遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『無常という力 「方丈記」に学ぶ心の在り方』 玄侑宗久  新潮社

2012-07-21 11:49:46 | レビュー
 震災後、新聞、雑誌以外にどんな本も読めなかった状況の著者が、親しい編集者の勧めで「方丈記」を手に取り、読み耽ったという。鴨長明の「方丈記」を繰り返して読み、感じ、考えた事を著者が新潟で講演したようだ。その講演がもとになって、本書が仕上がったもの
と受け止めた。(以下、長明と記す。)
 本書は三部構成になっている。「無常という力」をテーマとした「方丈記」の読み解き、「方丈記」全文の現代語版(著者の監訳)、鴨長明「方丈記」原文、である。
 そのため、極論すれば、最初の「無常という力」の11章にまとめられた実質64ページが著者の考え、思いをまとめた本と言える。

 著者は「方丈記」を古典自体の解釈として読んではいない。鴨長明の文に、大震災、原発震災以降の東北、日本の現状を重ね合わせて、今を生きるための文として読み込んでいる。長明が語ろうとした「無常」の真意を著者流に汲み取り、現在の我々の置かれた状況・事例で解釈していく。「方丈記」が背景とした世相を現在の状況に通じるものと換骨奪胎して解釈し、現在から未来への心の拠になる素材として読み直していく。古典として残る本は、そういう示唆、思考の糧を含むが故に、古典なのかもしれない。

 のっけから、著者の預かるお寺、三春町にある福聚寺においても、震災後の最初の3ヶ月で「檀家さんの自殺者が6人にも上りました」(p9)という話が出てくる。現在進行形で続く震災後の生活の中で「方丈記」の言葉、底流に流れる「無常」が身に沁みたという。長明の考え、長明のもつ「風流さ」に著者の解釈、考えが深められ、この書になったのだ。長明は無常を美学まで高めたのだという。「日本独特の無常という考え方、感じ方をはじめてきちんと説き、具体的な例に即して全面展開してみせた」(p11)のが「方丈記」だと解釈している。

 「方丈記」の文を紹介し、長明の生き方をその時代背景の中で説明し、聞き手(読み手)の理解そ深めさせたうえで、それを現代風によみかえると、こういう状況のことであり、皆さんにもあてはまりますね、という論法で「方丈記」を現代に持ち込んでいる。その行間の読み方はさすがだ。
 お陰で「方丈記」が身近なものになるとともに、ある意味で古典を自家薬籠中のものにする見方、やり方を学んだような気がした。
 そして、「方丈記」の文を梃子にして、大震災以降の社会状況、政府の在り方などに対する立派な社会批評にもなっている。その事例を理解促進のためにいくつか抽出してみよう。

 原文:にはかに都遷り侍りき。いと思いの外なりし事なり。(福原遷都の話)
 著者:安くまた穢れなしとぞ聞こえはべる福島第一なりしに、にはかに水素爆発を起こし侍りき。いと思いの外なりし事なり。   p20
 
 原文:大臣・公卿みな悉く移ろひ給ひぬ。
 著者:原子力安全・保安院の緊急対応拠点であるオフサイトセンターの人たちが真っ先に原発近くの町から逃げ出した。      p21

 原文:なべてならぬ法ども行はるれど、更にそのしるしなし。
 著者:今の「なべてならぬ法」と言えば、小学校の校庭の表土除去だの、側溝や雨どいの下を高圧ポンプで除染することなどでしょうか。放射性物質の除染は徹底的にやってもらいたいですが、こんな大事なことさえ、満足に進まない。  p26

