僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

日野町鎌掛の藤の寺 正法寺から「正法寺山(後光山)」をピストンで登る!

2024-04-23 06:12:12 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 日野町鎌掛の正法寺は藤の花で知られる寺院で、5月の連休の頃には長さ1m以上にも達する花房が垂れ下がります。
6年ほど前に藤の季節に参拝した時は、20~30mほどある藤棚の全てに藤の花房が垂れ下がり、独特の花の香りを漂わせていました。

正法寺は十一面観音菩薩(33年に一回御開帳)を本尊とする臨済宗妙心寺派の禅寺で、江戸中期の1691年に創建されたといいます。
藤の花は創建と同時に苗が植えられてと伝わりますので、樹齢は333年とされている。



今は藤の時期ではなく藤棚には花はありませんが、境内には山茶花や馬酔木が満開となっていて、山側の傾斜地にはショウジョウバカマの花もありました。
正法寺の近くには天然記念物となっている「鎌掛谷ほんしゃくなげ群落」もあり、こちらもGWの頃には訪れる人でにぎわいそうです。



境内の裏側は墓地になっており、その一画には鎌倉後期の作とされ、国の重要文化財になっている石造宝塔があります。
宝塔が最初からここにあったのか、他から移建されたのかは不明ということですが、塔身背面に正和四年の銘が残っているという。



さて、今回は正法寺の裏山にあたる正法寺山へ登りにやって来ましたので、寺院の参拝はほどほどにして登山口へ向かいます。
この日、駐車場には他に車はなく、山の中で人に出会うこともなく寂しい感じを抱きましたが、登山口からして何やら寂しい雰囲気があります。



小さな池の横を通りながら登って行きますが、正法寺山は急登に始まり、九十九折の道を登り、最後に再び急登といった感じの山でした。
途中で道が不明瞭な場所もあって、途中で道を修正して登る場面もありました。



道の途中に分岐があり、「行者堂」と書かれた方向へと進んでみます。
御堂があるのか、岩窟があるのかと思い現地に到着すると、岩場に小さな岩の祠が祀られていました。
同じ日野町にある綿向山の7合目の山伏コバにも行者堂がありますので、この辺りの山では山岳信仰が盛んだったと思われます。



行者堂から元来た分岐まで戻って山頂を目指しますが、しばらく続いていた九十九折の道は終わり、急登の道へと変わります。
苦手なシダ類が多い登山道になってきたのが少し嫌だったけど、陽当たりが良くなり、シダの茂った道はほどなく終わりました。



登山道の脇に「絆の御神木」という珍しい夫婦杉があり、太い方の雄杉の枝が雌杉と交差して合体杉になっています。
元々この杉が御神木だったのかどうかは不明ですが、珍しい形の合体杉だったため、御神木としたのかもしれませんね。



細い方の杉の二股に分かれている枝を、太い方の杉の枝が突っ切る形となっており、交差した部分が合体しています。
隣接する幹同士が合体するケースはありますが、上部で合体しているケースは珍しく、鳥居のような結界になっているのも面白い。



この場所は視界が広がって景色が見渡せ、直下には集落、奥には三上山が確認出来、後方に霞んでいる山々は湖西の山かと思います。
滋賀県の湖東・湖南辺りからはどこからでも三上山が見えるような気がしてしまいます。



山頂まではあと一息。そろそろ空が開けてきました。
気候が暖かくなってきていますので、汗が頭から流れてバンダナで拭いながら登ります。



正法寺山の山頂は、北峰・三角点峰・南峰の3つの峰があり、正法寺山は総称になります。
「正法寺山 山頂観音」がある場所は北峰で標高は350m、3つの峰の中で一番低いが、今回はここまでで下山しました。



看板には安産祈願とあり、これは麓の正法寺の御本尊の十一面観音が安産の守護神として信仰されていることによるのでしょう。
祠の中にお祀りされている観音さまのお姿です。



この辺りから見える景色も絶景です。
相変わらず三上山は確認出来ますし、右は鈴鹿山系なのでしょう、山の高さが違います。
綿向山の方向になるのかな?



