すでにあっちこっちで話題になっているが、1月31日付の読売新聞文化欄の頁は、けっこう衝撃的だった。
「記者ノート」というコラム欄に、1月14日に行われた米長邦雄永世棋聖(日本将棋連盟会長)とボンクラーズの一戦のことが記されているのだが、ここで米長永世棋聖の指し手をボロクソに言っちゃっているのである。
いわく、「野球のゲームにたとえると、5回コールドであっけなく終わった」。
いわく、「2手目の△6二玉は、『弟子が指せば破門する手』と棋士仲間が言うほどの奇策」。
いわく、「将棋ファンは、プロが機械に勝つためだけの作戦を見て、本当に満足したのだろうか」。
かなり辛辣な表現だが、さらに驚いたのは、この書き手が西條耕一記者だったことだ。
西條記者は竜王戦の担当者かつ「将棋世界」のレギュラー執筆者で、タイトル戦の観戦記はもちろん、「江戸の名人」についての連載も持ち、返す刀でもろもろのレポートもこなすなど、専属ライターかと見紛うばかりの活躍なのである。
2年前には、日本将棋連盟の「将棋歴史文化アドバイザー」にも就任した。もう、その辺のプロ棋士よりよほど有名なのである。
当然米長会長との親交も深く、私は、「西條記者は米長会長の片腕」と思っていた。いったい、ふたりの間に何があったのだろう。
話が少し戻るが、米長永世棋聖とボンクラーズは昨年末にもプレマッチを行い、そのときも米長永世棋聖は2手目に「△6二玉」と指したのだが、これも読売は「奇策」と報じ、のちに米長永世棋聖が自ブログで「△6二玉は奇策ではない」と反論していた。
この記事が西條記者のペンとは断言できないが、十中八九、そうであろう。とするならばこのころはすでに、両者に何らかの溝が生じていたのだろう。
ただ、両者に何があったにせよ、その不満を記事に反映させてはいけない、と思うわけである。記者はつねに冷静な目を持つことが肝心であるからだ。今回の記事はちょっと、米長永世棋聖がかわいそうだった。
とはいうものの個人的には、西條記者よく書いてくれたと、少し彼を見直したのであった。
「記者ノート」というコラム欄に、1月14日に行われた米長邦雄永世棋聖(日本将棋連盟会長)とボンクラーズの一戦のことが記されているのだが、ここで米長永世棋聖の指し手をボロクソに言っちゃっているのである。
いわく、「野球のゲームにたとえると、5回コールドであっけなく終わった」。
いわく、「2手目の△6二玉は、『弟子が指せば破門する手』と棋士仲間が言うほどの奇策」。
いわく、「将棋ファンは、プロが機械に勝つためだけの作戦を見て、本当に満足したのだろうか」。
かなり辛辣な表現だが、さらに驚いたのは、この書き手が西條耕一記者だったことだ。
西條記者は竜王戦の担当者かつ「将棋世界」のレギュラー執筆者で、タイトル戦の観戦記はもちろん、「江戸の名人」についての連載も持ち、返す刀でもろもろのレポートもこなすなど、専属ライターかと見紛うばかりの活躍なのである。
2年前には、日本将棋連盟の「将棋歴史文化アドバイザー」にも就任した。もう、その辺のプロ棋士よりよほど有名なのである。
当然米長会長との親交も深く、私は、「西條記者は米長会長の片腕」と思っていた。いったい、ふたりの間に何があったのだろう。
話が少し戻るが、米長永世棋聖とボンクラーズは昨年末にもプレマッチを行い、そのときも米長永世棋聖は2手目に「△6二玉」と指したのだが、これも読売は「奇策」と報じ、のちに米長永世棋聖が自ブログで「△6二玉は奇策ではない」と反論していた。
この記事が西條記者のペンとは断言できないが、十中八九、そうであろう。とするならばこのころはすでに、両者に何らかの溝が生じていたのだろう。
ただ、両者に何があったにせよ、その不満を記事に反映させてはいけない、と思うわけである。記者はつねに冷静な目を持つことが肝心であるからだ。今回の記事はちょっと、米長永世棋聖がかわいそうだった。
とはいうものの個人的には、西條記者よく書いてくれたと、少し彼を見直したのであった。
これまでの会長密着が豹変した感がありますね。LPSAの記事を書いた(女流アマ王位戦)あたりからモツレが感じられたという見方もあります。
ただ、豹変する者は再度豹変することもありますから、しばらく様子を見て見ましょうかね。まずは「将世」の記事執筆量くらいから。3月号はどうなっているか。
そうですね、私も個人的には、この記事はよかったと思います。私の言いたいことを、余すところなく代弁してくれました。久しぶりにスカッとしました。
>名無し名人さん
そうですか…。対ボンクラーズは、△6二玉が最善ですか…。だとすると、定跡を初手から変えさせる、ボンクラーズの指し手はスゴイですね。
>洋志さん
西條記者は女子アマ王位戦の記事も書いていたのですか…。それは米長会長が怒りますね。
「将棋世界」は、昨年の秋から買っていないのです。ただ駒音掲示板で、3月号では、西條記者の記事がない、という話も見ました。近々に大野先生の教室に行って、確認します。
プロの指し手を利用しないと、大局観がまるでダメと言う意味で凄いです。
定跡は定跡ですが、プロの指し手を利用させないだけの定跡で、角頭歩みたいな意味での定跡ですから。
なるほど。考えてみればコンピューターソフトも、プロの膨大な実戦譜が下敷きになっているわけですからね。
今後は、未知の局面でのソフトの指し方が注目されますね。
文頭で米長邦雄永世棋聖に「元名人の」という冠をつけ、文末では第2回電王戦に「伝統と文化の薫りがする内容を期待したい。」と結んでいます。
これらから推察するに西條氏は将棋の持つ伝統と文化にふさわしい内容を期待したのではないでしょうか? 将棋歴史文化アドバイザーならではの視点で将棋界に警鐘を鳴らしたのだと理解しました。
△6二玉を「ゲームの攻略本」レベルだと私は思います。
記事内容は、私も大いに頷くところがありました。
しかし私の見方が正しければ、西條記者と米長会長は蜜月の関係にあり、それだけに、あの辛辣な表現には違和感を覚えたのです。
繰り返しますが、あの記事自体はよかったと思います。
ちょっと社会常識がないにも程があると思います。
プロ棋士は天才集団ですからねえ。
私たちは彼らの望みどおり、意味もなく崇めたてていればいいのです。