私の旅行体験記,

私は南米に6年間勤務しました。その際撮影した写真が700枚ほどあります。これから逐次ご紹介します。

株式会社トップアートの広告   20713  山田清光  コスモス

2010-09-30 13:18:45 | Weblog

  株式会社トップアートの広告   20713  山田清光  コスモス

トップアート社のご許可を頂いております。からログから転載させいただいております。

       秋の野で摘み取ったばかりの愛らしいコスモス

草原に置かれた花籠から、こぼれ沈ちんばかりに盛られたコスモス。あたかも今摘み取られたばかりといったか可愛らしいピンクのコスモスが、やわらかな秋の日射しをあびて生き生きとした清楚な風情を醸しだしています。柔和で繊細なタッチの花の絵で人気の高い山田清光画伯が詩情豊かに描きあげました。草原の黄緑を背景に、鮮やかなコントラストでコスモスノピンクをいっそう際立たせ、立体感や遠近感をも表現した力作です。


最近読んだ本、リスト 購入および県立図書館で借りて (Ⅴ)

2010-09-05 12:01:39 | Weblog
   最近読んだ本、リスト 購入および県立図書館で借りて (Ⅴ)

樹陰で爽やかな風吹かれての読書、冷房の効いた図書館での読書、夏の醍醐味です。

2010年8月18日記入

155、辛坊正記、辛坊治郎 日本経済の真実、ある日、この国は破産します。末尾のこのように記載されています。【20世紀の後半、アジアの東に日本という平和で豊かに栄えた國があった。資源の恵まれなかったこの國は、勤勉で礼儀正しく自律精神にあふれた国民が熱心に勉強して働いて作りあげたものだった。豊かさに馴れた国民はやがて国えの依存心を強め、それに迎合して矜持を忘れた政治家やメディアと、縦割り行政の中で自らの利益を優先する官僚組織に蝕まれ、いまは歴史の彼方に消えてしまった】
 我々の子孫がそのような外国の教科書を読む日が来ないよう、がんばれ日本人。【辛坊正記】とありました。                  

156、森村誠一 正義の証明【上】ツイッターするの難しかったので、目次のみ羅列します。1】法に対する天誅 2】危険な深化 3】狙撃されたタンポポ 4】プロフェショナルナ防衛プログラム  5】失礼な慰謝料 6】国盗記 7】妖怪の資金源 8】ドングリと銀バッチ 9】名誉の方向 10】近道の事故 11】同乗していた不都合 12】目覚めた進化 13】遺留された埃 14】ばかの縁談
 森村氏のHP URL=http://www.morimuraseiichi.com/

157、森村誠一 正義の証明【下】あとがのき抄録、犯罪や交通事故に巻き込まれて、運悪く殺されたり傷つけられたりする。このような場合、警察が出張って来て事件や事故を捜査し、検察が起訴、不起訴を決定する。起訴された案件は裁判所が裁いて有罪、無罪を判断する。これが一応、法が執行されるシステムである。
 この間、被害者は蚊帳の外に置かれる。警察の捜査はほとんど犯人や加害者に集中する。つまり犯人や加害者の言い分ばかり聞いて、被害者が発言する余地はほとんどない。不起訴と決定された人たちを被害者は勝手に訴え出ることはできない。要するに、裁判は個人(被害者)のものではなく、國が行う。そして國の決定が正義の実現とされる。正義の規準たるものが法律である。人間は一人では生活できない。多数が集まって社会を形成し、その最大公約数の約束事として定められたのが法律である。この正義の規準は絶対的に正しいのであろうか???と言う観点から筆者は私刑人という人間を登場させ、大活躍させている。
そして、この作品では、法の救済からこぼれ落ちた弱者が、自らの正義を実現しようととした闘いを描く。こんな人間が次々に現れては社会派崩壊するが、我々が依拠している正義の規準とはなにかを改めて見つめ直し、問い直してみた。絶対的な正義の規準は果たして存在するのか。あるいは社会という大の虫を生かすために、個人という小の虫を殺さなければならないのか。はたまた正義は幻想にすぎないのか。???とあった。

158、平山壽三郎 『雲 西南に流れる。』西郷老いたり!!。明治三年八月、稲村源三郎がホーピ・フリューナと肩を並べて、海岸通に迎える横浜港の沖が日射しにきらめいていた。明治初年、徳川幕府は完全に倒れて、新政府大悪人西郷隆盛が薩摩へ帰国するまでの経過を記述しているが、にじむ涙をこらえて天を仰ぐと、残照に染まった雲が、西南の方向に流れゆくのが見えた。

