僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

「山下清の東海道五十三次」~佐川美術館~

2020-07-31 06:10:10 | アート・ライブ・読書
 「放浪の画家」山下清は、色鮮やかな貼絵作品の美しさが人々を魅了してきましたが、晩年には版画による「東海道五十三次」を遺作として残しています。
当方も含めて山下清に対しての一般的なイメージは、芦屋雁之助の「裸の大将放浪記」や、そのイメージを引きずる「たま」のパーカッションの人のイメージではないでしょうか。

山下清は、1922年に今の東京都台東区生まれ、関東大震災に罹災後は新潟県に転居し、3歳の時の重い病によって言語障害・知的障がいの後遺症を患ったといいます。
清は「八幡学園(福祉型障害児入所施設)」へ入所して、「ちぎり紙細工」を学びますが、18歳の頃から15年にも渡る放浪の旅を繰り返すことになります。



今でいうアールブリュットの先駆者ともいえますが、アールブリュットとは“芸術の伝統的な訓練を受けていない人が制作した作品”の意ですから、“障がい者が造る作品”で括ることは出来ません。
とはいえ、日本のアールブリュット作品が施設における表現活動から、数多くのアート作品が世に出てきているのも事実です。
尚、今回の美術展では55枚の版画に山下清自身の言葉が添えられていて、作品をより一層魅力的なものとしています。

「山下清の東海道五十三次」の1枚目は「<東京>皇居前広場」。
これは日本橋へ行ったものの、空気が汚れ、車の喧騒に嫌気が差して、皇居を見下ろせる場所でスケッチしたものだといいます。
“自動車がたくさんいるのにどうしてやかましかないのかな 天皇陛下のそばだからそおっと走ってるのかな そんなことないな いい景色をみてるとやかましい音が気にならなくなるんだな”



「富士(吉原)」は、“ここの富士山が一番でっかく見えるな でっかくりっぱだけど 道をはしるダンプがこわくて ゆっくりみてられないな”と書かれている。
くっきりと大きく描かれた富士山と新幹線。その前には田圃で農作業する方々が情緒たっぷりに描かれています。
“新幹線の窓ごしにみれば においはしないな だけど新幹線はいい景色だからといって ゆっくり走ってくれないな”というキャプションも面白い。



「牧の原(金谷)」には“日本でもお茶をくださいというと ルンペンにお茶はぜいたくだ水にしろといわれたので 水はおなかをこわすと悪いですというと 勝手にしろといって それでもお湯をくれたな”とある。
世知辛い今の時代からみて不思議なのは、突然見知らぬ人がやって来て、お茶が欲しい、おにぎりが食べたいと言っても、相手をしてくれた人がいたことです。

清が放浪を始めたのは、大戦中の1940年から1954年とされます。
みんなが貧しく苦しかった時代にあって、見知らぬ人に施しをしたり、助けてくれたりする人情のある時代だったのでしょうか。
助けてくれる市井の人がいなければ、15年にもおよぶ放浪の旅は成り立たなかったことでしょう。



東海道五十三次の終点は「京都三条大橋」。
“こんどは春の絵を描くんだな 春の感じをだすんだな 柳の芽が風にふかれてるのが春らしいな これを描くのを忘れないようにしような”。

山下清は、東海道五十三次ではスケッチしながらの旅だったようですが、通常は旅先で絵を描くことはなく、八幡学園や自宅へ戻ってから記憶によって描いたとされます。
驚異的な映像記憶能力を持っていたとされる清には、特別な能力が備わっていたといえるのでしょう。



この京都三条大橋は、歌川広重も当然描いていますが、最初の版での三条大橋の橋桁は木組みで描かれています。
実際の三条大橋は石組の橋桁だったはずが、他の資料や想像から木組みの橋桁にしてしまったようです、
重版の際に、石組の橋桁に変えているあたりに、広重の“しまった”感があって面白い。



さて、平山郁夫の絵を含めて300枚以上の絵を見て、心地よい疲労感を感じながら外へ出ると、すっかり雨があがって青空が広がっています。
美術館の前の広場では演奏会のステージが組まれて、PAの調整中。少しづつ新しい日常が戻ってきていますね。




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「歌川広重展-東海道五拾三次と雪月花 抒情の世界-」~佐川美術館~

