ある退職教師のつれづれなるままに

38年間の教職26.3.31退職
4月1日再任用。自分の目でみたこと感じた事など
つれづれなるままに記します。

2020-33 新型コロナで学校現場は

2020年02月28日 | 日記
27日の木曜日の夕方、新型コロナの感染予防により
安倍首相は唐突に全国各地の小中高に
3月2日から休校する要請した。
感染した地域は安全の配慮優先も仕方がない。
が東北6県はまだコロナに感染された人はいない。
一律に休校一ヶ月の要請はどんなものだろうか。
しかも要請の2日まで登校日はわずか1日。
教育現場は大変混乱しているだろう。
ただでさえ2月は逃げる、3月は去る。
と3学期の日程の詰まった日々の中で
年間のまとめの学習の教育評価をこなす量は膨大なのだ。
せめて一週間あったら授業時間のなかで、テストの評価ができるのだが。
教科書も全て修了し次学年に進級できるのではないだろうか。
万が一、一部未習のまま進級することも考えられ、その点も危惧される。
卒業式は儀式と言うより、子どもと教師の最後の授業ともいえる。
それが何もせず、「これでおしまい。」となったら卒業生にとっても気の毒でしょうがない。
また
学校は休校で学童や保育園は除外で1日行う。と要請。
放課後支援員をしていて
学童こそ、狭いスペースで詰め込まれ感染が心配される。
矛盾を感じる次第である。
そういう意味では千葉市の市長さんの指摘はもっともである。


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2020-32 なぜ、あんなミスを・・・

2020年02月26日 | 日記
水泳大会での200mメドレー
ターンでのまさかの失態。
あとでコーチに「練習と試合は別物」と。
やはり頭ではわかっていても
体が別反応してしまったのは、練習がたりない、
二コメの本番での回数が足りないことが起因していると。
失敗をかてに今日も泳いだ。
先日会場に元オリンピアン3人がゲストとして参加。

バックと平泳ぎの特別レッスンがあった。
平泳ぎを受講。
模範泳法。5ストロークぐらいか。
水中から見ると頭がぐーんと水中に下がって腰が高い位置。
ストリームラインを強調しておられた。
ややもすると肩が上がって泳ぐ人が多いと。
それは抵抗が増える姿勢であり、肩は下げたいと。
また障害予防としての筋肉体操の紹介があった。

さて今日、秋の900人の11月イーハトーブが来年度は
冬の1月29~31日の大会になったとネットに公開されていた。
変更理由は会場の耐震補強工事のためだとか。
雪が舞う中の水泳大会、風情がありそうだ。








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2020-31  失敗を乗り越えて また・・

2020年02月23日 | 日記
22日、ニチレイ水泳の検定日
一級の挑戦。200mメドレーだ。
今年になってから、大分泳ぎ込んできた。

ようやく改善点が実を結び結果に表われてきたのだった。
バッタは浮力を利用し浮き上がり時に手をかくと楽に泳げること。
バックは手が内側に曲がりやすいことを手をねじることで小指から入水できること。
平は無理にかこうとしないで水中でもよい。ストリームライン、けのび姿勢を保つ。
腰が下がりやすいことをまず優先して直す。
クロールは大きくストローク数を少なく。
この4点を改善してきた。
どうにか目標タイムより5秒速く泳げるようになってきたのだった。

当日
開会式。オリンピアンが3名来賓で。
挨拶をいただいていよいよ競技。
始めのバッタを泳ぎ、苦手バックも克服し、次は平だった。

ここにおもわぬ落とし穴が待っていた。
ターンをした時に、片手が壁をキャッチして次にひねって上から落ちるときに、
無意識にバッタの手を一回やってしまったのだ。ひとかき一蹴りもあったもんじゃない。
手が思わず回ってしまった。おまけに足までバッタのキックをうってしまっていた。
なんだかおかしい。しかし気を取り直してその後、平を泳ぎながら失敗したことに気付いた。
そのあとのクロールも少し力が入らなかった。なんとか完泳はした。
タイムは目標タイムより5秒遅れがった。失敗だ。というより、失格になっていた。
当然の結果だ。思わぬ失敗をしてしまった。
100mメドレーは何回も泳いでいたがこんな失敗はなかった。
200mメドレーはまだ数回。まだ体にすり込まれていないのだった。
まさかこんな結果になるなんて。
この失敗を生かして二週間後、再挑戦しようと決意したのだった。