さて、途中の分岐に「修験の岩(堆積岩)への道があり、進んで見たのですが、何度も足が滑りそうになる激坂で、どんどん麓へと下ってしまいます。
屏風岩に寄って帰りたかったので、途中で諦めて激坂を登り返して元の道に戻ります。

「鎌掛の屏風岩」は、正法寺山と隣り合わせの城山(標高373m)の間にある滝谷という谷あいの道の先にあります。
屏風岩は、底辺約31m、幅約7m、厚さ4mの巨岩で、谷から見て城山の山腹にあります。



「鎌掛の屏風岩」の解説板には“岩質は古成岩の堆積角岩で鈴鹿山脈の造山運動による褶曲作用を受けているにも関わらず、この付近のみその作用を全く受けていない。”
屏風岩は国の天然記念物に指定されており、岩層が褶曲せず全て直線であることが学術的に貴重であると書かれている。



また屏風岩は元々六曲屏風を立てたような岩だったが、江戸期に鎌掛石の名称で建材用に切り出し、現在残るのは約三分の一だといいます。
過去の姿を知る由もありませんが、この3倍の巨石が存在したと想像すると、巨大な屏風岩だったと思われます。



屏風岩の下の谷には滝谷川の上流が流れ、屏風岩から崩れ落ちてきたと考えられる巨石の間を小さな滝が流れ落ちています。
至る道筋には鹿除けのネットが張り巡らされていたが、熊にかんしては注意喚起はなかったので、熊は出ないようなのは安心です。



正法寺の門前近くには「高木神社」という小さな神社があり、神社には本殿や祠はなく、巨樹を御神体として祀られている。
案内板によるとこの神社は創建年は不明だが、杉は天保年間(1830~1843年)に植えられたものとされ、樹齢は約200年近くになります。



杉は幹を一つとするものの、7本の幹に分かれているので数本の杉が合体したようにも見えます。
道から少し入った場所に巨樹はありますが、この高木神社は「感謝の神様」とされていて“常に感謝の気持ちは安寧と幸せをもたらします”とある。



正法寺へ通じる道は、広くて走りやすい道ですので快調に飛ばしながら運転していたら、何と♂のキジが道を横切ってブレーキを踏むことになりました。
山の中でもウグイスの囀りに混じってキジのホロ打ちの声が聞こえましたので、季節は春、繁殖期に突入していますね。


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竜王町弓削「小日吉神社」の三角巨大松明に驚く!

2024-04-20 06:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 この日、突然タイ料理が食べたくなり、しかも今まで行ったことのないお店のタイ料理が食べたい!と湖東方面を彷徨っていました。
ネットで調べてお店に到着するが、1軒目は休み。2軒目はネットで休みが判明。3軒目も休み。下調べが悪いのか、運が悪いのやら。

止む無く、繁華なところへ移動してどこかでお昼ご飯にすることにしましたが、途中で何とも奇妙なものを発見!
巨大な三角錐の頂点をつないだ形になっており、松明かと思いましたが、こんなでっかい松明があるのかとにわかには信じがたい。



目の前に神社がありますので神社ゆかりのお祭りのためのものと思われ、後で調べてみると弓削町の村社の「小日吉神社」の『弓削の火祭り』に使う大松明でした。
「小日吉神社」は、日吉神社からの勧請とされ「山王権現」と称されていたといい、元禄2年(1689年)と正徳3年(1713年)の棟礼が残るといいます。



御祭神には大山咋神をお祀りし、毎年5月1日には『弓削の火祭り』として「三角松明」と「笠松明」が火柱となって燃やされるそうです。
弓削地区は、日野川と隣り合わせのため水害の危険があった地になり、水害からの加護と五穀表情の祈りを込めた祭りとされています。



お祭りでは、鉦と太鼓を打ち鳴らしながら子どもみこしが渡卸し、手振り花火を持って駆けまわったり、打ち上げ花火が打ち上げられるという。
祭りの最後には2本の巨大松明が燃やされ、夜空を焦がすかのように炎が立ち上り、人々の祈りが天に向かいます。