2020-07-26 12:05:05 | アート・ライブ・読書
 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による緊急事態宣言が解除されて以降、「新しい生活様式」となり、街や職場で大きな変化がありました。
美術館や博物館でもコロナ対策を実施した上での開館が始まり、やっと見に行くことが出来る嬉しさの反面、事態は終息へと向かう気配すらなく、不安な時期が続きます。

佐川美術館では「東海道五拾三次」をテーマに「歌川広重展」と「山下清の東海道五十三次」展が同時開催され、時代や作風は違えども2つの東海道五十三次が見られる美術展となっています。
歌川広重の作品は、なんと208点にも及び、広重の作風の変遷や題材の変化が分かりやすく構成された展示でした。



構成は「名作・東海道五拾三次と五十三次名所図会」として、同じ宿場だけど描かれた年代の違う浮世絵が対になっての展示が中心となります。
「初期の美人画から風景画のはじまり-完成・円熟時代」を経て、「多彩な画風-花鳥図・戯画・物語絵」へ続き、「晩年の風景画-名所江戸八景・風景画の集大成」「卓越した描写力の肉筆画」で広重は終わる。
最後の「雪月花ー絵師たちが描いた抒情の世界」には初代歌川豊国や国貞(3代目豊国)の錦絵も添えられていました。



歌川広重は、1797年に江戸八代洲河岸の定火消同心・安藤源右衛門の子として生まれ、15歳のときに歌川豊広の門下となり、絵師の道へと進みます。
風景画で人気絵師となった広重の絵は、ジャポニスムへの評価と共に、ゴッホやモネにも影響を与えたといいます。

「名所江戸百景 大はしたけの夕立」は、フィンセント・ファン・ゴッホが模写してことが有名な画で、夕立に降られて急いで橋を渡っていく人たちの描写が実にリアルです。
西洋にジャポニズムが紹介された時には強い衝撃があったといわれていますが、新しい表現方法を模索していた画家たちにとっては“構図・色彩・デフォルメ”など、全く異質なものが入ってきたことへの驚きもあったのかもしれません。



東海道最大の難所という「箱根 湖水図」では、現実にはあり得ないような色彩で山肌を表現しており、左に広がる芦ノ湖の青がよく映えます。
峠を黙々と歩いていく大名行列も東海道五拾三次に何度も出てくる題材で、遠くに見える白い富士山が特徴的です。
「東海道五拾三次」では、富士山の姿がどの場所まで描かれているか?(見えたのか?)も結構気になります。



東海道五拾三次の13番目の宿場の原宿(静岡県沼津市)からは、絶景の富士山が望めるようですね。
振り返って景色を眺める女性が描かれており、冬の田圃には2羽の鶴の姿が見え、旅情たっぷりの江戸後期の日本の風景に憧憬を抱きます。



蒲原宿は、静岡県静岡市清水という温暖で雪がほとんど降らないとされる地域にも関わらず、広重は雪の情景を描いています。
広重は、1832年に東海道を旅したとされますが、キャプションを読むと、広重の絵には“存在しない山”や“降らないはずの雪”などの想像図や創作が含まれているようです。
また、広重は実際には東海道を旅しておらず、模写によって描いたという説もあるといいます。



庄野宿(三重県鈴鹿市)の坂道を歩いている時に見舞われた突然の白雨(夕立)に、駆け出したり駕籠に覆いをかぶせたり蓆をかぶったりと四苦八苦する旅人たちの様子。
東海道五拾三次に登場する人物は、リアルでありつつも、どこかコメディータッチな滑稽さがあり、生身の人物像が伝わってくるのが面白い。

東海道五拾三次には、「東海道中膝栗毛」の弥次郎兵衛(弥次さん)・北八(北さん)のような人物が滑稽に描がかれ、当時の宿場の風俗・習慣と共に、江戸時代の旅の様子が伺われます。
子供のころに何度も読み返した「東海道中膝栗毛」ですが、今読んだらどんな感想を持つのでしょうか。読み返してみたくなります。



東海道の旅はその後、鈴鹿峠を越えて滋賀県へ入り、土山・水口・石部・草津・大津を経て京都三条大橋で終点を迎えます。
今回の美術展では「近江八景」が16点展示されているのは、県内にある佐川美術館ならではということで親しみを感じます。

