函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

どうする家康、忠誠心と信仰心の狭間!!

2023-02-27 | 歴史

いよいよ家康と一向宗徒の戦いが始まりましたね

お寺は、不入の権を逆手にとって富を蓄え、武具

や武器を揃え、城塞化した武力を伴った自治集団

と化していたようです

まるで国衆見たいですね。 

自国領にこの様な勢力を抱えているのですから、

領主としてはたまったものではありません

どうにかして、自国での一向宗の力を削ぐしかな

さそうです 

一向宗との対立は、避けて通れなかった争いだと

も言えます

とわいえ、武力では中々解決しないので、家康は

政治的な解決を模索したようです 

 

反乱に加わった家臣はお咎め無し。 

寺は元通りに戻すというものです。 

表面的には一向宗側の要求を全てのんだ形ですね 

しかし、この譲歩案には裏があります 

武力解除後、直ぐに寺を破却し領内での一向宗を

禁じてしまいます 

約束を反故にされた一向宗側は当然文句をつけま

すが、後の祭り。 

元通りに戻すとは…寺が建つ前の原野に戻すとい

う意味だと嘯くのです

一向宗徒が集う場所さえ無くせば、自然と歯向か

う事が出来ないとふんだのでしょうね。 

事実、その後、三河領内では一向宗の反乱は起き

ていません 

信長でさえ一向宗との戦いにはかなりの年月を費

やしていますよね。 

規模が違うとはいえ、家康の一向宗に対する対応

は中々のものです。 

この時、家康20歳、やはり並の武将ではありませ

 

 

難しい仏典を理解したり、厳しい修行を伴わない

一向宗は一気に広まったと言われています

念仏を唱えればすべからく救われるというもので

す。 

現世に望みを託せないこの時代、文字も読めない

農民が殆どだったので、解り易く、善人も悪人も

南無阿弥陀仏を唱えれば誰でも救われるのです。

いわんや悪人をやですね

爆発的に広がったのも頷けます。

ところで

家康の家臣の中でも家康のそば近く仕えていた者

の殆どは一揆軍に加わる事は無かったと言われて

います 

本多忠勝は浄土宗に改宗し家康と行動を共にして

いますし、石川数正も改宗しています 

数正の父は本證寺の総代の様な立場だった為か?

一揆軍に加わっています。 

父と子が戦った訳です

その為か、数正は一時家督を継げなかったとも言

れていますね 

忠誠心と信仰心の狭間で家臣達は揺れ動いていた

のだけは間違いなさそうです

 

 

 

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どうする家康、一向一揆の始まり!!

2023-02-20 | 歴史

地雷を踏んでしまった感のある元康ですね

いよいよ三河一向一揆への突入です 

加賀の一向宗徒は大名並に100年も加賀を

統治していたといわれています

元康も一歩間違えれば加賀の二の舞になりか

ねません。 

現世での自らの命をも省みない一向宗徒は、

元康最大の試練となりそうですね 

元々、お寺は守護不入で、税の徴収や罪人逮

捕も拒否出来たと言われています 

自分の領国でありながら一種の治外法権状態

だったのです 

一揆の本拠地・本證寺は堀もあり、そこそこ

のお城といった感じだったようですね。 

住職の空誓は怪力の持ち主で、甲冑を身に着け、

僧侶と言うよりは武将といってもいいのかも知

れません

「現生の罪は現世限りだ!!」と宗徒に鼓舞し戦

いに導いたのですから、宗徒にはカリスマ的な

存在だったのは間違いなさそうです 

現世で何をしても、来世では間違いなく極楽浄

土へ行けると宗徒に説教している姿には、悍ま

さを感じます

個人的には、空誓はかなり胡散臭い人物だと思

っている僕なのですが…

空誓と宗徒達だけなら簡単に討伐出来たと思い

ますが、信者の武士達が脇を固めていたのです

から、そう簡単にはいきません 

元康にとって、三河統一を成し遂げる為の最大

の試練です

ところで… 

元康は何故?家康へと改名したのでしょうか? 

元の字は今川義元の一字を貰い受けたのですから、

替えるのは理解できますが、何故?家の字にした

のでしょうか? 

