私の旅行体験記,

私は南米に6年間勤務しました。その際撮影した写真が700枚ほどあります。これから逐次ご紹介します。

私の外国語とコンピュータとの関わり合い、79歳になって顧みれば(老人の独白)

2007-10-29 16:35:49 | Weblog
 私が外国語の勉強を始めた時期は旧制中学へ入学してから英語の勉強をしたのが最初でした。しかし、昭和16年(1941年)入学した年の12月には対米英との戦争(太平洋戦争)が始まりました。当時は英語は敵性言語であるから勉強する必要はない!?。という軍部の強い圧力から、学校での英語授業は無くなりました。学徒勤労動員などもあり、殆ど授業もなく、昭和20年8月(1945年)の17歳の時に終戦を迎えるまでに、英語との縁は一切無くなっておりました。若い最も多感で新しいことを吸収できる年代に全く語学の勉強が出来なかったのです。

①英語との関わり合い、

 私の外国語との関わり合いは17歳以降になります。戦後の混乱期を少し脱した昭和23年(1948年)から本格的に英語の勉強を始めました。高等学校の英語の教科書、ラジオ英語講座、公民館の英語教室、その他あらゆる機会を通じ、ひたすら英語、英語、英語の勉強を続けました。
昭和30年代(1955年以降)には住んでいた市の英語学院の夜間部中学生を対象とした英語教室で中学生対象の英語教師をしました。教師をすることで一段と力が付いたと感じました。特に基礎レベルの英語をしっかり勉強できたことは、後で大きな力の原動力になったと思います。
 
 その後、農林水産省の職員に採用され、統計調査部の作況試験地に配属されました。そこで当時としては先端的だった、統計学の勉強をし、主に気象要因と作物生育との関係の解析、収量予測法の確立などの研究を行いました。当時はパソコンなどは無く、手回しのタイガー計算機で多元連立方程式、行列式などを解きました。
 1951年に岩波書店から出版されたG.W.Snedecorの統計的方法、という本が農学、生物学を専攻する研究者にとってはバイブルに相当しました。ソロバン→タイガー計算機→電卓→筑波研究学園都市とオンラインで結ばれた大きな計算室一杯の大型の電算機で、カードでプログラムやデー入力する大型電子計算機→パソコンの登場、などと変遷して来ました。
 
 これらの経験を経て余生を過ごしている現在、県文化センターでパソコンによる情報入力のボランテイアに生き甲斐を感じております。

 「このボランテイアの出来るまでにパソコンを扱う力が着いたことは、一重にR.M女史、J.T氏などの情報ボランテイアの仲間の方々のご指導の賜です。ここで心からお礼申し上げます」。
 
 また、南米勤務中の700枚の写真で南米紀行のホームページを開いたり、インターネットや、さらにブログ「ブログの立ち上げも上記R.M女史の負うところ極めて大きいです。感謝!!!!!です」を楽しむことにまで続いております。

 一方では、農林省東海近畿地域農業試験場へ転勤になり、外国語文献、特に英文文献を読む必要性に迫られ、ひたすら辞書を引き、毎週の原書講読ゼミにも参加し、勉強を続けました。また、学会誌発表なども多く重ね、英文サマリー(要約)なども書く必要がしばしばありました。そんな状態で、否応なしに英語は職業上欠かせない外国語になりました。
 
 退職後も市の公民館などで行う「英字新聞を読む会」「英会話教室」などに入会し、退職者、現役が楽しみ合い、英語との縁が続いておりました。しかし数年前から夜間出かけるのは億劫になり、これらの会も脱会し、現在はパソコンでインターネットをアクセスする程度に止まっております。

②ドイツ語との関わり合い、

昭和47年(1972年)に私の発表した論文「Statistical Studies on Simplified Survey Method Estimating Yield of Mandarin (Satsuma) Orange.」が認められ、京都大学から博士号の学位を与えられました。しかしその前提として、日本語の本論文は博士号の学位に値するが学者の一般教養としてのドイツ語と英語の力を確認したい、との要請が主任教授からありました。そして、ドイツ語と英語の論文を渡すのでそれを解読し、日本語に翻訳した結果を提出せよ、との指導がありました。英語は何とか対応出来ますが、ドイツ語は全く初めてでしたので、それこそ死にものぐるいで勉強しました。

