いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第428週

2023年01月28日 18時00分00秒 | 草花野菜

■ 今週の武相境斜面

明日24日(火)からはこの冬一番、また近年でも最強レベルの寒波が襲来します。日本海側は大雪や暴風雪に最大限の警戒が必要です。大阪や名古屋など、太平洋側の都市部でも雪の積もるところがあり、生活に影響が出るおそれがあります。ソース

京都では雪が降ったが、東京では雪は降らなかった。上空の温度は下記図でわかるように京都でも東京でもかわらない。温度の観点から見ると東京は積雪の条件となっている。しかし現実には東京には雪は降らない。理由は山脈である。山脈で雪雲が水分を落として関東に吹き込むので、関東では雪が降らない。一方、京都ではその北方の山脈の壁としての効果が低く、雪雲が京都までやって来てしまうのだ。名古屋も同様。京都や名古屋で、意外にも、東京より雪が多い事情だ。気象は地理的因子も重要である。

■ 今週の草木花実

■ 今週の「止め火事」

こどもの国線、「うしでんしゃ」。



https://www.kanaloco.jp/news/social/case/article-965145.html

この焼けた家屋の裏を電車が走っている。 下記画像は線路側から撮ったもの。この「金子建材」と書いた塀の手前が線路。

焼ける前。Google Map

■ 今週の「切り落とし」

「パンのみみ」ならぬケーキのみみ

ラムシロップを染み込ませたスポンジでマロンクリームをサンドし、ホイップクリーム、渋栗クリームをしぼり仕上げました。人気の切り落としシリーズの新フレーバーです。ソース

■ 今週の単価

灯油1L、115円。

■ 今週の初めての「鍋」

初めてちゃんこ鍋を食べた。といってもファミレスだ。ガスト ちゃんこ霧島監修 両国ちゃんこ鍋(半玉うどん入り)(google)。そもそも、おいらは、ちゃんこ鍋の定義を知らない。印象は、お相撲さんの食事。wikipediaでみた。鍋料理全般ともある。相撲部屋の寄せ鍋(wiki)と云えそう。食べてみて、出汁は鰹因子が一番強かった。具は下記にある;

商品紹介・東京・両国にある元大関霧島の店「ちゃんこ霧島」から監修をいただき、かつお・鶏・豚骨の出汁の絶妙な配合をガストで完全再現しました。
・「ちゃんこ霧島」監修 秘伝のスープと鶏つみれ・かつお・鶏・豚骨の出汁を使った味噌しょうゆ味。鶏肉、鮭、野菜に半玉うどんも入った具沢山のちゃんこです。
・ニラ、白菜、しめじ、厚揚げ、鮭、鶏もも肉、半玉うどん ガスト web site

■ 今週の自伝;20円=チロルチョコの"娘"

たまに行く『三田評論』のある待合室でみた。無造作に手に取ったのは、2021年11月号。「話題の人」としてインタビューに応じている「塾員」は関美和。投資家で翻訳家。大量に売れた『FACTFULLNESS』の翻訳家。

 

そして、彼女は、チロルチョコを製造する会社の社主の娘と知る。ビンゴ!愚ブログで、2022年4月9日、チロルチョコ=20円に言及した。興味深く思ったのが、20円のチョコレートをどこで作っているのだろう?ということ。こういう単価の低い製品の生産状況を知りたかった。包装に工場の住所があった。福岡県田川市。ググった。Google Map

福岡県田川市は本来、石炭の街だったと関美和さんの自伝:インタビューで知る。インタビューはネットで全文を見られる

──なるほど。ここに至るまでの関さんの道のりはとても興味深いのですが、お生まれになったのは福岡の現田川市という炭鉱町だそうですね。

 私は4人兄弟の末っ子なんです。兄が3人いて12歳年上の兄(松尾利彦チロルチョコ株式会社会長)が慶應の法学部に入った時、私は小学1年生でした。

(中略)

でも周りは炭鉱町という特異な環境で生活がとても厳しい人たちもいました。父は「チロルチョコ」という会社を経営していたのですが、兄が大学に入るぐらいまでは工場も苦しかった。

私が小学校に入ってからは少しずつ家計が豊かになっていきましたが、同じ小学校には「炭住」という炭鉱労働者の長屋に暮らす閉山した炭鉱の炭鉱夫の子が多くて、日本が高度成長していく中で取り残された町という感じでした。小学校の同級生は私が高校生の時にチロルチョコの工場で働いている方もいらっしゃいました。

──現在、AUW(アジア女子大学)で貧しい国の学生たちの支援をしていらっしゃるのは、そういった経験も影響があるんでしょうか。

 ありますね。運良く生き延びて、教育を受けられたことを少しでもお返ししていきたいと思います。

貴重で興味深く、リアリティがあり、ある種生々しい話だ。「小学校の同級生は私が高校生の時にチロルチョコの工場で働いている方もいらっしゃいました」。

ここで想起しないでいられない;

人は生まれながらにして貴賤貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。 (『学問のすすめ』)

関は、「人は生まれながらにして学問を勤める機会の別あり」と知ったのだ。そして、そのことを現在、このインタビューでその認識を確認している。諭吉の「間違い」を知っているのだ。だから「運良く生き延びて、教育を受けられたことを少しでもお返ししていきたい」といのであろう。

