函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

どうする家康、決戦関が原!!

2023-11-13 | 歴史

天下分け目の関ケ原

VPで撮影された映像も迫力がありましたね

戦いは井伊直政が口火を切ったと言われていますが… 

いつも先陣を切る本多忠勝は家康本陣の前に布陣し

ています

福島・黒田・藤堂などの豊臣恩顧の武将の後ろです。 

万が一、それらの武将が裏切った場合の備えといっ

たところでしょうか? 

ちょっとしたきっかけで裏切らないともいえません

ものね

 

捕らえられた三成と勝者となった家康の対面のシー

ンが、意味深でしたね 

「この悲惨な戦を引き起こしたのは、私であり、あ

なただ。」「戦乱を求むる者に戦なき世など成せぬ。

まやかしの夢を語るな!」 と言い放つ三成ですが、

戦なき世を実現できるのであれば、豊臣でも徳川で

もどちらでも良い筈 

家康が語った「それでも、わしはやらねばならぬ」

の言葉に、天から与えられた使命感を感じるのは僕

だけでしょうか? 

戦なき世を成す為には悲惨な戦いをするしかないと

いう矛盾を説明する言葉は見つかりません

ところで… 

近年、玉城の存在が明らかになってきましたね 

三成が手を加えたと言われていますが、関ケ原を見

下せるかなり巨大な城だった様です 

そんな巨大な城に誰が入るのか? 

輝元と秀頼しかいませんよね 

関ケ原の開戦がもう少し長引けば、輝元と秀頼が玉

城に入城していた筈です 

そうなれば、徳川本体の秀忠軍のいない東軍は壊滅

していたかも知れません 

南宮山に布陣した毛利軍も、当主・輝元が戦いに加

わったとなれば西軍として行動するしかありません。 

豊臣恩顧の武将達も流石に秀頼には弓を向けられま

せんよね

おそらく家康は長期戦になれば負けると自覚してい

た筈です

輝元と秀頼が出て来る前に勝敗を決しなければ負け

る事を… 

現有勢力で勝利するには短期決戦しか可能性が無か

った訳です 

 

南宮山に布陣した毛利軍・一万六千、率いていたの

は輝元の養子・秀元です

長宗我部盛親や長束正家も居りましたが、何故か?

吉川広家が動こうとしません 

広家が動かなければ毛利軍も山を降れないのです 

戦いの最中、南宮山に布陣した軍は動くに動けない

状態が続き、お互い疑心暗鬼状態

結局、烏合の衆と化したのです

広家は毛利が西軍として戦うのには初めから反対だ

った見たいですね 

輝元に西軍に味方しないよう説得しようと試みます

が、時すでに遅く、輝元はさっさと大阪城へ入城し

てしまいます 

広家には東軍が勝利するという確証が有ったのかも

知れません。 

小早川の裏切りと広家の決断が関ケ原の戦いの勝敗

を決したと言っても過言ではありませんね 

戦いは当初は互角だったと言われていますので、も

し?南宮山の三万の軍が山を駆け降りたならば、勝

敗は逆転していた可能性が大きそうです。 

毛利軍の参戦が確認されれば小早川隊も呼応して東

軍に襲い掛かった筈… 

小早川軍は最初から東軍に寝返るつもりだったと言

われていますが、笹尾山から戦況を見て西軍有利と

もなれば躊躇なく西軍として戦っていたのは間違い

ありません 

東軍を率いていたのが大身の家康、対して西軍を率

いていたのが小身の三成です。 

自軍を意のままに操る能力は家康の方がはるかに上

です。 

もし?家康に対抗出来るとすれば前田利家しかいま

せん。 

その利家が亡くなった事が関ケ原の戦いの全ての様

な気がしている僕なのです

 

戦国も末期ともなれば、成熟した世の中に近ずいて

来ていたのでは… 

その中にあって関ケ原の戦いは、家康・三成のどち

らが覇権を握るかの戦いだったと言っても過言では

ありません。 

豊臣家中心の政権か、徳川家中心の政権かの選択の

戦いです 

何れにしても、話し合いで成し遂げられる現在とは

大きな開きがありますよね

 

 


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