僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~京都山科区 護法山 毘沙門堂~

2018-09-30 13:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 毘沙門堂は昨年にも参拝しましたが、再びの参拝となった目的の一つは御朱印帳を入手するためでした。
毘沙門堂の御朱印帳はビロード地に金色の装飾がされている美しい御朱印帳で、触感も非常に気持ちの良いものです。

前回は黒色の御朱印帳を購入しましたが、他の寺院で御朱印を頂く時に朱印を書く方が興味深そうに撫でられていることが何度かあった御朱印帳でした。
いきなり御朱印帳の話からになってしまいましたが、毘沙門堂は京都山科区の山際の盆地にある寺院で門跡寺院としても格式のある落ち着きのある寺院です。

 

毘沙門堂は“天台宗五箇室門跡”の一つとされており、曼殊院門跡・三千院門跡・青蓮院門跡・妙法院門跡と並ぶ格式のある門跡寺院になります。
また宸殿の各間には狩野派の襖絵などを観ることができ、季節になると桜や紅葉の名所にもなる寺院といわれています。



毘沙門堂は703年、現在の上京区・御所の北方辺りに僧・行基により「護法山出雲寺」として開かれたとされます。
その後に戦乱等で荒廃してしまったようですが、1665年に現在地に再建。

復興(再建)にあたっては徳川家康の側近でもあった天海によって始まり、天海の死後には弟子の公海が遺志を継ぎ、再建に至ったようです。
その後、後西天皇の皇子公弁法親王が入寺して門跡寺院となったとされています。



急勾配の石段の横には“毘沙門天王”の真っ赤ののぼりが立ち、その先に朱色の仁王門がどっしりと構えています。
石段を「仁王門(山門)」に向かって登っていく時間がこの上なく好きなので、登っていくときには心が晴れ渡ります。



仁王門には阿吽の金剛力士像がおられますが、この仁王様は寺院再建時の1665年に建立されたものだそうです。
力感のある仁王像はややスラッとした感じがしており、金網越しとはいえ迫力は満点です。





参拝者が入門するのは「薬医門」からとなり、今度は短い石段を登ることになります。
門にしめ縄が掛けられていますが、寺の門にしめ縄をかけるのは神仏習合の名残なのでしょうか。



門跡門主晋山の大事以外は一切開門されないといわれる「勅使門(1693年移築)」の内側には大きな枝垂櫻の巨木があります。
樹齢100有年・高さ10m・枝張30mとされるシダレサクラが満開の時はさぞや壮観な姿なのだと思います。



勅使門の外側にはモミジが参道に垂れ下がるように密集しています。
この参道の紅葉は「そうだ、京都 いこう」のキャンペーンポスターにも使用されたそうです。



桜の後方にある玄関を横目に本殿で受け付けをすることになりますが、今回驚いたのは音声ガイドを渡されたことでしょうか。
前回はガイドの方が笑いも含めた絶妙のトークで案内してくださいましたが、夏の閑散期のためかシステムが変わっています。
今回は音声ガイドを持っての参拝でしたので、美術館以外では初めての経験を楽しみます。





本殿の須弥壇には左から岩窟を模した彫り物の中に祀られた「不動明王と2童子」と「如意輪観音坐像」、中央にはお前立ちの毘沙門天が3躰。
本尊の毘沙門天は宝塔の中に安置されているそうですが、こちらは絶対秘仏となっており拝観することは出来ません。

この絶対秘仏の御本尊は伝教大師・最澄のご自作で、延暦寺根本中堂の御本尊・薬師如来の余材で刻まれたものと伝えられているそうです。
最右には「東照大権現」が祀られており、徳川家康の側近だった天海とのつながりの深さが感じられます。

宸殿の縁側からは「晩翠園」と呼ばれる江戸初期の回遊式庭園をのぞむことが出来ます。
やはり京都の門跡寺院は庭園ということになりますね。



廊下を進んでいくと緑の奥に朱色の「高台弁財天」が見えてきます。
「高台弁財天」は秀吉の母の大政所が大阪城内で念じていた弁財天とされ、大阪城落城後は北政所が高台寺で祀られていたものを毘沙門堂境内に勧請されたようです。