 原文:ものうしとても、心を動かす事なし。
 著者:これは今のわたしたちにとって、とても重要な処方箋ではないでしょうか。東京のインテリゲンチャは悲観論を唱えてやみません。そこに一面の真実はあるでしょう。しかし、フクシマに住むわれわれは悲観論だけでは生きていけない。楽観と悲観の間で、「ものうしとても、心を動かす事なし」と呟きながら生きていくしかないのです。 p52
 尚、ここの原文は「調子が悪いとしても、悩むこともない」(p97)と監訳されている。
また、「いにしえの賢き御世には、あはれみを以て国を治め給ふ」という原文に対し、現代も「賢き御世」ではないと、痛烈である。「みんなが仮設住宅に入って、仕事もない、死に場所もないという状況なのに、消費税を上げようという相談をしている」と皮肉っている。さらに、「『県外に出た人たちからも消費税を取らないために』という名目で、国民背番号制のような『社会保障・税の共通番号制度』を導入しようという、きわめてキナくさい動きもあるのです」(p24)という動きにも目配りし、指摘している。

 数例だが、実にわかりやすい換骨奪胎ではないか。長明の文がすごく身近なものになる。そこには社会批評の眼差しも加わり、ならばどうするか。長明の考えから何が学べるかへと展開されていく。わかりやすくて、かつ、おもしろい。

 「方丈記」のキーになる言葉について、著者の説明・解釈を要約しておこう。自らの考えをまとめる上での思考の糧にもなる。鍵括弧は引用であり、地文は要約とところどころに書き加えた私の印象である。
*「無常」とは、「正確に言えば、仏教で謂う『諸行無常』のこと」であり、「諸行無常は、すべて移り変わっていく、という認識」のこと。  p9
*「もののあはれ」→「あはれ」とは、「時の流れの中で、ものの姿にしみじみと感じ入る」こと。「日本で生まれ、日本人が深めていった美的感覚」のこと。 p11
*「所を思ひさだめざるがゆゑに、地を占めて作らず」
 長明は土地に対する執着がないのが強味だった。だが「近代以降、土地を売買し、所有することが当たり前になり」、「ここで『ふるさと』の概念が変わった」とみる。「人生も家も所詮『仮の宿り』なのだから、どこに住んだっていい」と著者は考える。つまり、「津波や地震が何十年かに一度は必ずくるような土地でも、それまでそこに住むのは『あり』だ」というのが著者の考えである。無常、仮の宿りが根底にあるからなのだろう。
*「三界はただ心一つなり」
 著者は「方丈記」の最後に近いところに記されたこの言葉を採りあげ、その背景を判りやすく説明してくれる。これは『華厳経』が出典であり、唯識仏教に近づいた考え方で、長明が天台教学、なかでも「小止観」を学んでいたのではと推測している。「長明はその教えのように、一生は修行であると認識し、心を段階的に無執着に近づけていこうとしていたのではないでしょうか」(p54)とみる。「心一つで、世界のあり方が変わるというわけです。心のほかに法はない」(p53)。それは、「ものうしとても、心を動かすことなし」に繋がっていく。
 そして、放射能に「一喜一憂して振り回されてはいけない、という考え方だってある」(p54)とし、「感覚に裏打ちされず、知識だけで安全や危険を確認しないといけない生活は何て不幸かと思う。人間の通常の生き方に反していますよ」と述べ、「自分が感知しえないもののために、うんざりするのは仕方ないが、わざわざ悩みを深める必要はない」と語る。とらわれない心の在り方を強調しているのだと受け止めた。原発震災の発生した原因と責任の問題を著者がどう見て、どう考えているのかについて本書から十分には読み取れない。その点寂しいが、本書テーマとは別次元の問題と考えているのだろうか。
*「不請阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ」
 「方丈記」末尾のこの一文である。著者は長明が己を無執着に近づけていく、自己批判、自己否定の先で、親鸞の「他力」という教えに近づいたものと解釈する。一方で、長明のこの自己批判、自己否定の在り方に、「『こうじゃないと絶対いけないんだ』という断定的な考え方」が「人間が生きていく上で非常に妨げとなるのです」(p59)という局面を読み取っている。そして、風流という言葉に関連づけていく。