湖東地方は左義長祭など火祭りが多いのが特徴ですが、同じ火祭りでも地域が変われば、お祭りのやり方は随分と異なるようです。
三角松明を作られていた方の軽トラが2台あったので、話を聞こうと近づいていきましたが、ちょうどお昼前で声を掛ける前に自宅へ向かって軽トラは去っていく。



2つの三角錐をつないだ「三角松明」とこの日はまだ見られなかった笠を付けた「笠松明」は、高さ6mにもなる大きな松明です。
男衆が竹で組んだ骨組みに、菜種ガラや葦を巻き付け、縄で強く締めて完成させるといい、松明は約ひと月かけて作られるそうです。



さて、偶然通りがかって巨大松明を見る知ることが出来たのはツイていましたが、そろそろ空腹が限界に近づいてきました。
入ったお店は八日市のインドネパール・レストランTaraで、これまでお店の前は何度も通っているのに入るのは初めてのお店です。



頼んだランチはカレー2種に大きなナンとインディカ米、サラダとスープにデザート1品。ドリンクには大好きなマンゴーラッシーを追加。
原材料費高騰の影響があって、最近は値上げする店や味が落ちてきている店もある中、ボリュームといい味といい大変満足のいく料理でした。



いわゆるインネパ店(インド・ネパール料理店)へ行くことが多いのですが、ナンはインド料理で主流ではないそうです。
チーズナンや小倉ナンなど日本で独自のメニューに作られたものもあるようですので、ついつい日本のインネパ料理がインド料理だと誤解してしまいそうですね。




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「岩神大龍神」「妙光寺山摩崖仏」「福林寺跡摩崖仏」を巡る!

2024-04-16 17:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 三上山登山口から東光寺岩梨山~東光寺日陽山~東光寺不動山~妙光寺山を縦走して、妙光寺山摩崖仏方向へ下山をしました。
アップダウンの多いザレた道でしたが、巨石が多く尾根筋の山歩きは非常に楽しいものでした。

そして何といっても感動したのは、山歩きの途中に何度も見える近江富士こと三上山の山容です。
知っている範囲ではこれまで見た三上山の中で一番美しい姿だったと思います。



妙光寺山からの下山道は最初のうち、道幅の狭い激坂が続き、ロープを頼りに下って行くような悪路が続く。
ふくらはぎが痛くなってきて、こちら側から登らなかったのは正解だったのではないかと思えてしまう道でした。



激坂を下りきると普通の下山道になり、麓近くの分岐から「岩神大龍神」「妙光寺山摩崖仏」へは約300m少々の道のり。
前回に訪れた時(2019年12月)は妙光寺山摩崖仏入口からですぐに辿り着いたが、今回は三上山から4つのピークを越えてきたので新鮮な気分です。



「岩神大龍神」は、妙光寺山の山中の古代峠にあった石のトンネルと同様に元々は古墳だったのではないかと思われる形をしている。
この周辺には「妙光寺古墳群」と呼ばれる約70基の古墳が確認されており、古墳そのものではないにしろ、信仰のために作られたものだろう。



「岩神大龍神」からすぐの場所に「妙光寺山摩崖仏」はあり、樹木やシダ類の間から垣間見える摩崖地蔵仏のなんと美しいこと。
妙光寺山摩崖仏は、鎌倉時代のもので像の左右に元亨四年(1324年)7月10日の造立の銘があるといいます。



摩崖仏は畳一枚ほどの方形の彫り込みの中に高さ1.6m、暑さ10cmほどの半肉彫りの地蔵仏が彫られている。
手には宝珠と錫杖を持ち、蓮華座の上に立ち、尊顔もはっきりとした状態で残っています。



鎌倉時代の摩崖仏が磨耗の少ない良好な状態で残っているものだと感心します。
また摩崖仏に苔や汚れが付着していないのは、おそらく地元の方がしっかりと手を入れている証なのだと思います。



神秘的な場所でひとけのない静かな場所なのでやや緊張感を感じるような場所で、後から来た人の気配に驚いたりする。
ここに来たのは数年ぶりですが、一点を見つめる地蔵菩薩の表情に温和でありながら厳しさを感じてしまいます。