159、 黒須紀一郎 【日本国王抹殺】足利義満は幼くして秀才の誉れ高く、彼の官位・昇進はくべき速度ですすみ、まず十一歳にそて征夷大将軍の宣下を受け、十六歳の歳従四下・参議左近衛中條となり、公家の仲間入を果たし、十八歳で従三位・二十一歳で従ニ位・権大納言・右近大将そして二十三歳で従一位・大臣と昇った。三十歳で太政大臣と本来は武家でありながらあっという間に五摂家の辿る昇街道を駆け上がってしまった。
 そして最後は、幕府将軍を越し帝(天皇)を越して、国王を自称するまでになった。
そして【國の新しい仕組みは将軍と、天皇の上に日本国王を置くことになる】と豪語した。
しかし、終章『神々の闘い』のなかで変若水(おちみず)として若返りの神水(丹砂)(辰砂)=水銀の混ぜられた水を飲まされ、愛妾高橋どのとともに数日で亡くなられれた。

160、平岩弓枝 聖徳太子の密使 額田部王女(ぬたべのひめみこ)【推古天皇】の甥にあたる厩戸王子(うまやど王子)の娘、綿津風珠光王女(わたつみたまがひめ)は三匹の猫(北斗、オリオン、スパル)(猫が通訳になる)と馬の青龍をお供にして難波津の天の島舟に乗って諸国を遍歴した。一人、一頭、三匹が大活躍し、諸国の人々を救う物語り。でした。

2010年9月4日書き込み

161、立松和平 立松和平が読む良寛さんの漢詩 漢詩に関する本は初めてです。漢字がどこまでパソコンで書き込めるか試して見ます。
 

 題  生涯懶立身   生涯身を立つるに懶(ものう)く

 生涯懶立身   生涯身を立つるに懶(ものう)く
 蕩々任天真   騰々(とうとう)天真に任す
 嚢中三升米   嚢中(のうちゅう)三升の米
 炉辺一束薪   炉辺(ろへん)一束(いっそく)の薪(たきぎ)
 誰問迷梧跡   誰れか門わん迷梧(めいご)の跡(あと)
 何知名利塵   何ぞ知らん名利(みょうり)の塵(ちり)
 夜雨草庵裡   夜雨草庵(そうあん)の裡(うち)
 双脚等間伸   双脚(そうきゃく)等間に伸ばす

 良寛が自らあるべき姿と思い、実際、自由自在になった状態を示している。上昇志向はなく、天然自然のままに生きている。袋の中に三升の米があり、炉辺には一束の薪がある。迷いだの悟りだのという修行の痕跡なども残さず、名利などまったく求めない。夜中の草庵に脚を伸ばしてのびのびと寛いでいる良寛の姿が、彷彿としてくる。
 と訳されていました。手書き文字入力を用いたのは最初の【懶(ものう)く】だけでした。僅かな試みでしたがパソコンは漢詩にも活用できる!!。と感じました。

2010年 9月8日書き込み

162、石川忠久 漢詩人 大正天皇 その風雅の心

石川先生はNHK新漢詩紀行ガイド(月刊)で大正天皇、漢詩人、大正天皇、その風雅な心
の紹介を表紙の裏で記載されています。漢詩!!私には難しくて読めないではないか?と躊躇しましたが。県立図書館で思い切って、借りてきました。
 石川先生の紹介、解説などに力を得てどうやら通読しましたが、我が学問のたらざるを痛感いたしました。前回の【161,立松和平氏の良寛さんの漢詩】に較べると一段と難しく
パソコンで漢字がどのくらいはいるだろか??と不安に感じつつ試して見ました。

 石川先生の原著をそのまま転載します。

①大正天皇のプロフィール、大正天皇は、明治十二年八月三十一日のお生まれ。明治二十九年から大正六年までの二十二年間に、実に千三百六十七首の漢詩を残された。この数は歴代天皇中第一位である。

 因みに、その次は後光明(ごこうみょう)天皇(第百十代、江戸初期)九十八首、嵯峨天皇(第五十二代、平安初期)の九十⑦首と続く。大正天皇は”断トツ”と申上げるべきだろう。二十二年間に千三百六十七首といえば、年間六十二首平均、一週間で一首以上(一・二首)ということになる。今、その全作品は、宮内庁所蔵の【大正天皇御集】に収められている。
 この度、大正天皇の御製の漢詩を通覧する機をを得、拝読の余、天皇が真個の”文人”の気質を具えておられることを識しった。つくずく思うに、天皇は晩年ご脳を患われ世と相離れてご生涯を送られたが、それはた偶々日本の国勢拡張期に遭遇し、富国強兵の思潮の渦に否応無しに翻弄されたことに因ってのことではないか、もし天皇が奈良、平安の雅な世にお生まれになっていれば、その文人の気質は伸びのと揮われたのではないか、と。


② 皇太子の青春 明治三十ニ年、皇太子二十一歳、沼津御用邸より軍艦【浅間】に載って神戸の舞子の浜に有栖川宮別邸に向かわれた。
 十月十九日、出航。その夜、軍艦は遠州灘を通る。折から満月が皓々と海を照らす。ここで生涯の名作が生まれる。

