僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~奈良県桜井市 法起院~

2019-01-30 20:03:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 西国三十三所巡礼には「番外札所」と呼ばれる寺院が3寺あり、一般的には兵庫県三田市の「東光山・花山院菩提寺」、京都市山科区の「華頂山・元慶寺 」、奈良県桜井市の「豊山・法起院」になります。
そもそも番外札所とは何なのか?というと、ある考え方には西国三十三所観音霊場を満願出来たことへのお礼参りに行く寺院といわれています。

長谷寺へ参拝した帰り道、門前町を車で移動して名物の“くさ福餅”を買おうかと思っている時にふと目に入ってきたのが「法起院」へと通じる細い参道でした。
法起院の専用駐車場がすぐ近くにありましたので、車を停めて寺院へと向かいます。



法起院は長谷寺の塔頭寺院で、総本山である長谷寺と同じく真言宗豊山派の塔頭寺院です。
長谷寺を開き、西国三十三所の創始者とされる徳道上人が726年に創建し、晩年に隠棲の院としたと伝わります。

徳道上人は病に倒れた時、冥土で閻魔大王から“三十三所の観音霊場を巡れば滅罪の功徳があるので巡礼によって人々を救うように”と託宣を受けて現世へ戻され、観音巡礼を創始したとされます。
しかしながら徳道上人の時代には三十三所巡礼は広まらず、徳道上人の死後270年たってから花山天皇によって西国三十三所観音巡礼は民衆に定着したといいます。



参拝を予定していなければ見落としてしまうような細い参道の奥にあり、寺院に気付けたのは幸いでした。
参道と道をはさんだ向かいにある餅屋さんへ偶然立ち寄ったことで、寺院に気付けたのは導かれでもしたのか、これがホントのスイーツ巡礼なのか?。



寺院には時々人が参拝に来られていましたので、長谷寺を参拝した方が番外札所にもお参りに来られていたのかと思います。
にぎやかに賑わう門前町と細い参道の奥にある寺院の佇まいからは、京都の繁華街にある寺院のような雰囲気を醸し出しています。



本堂より先に「徳道上人御霊廟」に入ります。
中には十三重石塔を中心にして、西国霊場各寺院の御砂踏みが出来るようになっていました。





西国三十三所霊場のお砂踏みは1番札所の青岸渡寺から、まだ巡礼していない霊場を確認しながら第33番華厳寺までをひと周りします。
西国巡礼はまだ道半ばのため、ここでは仮の満願をさせていただきます。



御霊廟の中には「多羅葉樹」というハガキの語源となっている木があり、葉の裏に願い事を書くと書いた字が浮かび上がって願い事が叶うという木がありました。
木の枝の下に入って茂った葉っぱを見てみると、確かにほぼ全ての葉の裏に願い事が書かれています。
手が届く範囲には何も書いていない葉っぱはありませんでしたので、願掛けは無理そうだなと諦めて書かれた文字を見ていました。





本堂は735年創建で1695年に再建された建物ですが、補修されながら現在まで守られてきたのでしょう。
こじんまりとまとまった御堂になっている本堂横には世間話に興じる方もおられましたので、近所に住む人の憩いの場所にもなっているようです。



法起院は長谷寺の塔頭寺院ですから、長谷寺と同じ「長谷型燈籠」が吊るされています。
本堂の中には「徳道上人像」が祀られており、寺伝によると徳道上人本人による彫刻と伝わっているそうです。





境内には「庚申堂」「弁財天堂」「地蔵菩薩」などが配置され、コンパクトながらまとまりのある寺院になっています。
本堂にも書かれている御詠歌は「極楽はよそにはあらじわがこころ おなじ蓮(はちす)のへだてやはある」。
“極楽は我が心の中に求めるもの、この世の蓮もあの世の蓮も同じ蓮の花です。”という意味があるそうです。



参拝を終えて駐車場へ戻る前に名物の“くさ福餅”を買って、門前町を食べ歩きしながらのスイーツ巡礼で車に戻ります。
草餅は生地で手包みされたタイプと鉄板の上で焼いた“お焼き”があって、食べたのはお焼きの方でしたが、とても甘くて美味しい草餅でした。
スイーツ巡礼もたまにはいいものですね。


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御朱印蒐集~奈良県桜井市 豊山 長谷寺~

2019-01-26 15:30:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 西国三十三所観音巡礼の第8番札所になるのが真言宗豊山派総本山の長谷寺になります。
当方の西国三十三所巡礼は未だ道半ばという状態ですが、この長谷寺参りをもって奈良県内の西国札所巡礼は終わりとなりました。

奈良県の寺院巡りをする機会はこれまでにもあったにも関わらず、長谷寺だけを残しておいたのは「本尊大観音尊像特別拝観」を待っていたからで、特別拝観の開始に合わせて早朝から車を飛ばして長谷寺へ訪れました。
高速を使わず下道のみを走行したのですが、早く着き過ぎて参拝時間まで1時間待つことになったのは大誤算。
しかし、開門時間前から参拝に訪れる人がいたのは、寺院としての人気に加えて特別拝観の影響があるのかもしれません。



参拝を開始した時間帯はあいにくの雨でしたが、逆にしっとりした感がありましたのでたまには雨の寺院参拝もいいものかと思いつつ足を進めます。
雨の日の朝一番でしたので訪れる人の数が少なかったのが何よりです。



仁王門(重要文化財)は現在の建物は1894年の再建で、楼門の左右には金剛力士像が睨みを効かせており、登ることは出来ませんが楼上には釈迦三尊十六羅漢像を安置されているということです。
長谷寺が境内を構える初瀬山は標高548mで、かつて伊勢詣りの道中になるそうですが、幾度も難所を超えながらの伊勢詣りは当時の人にとっては人生最大のハイライトのようなものだったのかと思います。





時間帯が良く長谷寺の有名な「登廊(重要文化財)」にも人の姿がまばらでしたので、雰囲気を味わいながら登っていきます。
登廊は1039年に春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒の御礼に造ったものと伝わり、「長谷型灯篭」と呼ばれる趣のある灯籠が二間おきに吊るされています。