岩神大龍神と妙光寺山摩崖仏のある場所から分岐まで戻り、10分少々下ると山道は終わり、アスファルトの舗装道に出る。
これで山登りは終了で、ロード歩きとなるが、ふと思い立って駐車場から1㌔ほど反対方向にある「福林寺跡磨崖仏」まで歩いて行くことにする。



山麓の真福寺の横から鉄柵を開けて山道に入って100mほど歩くと、福林寺跡磨崖仏・小摩崖仏群・古墳などが点在する場所に辿り着く。
「福林寺跡磨崖仏」への入口も「妙光寺山摩崖仏」の入口もイノシシ除けの鉄柵を開けて入らなければならない。



福林寺は白鳳期から室町末期まで存続した寺院とされ、周辺からは「福林寺古墳群」という11基の古墳が確認されているという。
それだけこの地にいた有力者の権勢が伺われるが、白鳳期より時代を遡った弥生時代の銅鐸が多数掘り出されていることから、この地の歴史は更に遡ることになる。



福林寺跡磨崖仏の中でも特筆すべきなのは、舟形光背の中に半肉彫りされた如来2躰と観音立像1躰とされます。
この摩崖仏は室町初期の作とされており、仏の姿はくっきりと読み取れる。



今にも地面に埋まってしまいそうな平たい岩には十三躰の摩崖仏が彫られている。
こちらは三躰の摩崖仏の精巧さとは趣が違って素朴な印象を受けます。



既に土に埋もれつつある部分もありますが、この一帯には半分埋まった石仏や五輪塔などが無数にあります。
この横には古墳群がありますので、この一帯は福林寺の信仰(弔い)の中心部だったのかもしれません。





福林寺跡磨崖仏は大きな規模で摩崖仏や石仏が残る場所ですが、かつてはさらに多くの摩崖仏があったと伝わります。
今は一部が残るにすぎず、大正時代には大部分が大阪方面の富豪の庭に持ち去られてしまったようです。
一番見事な摩崖仏には観音菩薩像を切り取ろうとしたノミの跡が痛々しい。



他の摩崖仏や石仏も土に埋まりつつあり、栄枯盛衰の時の流れを感じます。
とはいえ、場所としてこの一帯が保護されて残されているのは、未来に過去を託すということになります。



御上神社から山を越えて「妙光寺山摩崖仏」「福林寺跡摩崖仏」までやって来ましたが、ここから御上神社まではロード歩き2.5㌔です。
この一帯を周するならば、さらに三上山山頂や田中山・旗振山まで縦走が可能なのでそちらは別の機会に登ろう。
低山ながら何度登っても歩けるコースが多く、飽きの来ない山ですね。


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三上山登山口から岩梨山~日陽山~不動山~妙光寺山を縦走!

2024-04-12 06:30:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 2000m級とかの高い山に登ったことのない当方が言うのも何ですが、低山には魅力のある山が多く、名前を知られていない山でも実に楽しいものです。
今回は毎度お馴染みの三上山登山口から「東光寺岩梨山」「東光寺日陽山」「東光寺不動山」「妙光寺山」を縦走しました。

「妙光寺山」からは「岩神大龍神」「妙光寺摩崖仏」側へ下山して、ロードで御上神社まで戻るコースです。
三上山の山頂は今回パスで、田中山や旗振山への縦走は計画に入れずということで概ね4時間弱の工程です。



まずは三上山表登山道の登山口からスタートしますが、8時前に登り始めたにも関わらず、もう下山してくる人と3組出会いました。
よほど足が速いのか、まだ陽が登りきらない時間から登られたのか、早朝のいい運動になりますね。



200mほどの石段を息を切らしながら登ると、ほどなく妙見堂跡の広場にでる。
妙見堂は、近江三上藩主の遠藤家が妙見菩薩を信仰しており、建てられた御堂だったとされます。

妙見堂跡を過ぎた辺りの分岐から通常なら三上山の山頂を目指して登っていきます。
しかし、今回は目的地が違うため、「中段の道」という三上山を輪切りにしたような周回道を北回りに進みます。



三上山の表登山道も裏登山道も急坂が多いのですが、この中段の道は緩やかなアップダウンが続きます。
道は樹林帯で景色は見えず、花が咲いている風でもなく、変化のない道ですが、一カ所ケルンが積まれている場所があった。



