ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

リスボン散策 … ユーラシア大陸の最西端・ポルトガルへの旅 9

2017年01月08日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

 (サン・ジョルジェ城から見たリスボンの街)

9月29日 

 今日も底が抜けたような (こういう形容があるのかどうか??) 青空だ。

 ポルトガルは、夏は雨量が極めて少なく、冬は多い。それで、年間の月ごと降雨量と気温のグラフを見て、9月末~10月初めの時期を選んだ。連日、快晴である。ただ海が近いせいか、少々蒸し暑い。

 今日は、リスボン市内観光の日。まあ、いわば、自由時間の1日である。

 リベルダーデ通りは、リスボンの市街を北から南へ貫いて、パリのシャンゼリゼ通りのように、プラタナスが木陰をつくる大通りである。大通りそのものはレスタウラドーレス広場で終わるが、そこからさらに南へと、幾筋かの楽しいショッピング街が、テージョ河岸のコメルシオ広場まで続く。

 一昨日と昨日のツアーのあとに、この南北を貫く中心街を歩いて、コメルシオ広場に近いホテルまで帰った。

 今日は、この南北の線の東側にあるアルファマ地区を巡り、時間があれば西側のバイロ・アルト地区を歩く予定だ。

          ★

< アルファマ地区とリスボン大聖堂 > 

   リスボンは1755年に大地震があり、火事と大津波にも襲われて、街は壊滅した。現在の美しい街並みは、その後、ボンバル公爵という名宰相のもとで、復興・再建されたものである。

 だが、この大震災のとき、固い岩盤の上に造られていたアルファマ地区だけは、残った。

 だから、アルファマは、古いリスボンを今に残す街で、路地裏があり、洗濯物が干され …… ファドという哀感をたたえた歌が歌われるのも、この街である。

 そのアルファマ地区のとっかかりに、リスボン大聖堂 (カテドラル) はある。

   ヨーロッパのどこかの町を訪れ、そこが司教座の置かれる町であれば、大聖堂には必ず立ち寄る。そこが司教座のない小さな町であれば、小さな町の中心となる広場 ── 広場に面して市庁舎があり、教会と塔が建つ広場 ── の教会に寄ってみる。 

 大聖堂やその町の中心となる教会は、その町の「顔」であり、大切な歴史的文化遺産である。

 そこを訪ねるのは、キリスト教やキリスト教会に対する敬意ということではない。そこには、この町で生きた人々の数百年の思いや心の祈りがある。それらがあってこその歴史的文化遺産である。

 それにもう一つ。テレビの旅番組で、すっかり古ぼけて、もう美しいとは言えないリスボンの大聖堂と、その前を旧式のチンチン電車がゴトゴトと走る光景を見て以来、もしリスボンに行ったら、あれを写真に撮りたいと思うようになった。   

            ( 市電とリスボン大聖堂 )

 1147年、最初のポルトガル王朝を建てたアフォンソ・エンリケス(のちのアフォンソ1世)は、ポルトゥカーレ軍を率い、リスボンに寄港していた第2回十字軍の北ヨーロッパの騎士団の支援を得て、イスラム勢力からリスボンを奪回した。

 そもそもエンリケスの父も、フランスのブルゴーニュ地方からレコンキスタを支援するためにやって来た騎士であったが、スペイン、ポルトガルのレコンキスタが十字軍運動と表裏一体であったことがわかる。

 リスボン大聖堂の建設は、このときのリスボン奪回を記念して始められた。

 後期ロマネスク様式であり、ポルトガルはまだ貧しく、しかもイスラム勢力の反撃に対していつでも要塞として使えるように建てられたから、いかにも武骨である。そこが、興趣深い。

 西ファーサードの上部や、2つの塔の上のギザギザは銃眼である。

   (身廊、側廊)

 内部も極めて簡素で、中世的で、バラ窓のステンドグラスがわずかに彩りを添えていた。

    (ステンドグラス) 

