さらには自営の煙草店や自家製丸薬の絵まで描き足して、宣伝にひと役買っていた。つまり京伝は絵双紙で自らを丸ごと売り物にして、それこそが京伝人気の秘密だと一九はみている。  p436
 (→ これも、現在常套手段化されているのでは・・・・)

*江戸の戯作者は概ね馬琴という記録魔の耳目を通して今日に伝わっているところが大きく、これがまた他人に極めて辛辣で、自讃めいた書き方が目立つために、人間長生きしたほうが勝ちという印象は否めない。三馬のことはもとより、多大な恩義にあずかったはずの京伝にしろ、蔦重にしろ、馬琴の評価は実に過酷ともいえる。 p475
 (→ 馬琴の記録を試しに読みたくなってきた・・・・)


ご一読ありがとうございます。


付記 この作品も、時折、ネット検索をしながら読み進めた。
 「焼けぶとり」の章の冒頭はこんな書き出しである。
 「寛政元年十二月十五日に大坂を襲った大火は、上町と呼ばれる市街東部の大半を呑み込んだ。」
 
 「防災情報新聞」というサイトの”日本の災害・防災年表:「火災・戦災・爆発事故」編”には、
 大坂寛政「上町の大火」 ……… 1790年2月5日~6日(寛政元年12月22日~23日)
という項目の記載がある。 

 また、大坂市史編纂所の「12月のできごと」ページにも、12月22日の項に、
   上町大火、焼失町数52町、家数1110軒など - (1789年)
とある。1789年は寛政元年だ。
  「大阪の火災記録(昭和22 年以前)」も同様である。
 
 この大火を12月15日とする記録、古文書が別にあるのだろうか。
この点少し疑問が残った。
 「二度目の災難」の章に出てくる、寛政3年の10月10日という日付は一致している。

読みながら、折々にネット検索したものを一覧にしておきたい。(掲載された皆様に感謝!)

十返舎一九 :ウィキペディア
十返舎一九の年表 :「酔雲庵」井野酔雲氏

浄瑠璃 :ウィキペディア
文楽  :ウィキペディア
人形浄瑠璃文楽 文楽への誘い ~文楽鑑賞の手引き~ HP
人形浄瑠璃の歴史 :「伝統文化の黒衣隊」
人形浄瑠璃 文楽 :河原久雄氏
阿波人形浄瑠璃の歴史 :「阿波人形浄瑠璃の世界」HP

近松半二  :ウィキペディア
伊賀越道中双六ショートショート:「文化デジタルライブラリー」・日本芸術文化振興会
近松東南 :デジタル版 日本人名大辞典+Plus
竹本義太夫 :ウィキペディア
竹本義太夫 :歌舞伎事典
竹本義太夫の墓  :「大坂再発見!」
竹本咲太夫 :ウィキペディア

十返舎一九 所蔵作品一覧 :早稲田大学・古典総合データベース
 例えば次のような作品が:
[旅恥辱書捨一通] / 十遍舎一九 [作・画]  :早稲田大学・古典総合データベース
東海道中膝栗毛. 5編 / 十返舎一九 著
栗毛弥次馬. 初,2編 / 十返舎一九 原稿 ; 岳亭春信 [校] ; 一恵斎芳幾 [画]
百人一首むべ山双六 / 十返舎一九 校 ; 歌川豊国 画

東海道中膝栗毛 :ウィキペディア

小田切直年 :ウィキペディア
鱗形屋 :『言語文化』所載論文・柏崎順子氏
鱗形屋孫兵衛 :朝日日本歴史人物事典
蔦重(つたじゅう) :「江戸の印刷文化史」 DTP技術情報
蔦屋重三郎 :「庚寅記載録」

山東京伝 :ウィキペディア
山東京山 :ウィキペディア
曲亭馬琴 :ウィキペディア
式亭三馬 :ウィキペディア
石川雅望 :ウィキペディア
大田南畝 :ウィキペディア
鈴木牧之 :ウィキペディア

稲光田毎月 :国立図書館のデジタル化資料
稲光田毎月 天明4年(1784)・大坂 :芝居番付閲覧システム 
木下蔭狭間合戦 所蔵浮世絵リスト :早稲田大学演劇博物館浮世絵閲覧システム
心学早染草 :「Inspirace」堀越英美氏
高橋誠一郎浮世絵コレクションから 喜多川歌麿 →『青楼十二時』が含まれる
青楼十二時卯ノ刻 喜多川歌麿 :「TIMEKEEPER 古時計どっとコム」
青楼十二時 続 戌ノ刻 喜多川歌麿 :神奈川県立歴史博物館

南杣笑 楚満人 所蔵作品一覧 :早稲田大学・古典総合データベース

貞観政要  :ウィキペディア
近江県物語 石川雅望 :近代デジタルライブラリー
蜀山先生 狂歌百人一首 :「やまとうた」 水垣久氏
北越雪譜 :ウィキペディア

大坂町奉行 :ウィキペディア
与力    :ウィキペディア
株仲間   :ウィキペディア

生玉社 ← 生國魂神社  :ウィキペディア
山王権現 :ウィキペディア
日枝神社(千代田区) :ウィキペディア

志野流 :ウィキペディア
志野流香道松陰会HP
香道への招待 :有職装束研究 綺陽会 HP
鈴木牧之記念館 HP


槍について  :「誠武無染舎」HP

本多髷と草双紙 ← 江戸時代の男性衣装 :「日本の服の歴史 Maccafushigi」
 ページの後半に図・説明が載っています。
吉原遊郭 :ウィキペディア
吉原跡地
水引暖簾 ← 暖簾うんちく :オーダーのれんドットコム
有明行灯  :府中家具木工資料館
宗全籠 ← 宗全籠の制作記録  :「まーちゃんの花籠いろいろ」 

ムクロジ :京都教育大 HP
ムクロジの実 :「トピックス」 梅本・土谷・村松各氏
エンジュ :「季節の花 300」山本純士氏

「娯楽読み物」の魅力 :高木元氏

新・十返舎一九伝 :「求愚庵日記」主宰者・草舎人氏
 こんな作品もネットで発見しました。






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