長谷寺は686年、飛鳥・河原寺の道明上人が初瀬山の西の丘(現在の「本長谷寺」)に「銅板法華説相図」を納められたのが始まりで、727年には徳道上人が聖武天皇の勅により十一面観世音菩薩を祀って開山したと伝わります。
徳道上人は西国三十三所観音霊場巡拝の開祖ともされる方ですから、西国巡礼寺院の中でも長谷寺は重要な位置づけになる寺院になると考えられます。



登廊を登って行ってすぐの場所には「道明上人御廟塔」が供養されています。
道明上人は本長谷寺を開いた方ですので本来ならばもっと中心部に祀られていてもおかしくはないのですが、登廊の最初の部分で参拝者を出迎えているような場所に供養されています。



登廊は上中下の三廊に分かれており、段数399段を登り続けることになります。
石段は段差が低く幅が広くなっており登りやすいのですが、これは着物姿でも歩きやすい石段の造りなのでしょう。



登廊の境目には「蔵王権現三尊像」や「蔵王三鈷」を祀る「蔵王堂」があり、別の石段へと通じる道もあります。
緩やかに399段続く登廊は「鐘楼(重要文化財)」「本堂(国宝)」へとつながり、終わりとなります。



終点近くになると登廊の横に懸造り(舞台造)の本堂が見えてきます。
懸造りの堂宇を見て感心するのは、“よくこの柱で全体を支えられるものだ。”と思うのですが、地震や台風にも耐えられる設計の技術があるのでしょう。



登廊から出ると本堂と鐘楼がある場所に出ます。
この角度から見る本堂はさほど大きくは見えませんが、建築は正堂・相の間・礼堂から成り、内部は広い造りになっています。



鐘楼は二階建てになっており、参拝者が撞くことは出来ませんが、実際に撞かれている映像では階上が低いため僧呂の方が片膝を付いて梵鐘を撞かれているようです。
吊るされている梵鐘は藤原定家の歌から「尾上の鐘」と呼ばれ、毎日正午に撞かれるそうで、その際には本堂の舞台で数名の僧呂がホラ貝を吹かれるようです。



国宝になっている本堂は、創建後1536年までに7回焼失しており、1588年に豊臣秀長により再建されたものの、1650年には徳川家光による建て替えが行われたようです。
正堂の屋根が高くなっているのは御本尊「木造十一面観音立像」が10mを越える背の高い仏像であることに由来するようです。





本堂への入口にも長谷型灯篭が吊るされ、右に御本尊、左は内舞台、さらにその左には舞台が広がります。
舞台から見る風景は位置が高いこともあって壮観な風景が見られ、この場所では舞台から右方向には「五重塔」が見えますので後ほど歩いていくこととします。





舞台から本堂正面になる位置には「大悲閣」の扁額が掛けられてあります。
ここまで来ると中に御本尊の姿が見えてきます。



さていよいよ御本尊とのご対面ということになりますが、まずは内舞台へと参ります。
賓頭盧さんの居られる内舞台には数多くの奉納された奉納額が掛けられ、巡礼寺院としての信仰や歴史を伺い知ることができます。



“奈良の仏像は大きく何という迫力と慈悲のある仏像が多いのだろう。”御本尊を観た瞬間、思わず“あっ!”と感嘆の声が出てしまいます。
光背を含めて12m13cm。日本最大級とも言われる「十一面観音菩薩立像(重文)」で、右手に錫杖・左手に宝瓶を持つ長谷型観音という形式の仏像とされ、1538年の製作といわれています。





春季と秋季に行われる「本尊大観音尊像特別拝観」では、国宝本堂の中に入って観音様のお御足(おみあし)に直接触れてお参りすることが出来ます。
本堂の中に入る前に塗香で身を清め、「結縁の五色線」を左手にはめて引き締まった気持ちで内陣へ入ります。



内部では間近に御本尊を眺めることになり、躰だけで10m以上ある観音様を見上げて足元にひれ伏すような形となります。
直接触れてもいいお御足は膨大な人に撫でられてピカピカと黒光りしています。
当方も下の写真のように伏して両手を観音様の足に触れさせていただきました。



本堂では御本尊の観音様の周りを一周出来るようになっており、まず最初の面には「薬師如来立像」と脇侍の「日光菩薩立像」「月光菩薩立像」。さらに守護する「一二神将」が並びます。
後面には「十一面観音菩薩立像」を中心に「稲荷明神」と「徳道上人」が安置。

最後の左面には「興教大師」「弘法大師」の尊像と徳川家歴代の位牌が並びます。
最も関心があったのは御本尊の後ろにある「懸仏」でしたが、これは実に興味深い発見でした。
また、本堂には「難陀龍王立像(鎌倉期・重文)」「雨宝童子立像(室町期・重文)」が通常拝観エリアに安置されていました。

さて、境内を奥之院に向かって進んでいくと「御影堂」へと着きます。
御影堂は弘法大師入定1千百五十年御遠忌を記念して昭和59年に建立された建物のようです。
横には弘法大師の石仏が祀られていました。





長谷寺の始まりは道明上人が「銅板法華説相図」を祀るための精舎を建立したことが始まりとされており、その経緯から「本長谷寺」と呼ばれる御堂が残されています。
現在の本長谷寺には銅板のレプリカが残されているのみで、本物の「銅板法華説相図(国宝・白鳳時代)」は宗宝蔵に保管されているようです。





本長谷寺の横には本堂の舞台から見えていた三重塔が建てられており、このエリアからは突き出した本堂の舞台が見えます。
1950年に建てられたこの塔は、かつて豊臣秀頼が再建して現在は礎石のみとなっている三重塔跡のすぐ隣にあります。





奥之院で折り返して登廊を通って仁王門へ戻る途中に「宗宝蔵」という宝物館がありました。
宗宝蔵へ入っていくとまず驚かされるのが大きな「閻魔大王」と「司禄」「司命」の眷属。
横には「五道大神像(室町期)」、改修の際に取り外された1650年の檜の「本堂隅木(600㌔)」が並びいきなり圧倒されてしまいます。