中段の道から北尾根縦走路に入ると、急に道がザレてきて巨石が多くなる。
尾根筋とはいえ、急坂の登り下りが多く、ロープ場などもあったりして、ここからが縦走本番になります。



山に急登の道があるのが見えますが、妙光寺山の山頂はどこになるんだろう。
尾根筋を縦走する時、いつも思うのは“あんなに遠い所まで歩けるのか?”です。
実際には驚くような時間を掛けずに到着出来るのですけどね。



縦走路の途中の分岐から「東光寺岩梨山」方面に寄り道して進んでみます。
道の途中に岩場があり、近くに“限りなく力をつくして狭き門より入れ”と書かれた木札があった。



ほどなく東光寺岩梨山(標高176m)の山頂に到着する。
山頂には巨石があるのみで、ピークハントのみして来た道を分岐まで戻ります。



登山道には段々と巨石が増えてきて、古代峠までやってくると、約1.8mほどの「くぐり岩」のある場所に出る。
古墳に使われていた巨石を積み上げでもした岩塊で、この下を潜って通り抜けることになる。
この岩塊は、下山時に立ち寄った妙光寺山摩崖仏近くの「岩神大龍神」と同様にドルメンとでもいうべき巨石群です。





この山は道を進めば進むほど好きになっていってしまうような山で、今度は道に立ちはだかる今にも崩れそうな巨石群です。
落石の危険ありとのことで登るのは禁止で迂回路を通ることになりますが、以前はこの岩場を登ることが出来たそうです。



「東光寺日陽山(標高234m)」は登山道上にあるので歩いているうちに山頂に到着。
この日は縦走で4つのピークに立ち寄りましたが、どの山頂部も狭いスペースがあるだけで眺望はありません。
その分、登山道の途中にビュー・スポットがあるので景色は充分に堪能出来ます。



登山道は、北尾根縦走路から妙光寺山の登りが始まる辺りまではずっとザレた道が続き、ゴロゴロした大きな岩が多い。
急登や激坂が続くので気は抜けないのだが、気温が上昇して汗をかきながらも気分は高揚してくる。



前ばっかり見て後ろを見ていなかったのですが、ふと振り返ると近江富士がまるで富士山のようにそそり立っています。
三上山は周辺に高い山がないので、いろいろな場所から見える山ですが、おそらく今まで見た中で一番美しく見える場所ではないでしょうか。



岩場の崖があったので登ってみると、何とも奇妙な形の岩と共に、守山辺りの町並みと琵琶湖が見える。
ここは通り過ぎてしまう可能性のある場所なので好奇心が幸いしました。



もうこの辺りまで登ってくると、ここは金勝アルプスなのか堂山なのかと錯覚してしまうような岩山になってきます。
先にある割れ岩みたいなのをちかくで見たいなぁと思っていたが、道はあの岩につながっていた。



近くまでくると想像以上に大きな岩で、横を通って進むことになる。
巨石好き、ザレ道好きな当方にとっては、もっと早く知りたかった山になります。
滋賀県にはこれだけ魅力的な低山が多いのだから、また未踏の魅力的な山は多いんだろうと思うとこれからの期待が高まります。



そろそろ疲れてきたので大きな岩の上に登って一息入れます。
ネットで買った「井村屋チョコえい ようかん」を食べてエネルギー補給。
カロリ-は197kcalあって、5年間長期保管可の優れもので、味もそこそこ美味しかった。



急登の坂を登っていくと3つ目のピークの「東光寺不動山」に到着。
ここまでの3つ山には「東光寺」と付いているが、かつてこの地に妙光山の山腹から麓にかけて19の僧房が立ち並ぶ「東光寺」という大寺あったという。
寺院は、持統天皇の勅願により元興寺の僧・道智が創建したと伝えられ、寺院は焼失したものの、難を免れた仏像は妙光寺山の麓にある宗泉寺に伝わるそうです。



「東光寺不動山」からものの数分で最終ピークの「妙光寺山(標高270m)」山頂に到着。
標高だけ並べると超低山やんかといった感じですが、見応え・歩き応えともに十分に堪能できた山歩きでした。