今回の美術展では基本は風景画が中心で、中には名所江戸百景の「水道橋駿河台」のように極端にデフォルメされた画もいくつかあり、遊び心や風刺のようなものも感じます。
浮世絵は、版元・浮世絵師・彫師・摺師の協業で製作されますが、重版していくうちに人が追加されたり、山が消えたりと作品が変遷していっているのも興味深い。
「京都三条大橋」は、間違って描いてしまったことに気が付いた広重が、重版の際に描き直していたりもします。



「山下清の東海道五十三次」展は別の機会としますが、佐川美術館から草津方向への道中に、中山道の一里塚を発見しました。
中山道の一里塚は、江戸日本橋から京都三条大橋までに134の塚があり、この「今宿一里塚」は128番目の一里塚だといいます。



一里塚は江戸幕府によって1604年に通行の目安として整備されたもので、五間四方(9m)の塚を築いて榎や松を植えたとされます。
今宿一里塚は、往時には道の両側に塚があったそうですが、ここまで残っていれば見応えは充分で、榎は先代が昭和中期に枯れた後に脇芽が成長した樹だということでした。
ここは中山道ですが、東海道五拾三次のようにかつては旅人の往来の絶えない街道だった頃のことが偲ばれます。



広重は安政5年(1958年)、当時大流行したコレラによって62歳の生涯を閉じたとされます。
辞世の句は、「東路に 筆をのこして 旅の空 西のみ国の 名ところを見ん」だと伝わるという。
現代文だと「この世に筆を残して西方浄土へ旅立っても、名所を見てまわりたい」...。


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湖北の巨樹を巡る6~小谷上山田町「和泉神社」~

2020-07-22 17:46:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 小谷上山田町は、小谷山(495m)と山田山(541m)の裂けめのような谷間の盆地にある集落で、集落の北側の山田山の山麓に「和泉神社」は祀られています。
神社の由緒には「和泉神社の本来の御神体は「三嶋神社(静岡県三島市)」の神様が姿を現したという「御手洗(みたらし)」と呼ばれる泉そのものであった。」とされている。

「和泉神社」は、小谷山に小谷城を構える浅井家三代が守護神として篤く崇敬したといい、越前・朝倉義景が鰐口を、朝妻城主・新庄直頼が金燈籠を奉納しているという。
江戸時代になると大老・井伊直弼が当社に国家安泰の祈願を命じているとされ、湖北地方にあって武家の信仰を集めていた神社のようです。



鳥居の下には浅井氏が乗馬の際に足場にしたという「浅井氏馬掛石(元は200mほど南にあった)」があり、小谷城主・浅井氏の遺構が残る。
上山田の集落は小谷山にも面しており、小谷城の城下の裏側に位置していることから、浅井氏が馬で参拝に訪れるには適度な距離といえるかもしれません。



鳥居の前には数mはあろうかと思われる長い竹が祀られている。
これだけ長い竹が祀られているのは見たことがないが、神様を迎え入れるための依り代あるいは目印と考えたらいいのでしょうか。



「御手洗(みたらし)」が気になったので最初に見に行くと、石垣に囲まれた湧き水があり、「御手洗」へ浄水が流れ込んでいる。
山田川の一つ水源ともなっているこの和泉を司る神が「山田明神」とされる神の拠り所となる。



「和泉神社」では雨乞いが行われていたといい、祈祷札を御手洗に流すと白鰻がそれをくわえて泉に戻っていくという伝承がある。
また、神社の石垣には白蛇が棲むといい、本殿の北東には「蛇ノ穴」と呼ばれる天然の洞窟があるといいます。
しかし、鬱蒼とした森へ入って行く勇気はなく、「蛇ノ穴」は未確認ながら、写真でみると如何にも大蛇が出入りするような丸い穴がぽっかりと開いておりました。



さて、本来の目的であった巨樹のことになりますが、一言で言うと“巨大なスギが林立した聖なる森”となります。
境内にあるスギの中の4本が「長浜の保存樹」となっていますが、他の数本のスギも幹周が3mほどあり、境内を歩くだけで圧倒されてしまいます。