仏像は「金堂十一面観音立像」「雨宝童子立像」「難陀龍王立像」など鎌倉期と思われる仏像が安置。
横には「天部形立像(平安期)」「地蔵菩薩立像(平安期・重文)」「不動明王立像と2童子像(平安期)」「不動明王坐像(平安期・重文)」他多数の仏像が並びます。
また本長谷寺に複製画ある「銅板法華説相図」やかつての「西国巡礼の朱印の版木」や「観音像の版木」、木製の「納札」や古文書などが展示されてあり、さすがは長谷寺の収蔵庫と関心することになりました。



「本尊大観音尊像特別拝観」でお会いできた十一面観音菩薩像は、国宝にも関わらず参拝者が手を触れることを許可している長谷寺さんに感謝したいと思います。
まだ誰も特別拝観にお見えにならない時間に、観音様の前で一人で向き合う時間を与えてくださったご縁にも感謝します。


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「近江宮川藩と歴代藩主たち」~長浜城歴史博物館・日枝神社~

2019-01-23 07:00:00 | アート・ライブ・読書
 長浜城歴史博物館で企画展「近江宮川藩と歴代藩主たち」展が開催されていますが、これには驚きました。
長浜市(合併前の旧市街地)は彦根井伊藩の領地だと信じていたのは正確ではなく、長浜城から車で10分もかからない現在の宮司町の辺りは「近江宮川藩」の領地だったのです。
江戸時代に小藩や飛び地の藩が数多くあったのは知ってはいたものの、不勉強ゆえに近江宮川藩の名を聞くのすら初めてというお恥ずかしい次第です。

 

近江宮川藩を治めたのは堀田家といって、幕府の要職である大番頭・奏者番・若年寄などの要職を勤めた大名だそうです。
堀田氏は尾張の出身とされ、徳川家に仕えて栄進し大名となった家で、飛び地領地の配置替えはあったものの1698年から明治維新まで近江宮川藩は続いたといいます。


(絵:堀田正民筆《孤鷹撃雀図》)

ただし堀田家は参勤交代をしない定府大名で江戸詰めの生活を送っていたため、近江宮川藩へ立ち寄った記録はわずかしかなく、当地には陣屋のみが存在したようです。
ネットで見つけた滋賀県の藩区分では確かに旧長浜市のところに「宮川」と書かれています。
現在の市の区分と比較して、この地図に違和感を感じるのは当方だけではないと思います。



さらに驚くのは廃藩置県後に「宮川藩」が「宮川県」になったことでしょうか。
最終的には滋賀県に編入されるのですが、宮川県という響きにはとてつもない違和感があります。

今回の企画展では宮川にわずかに残った古文書や絵画を元に宮川藩の歴史を紐解くということで大変興味深く拝観することができました。
特筆すべきは歴代堀田家の方の能書家ぶりと絵画の才能でしょうか。堀田家は書や絵などの文化的なものを好む家系だったのでしょう。


(図録:絵は堀田正民筆)

もう一つ驚いたのは宮川藩にある日枝神社の春祭りに使われる曳山の山車になります。
長浜といえば動く美術館とさえ呼ばれる13基の曳山で子供歌舞伎が演じられる曳山祭りが有名ですが、曳山祭りの中心地からわずか数㌔の場所にも曳山があったとは知りませんでした。



曳山は「颯々館(さっさつかん)」といい「見送幕(1829年)」の雲龍図は6代藩主・正民の手によるものだといいます。
正民は絵を描くことに長け、模写作品を始めとして数点の作品が残されているようです。



実に興味深い企画展に満足しましたので日が沈む前に現地へと足を運びます。
現在残されているのは「陣屋跡」の石碑になりますが、これは日枝神社の真向かいに建てられていました。





日枝神社は739年に創建され、大山咋命・天津児屋根命を御祭神として祀る神社で、近郷七郷の総社(宮川・下司・大東・宝・大辰巳・勝・四ツ塚)として信仰されてきたといいます。
江戸時代になると宮川藩主堀田家の崇敬社として庇護・奉納を受けながら、住民の浄財によって颯々館の造営に至ったようです。



境内には石灯籠や石塔が多いのですが、それだけ地域の方などに信仰されて奉納されてきた証なのでしょう。
年初には「おこない」が行われ、春の祭礼では御神輿・山車が出るそうですので、地域の氏神様として信仰され続けていることが分かります。



手水は地下水を汲み上げているようでしたが、非常に水量が多く、鉢から溢れ出した水は舛を満たした後は川へ流れ出ているようでした。
水量が豊富で透き通るような水が湧き出しているの手水で身を清めるのはとても気持ちのよいものです。





大鳥居から一直線に並ぶ、拝殿や本殿も立派なもので、本堂前には8代藩主・堀田正誠が奉納した数が灯篭一対があります。
本堂内には6代藩主・堀田正民が奉納した石灯籠(1837年)があり、堀田家と日枝神社との深い関係が分かります。



本殿の両脇には守護するように申が祀られていましたが、これは大山咋命を御祭神として祀っていることと関係がありそうです。
大津市にある日吉大社は東本宮に大山咋命を御祭神とし、全国の日枝(日吉)神社の総本社となります。

日吉大社でも山王祭が申の日に行われていたことがあり、申は神猿として勝運の神や魔除けの神として崇められています。
日枝神社の方もかつては山王宮と名乗っていた時代があり、現在も「山王神輿」がありますのでなるほどと合点がいく話になります。





さて、日枝神社から琵琶湖岸へ戻ってくると、ちょうど夕焼けの時間が始まりました。
鴨が点々と浮かぶ琵琶湖がオレンジ色に染まる心休まる光景です。
時代は変われどもこの光景は永遠に続くものであって欲しいと思います。




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御朱印蒐集~京都市左京区 曼殊院門跡~

2019-01-19 17:17:17 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都市左京区一乗寺の辺りは住宅街で道路もあまり広くはないため観光地にはなっていませんが、実は有名な寺院が多い場所といえます。
曼殊院門跡は、8世紀に比叡山西塔北谷に最澄により草創されたのが始まりの天台寺院です。