この後、「岩神大龍神」と「妙光寺山摩崖仏」を見て、妙光寺山摩崖仏入口へ下山。
下山後は「福林寺摩崖仏」に立ち寄った後、ロード2.5㌔を歩いて御上神社の駐車場まで戻ります。
「岩神大龍神」「妙光寺山摩崖仏」「福林寺摩崖仏」へ続く...。


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「沖島」に初上陸!~ケンケン山・尾山・蓬莱ヶ岳の縦走~

2024-04-05 17:15:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 沖島は琵琶湖の沖合1.5㌔にある日本で唯一の「淡水湖内にある有人島」で、約250人の人が生活しているといいます。
島への移動手段は、湖上を船で移動するしかなく、近江八幡市本土側の堀切新港と沖島港を沖島通船または契約船で移動します。

島は周囲6.8㌔、面積1.53㎡ですが、集落は漁港のある島の南西部に集中しており、後の場所は山と山裾にある小さな畑となっています。
島内には車はなく、自転車か徒歩での移動のみで電気・通信のライフラインは、本土との間の湖底ケーブルでつながっているそうです。



早朝に出発して道路が空いていたので沖島通船の始発に間に合ってしまいましたが、既に大勢の方が船の到着待ちでした。
自分以外のほぼ全ての人が釣りの道具を持っておられましたので、沖島で釣りを楽しむためにやって来られた人達です。



通船の乗船時間は約10分。あっという間に沖島に到着です。
目にする機会の多い沖島ですが、これが初めての上陸で山登り気分というより観光気分も結構あったりします。



今回のルートは、最初に「奥津島神社」と「山神神社」に参拝して、ケンケン山(見景山)~尾山(蓬莱山)~蓬莱ヶ岳を経由して厳島神社に下山します。
沖島は西に奥津島神社のあるお椀型をした「頭山」があり、「ケンケン山」から「尾山」の縦走路が島の東西に延びています。



奥津島神社は、712年に藤原不比等によって創祀されたと伝わり、奥津島比売命を御祭神として祀ります。
近江八幡市には奥津島神社が沖島の神社の他に、北津田町にも大嶋神社と合祀された「大嶋奥津島神社」があり、何らかの関係があったと思われます。



奥津島神社の本殿のある場所の上に向かって「山神神社」の鳥居があり、更に上へと登って行きます。
沖島は、花崗岩により形成されていて良質な石材であり、湖上交通の利点があった為、江戸時代から明治にかけて採石が行われていたようです。
伐り出しの際に多くの死傷者が出たといい、犠牲者が出ないように「頭山(標高139m)」に山神神社を祀って祈願したとされている。



山神神社から「頭山」へ登ることも出来るようですが、道はよく分からなかった。
踏み跡を辿るしか道がないようなので、頭山は未踏となりました。



いったん山を下りて集落横の墓地が並ぶ道を歩いていくと「ケンケン山」の登り口がありました。
お墓の横をかなり長い間歩きましたが、沖島は平面が少ないので広々とした墓地が作れず、山に沿って横長の墓地となっているようでした。



島自体が低山のような島で、登り口から最初のしばらくは樹林帯の中の急登を登ることになり、そのあとは尾根筋を歩きます。
所々にイノシシの根掘りの跡がありましたが、イノシシのいなかった沖島にイノシシが生息し始めたのは本土から泳いできたイノシシが定着したものとされます。

本土と沖島は近い場所で1.5㌔といいますので、イノシシの猪突猛進は湖上の泳ぎにも適用されているのですね。
島には罠を仕掛けているので立入禁止と書かれた場所もあり、シートを被せてしまっている畑もありますので被害は甚大のようです。



陽あたりのいい尾根筋を歩いて行くと、ほどなく「ケンケン山(標高210m)」の山頂に到着します。
この日歩いた3つのピークとも山頂からの眺望はありませんでしたが、「ホオジロ広場」や「見はらし広場」など景観ポイントは準備されていました。