高台弁財天へは本殿を出て境内を移動することになりますが、本殿へ戻った時に珍しいものを見ました。
「常香盤」という線香を四方を四角い渦巻きのような文様にして香を炊く仏具がありますが、その文様を造る光景です。

最初に中の杯を櫛で丁寧にかき混ぜ、文様の入った道具で型押しして、香をひいていくという工程です。
全て燃え尽きるまで24時間かかり、時計替わりになるそうですが、滅多に見れない貴重なものを拝見できました。


(常香盤のイメージ)

本殿・宸殿の横の道を歩いて行くと鳥居が見えてきます。
今の季節は緑が美しい場所ですが、秋には紅葉に埋もれそうな樹勢のある場所です。



抜け池に掛けられた橋を渡ると「弁天堂」があり参拝いたしますが、堂は開放されており、祀られている弁財天を間近に拝むことができます。
この弁天堂に祀られているのは岩山を模した造形の正面に「宇賀弁財天」。
岩山の下部の岩窟には「宇賀神」、周囲には眷属の「弁財十五童子」が周囲を固めております。



実に迫力のある宇賀弁財天ではありましたが、撮影は禁止。
「経蔵」には注意書きはありませんでしたので、「千手観音座像」を撮らせていただきました。
千手観音像の前には人仏像や念持仏や仏像らしきものが15躰ほどあり、いつの時代かに奉納されたものかと思われます。



最後に御朱印帳の話になりますが、前回は黒で今回はブルーの御朱印帳を選びました。
“表書きもお願いしたいのですが...”と聞いてみると、“何とお書きしましょうか?”と聞かれます。

“前回は仏教用ということでお任せしました。”と言うと“何て書いてあります?”
実は前回の文字は読めないままでしたので写真を見せると“「色即是空」ですね。”と教えていただくことに。



“では今回は書きたい言葉があるのでそれを書かせていただきます。”と書いていただいたのですが、これまた読めない。
「拈華微笑」の「拈華」かと推定しているのですが、“この言葉は悟りの言葉です。”と教えていただいた言葉です。



御朱印もそうですが、古文書などを博物館で見ても読み取れないのは情けないことです。
当方には大人の教養というものがないので、少しは勉強しないとダメですね。


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彼岸花と黒いアゲハ蝶の仲間

2018-09-27 19:52:25 | 花と蝶とトンボと昆虫
 秋の彼岸の風物詩といえば、やはり彼岸花ということになりますが、もうどこもかしこも彼岸花が満開ですね。
場所によっては花期を終えつつあるものもありますから、花のピークは少し過ぎた頃といった感じです。

彼岸花といえばアゲハチョウ、特に黒いアゲハがよく集まっていますので見えたやつは全てパチリ!ということになりました。
まずはナガサキアゲハですが、数は出ていませんでしたので1頭だけしか見当たらず。
特徴のある♀のナガサキアゲハには今年は出会えずじまいなのが残念でした。



数が多いのはモンキアゲハでしょうか。
モンキアゲハは日本最大級の大きさの蝶で、大きさもさることながら羽根の白い斑点で遠くからでも識別出来ます。





羽根のメタリック調のブルーが美しいのはカラスアゲハ。
初夏の山でよく見かけますが、この彼岸花の群生へは時々姿を見せてくれるのが嬉しいところです。





クロアゲハも彼岸花の蜜を水にやってきます。
黒いアゲハチョウは彼岸花の蜜が好きなのか?と思うほど寄ってくるのが不思議です。





もちろん普通のアゲハチョウやキアゲハの姿もありましたよ。
数的にはキアゲハよりアゲハチョウの方が圧倒的に多かったですね。





彼岸花やニラの花に寄ってくる蝶の季節が終わると、あとは渡りの蝶のアサギマダラを待つばかりということになるのでしょうか。
運良く出会えるといいのですけどね。


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ニラの花とタテハ蝶の仲間

2018-09-26 07:01:11 | 花と蝶とトンボと昆虫
 今年の初夏は大雨の影響で崖崩れが多く、山の林道へ入れなかったので初夏の蝶を見ることはなかったのですが、秋の蝶は身近な場所で見れますので探蝶ということになりました。
ニラの花の周辺には強い臭いが漂っており、タテハチョウやセセリチョウの仲間が数多く集まってきます。