947年に北野天満宮が造営されると、曼殊院の住持・是算国師が菅原氏の出であったことから北野天満宮の別当職に補され、明治維新まで曼殊院は北野天満宮の別当職を勤めたようです。
曼殊院が現在の場所に移ったのは1656年のことで、良尚法親王が入寺された時に現在地に造営されたと伝わります。



皇族が住持を務めるようになったことから門跡寺院になりますが、天台宗系の門跡寺院には“天台五門跡”があり、曼殊院門跡はその一つに数えられているようです。
他の4門跡寺院は“青連院・三千院・妙法院・毘沙門堂”となりますから、歴史的な寺院と肩を並べる格式の高い門跡寺院ということになります。



京都の門跡寺院ですから基本は枯山水の庭園や襖絵ということにはなり、落ち着いてゆったりとするには最高の場所です。
紅葉の季節ではありませんでしたので、訪れる人もまばらで静かで穏やかな時間が過ごせます。



最初に「勅使門」へ行きますが、当然の事ながら一般人は通ることは出来ません。
近年には皇太子殿下・秋篠宮殿下・今上天皇皇后両陛下(平成)が行幸されたそうですので、その際には勅使門が開門されたと思います。
ということで一般人の当方は通用門から入りますが、世が世なら入ることさえ許されることのない寺院です。



寺院は「庫裡」から「大書院・小書院」を庭園を迂回するようにして巡り、再び庫裡から出ることになります。
門跡寺院の庫裡が見られる機会は限定されていることが多いのですが、曼殊院は庫裡(重要文化財)の中が見られるのがいいですね。



「上台所」は客人をもてなすための台所かと思われますが、竈にはかなり大きな釜を含めて大小10の竈を炊くことが出来るようになっており、棚にはお膳の道具が積まれています。
「下台所」は修行僧などの日常の食事を作る場所と思われ、上台所と比べると質素なものになっています。



庫裡の扁額「媚竃」の文字は良尚法親王の筆によるものとされており、“竈に媚ぶ”とは“主人より実際に竈を預かっている者に媚びる”という意味がありますが、その意味かどうかは分かりません。
庫裡に入るとまず石造りの大黒天(鎌倉期)があり、力強い姿が見られます。



庭園はまず大書院から眺めると枯山水の中に「鶴島」と「亀島」が配されており、「鶴島」の樹齢400年の五葉松は鶴を表現しているとされ、非常に手入れの行き届いた面白い形の松です。
庭園が有名な寺院では維持するための手入れが大変なのだろうと思います。





「亀島」は水の流れの中に浮かぶ亀をイメージしているといわれます。
水をイメージさせる砂も日々手を入れられているのでしょう。箒の跡までよく見えます。

入ってすぐの竹の間の近くには特別公開で「不動明王坐像(重文)」が公開されており、木の切り株の上にどっしりと座するお不動さんの姿を前にしばし座り込みます。
また秘仏とされる「信州善光寺如来」も公開されており、その横には不気味な「幽霊画」が2幅掛けられています。
片方は“女の幽霊の立ち姿”、もう一方は“卒塔婆から抜け出る女の幽霊”で薄気味悪い。

障壁画は江戸時代のものが残されており、狩野探幽の襖絵などがありますが劣化が進んで少々見にくい状態になっているのが残念です。
大書院・小書院は建物自体が重要文化財となっており、各間から庭園をいろいろな角度で眺められるように設計されています。
庭園の一番奥から眺める庭園の様子です。





部屋の中を見たり、庭園を見たりと忙しいのですが、仏像は渡り廊下に「慈恵大師像(江戸初期・重文)」、大書院には「阿弥陀如来立像」「薬師如来立像」「大日如来坐像」「十一面観音立像」「弁財天立像」が安置。
このうち「十一面観音立像」は鎌倉前期の仏像で、本地垂迹の時代には北野天満宮の本地仏だったものとのことでした。

また曼殊院門跡は平安後期の国宝仏画「黄不動」を有しており(京都国立博物館寄託)、秘仏のため本物を観る機会は僅かしかありませんが、復刻したレプリカは展示されています。
「黄不動」は「園城寺(三井寺)」を元にしているという話がありますが、いずれにしても本物を寺院で見る機会はなさそうです。
最後になりますが、通用門から出た境内の外には弁天池があり、「弁天堂」と「天満宮」に参拝して駐車場へと戻ります。





一乗寺の道幅の狭い生活道路のような道を走行していると、幾つかの神社・仏閣の横が点在していることに気付きます。
日常生活の匂いのする生活の街であり、ラーメンの激戦区でもある一乗寺には人の喧騒はありますが、寺院の中に一歩入ると静かで落ち着いた空気に満ち溢れます。
京都らしい街といえばそれまでなんですけどね。


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御朱印蒐集~京都市東山区 音羽山 清水寺~

2019-01-14 18:18:18 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都の清水寺は国内外からの京都観光の方が押し寄せるような寺院ですので、京都市内を車で移動している時に見る膨大な人の数には驚くほかありません。
清水寺は西国三十三所観音霊場の第16番札所であり、過去に何度か訪れているものの未だに御朱印を頂いていない寺院でした。

とにかく早朝に行けば人は少ないだろうと考えて訪れましたが、さすがに有名な寺院ですので既に参拝の方の姿がチラホラとありました。
清水坂の参道に並ぶ店はまだ軒並みシャッターが閉まっているにも関わらず、黙々と坂を登って行かれる方々について当方も仁王門を目指して歩みを早めます。

 

清水寺は2017年から2021年まで50年度に一度とされる大改修の最中ですので「清水の舞台」が見れないことは分かっていましたが、222年ぶりといわれる随求堂の御本尊「大随求菩薩」の一般公開(春・秋)が目的の一つです。
秘仏公開は「西国三十三所草創1300年記念事業」の一環として行われるのですが、随求堂での本尊御開帳が222年ぶりというのには驚きますね。



清水坂の終点近くまでくると、朱色の「仁王門」「西門」「三重塔」が見えてきてロケーションの良さに気持ちが高まります。
音羽山を背景に清水寺は建ちますが、U字に取り囲むように堂宇が建てられており、それぞれの位置から計算されたかのような風景を楽しめる造りになっています。