ケンケン山からホオジロ広場に向かう途中で、蕾が開こうとしているイワカガミを一輪だけ発見。
今年のスプリングエフェメラルの第一号となりましたが、周辺はちょっとした群生になっていましたので、これからイワカガミの園になるのでしょう。



琵琶湖を見降ろせてベンチまであるホオジロ広場に到着。
琵琶湖を眼下にして対面には湖西の平の山並み。蓬莱山にはびわ湖バレイの残雪しょうか、まだ雪があるのか白く見えます。





ホオジロ広場から尾山方向へ進むと、これも今年第1号のショウジョウバカマを発見。
ショウジョウバカマもイワカガミも一輪だけしか咲いていなかったけど、出会えたのは嬉しい出来事でした。



続いて見はらし広場へと到着。ここからは長命寺や伊崎寺のある山々が見えます。
ここで困ったのは見はらし広場のすぐ近くが「尾山」の山頂のはずなのに山頂が見つからない。



山頂を探して踏み跡のある道を進んで行くと、山頂らしくない場所に尾山の山頂があった。
尾山は正確には「蓬莱山尾山(標高220.2m)」と表記されていて、すぐ近くには三角点もありました。





さらに進んで行くと「蓬莱ヶ岳(標高224m)」の山頂表示のある場所を通ります。
景観のいい広場がいくつかある代わりに、各ピークには眺望がない山です。



この先は下山コースになり、琵琶湖の畔に向かって下山することになります。
突如現れる巨石に驚きますが、沖島は花崗岩を伐り出していた島ですから、巨石は沢山あったと思われます。
尚、この岩の裏側にはもうひとつ大きな巨石があります。



びわ湖の畔に出ると、湖中に赤い鳥居が立てられた「厳島神社」に到着して山はここまでとなります。
厳島神社は、琵琶湖に浮かぶ島の竹生島宝厳寺と同じ弁財天を祀り、水火風の災害を避け船の往来を守るものとして、また雨乞いの神として信仰されてきたという。



神社は急な石段の上にありましたので登っていくと、ここにも巨石が居並びます。
飛松岩・笹岩・水弥山などの名前が付いているようですか、どの岩が回答するかは定かではない。



境内の右には巨石が3つ。
厳島神社の祠の後ろにも巨石がそそり立っています。





これだけ巨石があるにもかかわらず、結界が張られて祀られているのは、平たいさほど大きくはない岩でした。
この岩が厳島神社の磐座ということになるのでしょうか。



厳島神社を過ぎると、琵琶湖に沿った琵琶湖の水位とさほど高さの変わらないような道を歩いて、写真の先端部にあるぽっこりした山の麓まで島を周遊する。
陽射しが良く、暖かい日でしたので、何とも気持ちの良い道を進む。
左には琵琶湖、右には畑が点在しているが、イノシシの罠が仕掛けられている場所もいくつかあった。



沖島小学校まで戻ってくると、門の前にサンシュユの花が綺麗に咲いている。
ちょうど観光に来た人と居合わせたので、花を見ながらしばし話をして別方向に分かれる。



沖島港まで戻ってくると船の出発まで20分ほどあり、周辺を散策する。
沖島で有名なもののひとつに細く迷路のように家が並ぶ路地がありますが、限られた土地を工夫した町並みとなっています。



もうひとつ有名なのは、車のない沖島の交通手段の三輪自転車で、これは集落内で何台も見かけました。
四角い空き缶を自転車のサドルに被せているのは、朝早い時間から漁業の仕事に出る際に夜霧や雨に濡れて冷たくならないようにしているらしい。

四角いカンカンが主流ですが、鍋やタライを被せている三輪自転車もありました。
沖島漁港では観光客向けに三輪自転車のレンタルもやっていますので、三輪自転車に乗って路地を散策するのも楽しそうです。



自転車か徒歩しかない沖島なのに、何故か「飛び出し坊や」の菜の花おばさんバージョンがありました。
沖島の集落を歩いていると、時間が進む速度が違うような穏やかさを感じてしまい、しばらくぼーとしていたくなります。



では、沖島通船に乗って沖島から堀切新港へ戻ります。
沖島港を出発して沖島の全景が見えるまでの動画です。船から水面までが近いので画像を撮りながら結構怖かったりしました。