稲刈りが終りを迎える頃になると畦道のニラの花があちこちで咲き始め、季節の変わり目にきたことが分かります。
やって来るのはタテハチョウの仲間でもよく見かけるポピュラーな蝶ばかりになりますが、一同に蝶が集まってくる姿は壮観なものです。



この時期に最も数が出ているのはヒメアカタテハのようです。
数頭が留まっていますので白いニラの花に黄色い姿が点在しています。

アカタテハも2頭ほどいましたが、こいつは蝶にしては警戒心がやや強いやつです。
少し立ち位置を変えようとすると、すぐに飛んでしまうのです。



キタテハは活動している期間が長いようで、冬になっても見かけることがある蝶です。
夏型と秋型があるのですが、個体差もあってなかなか見分けることができません。





初夏の夏にそこそこの高度の所で見かけるミドリヒョウモンですが、なぜか秋には平地で見ることが出来ます。
ミドリヒョウモンは分布が広い蝶といわれますので山地・平地を問わず生息しているのでしょう。





ツマグロヒョウモンは一般的に見る機会の多い蝶なのですが、湖北ではどても多いといった蝶ではないように思います。
もっともツマグロヒョウモンが多く生息している地域で蝶を探していないのかもしれませんけど...。





日本には蝶が300種類以上生息しているといいますが、身近な場所で出会える蝶はいつも同じになってしまいます。
とはいえ、早春のギフチョウから始まり、渡りのアサギマダラで終わる蝶の季節には魅力的なものがあります。


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ノビタキをパチリ!

2018-09-24 19:17:17 | 野鳥
 秋の鳥見の季節はとうの昔に始まっていますが、如何せん台風やら雨やら強風やらで鳥見に行く機会がありませんでした。
この三連休の途中からやっと晴れの休日に恵まれましたので、いそいそと鳥見に出かけることに。

もうシギチには遅い時期かと思いますので、狙いは渡り途中の小鳥ということになりますが、車を走行中に目の前に出てきて留まってくれたのはノビタキでした。
一瞬のことでしたので同じカットだけでしたが、シーズン初見の鳥との出会いは嬉しいものです。



ノビタキは3ヶ所で見かけましたが、それぞれ1~2羽だけでまだ先駆け組なのかもしれません。
姿は見えるけど飛来した当初は警戒心が強いのが難点ですね。



ノビタキが入っているのなら他のヒタキ類を探してみよう!
意気込みは良かったものの、台風の被害で倒木が横たわり鳥見場所へ入れない。



他にも鳥見場所を幾つか巡回してみるも小鳥の姿は見当たらずで、もう遅い?
とはいえ、チョウゲンボウやモズの姿がありましたから秋~冬の鳥見シーズンはもう開幕していますね。


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御朱印蒐集~比叡山延暦寺 無動寺明王堂・辨天堂~

2018-09-22 08:39:39 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 比叡山延暦寺には「東塔」「西塔」「横川」という3つのエリアがありますが、東塔の無動寺谷に「無動寺」という塔頭があります。
東塔の一谷とはいっても無動寺谷は別格扱いとなっており、別名「南山」とも呼ばれ周辺には幾つかの塔頭が点在しています。

また比叡山には「三大弁財天」と呼ばれる弁財天を祀る辨天が3つあり、それは西塔の「箕淵弁財天」と横川の「箸塚弁財天」、そして無動寺にある「無動寺弁財天」だとされています。
3つの弁財天ではそれぞれ御朱印が頂け、今回の無動寺参拝でやっと3つ目の弁財天にお参りできたことになります。



無動寺は東塔の駐車場からだと歩く距離が少しあると聞いていましたので、最短距離となる坂本ケーブルに乗って行くコースを選びました。
猛暑になりそうでしたから気温が上がる前に歩き出したいこともあって、坂本ケーブルには始発に間に合うように車を走らせます。

ケーブルは10名少々の方が乗車されており、寺院関係で働いている方の出勤ケーブルなのかと思えてしまうほど、みなさん顔を合わせるたびに挨拶を交わされています。
何とも和やかな雰囲気のケーブルではありましたが、崖側の席に座ったため車窓から見る直下の崖が怖く感じてしまいます。
地震でもあったらそれこそケーブルごと谷へ落ちてしまいそうな崖沿いを運行するケーブルです。