仁王門の前ではTVの取材中。
周囲の人から聞こえてきたのは“ますだおかだの岡田や!”の声。
やはり人の多い場所では早朝に収録されているのでしょう。



「仁王門」は16世紀の始めに再建されたもので、2003年に解体修理されたこともあって朱色も鮮やかな楼門になっています。
もちろん金剛力士像が安置されていて、格子を金網の奥から鋭い視線を送っています。

「西門」は1631年の再建で、門の内側から見る日没はとても美しいとされており、極楽往生の浄土への入口ともされています。
清水寺の御堂や門・塔の大半は重要文化財となっていますから、そのことからも清水寺が長い歴史の中で信仰を集めてきたことが分かります。



「三重塔」は高さが31mあり、薬師寺の東塔に次ぐ国内最大級の三重塔といわれています。
1632年の再建とされていますが、1987年にも再建とありますので最近になって再建された塔のようです。



清水寺の開創は奈良時代末期の778年、延鎮上人によって開かれたとされます。
延鎮上人は霊夢により音羽山を訪れ、「音羽の滝」で修行していた老仙人からの言葉により、音羽山の草庵を守ったと伝わります。

その後、鹿狩りで音羽山を訪れた坂上田村麻呂に延鎮上人は観音信仰の功徳を説き、感銘した田村麻呂は寺院を建立し清水寺と名付けたそうです。
清水寺は当初は、南都六宗の法相宗の寺院でしたが、紆余曲折ありながら1965年には北法相宗の本山として独立したといいます。
南都の奈良に対して、北都の京都の法相宗といった意味合いがあるとされています。

「鐘楼」も1607年の再建で、梵鐘は1478年の鋳造とされます。
清水寺は創建以来、何度も火災ににあって堂塔を焼失しており、現存する建築物は徳川家光によって再建されたものが多いようです。



いよいよ本堂へと向かうことになりますが、まずは手水で身を清めます。
ここまで来ると山の斜面に建つ本堂と同じ高さになりますから、周囲の景観は高台から見下ろすような景色になります。



手水舎の横には「轟門(中門)」があり、ここから先は拝観料が必要な領域です。
朱色の建築物ばかり見ていましたので、ナチュラルな木の色の建築物を見るとなんとなく新鮮な感じがしてしまいます。



中門から本堂へは石畳の廻廊を渡ることになりますが、なかなか雰囲気があります。
“早起きは三文の得”といいますが、やはり早朝の寺院は人が圧倒的に少ないのでちょっと待てば無人になる時があります。



廻廊を抜けると本堂に入りますが、まずは「清水の舞台」から下を見下ろしてみます。
「音羽の滝」にいるのは中学校の修学旅行でしょうか。教師らしき人もいますね。



「清水の舞台」の対面にあるのは「子安塔」。
後であそこまで歩いて行ってみよう。



本堂は外回りは工事の養生でホロをかぶっていますが、外陣から内陣のお前立ちにお参りすることが出来ます。
外陣には大きな鐘があり、叩いてみると鐘の大きさもあって強く奥ゆかしく響きの長い音色がしてます。

お前立ちの「十一面千手観世音菩薩立像」を守護するのは「二十八部衆」。
内々陣を含む本堂は国宝に指定されており、御本尊の「十一面千手観世音菩薩立像」は秘仏で33年に一度の御開帳になっていますが、本堂改修工事が終了すれば特別開帳があるかもしれませんね。



今回、清水寺へ参拝する時に楽しみにしていたのは「懸仏」でした。
「懸仏」は本尊の姿を現した「御正体」といわれ、神鏡のような円形からは神仏一体の時代を感じられることが出来ます。



世に仏像ファンが存在するのと同じように「懸仏」ファンというのもあり、当方も懸仏の拝観できる寺院があると観てみたい衝動にかられます。
下は清水寺の宿坊・成就院から奉納された額で、十一面千手観音と守護する金剛力士像の姿が見えます。



本堂を出ると「阿弥陀堂」へ向かうことになります。
「阿弥陀堂」は法然上人が日本で最初に常行念仏道場とした場所とされており、須弥壇には「阿弥陀如来坐像」が安置されています。





「阿弥陀堂」に参拝した後は「奥之院」へ参拝し、「清水の舞台」から見えていた「子安塔」へと向かいます。
子安塔は1500年に建立されたものとされ、内部に「子安観音(千手観音)」を祀る、安産に御利益がある塔だということです。



子安塔からは「清水の舞台」が正面に見えるのですが、工事中のためホロをかぶっています。
工事終了は2021年ということですので、清水の舞台が見られるのは約3年先になりそうですね。



「阿弥陀堂」の近くまで戻ってきて見る本堂も今はまだホロの中。
「懸造り」の舞台は高さ13m、4階建てのビルに相当するそうですから、工事が完了したら再び威風堂々とした姿を見せてくれるのでしょう。



本堂の近くから見える「三重塔」と、京都のもう一つのランドマークの京都タワーの遠景。
山の中腹から眺めると、如何に京都が盆地なのかが分かります。





さて、ここからは坂道を下っていくことになり、「音羽の滝」で清めの水をいただきます。
金属製の長い柄杓を伸ばして水を汲みますが、なかなかうまく汲めない人もいるようです。



今回の本命は三重塔の横にある随求堂です。
222年ぶりといわれる随求堂の御本尊「大随求菩薩」ですが、開帳時間前から既に人が並んでおられます。

仏像は江戸時代(1728年)に造られた1.1mの坐像で、秘仏として保存されていることがあって非常に状態のいい仏像でした。
本尊以外での「出開帳」は多いようですが、やはり仏像はしかるべき場所に安置されているのを観るのがベストだと思います。

 

随求堂には胎内めぐりがありますので入ってみましたが、人が多いため真っ暗な中で何度も前後の方に当たります。
暗闇が怖かったのか、途中で引き返す外国人女性の姿もあって係りの方が心配されていました。