       ★

< ユリウス・カエサル時代からの要塞 = サン・ジョルジェ城 >

 大聖堂前からサン・ジョルジェ城へは、歩くにはやや遠く、何よりも、丘へ向かって登り続けなければならないので、ミニバスに乗った。

 聖ジョルジェ(ジョージ)は、龍と闘った伝説上の騎士で、ヨーロッパを旅していると、あちこちの広場や建物に碑や像が建つ。西洋版スサノオというところか。「スサノオ城」である。

 BC6世紀に遡ることができるというが、本格的に城塞が築かれたのは、ユリウス・カエサルの時代である。以後、西ゴード王国、ムーア人(イスラム教徒)、ポルトガル王国と変遷した。

 ポルトガル王国の王宮があった時代もあるが、今はこれという建造物もなく、リスボンの町や、テージョ川、遠く大西洋の河口を見下ろす展望台となっている。

 「かたはらに 秋ぐさの花 かたるらく 滅びしものは なつかしきかな」(牧水)。

   ( 城壁 ) 

     ( ポルトガル国旗 )

    (城壁の上の兵士の通路)

        ( テージョ川を見下ろす大砲 )

 

          (今はリスボンの展望台)

     (要塞のようなリスボン大聖堂を見下ろす)

                            ★

< 城壁の外の教会 = サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ教会 >

 サン・ジョルジェ城からぶらぶら歩いて、広場に出た。

 ポルタス・ド・ソル広場は、市電の走る丘にあって、眺望が良い。もっとも、丘の町リスボンは、眺望の良いところに事欠かない。

 広場のカフェテラスで、チンチン電車を見ながらコーヒータイムにした。

         ( 丘の上のカフェテラス )

 ここから、リスボン名物の市電に乗って、サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ教会へ向かう。

 教会の前の広場には、ミニカーのような車が何台も駐車していた。ヨーロッパの古い町では、黒塗りの馬車が観光客を乗せる。ジェロニモス修道院のそばにも、馬車と女性の馭者が待機していた。だが、リスボンの旧市街は急坂が多く、道路も狭い。そこで、路地裏まで入るこの車が大はやりなのだ。ただし、1時間いくら、という制度のようで、料金は結構高い。

 (サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ教会)

 サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ教会は、やはりアフォンソ・エンリケスがリスボン奪回のときに命じて建てさせた教会だが、その後、建て替えられているから、大聖堂と比べると、ずっと瀟洒な趣がある。「デ・フォーラ」とは「外の」という意味。造られた当時は、リスボンを囲む城壁の外に位置していた。

 教会の横に続く建物はもと修道院。

 入口でチケットを買おうとしたら、「シニアの方ですか」「えっ!! はい、そうです」「では、シニア料金で」。ジュニア (学生) と同じ割引料金で入場できた。

 若いと思っても、一目でシニアに見えるということだ。

 それにしても、EU圏を旅行していると、鉄道もシニア料金で乗れたりして、税金を払っていない外国人旅行者がこんなサービスを受けていいのかと、思わず気がねしてしまう。

 修道院の中は白亜で、壁に青いアズレージョの絵が描かれている所もあり、気品があった。

  ( 修道院の白亜の壁 )

 しかし、この修道院のお目当ては …… またしても、屋上からの眺望。

 屋上に上がると、目の前にテージョ川が広がり、河口の方まで見渡せた。 

          ( 屋上からの展望 )

 眼下に巨大なクルーズ船が停泊している。その近代的な巨船のそばに、メルヘンチックな街並みが、小さく重なって見えていた。  

     ( クルーズ船と街並み )

        ★

< ケーブルカーに乗ってバイロ・アルト地区へ > 

 タクシーで大聖堂近くまで降り、和食レストランで、久しぶりに美味しい和食を食べた。リスボンには日本人経営の和食レストランがいくつかあり、砂漠の中のオアシスのようである。