 この苦心は忘れもしません。
 Hans Molish という生物学者の「Das Wasser und seine Bewegung」「水とその移動」という植物生理の論文でした。日本語の翻訳して400字詰め原稿用紙124枚の論文でした。大学ノート2冊一杯のドイツ語単語数になりなした。1971年から1972年に渡ってこの論文解読のため、文字通り、本当に寝食を忘れて、辞書を引き、ドイツ語の解読に励みました。
 英語論文はD.G Kramer という植物生理学者の「Absorption Deficits and Their Effects on Plantes.」「吸水不足とその植物への影響」というやはり植物生理学の論文でしたが、これは短期間に読了しました。
 いずれにしても、学位論文が契機になって2年間ドイツ語を勉強できたことは人生の大きなお土産だったと感謝しております。
 
 しかし、あまりにも多くの単語を短期間に覚えなければならなかった上に、学位授与の後は殆どドイツ語の勉強をしなかったので、現在のドイツ語の理解力は全く自信がありません。

③スペイン語との関わり合い、

 昭和62年(1987年)7月から南米のパラグアイ国に技術指導の派遣出張を命ぜられました。平成6年(1994年)3月に南米チリ国から帰国するまで、足かけ6年間、スペイン語圏で生活しました。最初に農林水産省野菜試験場の研究部長から「パアラグアイ国に技術指導に出ないか」と命令された時には「外国に出ても良いが、英語圏で仕事をさせてください」と希望しましたが、「スペイン語圏でも大丈夫だ」と断定的に通知され、恐る恐るスペイン語圏に出ることになりました。
 
 最初のパラグアイ国の勤務地はパラグアイ国イグアス移住地のJICA(国際協力機構)の農業試験場でした。一緒に仕事をしたカウンターパートは日本人移住者で完璧にスペイン語出来ましたので、必要な時にはカウンターパートを通じてパラグアイ人に意志を伝えること、聞くことが出来ました。またパラグアイ国農牧省に提出する月例報告書も、ゆっくりと仕上げる時間があり、殆ど痛痒は感じませんでした。
 
 後半の勤務地チリ国のサンチャゴ市にある La Platina 農業試験場では(前回のセニョリータR.Gの紹介で述べましたように)最初のうちはアメリカの大学に留学し、博士の学位を持ったチリ人のカウンターパートが流暢な英語で対応してくれましたが、しばらくの期間が過ぎると「ここはスペイン語の国だから、今後はすべてスペイン語で意志疎通しましょう」と宣言されました。それからは完全にスペイン語で話し、読み、書かなくてはならなくなりました。
 
 派遣前研修を含めて、かなりの勉強はしていたつもりですが、ついつい英語に頼ってしまい、あまり上達しておりませんでした。当時は既に60歳を超しておりましたので、かなり理解力、記憶力が減退しており、新しい言語をマスターすることなどは困難でした。その後は惨憺たる!!!苦労をしました。
 
 幸い、家庭教師をしてくれたセニョリータR.Gはサンチャゴの高等学校の英語の先生でしたので英語を通じてスペイン語の勉強をしました。ついつい英語が出てしまう私に、直ぐにスペイン語で訂正してくれ、スペイン語をとても早く吸収することが出来ました。私の長文の英語論文なども、かなり専門用語が多かったのにもかかわらず、正しいスペイン語に直ちに修正してくれて、とても勉強になりました。
 
 家内はもっぱら日常会話を習いました。メイドを指図したり、買い物に行ったりしなければならなず必要上、日常会話力は私よりはるかに上達しました。
 帰国時にメキシコに寄って帰りましたが、その際、私が発熱しました。ホテルの従業員に体温計を持ってくるようテキパキと連絡し、とても心強かったことを憶えております。
 
 多くの人々に支えられ、スペイン語圏で仕事と生活をなし得たことを心から感謝致しております。
 
 なお、帰国後も折角憶えたスペイン語だから忘れたくない、と思い、一時は市の中央公民館のスペイン語教室に数年、家内も一緒に通いました。しかし英語と同様、夜間出かけるのは億劫になり、この会は脱会しました。
 