ところで、境内には清水寺とは全く関係はないようですが、「地主神社」の社があります。
大国主命を主祭神として祀るこの神社は、特に縁結びに御利益があるといい、圧倒的な女性の多さに驚くことになりました。
若い女性が多く、もう恋には縁のなさそうなご婦人は娘の良縁を祈願されているのでしょうね。



寺院境内を出て駐車場まで清水坂を下っていくと、「八坂の塔」が垣間見えます。
これまで「八坂の塔」は遠巻きにしか見たことがなかったものですから、少し寄り道してみる。



「八坂の塔」の名前と坂道の下から見る光景があまりにも有名なため知られていませんが、実際は「法観寺」という臨済宗建仁寺派の寺院となっています。
京都らしい情緒のある場所ですが、車の走行と人通りの多さで絵になりません。
しっとりとした日差しの日に和傘を差した舞妓さんの姿が欲しいところです。



清水寺は繁華な場所にありますが、じっくり見て回ると非常に時間がかかる広さがあります。
今回の参拝で西国三十三所観音巡礼も京都・滋賀・岐阜は巡礼が終わりました。
このままいけばきっと満願が叶うだろうとの想いが段々と強くなってきています。


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御朱印蒐集~甲賀市 福生山 櫟野寺~

2019-01-10 20:30:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「甲賀三大仏」とは“大池寺の釈迦如来座像”“十楽寺の阿弥陀如来坐像”“櫟野寺の薬師如来坐像”のことを呼びます。
なかでも櫟野寺には「秘仏 木造十一面観音坐像」が本尊として祀られ、今年は33年に一度の御本尊大開帳になるとのことで櫟野寺へと参拝に向かいました。

櫟野寺では2年少々の月日をかけて本堂・宝物館の大改修をされていたため、長きの間に渡って拝観が叶わなかった仏像になります。
秘仏本尊は2016年秋から2017年初頭にかけては東京国立博物館で公開されたとはいえ東京は遥か遠く、寺院で拝観出来る日を待ち望んでいました。



寺院の歴史は古く、792年にこの地へ延暦寺の根本中堂の用材を求めた訪れた最澄が霊夢を感じて、十一面観音を安置したことに始まるとされます。
806年には鈴鹿山の山賊追討のため、櫟野まで登られた坂上田村麻呂が群賊平定後、祈願寺として七堂伽藍を建立した大寺院だったといいます。
櫟野寺は甲賀地方に於ける比叡山延暦寺の拠点寺院として、甲賀六大寺(矢川寺・河合寺・新宮寺・油日寺・千光寺・櫟野寺)の筆頭寺とされ、末寺7ヶ寺を擁する広大な境内をそなえていたと伝わります。



寺院へは拝観時間前に到着しましたが、既に多くの方が参拝に来られ拝観手続きを待っておられます。
拝観が終わって帰る頃には50台は停められる駐車場が満杯となって車が並んでいましたので、信仰の方・仏像ファンの多さに驚くことになります。



東京国立博物館での特別公開では約21万人もの人を集めたといいますから、その評判の高さも拝観者が多かったことに影響しているのかもしれません。
近年は寺院の特別公開を待つよりも東京で観た方が早いという感じになっていますが、開帳時期を待ってでも安置されている寺院で観たい気持ちもあります。



短い参道の先には仁王門。
また仁王門までの参道には奉納された石仏が並んでいますので、信徒・檀家の多い寺院なのかと思います。



櫟野寺に金剛力士像が祀られているのは知らなかったため、驚くとともに嬉しくなります。
ガラス越しにしか観られませんが、重厚で力強い姿に見とれると同時に大魔神のような玉眼の迫力に気圧されます。





仁王門には“南無観世音菩薩”の扁額と輪宝紋の提灯が掛けられています。
寺院の大提灯を見るのも好きなのですが、紋章にもいろいろな意味が込められているのでしょうね。



まずは身を清めようと手水へ行くと、なかなか面白い造りになっています。
竜が吐水が流しそうめんのように竹の中を流れ、竹に空けられた穴から流れ出るという具合です。
尺が金属製なのも清潔な感じがして、こういう尺もいいなと思います。



手水を終えて鐘楼へ向かいましたが、鐘を撞く人は誰もいない。
禁止されている風でもなかったので梵鐘を撞かせていただきます。
梵鐘には昭和25年10月18日の銘があり、日本は朝鮮戦争勃発による特需の時代に鋳造されたもののようです。



本堂はこの春に落慶されていますので非常に綺麗な御堂となっています。
本堂の御本尊につながる五色の御手糸が回向柱までつながり、引き寄せられるように拝所へ向かい線香を焚かせていただきます。
櫟野寺のお線香は鉛筆のように太いため中々火が着かなかったのですが、その時間は落ち着きを取り戻すには充分な時間となります。



外陣に上がらせていただいて少しすると、僧呂の方がおみえになり読教が始まります。
その間に焼香をさせていただき、石製宝珠につながった御手糸に触れて合掌して読教を聞いていました。



外陣には正面のお前立ちの奥に御本尊の閉じられた厨子。
右の脇陣には「不動明王立像」、左の脇陣には「地蔵菩薩坐像」が安置され、「賓頭盧尊者」の横には「常香盤」が置かれてあります。



読教が終わると“それでは御開帳します。”との一声で御開帳が始まります。
外陣から見えるのは内陣の奥にお顔を現していただいた御本尊ですが、やはりこの瞬間の緊張感と開帳されて姿を現す後本尊にありがたい気持ちになります。



本堂と宝物館は廊下でつながっており、廊下伝いに歩いていくと御本尊「十一面観音坐像」の正面から入館出来ます。
「十一面観音坐像」は像高3m・台座と光背を含めると高さ5.3mの大きな仏像で、重文に指定された「十一面観音坐像」としては最大の大きさだとされています。

見上げるような高さの「十一面観音坐像」を前にして手を合わせていると、“何事も許された”ような想いにふけってしまうのは勝手な願いでしょうか。
平安仏がこのような状態の良さで保存されてきたことへの感謝の念も湧いてきます。