坂本ケーブル駅を降りると東塔と無動寺の分かれ道になりますが、無動寺方面へ歩きだしたのは当方のみです。
一之鳥居を抜けた後は一人で心細く山道を下っていくことになりました。



不思議なのは塔頭エリアへ向かっているにも関わらず、鳥居が続くこと。
麓の日吉大社の影響が強いのかもしれませんが、いま比叡山延暦寺の山中にいるとは思えないような参道を歩き続けます。



三之鳥居までくるとその奥に「閼伽井」がありました。
内部には入れませんが、近くにいるとボコボコを水が湧く音が聞こえてくるのは周囲が静かなだけによく響きます。
無動寺は千日回峰行で重要な修行の堂となっており、この閼伽井には堂入りの際に大きな役割があります。



無動寺明王堂は5年700日の回峰行を満行した行者が9日間の“断食・断水・断眠・断臥”の堂入りの荒行を行う堂とされています。
まさに命をかけた荒行の行者は、食べず飲まず眠らず横にならずで真言を唱え続ける四無行の行をおこなうだけでなく、日に日に衰弱していく体で午前2時にはこの閼伽井まで来て不動明王に供える水を汲みに来なければなりません。
行者は水をお供えするだけで飲むことは許されてはいませんので、全ての欲求を断ち切る意志の強靭さがなければ到底出来ることではないのでしょう。



そういう聖なる閼伽井ですから無動寺までの参道は綺麗に掃き清められてありました。
帰りに若い僧が掃いているところに出会いましたが、長い山道を掃いていくのは大変そうだなと思いつつも、それが修行の一つなのかと思い納得する。

無動寺エリアはそれほど広大な谷ではありませんが、堂宇を巡ろうとすると勾配が強く、一旦下まで降りてしまうと今度は登ってくるのが大変です。
境内の下からの道は、最後にこの石段を登りきれば無動寺明王堂へ行くことが出来ます。



明王堂の横に鐘楼がありましたが、無動寺は観光寺ではありませんので梵鐘を撞くことは出来ず、決められた時間に僧の方が撞かれているようです。
銘を見ようとするも薄くなっていて読み取れなかったものの、梵鐘の下や周囲は綺麗に掃き清められているのに感心致します。



本堂の横には阿闍梨の石像と祠があります。
鳥居が山王鳥居になっているのは日吉大社の影響なのでしょう。
比叡山の麓の坂本の一帯には日吉神社を始めとして寺院が密集していますので、神仏信仰の聖地であることを強く感じられる地域です。



明王堂では外陣で参拝することができるため、外陣へ入らせていただき、線香をあげさせていただきます。
内陣では朝のお務めなのでしょうか、一人の僧の方が静かに読教されている姿がみえます。

読教が終わるまで外陣でじっと座っていると、室内はさほど暑くはないにも関わらず、坂の昇り降りをしたこともあってか急に汗が吹き出してくる。
格子の奥の須弥壇には不動明王立像と制多迦・矜羯羅の童子が見えるが暗すぎてシルエットしか見えない。



読教されていた僧は鈴を何度か鳴らされ五体投地をされてお務めが終わり、須弥壇にロウソクを灯されて格子を開いてくださいましたが、お不動さんは護摩行の煤で黒く詳細は見えず目だけが光っているように見える。
僧呂の方はそのまま堂を出られてしまったため堂に中に一人きりになりましたが、堂入りの行が行われる明王堂にいるとは思えないほど静かで落ち着いた外陣にしばらくの間、只々座っておりました。



無動寺で最も低い位置にあるのは玉照院。
禅宗のような門構えとなっていますが、開門時間はまだのようで門は閉じられている。



少し登ったところには大乗院があり、親鸞上人修行跡地の石碑が建てられています。
比叡山延暦寺は鎌倉仏教の祖師たちが修行していた霊山ですから、何ヶ所かに聞き馴染んだ祖師由来の修行地があります。



明王堂まで戻って今度は無動寺弁財天(辨天堂)へお参りすることにします。
比叡山3大弁財天といいますが、この無動寺弁財天は他の2弁財天と比べると群を抜いて大きな堂となっています。



無動寺谷は千日回峰行の祖といわれる相応和尚(建立大師)が開かれたとされており、辨天堂は相応和尚を守護する白蛇(弁財天)を祀る堂といわれています。
近くに沢があるのか水音がしていて、とても冷たい空気を感じます。