 公民館の教室は止めましたが、NHKのラジオスペイン語講座は続けて聞き、録音して必ず日に2回以上は聞き、暗記するようにしております。1994年から現在までの13年間続けております。またパソコン勉強も続けております。これらのことは、79歳になった現在では「ボケ防止のため」と思い継続しております。その効あってか、自分ではまだボケてはいない。認知症にはなっていないと思っております。

④ロシア語との関わり合い、

 1957年には(私の30歳台の頃)ソ連が人類初の人口衛星スプートニク1号を打ち上げ、それ以後ガガーリンによる人類初の宇宙飛行が行われました。当時は「米ソのどちらがより高度な科学技術力を持っているか」が若い研究者の真剣な議論の対象となっておりました。
 一方農学、生物学の面ではソ連にルイセンコと言う学者の学説が発表され、スターリン統治下のソ連では「マルクス・レーニン主義の弁証法的唯物論を証明するものだ」とされ、メンデルの遺伝学はブルジョア理論として否定されました。
 その学説の概要は、スターリン時代のソ連でもてはやされた生物学で、伝統生物学(メンデル・モルガンなどによる)での命題「獲得形質は遺伝しない」を批判し、獲得形質の遺伝と環境による進化を唱えました。日本でもソ連のやることはなんでも正しい、とする研究者によって信奉されました。
 「獲得形質とは分かり易く言いますと、例えばスポーツ選手が鍛え、鍛えて筋肉りゅうりゅうとなったら、その形質は遺伝すると言うのがルイセンコ学説です」。
 
 そんな時代背景でしたのでロシア語はブームになっておりました。しかし、その後DNAの構造や機能が解明されていくにつれて、ルイセンコ学説の支持者は急速にいなくなっていきました。
 私も研究者の一人としてロシア語を勉強しなければならないと思い勉強を始めました。
 
 しかし、ロシア語のあまりにも英語との大きな違い、アルファベット文字が33個もあり、発音は英語とは全く違い、とても難解でした。後年、勉強したスペイン語は27文字で英語より1文字多いだけで、発音も殆どローマ字読みで通じたのに較べると格段の難しさでした。
 
 ルイセンコ学説に疑問を持ったこと、ロシア語のあまりにも難しかったこと、などの理由により、途中で挫折してしまい、勉強を放棄してしまいました。今は全く空白です。お恥ずかしい次第です。

 
⑤ハングル語(朝鮮語)との関わり合い、
 
 1983年の夏から秋にかけて韓国ソウル市近郊の韓国国立農業試験場へ技術指導なための派遣を命じられました。全く未知の外国語でしたので不安でしたが韓国側の試験場研究員は私とほぼ同年代で教育は日本語で受けた世代ばかりでしたので、すべて日本語で意思疎通が出来ました。また図書室に置かれている試験場研究報告書も英語と日本語で書かれたものが主でしたので、韓国の研究レベルもよく理解出来ました。毎週1回関連研究職員が集まり、ゼミを行いましたが、講義はすべて日本語で行い、年配の部長クラスの研究員が通訳し、日本語の勉強をしていない若い世代の研究員に伝わるようにしました。
 
 韓国の研究者の日本に追いつき、日本を追い越せ、という意識は強烈でした。毎週1回の講義は次から次と私の頭の中にある知識、技術をすべて吸収しようとする意欲にみなぎっておりました。
 
 「それに較べると、後年、指導技術協力に行った南米諸国のノーンビーリ、さには!?!?でした。」
 
 韓国国内の主なところはカウンターパートが案内してくれて殆ど見ることができました。ソウル大学で私の専門の作物に気象生態反応のついて講義しました。当時の大学生世代は既に殆どが日本語の勉強はしておらず、日本語は通じないので講義は日本語で行い、流暢な日本語を話すソウル大学教授が通訳して行いました。
 
 また、韓国統計情報局では当時はカード入力の大型電子計算機を使用していましたが、これは当時の日本の筑波学園都市から各試験研究機関へオンラインで繋がっていた電子計算機と同一レベルの機器でした。私は韓国農業試験場へ事前に問い合わせ、このことを理解していましたので、カードに入力したプログラムを持参しました。「枚数が数千枚になり、重かったですが」。そのプログラムは変数選択型重回帰分析のプログラムでした。
 
 このプログラムは韓国で駆使され、今まで実行不可能だった解析が行われ、大いに喜ばれ、大きく国際協力に貢献することができました。
 
 このような状態だったので、ハングル語は全く話せず、買い物を自分でしなければならない時にはハングル語会話の本を手放せませんでした。

 


 以上に、私が関わり合った外国語と、コンピュータとの関わり合いについて、その概要をご報告しました。だらだらと冗長な文章になってしまいました。ブログに掲載することが妥当か否かわかりません。?????
 