今回の大開帳では御本尊の御開帳の他にも国重文を含む25躰の仏像が開帳されており、なかには大阪や東京の博物館に寄託されていた仏像も今回の大開帳に合わせて里帰りしてきたそうです。
拝観順路に沿って並べると、御本尊の左には「地蔵菩薩坐像(平安期・重文)」・「毘沙門天立像(同)」・「弥勒如来坐像(同)」・「吉祥天立像(同)」・「聖観音立像(同)」が3躰・「十一面観音坐像(同」・「白象(推定:藤原期)」。
全て平安仏ながら痛みや欠損部が多いのは残念ですが、一同に並ぶ姿は荘厳でこの甲賀の地に天台密教が如何に根付いていたのかが分かります。



先述の面の対面には「十一面観音坐像(平安期・重文)」・「聖観音立像(同)」が3躰祀られ、特に最後の聖観音はとても表情が柔らかく包容力を感じる尊顔でした。
続いて「十一面観音坐像(同)」・地蔵菩薩立像(同)」が並びます。

こうして仏像が並んでいるとある種の特徴があり、基本的に下膨れの顔で厳しい表情をされている仏像が多いように見えます。
説明によると、この様式は“甲賀様式”と呼ばれるもので、かつてこの地には仏像の工房があり、仏像を製作していたとされます。
野洲川の南側の仏像には“甲賀様式”の仏像の共通点があり、野洲川の北側は「善水寺」が仏像を供給されていて、それぞれの工房で特徴が違うとのことでした。



宝物館の最後の面には一木造りで奈良で見るような体に厚みのある坂上田村麻呂ゆかりの「毘沙門天立像(平安期・重文)」・「吉祥天立像(同)」・「地蔵菩薩立像(同)」・「聖観音立像(同)」が2躰・「吉祥天立像(同)」。
御本尊の右脇陣には像高2.2mでこれだけでも見応えがありそうな「薬師如来坐像(平安期・重文)」(甲賀三大仏)が最後を締めます。



これだけの仏像が残されている櫟野寺とは想像以上に素晴らしい寺院でした。
滋賀県の南部および東部は天台王国とも呼ばれる天台宗寺院の多い所ですが、甲賀という地には独特の天台文化が拡がっていたようです。
甲賀地方にはまだ訪れていない寺院が多くありますので、また甲賀まで足を運ぶことになるでしょう。


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御朱印蒐集~『初詣』 彦根市 多賀大社~

2019-01-06 21:11:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 正月三ヶ日の多賀大社に初詣する参拝者は、40万人とも50万人ともいわれ、滋賀県では最も初詣客の多い神社になります。
2日に多賀大社へ参拝したのですが、小雨にも関わらず参拝者は多く、国道の渋滞を抜けて駐車場へ車を入れるまで一苦労することになりました。

多賀大社は伊邪那岐命・伊邪那美命の2柱を祀り、「延命長寿・縁結び・厄除け」の神様として信仰を集めてきた神社になります。
イザナギ・イザナミは夫婦神で、日本の国土や天照大神や八百万の神々をお産みになられた神といいます。
この縁起が「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」の俗謡につながっているのでしょう。



表参道となる絵馬通りには土産物屋には行列、お店のない場所には露天が出ており、神社へ向かう人・帰る人で大変な混雑です。
気が惹かれるお店もありましたが、物見遊山は参拝の後ということで神社へと向かいます。



天気には恵まれませんでしたが、屋根には雪が積もっており、滋賀の正月らしい風景となっています。
大雪で身動きが取れなくなる正月も過去にはありましたので、ほどよい雪の量ということです。



鳥居を抜けて御神門への参道には「太鼓橋」があり、雪のため足場が悪いからなのか常時なのかは分かりませんが通行止めになっていました。
このそり橋は豊臣秀吉が母の延命祈願し、成就したため1万石の寄進をしたことにより「太閤橋」とも呼ばれているようです。



御神門を抜けると広い境内が拡がりますが、正面にある本殿に並ぶ方の列が御神門のすぐ近くまで続いています。
初詣ですから参拝者は老若男女・家族連れ・一人の方など様々な方が来られています。
1年の初めに神様に祈念する気持ちは皆同じなのでしょう。



本来ならば手水で身を清めるのが作法ではありますが、人が多いので失礼ながらパスさせてもらいます。
手水舎の屋根の雪がそのうち落ちて、誰かが頭から雪をかぶりそうな感じなのが気にかかる。



本殿参拝の列に並びましたが、参拝できるまで結構かかります。
大晦日の夜や元旦当日にはもっと人手が多かったのでしょうけど、神職の方は大晦日から三ヶ日にかけて寝る時間もないのではないか?と思います。



少しづつしか列は進んでいかないものの、近づくに従ってお賽銭の硬貨が投げ入れられる様子が見えるようになってくる。
お札を入れられる方も多く、願いは様々とはいえ、日本人の初詣に祈願したい気持ちはいつの世も変わらないのでしょう。





本殿の横に建てられている能舞殿では巫女さんの奉納の舞いが行われています。
大社ですから能舞殿も立派なもので、当然ながら雅楽の演奏の奏者によるものです。



「巫女舞」は岩戸の陰に籠ってしまった天照大神に岩戸を開けさせるためにお祭り騒ぎを起して感心を引いたことが原点となっているようです。
そのため能舞殿の神棚は本殿に向けて組まれています。



「巫女舞」が終わると、一時をおいて「弓の舞」が奉納されます。
3日には「翁始式」として能が奉納され、多賀大社には能面五十九・狂言面十三面が残されているといいますから古くから続く神事なのでしょう。



ところで、お多賀さんといえば糸切餅です。
絵馬通りには3軒の糸切餅屋さんがありますが、多賀大社門前に店を構える『糸切餅総本家 多賀や』と『糸切餅 元祖莚寿堂本舗』の前には糸切餅を求める人で長蛇の列が出来ています。

絵馬通りを数分進むと『糸切餅本家 菱屋』があり、それぞれのお店が本家や元祖を名乗っているのが面白い。
行列に並ぶつもりはなかったので諦めて歩いていると絵馬通りの途中に莚寿堂さんの出張店がありましたので、そこで糸切餅と糸切餅の天ぷらを購入。