境内には幹周6mのスギが4本と書かれてあり、本殿の段」より1段低くなっているところにあるこの2本が該当するのかと思われる。
この2本を含めてどのスギも真っすぐに伸びていてどれも背が高い。
単一のスギだけならそこまでの迫力は感じないが、林立している姿は見事としかいいようがない。





境内から1段高くなっているところの本殿を中心にした左右に4本の中の1本に該当すると思われるスギがあった。
手前のスギがそうなるが、並んでいる2本も幹周はともかくとしても背が高い。



左側にもスギの巨樹が2本。
左のスギが4本の中の最後の1本かと思われる。



境内社「山田神明宮」の前にこの4本目のスギはあり、こちら側から見た方が巨樹らしい姿となる。
山田神明宮は、元は集落の南にあったといい、1908年に当地に合祀されたといいます。



「和泉神社」は浅井・朝倉・井伊からの信仰を受けていたことがあって、宝物が多く残されているといいます。
下の鰐口は、1552年に小谷城・浅井家二代 久政が奉納したものだそうです。

浅井氏の三代目・長政は信長と同盟を結びつつも敵対し、滅亡してしまうのですが、妻であり信長の妹であった市や浅井三姉妹の物語は大河ドラマに何度も取り上げられます。
また、浅井家の血は何代もの系譜を経て、皇室にもつながっているというのは驚きです。



山につながる聖域ともいえる場所に祀られている神社を訪れると、身が引き締まるような思いがします。
山や水、巨樹に対して人々が抱いてきた畏怖の心を感じることが出来ます。


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湖北の巨樹を巡る5~「中之郷の野神さん」「菅並のケヤキ」「意波閇神社の杉」

2020-07-18 06:35:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 余呉町中之郷集落から下丹生集落へと車を走らせる途中、中之郷の集落の外れにケヤキの巨樹が唐突に目に入ってきました。
集落の外れにあって祠が祀られていることから中之郷の「野神さん」かと思われるが、この地域での出会いの頻度からして、余呉町には実に多くのケヤキの古木がある。
ケヤキが多いことの理由の一つには、「大箕山 管山寺」にある菅原道真公のお手植えとされる樹齢千年を越える2本のケヤキの伝承の影響があるのかもしれません。

<中之郷の野神さん>



地図で見ると中之郷の「鉛練比古神社」とこの「野神さん」、鉛練比古神社の奥宮と言われる「太水別神社」の3つが北北東の方向へ一直線に並びます。
これは中之郷集落の艮(丑寅)の方向を守っているということになるのかと勝手に想像しますが、鬼門を守り山を鎮めるために配置されたように思える。



「中之郷の野上さん」の巨樹は主幹が折れてしまっており、もう一方の主幹にも痛みが見られます。
幹の中には空洞部があるようですが、野神さんの周囲は整備されていて、地元の方が手厚くお祀りしていることが伺われます。



<菅並のケヤキ(愛宕大明神)>

「中之郷の野上さん」から高時川に沿って「菅並」集落まで北上すると、高時川の対岸の山麓に「菅並のケヤキ(愛宕大明神)」が見えてくる。
遠目にもよく目立つ巨樹なのですぐ分かったのですが、はてさてこの草むらをどう突っ切るか。



草が踏みしめられている所があったので近づくと、その後方には猿の群れがいる。
猿たちが通り過ぎるのを待っている時に、後方に歩きやすそうな道があるのが分り、この道を引き返します。



このケヤキの正面になるのは山側で、整備された道を行くと生命感にあふれたこの巨樹に近づくことが出来る。
「菅並のケヤキ(愛宕大明神)」は、幹周8.2mあり樹高は25mにも及ぶといい、推定樹齢は約700年とされている。



この巨樹は、菅並東組が火の神として祀っているといい、毎年1月2日には京都「愛宕神社」に参拝して御神符をいただいて供えられているそうです。
どういうつながりで愛宕山信仰となったのかは分かりませんが、ケヤキに掛けられた巣箱のような祠の中に御神符が祀られているのが確認出来ました。



<意波閇神社の御神木>

菅並集落から折り返して、余呉町の南端になる坂口の集落へ戻ると、神社の境内に途方もない大きさの巨大な杉がある。
神社は「意波閇神社」といい、御祭神に「大鷦鷯命(仁徳天皇)」を祀る神社で“意波閇”は“おはへ”と読むということです。