眉唾物ですが、元康は新田義重の子孫を称してい

ます 

義重の父は、神仏化された武将・八幡太郎義家で

 

源氏を本姓として名乗る限りにおいては義家の一

字を貰い受ける事に意味がありそうです。 

因みに、家康に名を改めてから三年後に松平から

徳川へと姓も変更しています

義重の子供に得川義季と言う武将がいるので、こ

の得を徳へと変えたのでしょうか? 

三河では分家を含め沢山の松平家が存在したので、

三河統一を期に松平の頂点としての徳川家と言う

意味合いが強かったのかでしょうかね? 

 

 

 

 

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どうする家康、ネゴシエーター数正!!

2023-02-13 | 歴史

本当の意味での瀬名奪還計画が始まりましたね

鵜殿長照を人質に出来れば一番良かったのです

が、中々うまくはいきません 

長照の息子、氏長と氏次を生け捕りにしただけ

でも大成功と言えますよね 

数の上でも、交換要員の格から見ても普通はあ

り得ない交渉ですが、後は松平家の外交官・

川数正の腕次第です

 

元康独立を境にして三河では今川に反旗を翻し

た国衆達が増えていったと言われていますが、

勿論、氏真が手を拱いていた訳ではありません 

裏切った国衆の人質を惨忍な形で処刑したと言

われています

当時としては当たり前の事かも知れませんが…

しかし、何故か元康の子供達は直ぐに処刑され

る事はありませんでした

何故でしょうか? 

もし、元康の妻と子供達を処刑してしまえば、

元康を中心とした三河の武士たちが、反今川と

して結託してくる可能性が大きくなります

そうなると今川家は西からの脅威にも晒される

事にもなりかねません 

今川領を守る為には、何としても元康との友好

関係を続けたいと氏真が考えたとしても不思議

ありません

そんな氏真に付け込んだのがネゴシエーター石

川数正です 

もしかしたら?数正は今川と松平の和睦を条件

に提示していたのではないのでしょうか

全くあり得ない話ではありません

釣り合いの取れない人質交換を成就させるには

氏真の望むものを条件として提示するのが最上

です。 

そうだとすれば、数正は一流のネゴシエーター

と言っても良い人物ですよね

瀬名奪還計画は、数正なくして成功はあり得な

かった事だけは間違いなさそうです

 

 

 

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どうする家康、瀬名奪還計画!!

2023-02-06 | 歴史

妻・瀬名を奪還するため、殆どの家臣の反対を押し切り

藁をもすがる思いで本多正信に望みを託した元康 

その正信に焚きつけられたのが、すっかり落ちぶれた服

部半蔵です 

上手くいくと思われましたが、瀬名の母・巴から鵜殿長

照の妹・お田鶴を通して長照に知れてしまいましたね 

関口家の屋敷に忍び込んだ服部党を待ち受けていた鵜殿

長照の家来に散々矢を射かけられます

結局、瀬名奪還計画は土壇場で失敗 

瀬名達は捕らえられ、氏真から死罪を言い渡される始末。 

正信の計画に一縷の望みを託した元康ですが、万策が尽

きた感じですね。 

史実としては、正信による瀬名奪還計画は考えられませ

んが、ドラマとしては中々面白い設定だと思うのですが 

落ちぶれていた本多正信と服部半蔵が、世に出ていく瞬

間を見ている様な錯覚を感じてしまいます

 

ところで… 

岡崎城に入った元康は、最初から今川に反旗を翻した訳

ではありません。 

当初は今川側として織田軍と戦っていましたが、元康だ

けではとても戦いを続ける事など出来ません 

当然、今川に援軍を求めますが、今川も上杉謙信にる北

条征伐の援軍として出兵していたので元康まではとても

手が回らなかったのです

三河の国衆の離反を恐れた今川による人質提出の愚策の

為、三河では今川から離反する機運が高まったとも言わ

れています 

結局、元康の選択肢は織田と同盟し、反今川として態度

を鮮明にするしか道がありませんでした。 

好むと好まざるとを得ず、今川と手切れをするしか元康

の選択肢が無かったとも言えますね

 

 

 

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