 ウインド・ショッピングしながらアウグスタ通りを北上して、レスタウテドーレス広場からケーブルカーのグロリア線に乗り、丘の上の街、バイロ・アルト地区に出る。

 リスボンの庶民の足と言われるケーブルカーも、今や観光客でいっぱいで、わずかな乗車時間のために並んで待たねばならない。元気な若者は歩いて登る。しかし、リスボン名物のケーブルカーにぜひ乗りたいというのも、観光客の心だ。

 

         ( ケーブルカー )

 サン・ロケ教会は、イエズス会の教会だ。1584年、天正遣欧少年使節がこの教会に1か月間滞在した。

 外見はささやかに見えたが、中に入るとバロック様式で、これでもか と言わんばかりに、瑠璃やメノウやモザイクで飾り立てられている。これぞ、「ザ・イエズス会」である。

 少年たちは、ただただ、ここが「神の国」であるかのように感動しただろうが、政治好きで、陰謀好きのイエズス会という宗教団体を、太閤秀吉も、大震災からリスボンを再生させたボンバル公爵も嫌い、弾圧した。

 

       ( サン・ロケ教会 )

 この地区の東西に延びる中心街・ガレット通りには、南北に通じる坂道の筋が交差し、その先にテージョ川がのぞく。リスボンを代表する坂の風景である。

    (テージョ川がのぞく)

 カモンイス広場も、リスボンを代表する広場。日が暮れてきて、若者たちで街角が一段と賑わいだした。

               ( カモンイス広場 )

                            ★

< スリにスマホを盗られて警察署に行ったこと >

   1日、歩いて、疲れ切っていたのに、もう1回、市電でリスボンを1周しようと、観光客で満員のチンチン電車に乗った。そして、混んだ車内で押されているうちに、リュックザックからスマホをスリ盗られた。

 ホテルの近くの警察に行くと、「ここではダメ。この道をまっすぐ行って、突当りを左に2ブロック行った所にある警察署に行け」と言われた。

 それから、あちこちで道を尋ね、夜道を(繁華街だが)1時間も歩き回って、やっと目当ての警察署にたどり着いた。へとへとになった。しかも、そこは、あのレスタウラドーレス広場のインフォメーションの隣だった。そう言ってくれれば、地下鉄ですっと来たのに。

 ただ、道を尋ねた店の人も、タクシーの運転手も、学生も、みんなとてもやさしかった。

 その警察署には3か所のデスクがあって、事情聴取が行われていた。さらに待っている被害者 (どう見ても、連行されてきた加害者には見えない) が3人。で、4人目の椅子に腰かけた。みんな白人の、人の好さそうなマダムで、お互いに顔を見合わせて、「やられちゃったわ」「がっくり…」という感じだった。どうやら、ここは、盗難被害にあった外国人観光客のために、英語で事情を聴取し、盗難・遺失物証明書を発行してくれる警察の出張所のようだ。なるほど。

 「リュックからスマホを盗られた 若い人なら、電車の中でもいつもスマホを見ているから、スマホだけは盗られないんですがね(笑)」…… 確かに、日本も同じです

 「では、調書を読み上げます。── 日本の住所と名前を読み上げて ── 日本語って、分かりやすい言葉ですねえ。全然知らない私でも、すぐに読めますよ」。…… 確かに、日本語は、1字の子音に1字の母音。アルファベットを知っていれば、誰でも読める。それにしても、日本語を知らない外国人が、こんなに鮮やかに日本の住所を読み上げるとは、思ってもいなかった。

 結構、楽しい警察官だった

 お蔭で、旅行保険から、おカネはしっかり返ってきた。

 以前、パリで、1眼レフのカメラとレンズを盗られたときも (これは、スマホより遥かに高額だった)、おカネはしっかり返ってきた。旅行保険に入っていて良かった。でも、まず、盗られないように、もう少し気を付けましょう。…… ムリかな。

 

 

  謹賀新年。今年もよろしくお願いいたします。

 

 


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