「意波閇神社」は杉の多い神社であったが、それにしても突出して幹の太いのが御神木の杉でした。
このスギは幹周約6mで樹高は40m(25mともされる)の巨樹で、樹齢は不明となっている。



真っすぐに直立し、正円を描いたような幹の幹周6mというのは、単一の幹としてその数字以上の太さを感じる。
鳥居の後方でまさに神社の神域に結界を張るかのように威風堂々とした姿で立っている。



天に聳え立つようなこの大杉を見ていると、周囲のスギがか細く貧弱に見えてしまう巨樹ではあるが、他のスギも実際はそれほど貧弱なものではありません。
それだけ御神木のスギが桁外れに大きいということになります。



境内に入って振り返って見ても、その大きさは際立っており、鳥居や手水舎が小さく見えてしまいます。
また、木の節の跡があまり見られず、幹肌が非常に綺麗な杉だと感じ入ります。



スギの木の下に入って上を見上げると枝が何本も生え、葉が生い茂って樹勢の良さが分かる。
このまま育っていったら一体どんな凄まじい巨樹へとなっていくのでしょう。



「拝殿」「本殿」は一段高い場所に鎮座しており、両脇を取り囲むスギも背が高く、天に向かって真っすぐに伸びています。
かつてはこの境内を「平野の森」と称し、「平野大明神」と呼んでいたといい、山林の規模は東西十町余(1.1キロ以上)、南北一丁余(109m以上)だったと伝わります。



御神木は神体とされ、神の依り代とされたり、結界の役割を果たすものとされます。
また、「野神信仰」は、滋賀県や近畿地方でみられる祭事とされ、野神さんは五穀豊穣を祈願する神として祀られているといいます。
湖北では「観音信仰」とともに「野神信仰」の祭事が盛んに行われており、巨樹を通じて自然を畏怖する野神さんへの信仰は今も続いています。


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湖北の巨樹を巡る4~「鉛練比古神社」のケヤキ~

2020-07-13 06:10:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「北国街道・東近江路」は、中山道の鳥居本(彦根市)から米原・長浜・木之本の宿場を通り、今庄・越前へとつながる街道だったといいます。
戦国時代には柴田勝家の越前「北ノ庄城」と「安土城」を結ぶルートとして整備され、江戸時代には参勤交代のルートとしても利用されたといいます。

木之本宿から北上し、余呉町下余呉の集落へ入った場所には「北国街道」と「権現越」の追分に道標がある。
「権現越」は、塩津と余呉を結ぶ街道とされ、「深坂古道」や「塩津海道」を通って、敦賀へと抜けられる抜けられる古道だといいます。
今回は、高時川に沿って北上して行きたかったため、この追分では「北国街道」方面へと向かう。



旧街道の趣を残す「北国街道」を進んで行くと、下余呉と中之郷の境界近くに「郷界一里塚之地」と彫られた石碑が塚の上に立っています。
石組の上に土盛りされて榎かと思われる木が植えられいる姿は、一里塚とは元々このような姿だったのだろうと思わせ、旅人たちはここで自分のいる位置を把握したのでしょう。



「北国街道」を右折して中之郷の集落に入ると、ケヤキの巨樹のある「鉛錬比古神社」が見えてくる。
「鉛錬比古神社」の創建は、第10代崇神天皇の御代(紀元前97~30年)と伝わり、新羅国皇子であった「天の日槍命」その一族が当地を開拓し、祖神を祀ったとされています。

新羅からの渡来人である「天の日槍命」の一族が余呉の地に来たのは、一つには日本海からのルートがあったこと。もう一つはこの地周辺に鉱物資源があったからと思われます。
中之郷に隣接した集落は「丹生」と名の付く“下丹生・上丹生”という鉱物資源を由来とした地名が残り、実際に明治~昭和の時代に余呉町内には土倉鉱山がありました。



そもそも「鉛錬比古神社」と神社名に「鉛錬」という言葉が使われていることからも、鉱物資源との関係や渡来人の金属製品の加工技術があったことが連想されます。
尚、新羅系渡来人の神社としては、隣接する高島市の「白髭神社」が“新羅系渡来人が奉祠した神社”とされていますし、竜王町の「鏡神社」は「鉛錬比古神社」と同じ「天日槍尊」を御祭神として祀っています。