辨天堂を神の領域を考えるかどうかは別にして、ここには明王堂で感じるような熱のある静寂さとは違い、冷水のような気が満ちているようです。
仏を前にして感じることと、神鏡を前にして感じることには思い込みもあって少し感じ方が変わりますね。
本殿前の左右に大きな榊立てがあり、白蛇が巻きついてます。



本殿は中に入ってお参りできますので堂内で参詣させていただきました。
境内には祠が幾つかあり、「宇賀神王」「白龍弁財天」「赤井稲荷」「水掛弁財天」などが祀られています。
何かしら刃物のような気を感じてしまうような場所だなぁと思いながら辨天堂を後にします。



無動寺谷は坂本ケーブルから行くと、とにかく谷へ下るばかりになりますが、帰り道はひたすら登り道を行くことになります。
途中で出会ったのは掃除をされている若い僧が何人かだけです。

僧の方はハキハキとして挨拶をしてくださいますが、息を切らしながら山道を登る当方はなんとも滑舌の悪い挨拶となってしまいます。
やっとケーブル坂本駅まで着きましたが、ケーブルは出たばかりで次のケーブルを待つことになりますので、登ってくるケーブルをしばし待つ。



坂本ケーブルは記憶にある限りでは初めて乗ったと思っていますが、このケーブルは途中に停車駅が2つあります。
最初に連絡しておくと停めてくれるようで、「ほうらい丘」と「もたて山」の2つの駅があります。

「もたて山」駅の近くには平安時代の歌人で土佐日記の作者の紀貫之の墓碑があるそうです。
紀貫之は裳立山(標高580m)のピークから眺める琵琶湖の風景をこよなく愛したと伝わります。

「ほうらい丘」は坂本ケーブルの建設時(大正末期)に発掘された多数の石仏を祀る霊窟が車窓からも見えます。
この石仏群は、織田信長の比叡山焼き打ちで犠牲になった人々の霊を慰めるため、土地の方々が祀った石仏と伝えられているようです。



比叡山は観光化されている一面があるとはいえ、やはり巨大な霊山であることに違いはありません。
何度訪れても新たな驚きがあり、約100あるといわれる堂宇の中で参拝出来たのは一部のみです。
山中はあまりに広大なため車・バス・ケーブル・ロープウェイなどを使うことになりますが、回峰行では山中のみならず山麓の坂本や京都市内まで歩くことになりますので、それだけでも過酷な行となりますね。


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滋賀県甲賀市信楽~三筋の滝~

2018-09-19 19:58:58 | 風景・イベント・グルメ
 陶芸の街・信楽には「鶏鳴の滝」「三筋の滝」という2つの名爆があるといいます。
「鶏鳴の滝」には酷暑の夏に訪れて、その名爆ぶりに感動しましたが、もう一つの「三筋の滝」は来年の夏の楽しみにとっておこうかと思っていた滝です。

「三筋の滝」の場所は信楽にあるらしいということしか知らなかったものの、国道12号線沿いを走行していた時に看板を見つけてしまいました。
そのまま通り過ぎるわけにもいかず、通り過ぎた道を折り返して滝へと向かいます。



自称“滝好き”とはいえ、“数十分の山登りの果に見る滝”には体力的・道迷いの不安を感じてしまい諦めているのですが、「三筋の滝」は信じられないほど道路から近い位置にある滝でした。
国道から僅かに下った場所からすぐに滝は見えてきて、その滝の音までもが聞こえてくるとても近い滝です。



滝は遊歩道からだと木がかぶってしまって見にくいですが、滝壺まで降りられる道があります。
“本当にこんな道を降りられるのか?”と多少の不安はあったものの、滝壺に東南アジア系の方が遊んでいたのが見えたので降りてみることにします。



急な下り道を木の幹を掴んで降りてみたところ、どうやら掴む木を間違えていたようで降り位置の地面にあとわずかに足が届かない。
右足を伸ばして地面を探ってみるも地面が探れずオロオロしている姿を、下方から見ていたアジア人の方に笑われてしまいました。



何とか滝壺の横まで降りることが出来ましたが、真横から見る「三筋の滝」は水量が凄まじく迫力のある滝です。
この日は台風が通り過ぎた後で当日は雨でしたから水量が多かったのですが、滝周辺にいた時だけは雨が上がっていたのは幸運です。
とはいっても足元はぬかるんで泥々でしたけどね。