 長明の生き方に著者が重ねた「風流」という語が、「千年ほども歴史のある禅語」(p59)だとは知らなかった。禅語では、「揺らぐ」という意味合いだそうだ。「揺らぐというのは、何かことが起こった時に、毎回新鮮な気持ちでそれに対応しようとする姿勢」(p59)だという。その説明で、どこかの政党を引き合いに出し皮肉っているからおもしろい。
 「原則を絶対視せず、もう一回揺らいでみようじゃないか、というのが風流」なのだという。そして、「『方丈記』の素晴らしさというのは、『絶対こうだ!』と思ったら、もうそれは執着なのだという、鴨長明のこの自覚」にあるのだとする。つまり、「絶対と思ったら、そこでもう無常ではない」(p61)ということなのだ。
 さらに「風流」を「中道」と言いかえてもいいかもしれないと展開していく。仏教でいう「常見」(=物ごとはずっと変わらないという思い込み、執着)、「断見」(=決めつけること)に陥ることなく「中道」を歩むということに帰着させる。
 「環境は環境として、心だけは風流にありたい。中道を行きたい」と著者は記す。「方丈記」からの著者の読み取りと結論である。

 本書は、揺らぐことの提唱だといえる。「死ぬまで揺らぎつづけることこそ、風流な、無常という力なのです」とまとめている。
 11章「手作りの、小さな自治のために」という章は、巨大な市場原理、経済効率、物質的に豊饒な生活を絶対視してきたことに対する「方丈記」視点からの警鐘である。「コンパクトな暮らし、小さな自治」が今こそ必要なのだという。揺らいでみようではないか、とうことだ。電力問題、節電問題も、結局心の在り方につながる。今までの生活を絶対視する枠組みからどれだけ揺らげるか、ということだと私は解釈した。「原発問題・エネルギー問題でも問われているのは、結局は自治のあり方です」という。そうだと思う。
 放射線量のとらえ方の問題には首肯しかねる部分がいささかあるが、「フクシマ以降の世界を生きるということは、そういう小さなコミュニティ、コンパクトな自治を進めていこうということです。ここでまた、市場原理偏重に戻してはいけない」という考え方には賛成である。

 絶対なんてない。今までの生活のあり方に執着しない。自分の生き方を変えていく。
 「われわれもまた、長明のように、修行中なのだと思うようにしましょう。新しい時代に向けて、フロンティアとしてのフクシマで修行中なのです」(p62)と著者はいう。
 「方丈記」から、今を生きる心の在り方を汲み取り、わかりやすく語った本である。
 長明さんが、身近になった。
 

ご一読ありがとうございます。

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 語句をいくつかネット検索してみた。

鴨長明 :ウィキペディア
方丈記 :ウィキペディア
 青空文庫で方丈記原文が読める。ダウンロードもできる。
鴨長明が詠んだ歌
正岡正剛の千夜一夜 鴨長明 『方丈記』

長明の方丈庵跡/日野の里 :「名所旧跡めぐり」(わたしの青秀庵)
方丈記ワールドへ :「ぼちぼちいこか」小宮山繁氏

風流 :ウィキペディア
風流 :コトバンク
華厳経 :ウィキペディア
天台宗の歴史 :天台宗のHP
天台教学に説かれる三観をめぐって  宮部亮侑氏
止観  :ウィキペディア
田所静枝読み下し『天台小止観』(「略明開矇初学坐禅止観要門」)
小止観・1 止観と坐禅  :「web智光院」
  小止観・2 坐禅前の5ヵ条
天台小止観(中国天台宗) :「仏教の瞑想法と修行体系」 morfo氏
中道 :ウィキペディア
中論 :ウィキペディア
中観派 :ウィキペディア

最後の検索をしていて、こんな記事を見つけました。
「方丈記800年」で下鴨神社などが記念事業 :日本経済新聞記事 2012/7/21
スタジオジブリと下鴨神社が協力「方丈記」800年企画展 :「47NEWS日本が見える」



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