さて、この「鉛錬比古神社」での圧巻は、数本あるケヤキの巨樹になります。
神社は鳥居を入った下段の境内と、本殿のある上段の境内があり、旧街道沿いの神社の角にあるケヤキが最大のものになるようです。



このケヤキは幹回4.35m・樹高20mといい、根の部分に空洞に網が被せられてはいますが、巨大な根は巨象のようにも見える。
樹齢は分かりませんが、街道沿いにあって往来する人々を出迎え、あるいは見送ってきたのでしょう。



神社の境内側から見ると主幹が折れてしまっているが、苔むした幹は表裏で随分と印象が異なる。
もう一本の幹からは枝葉が伸びていることから、まだまだ樹勢は衰えてはいないようです。



鳥居を挟んだ両端に2本のケヤキが立ち、その姿は天然の鳥居のように感じられる。
真っすぐに伸びたケヤキは神社内でもっとも背が高く、境内には杉の木が何本もあることから木々に囲まれた社の印象を強く感じる。



神社の裏出口にもケヤキがあり、これは神社にあるケヤキの中でもっとも若い樹なのかもしれない。
この神社のケヤキの配置をみると、本殿への石段の両端にあたる場所に植えられており、これは神域への道に張られた結界の役割を果たしているのでしょう。



上段の境内の左側から集落に向かって斜めに伸びているケヤキも見事な巨樹です。
境内の大きなケヤキが並ぶ姿に圧倒されますが、本殿裏山にもケヤキがあり、まさにケヤキの神社と言えます。



「拝殿」「本殿」の玉垣から突き出しているケヤキと杉。杉は太さはないが実に背が高い。
裏山は菅山寺のある大箕山につながっていると思われるが、鬱蒼とした森になっていて足を踏み込めず。



この「鉛錬比古神社」の裏山には「鉛錬古墳」があるといい、古代には古墳祭祀が行われていたと伝わります。
現在の余呉の姿からは想像できませんが、かつてこの地は渡来人の文化が栄えていたのでしょう。
本殿の横には「磐座」があり、火袋の部分以外は自然の石の風合いのある野面灯篭がありました。



その右手にも小さな祠と赤茶けた色をした「磐座」のようなものがあった。
祠の前の札に「御代木 別名*** 一位」と書いてありましたが、“***”の部分は読み取れず。
この磐座(「御代木)」が何を示しているのか気になるところです。





神社の境内にはもう一つ野面灯篭がありました。
火袋は加工されているのですが、笠・宝珠・中台・竿の部分はほとんど加工されていない様子。
こういう石灯籠の組み方も味わいがあって面白いものです。



余談ですが、山麓の鉛錬比古神社の裏山「大箕山」の上にある「菅山寺」にはかつて樹齢1000年以上といわれるケヤキの巨樹が仁王門のように存在しました。
2017年の9月に1本が倒壊してしまったと聞きますが、写真は在りし日に菅山寺へ訪れた時の大ケヤキの姿です。




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「継体天皇のえな塚」「安閑神社の神代文字」~滋賀県高島市~

2020-07-09 05:50:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 謎の大王とも呼ばれる継体天皇とゆかりの深い高島市には、その長子で第27代天皇を御祭神を祀る「安閑神社」があり、神代文字で書かれたという「神代文字の石」があるという。
継体新王朝の血統は、子息である安閑・宣化・欽明に引き継がれ、さらには欽明天皇の子供である敏達・用明・崇峻・推古へと続き、用明天皇を父とする厩戸皇子や子息の山背大兄王へ血統はつながります。
蘇我氏は、欽明・用明に妃を出しながら、大王一族と血縁を結んでいき、厩戸皇子には蘇我馬子の娘である刀自古郎女(入鹿の妹)を嫁がせるなど、蘇我氏が権勢をふるう時代へと入ります。

「安閑神社」を探して移動中に、目に入ってきたのは、継体天皇の「胞衣塚(えな塚)」の看板でした。
継体天皇は高島の地に誕生し、母である振媛が継体天皇の「へその緒」をこの地に埋めたのがこの「胞衣塚(えな塚)」だと伝わるそうです。