遊歩道は滝の落下点から滝の落ち口の横を通って滝の上流への道へとつながります。
滝の落ち口を横から眺めることが出来、迫力満点の落ち口も間近で見ることが出来ました。
信楽の山中の滝なので土壌が陶芸にむいた粘土層になっているのが面白いですね。



滝の上流の流れは非常に緩やかな清流となっていますが、滝壺に向うと急に勢いを増していくその姿は圧巻です。
“インディジョーズの滝落ちのミニチュア版みたいやね!”と思わずつぶやきたくなる激流です。



この凄まじい自然のエネルギーを垣間見たくて滝へ訪れるのですが、そこから受けるものには素晴らしい刺戟があります。
何か生き続けていることが楽しくなるような感銘を受けますね。


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MIHO MUSIUM(ミホミュージアム)~「アメリカ古代文明」超自然へのまなざし~

2018-09-15 19:46:25 | アート・ライブ・読書
 MIHO MUSIUM(ミホミュージアム)は滋賀県甲賀市の陶芸の里・信楽から山間部に向かって走行していき、湖南アルプスの山中に建てられている博物館です。
向かう道筋の印象は、まるで山中にある古刹へ向かうが如くの感があり、周辺にある農場や宗教施設も相まって独特の雰囲気を醸し出していました。

ミュージアムの印象は「桃源郷」をモチーフとして建築されていることもあり、ある意味での「楽園(ユートピア)」というのが事後の感想でした。
美術品の多さも然ることながら、ミュージアム一帯からは「秘境にある会員制リゾートホテル」とでも呼びたくなるような奇妙な雰囲気を持つミュージアムだったと感じます。



開催されていた企画展「アメリカ古代文明」の展示物は、古い物だと紀元前1800年頃の遺物を筆頭に、紀元前~紀元数世紀の物が100点近く展示されていました。
今から3000年以上も前の時代に連綿と続いていた文明の遺物には興味深いものが多かったと思います。



何室にもわたって展示されている特別展は10章に分かれる膨大なものとなっていますので、章名のみ記載します。

「第一章 多彩なる文化-様々な人体表現」
 (紀元前1200年エクアドルの女性立像では頭部が映画:「エイリアン」のような変形がみられる)
「第二章 仮面-超自然の力を着る」
 (口の部分を縫い閉じられた仮面)(テオティワカン文明のピラミッド)
「第三章 翡翠-緑色に託された生命力
 (メソアメリカの翡翠像にも頭部の人工的な変形が見られる)



「第四章 神々-変身と超自然のかたち」
「第五章 儀礼の宴-宇宙の均衡を保つ」
 (宗教儀礼のチョコレート、後述)
「第六章 文字と歴-歴史をつなぐ儀礼」
「第七章 球戯-超自然との交信」
 (部族間の利権の争いに球戯の戦闘ゲームが行われていた。ただし負けた方は殺される)



「第八章 黄金-太陽エネルギーをまとう」

「第九章 動物-守護獣のかたち」
「第十章 染織-異界におくられた衣たち」

ミホミュージアムでは入口から入り受付を済ませると、桃源郷へのトンネルを通ることになります。
無料の電気自動車も走っていますが、やはりこのトンネルは歩いて通り抜けたいところ。 
桜の季節にはトンネルの向こうに見える桜の桜色がトンネルに映り込む人気の撮影スポットになっているようですね。





トンネルを抜けると、そこから先は吊り橋を渡ってミュージアム館内へ入ることになります。
館内の展覧会を観るまでにも見所の多いミュージアムです。





ミュージアム館内への入口の建物はまるで近代的な神社の本殿のように見えます。
ミホミュージアムの母体が宗教法人であることの影響が大きいとは思いますが、ここはミュージアムとして美術品を堪能する場所としての設計です。





広い館内を移動する途中に周囲の風景が見える場所が幾つかあります。
この風景が周囲を取り囲んでいるのですから、ここが如何に辺鄙な山中にあるのかが分かります。
山の中にも独創的な近代建築物が二棟見えていますね。



「アメリカ古代文明」への入口は格子の天井から採光する独特の造りとなっており、特殊な宮殿への入口のようにも見えます。
隅々にわたって近代建築の見事さが楽しめるという意味で興味深いミュージアムです。