    遠州洋上作   遠州洋上の作

 夜駕朦艟過遠州    夜朦艟(もうどう)に駕(か)して遠州過ぐ
 満天明月思悠悠    満天の明月思い悠々
 何時能遂平生志    何れの時か能(よく)平生の志を遂げ
 一躍雄飛五大州    一躍雄飛せん五大州

    
    遠州灘にての作
 
 夜、軍艦に乗って遠州灘を通れば
  空には明月が皓々と輝き、思いは広がる
いつか、日頃の念願を果たし
   世界へ雄飛したいものだ

 この詩は伊藤博文が色紙に書いて新聞に発表し、当時評判になった。これについて木下彪
は「、、、東宮にはこの外に御佳作があり、且つこの詩は平生の御作風とは稍異なる者がある」とし伊藤の意図を「、、、東宮は御幼少の時御病弱にあらせられ、、、、、今や東宮が心身ともに御壮健になられ、大艦に駕(か)してこの豪吟を発せられたということは、伊藤としても非常な喜びで、、、、国民にも知らせたく、、、」と忖度している。

  なお上記大正天皇の漢詩のなかで、パソコン手書き文字入力に頼らなければならなかった文字は、朦艟(もうどう)駕(か)しての二ヶ所だけでした。パソコンは凄いな!!と感じました。私のパソコン文字入力はwindowsXPです。windows7などではどうでしょうか?。

163、風野真知雄 ニコライ盗撮 事件は滋賀県大津で起こった。明治二十四年五月十一日のことである。当時、ロシア皇太子ニコライ・アレキサンドロヴィッチがロシアの東洋艦隊を率いて、来日した。京都に入り、琵琶湖観光のため大津に来ていた。皇太子ニコライは行く先々で大歓迎を受けている。警備は厳重で、征服姿の巡査が立ち並んでいた。だが、不心得者は制服姿の巡査で、突然、出場した。れっきとした滋賀県巡査、津田三蔵である。いきなりサーベル(当時の多くのサーベルは、中の刃は旧日本刀が据えつけられていた)を抜き、素早く駆け寄って皇太子の頭部をめがけて斬りつけた。
事件は直ちに明治天皇や東京の内閣に打電された。内閣は報せを受けると、仰天し、慌てふためいて対応に右往左往した。
 皇太子ニコライの訪日は、我が国の国土と軍備をつぶさに観察するだろし、それはやがてシベリア鉄道が完成して、軍隊送り込んでくるときの参考とされるだろう、、、、、、。
多くの人は、そう思った。やっとのことで明治維新を成し遂げ、よちよちと国際社会に歩き出したときである。万が一暴漢に襲撃でもされ、一命を落とすことにでもなれば、一気に戦争へ突き進む、恐れもないではない。渦巻くさまざまな懸念と不安。それに尾ひれがつき、なんと!!十四年前の西南戦争で死んだはずの西郷隆盛帰ってくるとかいう噂だった。冷静に考えればまさに荒唐無稽(こうとうむけい)である。さらに西郷の帰還にはおぞましい修飾が付いた。西郷が乗ってくる船というのが、巡洋艦畝傍(うねび)だというのである。畝傍は明治新政府がフランスに発注した、世界でも最新鋭の軍艦だったが、日本へ向かう途中の明治十九年十二月、東シナ海上で忽然と姿を消し、奇怪な消失事件として当時の話題になった。
 以上が序文、大津事件の概略である。以下第一章~第十三章(終章)まで”写真師”志村悠之介を主人に物語が展開し、326頁で終わった。ツイッターできませんでした。序文の概略だけで終わりにします!!!!!。

164、中井英夫 中井英夫戦中日記 彼方より<完全版> 私より5~6年年上の戦中派(学徒動員された世代)の日記である。『多くの戦中派世代がいつのまにか”聴け、わだつみの声””式の傷みで自分の傷みを代用させてしまっている、それが私には不思議でならない』と記している。私も戦中派後期(17歳で終戦を迎えた)の一人である。”きけ、わだつみの声、遙かなる山河に”を大感激して読んだ憶えがある。なぜ著者がこんな日記を書いた野か??この著者の心情が全くわからない!?どうして???。

165、森村誠一 煌めく誉生 最近読んだ本(Ⅵ)別紙に紹介しました。

166、ドナルド・キーン 松宮史朗 訳 思い出の作家たち 谷崎潤一郎、河端康成、三島由紀夫、安部公房、司馬遼太郎、1953(昭和28年)に来日した。それがどれほどの幸運であったかを言っておかねばなるまい。当時、日本文学を学ぶ外国人留学生などほんの数人しか無かった。だから高名な作家も、おそらくは好奇心に駆られたのであろうか?
私のような留学生を喜んで自宅に招き入れ、時間も気にせず接してくれたものだ。!!!???