胞衣(えな)は胎盤の事だといいますが、えな塚は看板がなければ気が付くことはない場所にひっそりとあり、塚は直径11.5m・高さ2.5mの円墳は、6世紀の築造とされます。
えな塚にもう少し近寄ってみたかったのですが、ロープで張られた道はあったものの、草が覆い茂っていたため、少し離れた場所から確認するのみとなりました。



高島市安曇川町の三尾里と呼ばれる地域には、継体天皇にまつわる伝承が多いといい、同じ集落内には継体天皇の長子で第27代天皇の安閑天皇を御祭神として祀る「安閑神社」があります。
この時代の王朝は混乱していたとされ、継体天皇の死後に天皇の子供であった安閑・宣化が大王となる一方で、同じ時期に安閑・宣化と異母弟であった欽明天皇が大王として即位していたとの説があります。

欽明天皇の母は、仁賢天皇の皇女で、母(手白香皇女)の同母弟は武烈天皇ですから、大王の血縁から離れていた継体天皇が、ヤマト王朝の血統を取り込んでいったようにみえます。
継体天皇の死後に、安閑・宣化の両天皇の朝廷と、欽明天皇の朝廷とが分立し、対立していた朝廷分立時代があったとされる理由の一つには、豪族(大伴氏・物部氏・蘇我氏など)の力関係が大きく影響していたといわれます。



「安閑神社」は探すのに苦労するほどの小さな神社で、祠・御神木・手水舎がコンパクトにまとめられた神社でした。
神社の正面の民家に囲まれた場所にあったのが「神代文字の石」と「力石(水口石)」で、特に「神代石」はぜひ一度見てみたかった石(文字)です。



「神代文字」は、“漢字伝来以前に使われた文字”とされていますが、文字というよりも絵のように見え、ペトログリフ(岩刻文字)の文字に似ている。
この神代石は、伊勢神宮の神代文字(奉納文)やホツマツタヱ(ヲシテ文献)のような具体化されたものではなく、もっと抽象的な何かであり、神と関係があるものとされています。



陰刻された石は、元は知らないまま橋の石に使われていたといい、一説には古墳に一部ではなかったかといわれているそうです。
この写真を90度づつ回転させて確認したが、やはりこの向きでないと違和感が強いので、何か目的があって人によって意図的に彫られたものなのでしょう。

 

隣に並ぶ「力石(水口石)」には2つの伝承があります。
“越前の国から都へ相撲大会へ行く武士が、この村に立ち寄り美しい村娘に会った。
この娘は大変な力持ちで、武士はこの村に止まり力を付けたお蔭で、相撲大会に勝った”と鎌倉時代の「古今著聞集」にあるといいます。

もう一つの伝承は、“この村で田の水争いがあった時、この娘は、夜の間にこの石で水口を塞ぎ、水争いを止めた石”とも伝わるそうです。
「水口石」は、滋賀県の水口にもあるようで、歌川国芳の「東海道五十三對」の「水口宿」に同じ話と石があるようなのですが、高島と水口に同じ「大井子」の伝承が残るのは謎です。
とはいえ、東京日本橋から京都三条大橋の距離を考えると、水口と高島はたいした距離ではありませんので、高島の伝説を水口宿に載せ替えたのかもしれません。

 

安閑神社は小さな神社ですが、注連縄が巻かれた御神木が存在します。
神社の由緒などの記録は、寛文年間(1661年~)の火災により焼失して、詳しいことは残されていないようですが、伝説めいた2つの石が残る神社でした。



高島市には「三尾神社」「安閑神社」「えな塚」の他にも、継体天皇の父である彦主人王の墓と伝えられる「田中王塚古墳」が残ります。
また、彦主人王と継体の2世代にわたって后妃を出した三尾氏の首長墓とされる「鴨稲荷山古墳」があるなど、継体天皇ゆかりの地となっています。


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「水尾神社」の石塔と「水尾庭園」~滋賀県高島市拝戸~

2020-07-04 15:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県高島市は、第26代天皇(507~531年)の継体天皇の誕生地とされています。
継体天皇は、第15代天皇・応神天皇の5世孫だといい、越前国を治めていたが、第25代・武烈天皇の崩御により天皇に即位した大王とされます。
「水尾神社」は、継体天皇の生母である「比咩神(振媛)」と「磐衝別命」の2柱を御祭神として祀っており、2柱とも第11代天皇・垂仁天皇の子孫にあたるという。