ミュージアムは「アメリカ古代文明」が開催されている北館と、「永遠の至福を求めて」「MIHO MUSEUMM世界の古代美術」が展示されている南館とに分かれます。
南館では「中国・ペルシャ」「南アジア」「西アジア」「エジプト」のゾーンに分かれて古代美術の展示があります。

特に関心をひくのはやはり仏像で「仏三尊像(中国北部6世紀)」、平等院鳳凰堂にあるような「天人像(石像)」など。
ガンダーラの「仏立像(2世紀後半)」「仏頭(アフガニスタン4~5世紀)」「仏足石(パキスタン2~3世紀」も見応え充分。
現在はイスラム国家のパキスタンやアフガニスタンの仏教美術が観られるのには感動があります。


ポストカード・・・仏立像(パキスタン2世紀後半)、隼頭神像(エジプト紀元前1295~1213年頃)

ミホミュージアムはとても広い館内に膨大な美術品が展示されているものですから、観て回っている間に疲れてきてお腹も減ってきた。
ちょうど館内のカフェ「パインビュウ」がありましたのでここでランチとします。

注文したのは「サンドイッチ」と「夏野菜とエマー小麦のフジッリ冷製スープ仕立て」にドリンクです。
妻が食べた「サンドイッチ」はタマゴ・冬瓜・南瓜・茄子・トマト・紫蘇・シメジなどがはさまれていて、パンには古代米を漬けたものをトッピングして食べます。

初めての食材だったホオズキの実で、クリームチーズではさんだサンドイッチになっていて興味深かったですね。
ホオズキ(食用)は蒲萄のような食感は感じつつも、何に似ているかとなると例えようのない独特の甘さの実でした。



「夏野菜とエマー小麦のフジッリ冷製スープ仕立て」にも野菜がたっぷりはいっていましたが、これらは全て秀明自然農法で育てた食材のようです。
秀明自然農法は無化学肥料・無農薬栽培・自家採種や連作ということで、オーガニック食材の料理になりますね。

ドリンクには展示の中で紹介されていた宗教儀礼の飲み物を模した「古代アメリカ風・カカオドリンク“テオブロマ”を注文。
カカオをすりつぶして水を加え、唐辛子と胡椒で味付けした飲み物です。





味がよく分かるようにミルク・砂糖なしで飲みましたが、何とも奇妙な味です。
“古代アメリカの王や貴族や英雄が飲んだ高貴な飲み物”“儀式の聖なる飲み物”とされていますが、刺激的な味はいつまでも後味が残ります。

さて、帰り道は電気自動車に乗ろうと乗り場に行くと、そこはピラミッドの中にでもいるような神秘的な空間でした。
ミホミュージアムの建物全般に言えることですが、光の取り込み方が実に見事に工夫されたものとなっています。



車は10分間隔くらいで往復しており、やってきた車に乗ってみる。
ゆっくり歩いても数分程度なのであっという間に到着しますが、こういう乗り物って好きなんですよね。



館内には従業員の方が異常なくらい多かったのですが、どの方もとても丁寧な対応をされており、高級リゾートにきたような印象があります。
冒頭にも書きましたが、まさに「秘境にある会員制リゾートホテルのようなミュージアム」といった印象で、時間を忘れるユートピアのようにも感じられます。


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御朱印蒐集~岐阜県 大垣市 御首神社~

2018-09-12 18:30:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 古来の日本には、非業の死を遂げた人が怨霊となって祟りをおこすという考え方があったとされます。
なかでも有名なのは『日本三大怨霊』と呼ばれる“菅原道真・平将門・崇徳上皇”となるのでしょうか。

人々は怨霊と化した魂を鎮めるため、道真は天満宮、崇徳は白峰神宮、将門は神田明神等で神として神社に祀ってきたといわれます。
怨霊の一人の平将門には関東地方で勢力を誇ったことや荒俣宏の小説の影響もあって、帝都・東京のイメージがありますが、意外なことに関東以外にも将門を御祭神として祀る神社がありました。



平清盛は平氏の一族として下総(千葉県北部)を拠点としていた豪族で、一族との抗争を経て関東の武士勢力をまとめ、自ら「新皇」と名乗って関東の独立化をはかった方とされます。
いわゆる朝敵・逆賊となった将門は「承平天慶の乱(平将門の乱)」で平貞盛と藤原秀郷に討たれたと歴史に残ります。