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2020-30 続 小さな写真展から

2020年02月17日 | 日記
「焼き場の少年」では
火葬の順番をまっていた少年だが
背負っていた弟の小さな亡骸を灰の上において
その方には目を向けずに終わるまで直立不動でたっていたという。
その姿に、切なくてとても声をかけられなかったと写真家のコメントだった。

被爆した谷口さんの「焼けただれた背中」は平和を願う人ならば
だれもが目にしたことがあると思う写真だ。
当時14歳の谷口さん。コメントにはえやうじがたかっていてあまりに気の毒で
はえを追い払い、うじをとってから撮影したという。
あまりの痛さにそのとき谷口少年は気を失っていたらしい。
カメラマンは気を失っていたことにそれはそれでせめてもの痛さを感じずよかったと。
その悲惨な現場にこれ以上犠牲者をとりたくないと思ったとの記していた。
谷口さんはその後48年ぶりにこのカメラマンと再会していた。

「箱車の子ども」は小さな3人の子ども達
その中の年長の子にリンゴを1個あげたら
よっぽど空腹なのか、たかってきたハエを追い払おうともせずにむしゃぶりついて
口にはえが、その後、兄弟達に順々に食べさていたという写真だ。

おさな子達が赤ん坊をせおっている写真。
終戦直後、大人達や兄弟達は修復工事などにかり出され、子守はおさな子達。
あそびたい盛りの子ども達が幼い子どもの面倒をみている写真もあった。

厚着をしている老人。やけどの治療待ちで薬といってもマーキュロを塗るぐらい。
自己防衛として、太陽の直射日光に皮膚をあてないようにそまつな服を何枚も合わせ着している。

偽の大砲 全国各地で見かけたという。
大砲に似せて電柱を仕掛けて穴に埋め込んでいたりして偽装。まともな大砲は見たことがなかったと証言している。原爆を投下した日本の兵力を見誤ったのではないかとのコメント。原爆を投下しなくても・・・。
一人の老人。
原爆被災した中をたたずむ身なりのしっかりした一人の老人に出会ったという。
その人はアメリカから日本に戻ったと。肉親が犠牲になったと。
当時23歳の若きカメラマンに
この光景をしっかりと写真に納め後生に伝えてほしいと語ったという。
原爆をおとしたアメリカ、憎いとは言わないが悲しく決して忘れることはできないと。・・・








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2020-29 ローマ教皇を動かしたあの写真

2020年02月16日 | 日記
盛岡の小さな教会で写真展が開かれている。場所は下ノ橋の教会だ。
「焼き場の少年」他30点。
3日間の開催。土曜日から月曜日まで。
昨日は722人が訪れたという。今日もたくさん方が小さな教会に訪れていた。

それはジョー・オダネルというアメリカの従軍カメラマン。
終戦後占領軍のカメラマンとなって終戦直後の日本へ九州・佐世保から上陸。
以後、7ヶ月間、軍の記録写真とするため広島・長崎・をはじめ焦土と化した日本各地を撮影。
 90年、初の原爆写真展をテネシー州で開くも勇気ある行動と評価される反面原爆投下は
正しかったと教育されているアメリカ人からは非難を受ける。
日本で初開催した教会の方は
 92年、教会の交流で渡米し、ジョーと出会い、これらの写真を見せられ秋に早速、盛岡の善隣館で写真展を開催。それを機に日本中から開催の申し出を受け、現在も続いているそうだ。
この写真展の中の一枚が特にローマ教皇の目にとまり世界に発信したという。
 ちなみにジョーの奥さんは平和を願い知り合った福島生まれの坂井さん。
ジョーは2007年、85歳アメリカで亡くなる。
写真は多くがはじめて見る写真ばかり。
写真の下に解説があった。それがまた切なくなった。
詳しくは次回で






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