 目を通して頂き、コメントを頂ければ幸甚です。

 
 
 




HT宮殿下ご夫妻チリ国ご訪問(1)La Platina 農業試験場にご来訪

2007-10-28 16:14:50 | Weblog
 HT宮殿下ご夫妻チリ国ご訪問(1)La Platina農業試験場にご来訪。
チリ国試験場側、日本プロジェクト側一同と記念写真を撮りました。

 日本より今上天皇の弟君のHT宮殿下ご夫妻がチリ国を訪問され、La Platina農業試験場にも来訪されました。我々のプロジェクトについて多くのご下問を頂きました。いかに我々のプロジェクトが重視されているかを感じ、大いに感激いたしました。
 下記(1)~(5)の写真にその時のご様子をご紹介します。


ブログに皇室の方の写真を掲載することに大いに躊躇し、恐縮の極みと思いました。戦前なら不敬罪に相当するのではと思いました。思い切ってご紹介します。お許し下さい。 

HT宮殿下ご夫妻チリ国ご訪問(5)日本大使館におけるレセプション

2007-10-22 00:00:00 | Weblog
日本より今上天皇の弟君のHT宮殿下ご夫妻がチリ国を訪問され、La Platina農業試験場に来訪されました。場内を視察見学され、我々のプロジェクトについてご下問されました。
 いかに我々のプロジェクトが重視されているかを感じ、感激いたしました。

 上記(1)~(5)の写真に時の様子をご紹介しました。ブログに皇室の写真を掲載することに大いに躊躇し、恐縮至極と思いました。戦前でしたなら不敬罪の相当するかも知れません。思い切ってご報告いたしました。お許し下さい。




スペイン語家庭教師 セニョリータ .R.G ありがとうございました

2007-10-02 15:53:01 | Weblog
 本当はフルネームで紹介したいのですが、ブログの危険性??? を考え、頭文字だけにしました。

 スペイン語家庭教師、セニョリータR.G 週2回3時間ずつ、彼女からスペイン語を習いました。サンチャゴ勤務中、1度も休むことなく、補習もして、みっちり勉強しました。
 スペイン語圏へ派遣を命じられ、前半のパラグアイ国では日系移住地の農業試験場でしたし、カウンターパートは日本人でスペイン語は完璧に出来ましたので、必要な時にはカウンターパートを通じてパラグアイ人に意志を伝えることができました。
 後半のチリ国La Platina農業試験場では、最初はアメリカの大学に留学し、農学博士の学位も持つカウンターパートが英語で対応してくれましたが、しばらく期間が過ぎると、「ここはスペイン語の国だから、今後は全てスペイン語で意志疎通をしましょう」と言われ、完全にスペイン語で読み、書き、話しをしなければならなくなりました。
 その前から勉強はしていましたが、ついつい英語に頼ってしまい、あまり上達していませんでしたので、その後は惨憺たる苦労をしました。
 
 幸い家庭教師をしていてくれたセニョリータR.Gはサンチャゴの高等学校の英語の先生でした。英語を通じてスペイン語を習いました。ついつい英語が出てしまう私に、直ぐにスペイン語に訂正してくれ、スペイン語をとても早く習熟、吸収することが出来ました。私の長文の英語論文などもかなり専門用語が多かったのにもかかわらず、正しいスペイン語に直ちに訂正してくれ、とても助かりました。

 家内はもっぱら日常会話を習いました。メードを使ったり、買い物に行ったりしなければならず、必要上、日常会話力は私よりもはるかに上達し、帰国直前には全く不自由しないようになりました。

 いずれにせよ、セニョリータR Gのおかげで無事、任務を果たせたことを心から感謝しております。