天皇家から5世も離れていることから皇位継承の立場にはなく、しかもヤマトではなく越前から王を迎えたということで、継体天皇から新王朝が始まったとする説があるといいます。
出自や即位には諸説あるミステリアスな大王の誕生地とされる高島市の水尾神社には、鎌倉期のものとされる石塔や石灯籠、磐座などがあり、小雨の中、高島市へと向かいました。



鳥居の横には「祓岩」があり、これは神社にお参りする前に、穢れを祓うものと思われる。
水尾神社には祓岩や磐座、水尾庭園の岩を含め、実に岩の多い神社だったことに驚きます。



境内を進むと「磐座」があり、頭をもたげた巨獣のような姿をしている。
「水尾庭園」への入口付近に唐突に鎮座している磐座は、最初からこの位置にあったのか、別の場所から移したのかは不明ですが、遠目からでもすぐに目に入ってくるこの岩座は見応えがあります。





「水尾庭園」は、1996年に約2000個の石を使って造園されたといい、山の斜面を利用した上下2段の階層に2つの池のある回遊式庭園となっている。
下段の庭園には朱色の太鼓橋を通って入ることになり、池の周りに出ると、奥には滝が流れ落ちているのが見える。
岩のゴツゴツ感に迫力があり、小雨でしっとりと濡れた岩や緑を美しく感じる。





緩やかな坂を上っていくと、上段の庭園にある池に出る。
上段と下段に2つの池泉があり、回遊式庭園となっているような庭園は、これまで見たこともなく、両方の池に滝が造られているのも見事としか言いようがない。





庭園の周りにも巨石が多く、圧倒されるが、この石は借景になっている三尾山(565m)から切り出したものだという。
水尾神社の裏山には「拝戸古墳群」という六世紀の古墳群があるといい、古代からこの地に力のある豪族が住んでいた証となります。



池の端の方にモリアオガエルの卵が幾つかあったのを見つけ、池の周りを歩いていくと、嫌なやつを発見。
産卵にやってくるモリアオガエルを待っているようだが、残念ながらモリアオガエルは夜行性なので、おそらくこの時間から出て来ることはないだろう。



水尾庭園の上段と下段の間には、石塔が幾つかあるため、見て回ることにする。
水尾神社の石塔は残欠が多いといい、残決を組み合わせて石塔としているそうです。
この石塔の層塔の四方仏は、比較的鮮明に残っており、苔の上に立つ石塔は見応えがある。





2つ目の石塔にも塔身に四方仏が彫られており、こちらの塔身には鎌倉時代 仁治2年(1241年)の銘があるといいます。
この場所には計3基の石塔がありますが、この2つの石塔が見応えがあると思います。





残り1基の石塔は、元がどんな形だったのか分からないような残欠を組み合わせた石塔となっている。
とはいえ、ここまで異質だと逆に魅力があり、基礎の部分に彫られた蓮らしきものにも味わいがある。



庭園の端には2基の宝塔が並ぶ。
塔身は円柱状で扉型が彫られているが、上部は宝篋印塔となっていて、こちらも特徴的な石塔となっていた。



庭園の出口付近には「陰陽石」。
この陰陽石は霊験いやちこで、特に女性には恋と子宝に恵まれる霊石・霊水だとされている。
石は陰陽になっており、流れる水を飲みはしなかったが、触れてみるととても冷たい水が流れていた。





本堂の横には鎌倉中期とされる「石灯籠」が立っていました。
石灯籠は高さが250cmくらい、火袋には四天王らしき像が彫られているようです。





最後になりましたが、本殿へと参拝します。
水尾神社は、創建は不詳なものの、765年には延喜式内の古社だったといい、現在の本殿は江戸9代将軍・家茂の再建だとされます。
尚、本殿の横には摂末社として“八幡大神・天照大神・豊受大神・秋葉大神・速総別大神”を祀る祠がありました。



朝の早い時間帯に一人で参拝していると、神社の方と思われるおばあさんが来て、神社案内のリーフレットを渡して下さいました。
そのまま祝詞を上げて、掃き掃除をされていましたが、祝詞を聞きながら歩く朝の神社というのは、身が引き締まって気持ちの良いものです。


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