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多賀町佐目のミツマタ群生地とアブラチャンの花

2024-04-01 06:33:33 | 花と蝶とトンボと昆虫
 多賀町佐目の山中にあるミツマタ群生地でミツマタの花が満開になっていると知り、ミツマタ群生地へと足を運びました。
この群生地には、佐目の「十二相神社」のスギの巨樹群と明智光成の出生地に名乗りを上げた「十兵衛屋敷跡」に行った時以来です。

その時は、地元の方にミツマタの群生地が満開だよと教えてもらって訪れ、山の斜面を覆いつくすかのようなミツマタの群生地に驚いた記憶があります。
ミツマタ群生地に訪れたのは4年ぶりですが、駐車場も完備されて大勢の見学者やカメラマンが来られて花を楽しまれておられる様子でした。



ミツマタは、コウゾと同じく和紙の原料となる落葉性低木植物ですが、ここに自生したのか誰かが植樹したのか分からないそうですね。
数年前まで知られていなかったのがSNSで有名になって多くの方が訪れられるようになったようです。
群生地までは林道を20分ほど歩きますが、まず最初にミニダムがあって、緑がかった乳白色の綺麗な場所でいきなり道草です。



林道を登って行くと、少しづつミツマタが咲いている場所があり、その辺りを越えると大きな群生地まではあと少しで到着する。
林道や群生地ですれ違った人は30~40人ほどおられましたので、注意書きにあった熊除けの鈴は必要なかったかな。
とはいえ、誰でも熊は怖いので熊鈴を持参されてきた方は多く、あちこちからチリンチリンと音が聞こえている。



群生は見事としか言いようのない規模の大きさで、山の斜面から谷側まで群生は広がっている。
花は白くなったものや黄味の濃いものまであり、ちょうど見頃といった感じです。



現地ではスマホで記念撮影をされている方から気合の入ったカメラマンまで様々で、撮影条件やカメラの設定に工夫されているようでした。
当方は登山から帰り道のため普通のデジカメとスマホしかなく、何とか撮ろうとしてみたものの綺麗な写真を撮るのは難しい。



時間はちょうど2時頃で、珍しく陽射しの良い日で暖かく、ハイキングに来たようにお茶タイムを楽しまれている方もチラホラ。
のんびりした気分で、目の前には花の群生、周囲にはミツマタの花の香りが漂う落ち着いた午後のひと時です。



ミツマタは、枝が三つに分岐して花を付けることが名の由来となっており、元はヒマラヤ付近が原産地とされているそうです。
万葉集の和歌にも登場するといい、飛鳥時代の歌人の柿本人麻呂の和歌にも三枝(さきくさ)として詠まれていることから、古くから日本人に馴染みのある花だったようです。





ミツマタは、小さな花が集まってひとつの花を形成していますが、小さな花には花弁がなく、花弁のように見えるのは萼(がく)なんだそうです。
萼(がく)が開いて4枚に反り返っていて、そこが花弁に見えます。
下は萼(がく)がまだ開いていない部分が多い花。



次は萼(がく)がほぼ全部開いた花です。
萼(がく)が開いた頃は濃い黄色の花弁をしていますが、開き切ってから時間が経つと徐々に黄味が薄くなり、最後は真っ白い花になります。



しばしのリラックスタイムを過ごした後、林道を下ってくると見たことのない花を発見!(*正しくは花を見つけた人を発見)。
その方に花の名前を聞いてみると「アブラチャン」とのことで、続けて“アブラチャンとダンコウバイの識別は難しい。”と教えて頂きました。



アブラチャンは、果実・幹・枝葉・樹皮に油分が多く、油を搾って灯用に使われていたことから名が付いたといいます。
他には女性の髪の油や薪炭、輪かんじきなどにも使用していた場所があるといいます。



アブラチャンとタンコウバイの識別は、調べてみたけどよく分からずで、葉っぱが識別しやすそうですが、この季節は落葉していますので確認できない。
いずれにしても早春に咲く花で、枝先に芽生えた葉芽に春を感じられ、早春のウキウキする気持ちに花を添えてくれました。


コメント
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