現実の資本主義はこうだ。生まれながらにして学問を勤める機会がなく、学問の力がなくて手足を用うる力役のようなやすき仕事をする身分軽き人がいなければ、あまたの従業員を召し使う工場主などは存在できない。どんなに、工場主に学問の力があったとしても。

もっとも、愚かで貧しく(学問の力があると称する人からみて)下人であったも、不幸とは限らないかもしれない。中卒の女工さんだった人が今では幸せであることを祈るばかりだ。むしろ、学問に勤めかしこき人となり富める者となり身分重くて貴き者となっても「不幸」はやってくるかもしれない。

■ 今週の「焼き尽くされたのと焼き尽くされなかったもの」

 上記の『三田評論』2021年11月号の書評は『日本大空襲「実行犯」の告白──なぜ46万人は殺されたのか』だ。ネットでも読める。著者の鈴木冬悠人は「塾員」。さて、焼き殺されたのが46万人とあるが、生き残ったのが小泉信三。小泉信三が受難者であったとは、数年前この待合室で見た『三田評論』で知った。この記事は今検索するとこれ(【慶應看護100年インタビュー】戦時に小泉信三先生を看護して)であったとわかった。それをきっかけに『小泉信三』(小川原正道)で確認して、愚記事(今週の焼夷/傷痍知識人)に書いた。さっき、本屋で『伝記 小泉信三』(神吉 創二)を立ち読みした。受難の日、三田の小泉の家で、空襲警報が出ているのに、予め防空壕に逃げず家の屋根で水を撒いていた。すると海岸ー田町方面から来たB-29からの焼夷弾本体(本体から枝弾がばらけて地上を広範囲に襲い、焼く)が家を直撃したとのこと。

さて、一連の東京空襲で、特に1945年3月10日の墨東地区の空襲は焼死者10万人であり、民間人大量虐殺だ。ジェノサイドである。こういうことをする米国が戦後主導する「民主制/democracy」を何ら抗うことなく受け入れた小泉信三ら「親米」知識人を、おいらは、全く理解できない。虐殺・民主主義だ。仮に、大日本帝国が人類に挑戦する極悪非道であったとして庶民(democracyとやらの担い手のはず)が虫けらのように焼き殺されていいわけはない。小泉信三ら「親米」知識人は戦後なんらこのことについて意見していない。

ところで、おいらが福沢諭吉に興味があるのは、諭吉が訪米時にはまだ奴隷制があり、そもそも米国は先住民の駆逐と虐殺に基づく。そんな連中の社会を「文明」といって、ありがたがるのだ。これがどうにも不思議だ。今に至るまで、KOに対するおいらの偏見は、欧米をありがたがる人たちである。そういうのは彼らの勝手ではあるが、どうしてそういう人たちがいて、現実の日本でのさばっているのか?ということである。やはり、欧米はありがたいので、思わず観光[1]てししまうのだろうか?

[1] (諭吉の子供たちが)成長すれば外国に留学させたいと思っている。ところが世間一般の風を見るに、学者とか役人とか言う人が動[ヤヤ]もすれば政府に依頼して、自分の子を官費生にして外国に修行させることを祈って、ドウやらこうやら周旋が行き届いて目的を達すると、獲物でもあったように喜ぶものが多い。嗚呼[アア]見苦しいことだ。自分の産んだ子ならば学問修行のために洋行させるも宜しいが、貧乏で出来なければさせぬが宜しい、それを乞食のように人に泣きついて修業をさせて貰うとは、さてもさても意気地のない奴共だと、心ひそかにこれを愍笑[ビンショウ](以下略)『福翁自伝』

なお、おいらが小泉信三に興味を持つのは、その戦時中の攘夷情念(反米感情)の横溢である;

このことは以前に書いた。

小泉信三は戦時中の慶応の塾長であった。上記のように激情的「攘夷」になったとのこと。激情的「攘夷」は諭吉が最も嫌ったものにほかならない。学生を戦場に送る立場であった。戊辰戦争のとき、上野の戦闘を「紅旗征戎吾が事に非ず」と講義を行った諭吉のような贅沢は与えられなかった。というか、諭吉もやらなかった政府への参画を「内閣顧問」として行っていたと清沢の証言でわかる。

慶応の塾長なら、国が決めた戦争だから従事しないわけにはいかない。ただ、せめてスポーツに参加するように淡々とルールに則り従軍すべし」くらいですましておけばよかったのに、「米国の奴隷」とか叫んでしまったらしい。その小泉信三が書いた諭吉の伝記。冒頭、諭吉の生没年とヴィクトリア朝時代が一致するとの指摘。なるほど、そうだ。ということは、諭吉が没した時、漱石はロンドンにて、ヴィクトリア女王の葬列を見送り、その後、『三四郎』で亡びるねと広田に言わせた日本は、諭吉の没後50年もたたず亡びるのであった。何なんだった、文明開化ってことだ。

ところで、戦中の言葉と戦後の行動を整合させると、小泉信三は米国の奴隷となって天皇の師となり、自由主義者であったことになる。