お店の人に糸切餅は店によって味は違いますか?と聞いてみると、“違います。ここのは塩味が強めでもっちりとした味で私はここのが一番好きです。”ということでした。
まぁ売っている商品を悪く言う人はいませんが、同じ時に食べ比べてみないと味の違いは分かりませんね。



さて2019年はどんな年になるのでしょうか?
元号が変わると人の心や世相に変化があるかもしれませんが、未来は明るいと思えるような年になってほしいものです。


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御朱印蒐集~『初詣』 蒲生郡日野町 馬見岡綿向神社~

2019-01-03 12:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 2019年は亥(イノシシ)年になり、干支では「己亥(つちのとい)」の年にあたるといいます。
それぞれの年の干支の意味については諸説ありますが、亥年は“無病息災”や“勇気と冒険”の年と言われることが多いようです。

蒲生郡日野町に「馬見岡綿向神社」という猪を神の使いとする神社があると聞き、今年の初詣の神社としました。
今年は12年に一度の亥年を迎えるということもあるのでしょう。馬見岡綿向神社へ参拝する方が多く、にぎわいと活気のある初詣となりました。



綿向神社では亥年にのみ奉製授与される「猪の焼き印入り絵馬」があり、未読で申し訳ないけど司馬遼太郎の紀行文「街道をゆく」の近江散歩にこの猪の焼印絵馬の話が取り上げられているそうです。
また、白洲正子の「近江山河抄」にも馬見岡綿向神社のことが取り上げられているといいます。ちょっとした事から読書のきっかけはありそうですね。



神社は545年に「綿向山(標高1110m)」の頂上に出雲国開拓の祖神を迎え祀り、祠を建てたことが始まりとされます。
796年には里宮として現在の地に遷し、蒲生上郡の総社・日野の大宮として当地の産土神として人々の信仰を集めてきたとされます。
鎌倉時代から安土桃山時代になると蒲生氏一族の氏神として庇護され、江戸時代には日野商人(近江商人)の財力に支えられ、出世開運の神として崇め親しまれてきたといいます。



また、馬見岡綿向神社では800年以上の歴史を持つ「日野祭」の祭礼として曳山祭りが行われます。
滋賀県では曳山祭り文化があり、長浜・水口・大津など10ヶ所ほどで曳山祭りが行われますが、この文化が根付いているのは京都文化の影響があるのかもしれません。

神社の境内への入り口にはあまり見かけることのないしめ縄が結界の役目を果たしています。
縄の上部には御幣が付けられ、下部には榊に紙垂を付けた玉串。中央にはリースのように丸めた木の枝がある珍しいものです。



日野町は雪が多い地域なのか境内には雪がかなり残っている場所がありました。
足跡が多く見られますので、雪が積もっていた頃には雪を踏みしめながら参拝された方が多かったのでしょう。



拝殿を奥にのぞむ大鳥居の前ではお焚き上げをされていて、煙が目にしみる。
しかし、この位置までくると綿向神社の想像以上の堂々として清々しい空気に驚きます。





手水舎で心身を清めてから参拝しますが、綿向神社の手水は少し変わっています。
水を尺で汲むのではなく、竹に通された井戸水が幾つかの穴から落ちるところを直接手で受けるというものです。



拝殿は1803年の再建で、日野商人の豪商・中井源左衛門家の寄進で建てられた建築物のようです。
中井源左衛門家は産物回し・金融業などで財を築き、瀬田の唐橋も建立したほどの豪商だったそうですが、明治維新後に大名貸しの貸し倒れなどもあり廃業されてしまったそうです。



本殿は1707年の再建。その威風堂々たる姿に圧倒されます。
本殿も拝殿も銅板葺きですが、昭和58年までは檜皮葺きだったようですから、現在とは雰囲気がかなり違ったのではないかと思われます。



綿向神社の御祭神は「天穂日命(あめのほひのみこと)・天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)・武三熊大人命(たけみくまうしのみこと)」の3柱。
本殿は装飾も見事な建物で、殿の裏側には神様にもっと近い「裏参り」の拝所も設けられており、参拝の列が続いていました。



興味を持ったのは神紋となっている雁金紋で、「雲に二つ遠雁」紋という紋でした。
雁は首の長いガンカモ科の鳥ですが、首をすくめて飛んでいる姿は何とも愛嬌がありますね。



綿向神社と「猪」の関係は御鎮座に由来するといい、社伝では545年、蒲生の豪族であった蒲生稲置三麿と山部連羽咋が綿向山に猟に来ていた時、5月にも関わらず大雪になったといいます。
雪の止むのを待ち、外に出て見ると大きな猪の足跡を見つけて追いかけていくうちに頂上へと導かれていき、そこへ白髪の老人が現れて綿向山の神様の御託宣を受けたとされます。
この謂われをもって、猪は綿向大神の神使いとして祀られているとされているようです。



境内には日野商人ゆかりの「千両松」が植えられており、日野商人の面白い話が伝わっています。
江戸時代に伊豆の三島に醸造業の店を出し巨万の富を築いた辻惣兵衛が儲けたお金を日野へ持って帰る際に、山賊や盗賊を避けるため盆栽の鉢の底に小判を隠して運んだといいます。
その松を境内に植えたのが千両松ということになりますが、現存するこの松は何代目かの松なのでしょう。





境内には末社が18社あり、神社の森で主要建物を取り巻くように祀られていました。
雪解けでぬかるんだ道ではありましたが、一回りしてみます。



石灯籠群と呼ばれる形の異なる大小多くの石灯籠がみられますが、鎌倉時代のものを最古に近江日野商人が数多く奉納されています。
御手洗川岸に立つ2つの大灯籠は高く積み上がった凛々しい姿で、日野の人々の信仰の厚さが伺われます。



ところで、縁起物だということで「猪の焼き印入り絵馬」と「土鈴」を購入し、イノシシみくじをしてみました。
おみくじは吉でしたが、土鈴とみくじを並べてみると愛嬌たっぷりのイノシシの親子になったのが嬉しいところです。



家内安全・無病息災、年齢と共に願いは平穏な方向へと向かいます。
とはいえ、生きている限りは可能な限り挑戦していく気持ちは失ってはいけないと改めて思います。


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