平貞盛にとっては父である平国香(将門からみると伯父)の仇討ちとなり、藤原秀郷は別称・俵藤太として近江三上山のムカデ退治の伝説を残す方です。
ではなぜ平将門を祀る神社が岐阜県にあるのかが不思議に思えてきます。



将門は平将門の乱で討ち取られた後に首だけが京都へ送られ、さらし首にされたといいます。
しかしその首は故郷恋しさのあまり、首だけが飛んで関東へ戻ろうとしたという伝説が残されているようです。

美濃の「南宮大社」では将門の首が関東へ戻ることを阻止しようと矢を放ち首を射落したとされ、その首が落ちた地に「御首神社」を創建し、御祭神として鎮魂したのが縁起とされています。
なぜ将門が怨霊として祟ることになったのかは分かりませんが、京都に対する関東の守護神として畏怖されたのかもしれませんね。



ところで平氏といえば、この将門と清盛の名が思い浮かびますが、この2人に関連はあるのでしょうか。
調べてみると共に桓武天皇の子孫となる系統にあたり、将門の父の兄弟の一族に清盛がいるようです。
将門が打ち取られたのが940年といわれており、清盛が生まれたのが1118年とされることから、平清盛の200年近く前の一族が平将門ということになりそうです。



本殿への石段の前には小さな御饌田があり、数本の稲が植えられています。
この稲は、境内より汲み上げられる真清水にて育てられているということですので、新嘗祭などの神事の際に奉納されるのかと思います。
井戸の横にある手水も水量が多く、気持ちよく清めさせていただくことが出来ます。



本殿へと向かう参道には“御首大神”の幟が立ち並んでいますが、御首神社は“首から上の大神様”として首から上の祈願に霊験あらたかな御利益があるとされます。
その御利益からシーズンになると受験生が大勢詰めかけて身動きできないくらい混雑するようですね。





本殿には主祭神として平将門を祀り、相殿社の南宮神社には金山彦命(同じ大垣市内にある南宮大社と同じ)と西宮神社に蛭子命(恵比寿神)を祀ります。
境内社は鍬山神社(豊受大神)と神明神社(天照大神)、末廣稲荷神社(宇迦之御魂神...稲荷神)の3社が祀られていました。



御首神社は国道21号線を走行する時に大きな看板があることから気になってはいた神社でしたが、平将門を祀り、将門の首についての縁起があるとは参拝して初めて知ったことです。
社務所には複数の禰宜の方と巫女さんの姿があり、神社としての神事や参詣者が多い神社のようでもありました。
関東へ帰ろうとする将門の首をあえて岐阜で射落して創建された神社ということは、それだけ平将門の影響力が強く鎮めようとする気運が高かったということなのでしょう。


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御朱印蒐集~京都市 中京区 大本山 本能寺~

2018-09-07 07:23:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「本能寺」は家臣・明智光秀の謀反によって織田信長が討たれた“本能寺の変”の舞台となった寺院として有名ですが、現在の本能寺は変があった場所とは違う場所に移転しています。
現在地への移転(1592年)は秀吉の命によるものとされており、これは秀吉が京都の都市を改造した時に京都の防衛の意味もあって、今の寺町界隈に寺院を集めたことにより“寺町通り”の名の由来とされます。

本能寺は日蓮宗の寺院で寺歴によると、1415年に日隆聖人が「本応寺」として寺門を開いたとされる寺院です。
1433年には「本能寺」と寺号を改め、その後の1592年に本能寺の変を迎えることになります。



織田信長には比叡山焼き討ちや一向宗との戦いなどの宗教勢力との対立が有名ですが、実際には寺院建立などの事業を行っており、単なる弾圧者ではない側面があります。
むしろ寺院勢力が大名クラスの兵力を持ち、かつ抵抗勢力であったことへの弾圧といったところもあったのかと思われます。



寺院は寺町京極通りのアーケードの御池通り側の出口付近にあり、商店街の中に突然と姿を見せるような場所にありました。
寺標をみると「本能寺」の「能」の部分には別の字が当てられていますが、これは本能寺がこれまで5度の火災で焼失していることから「能」の字の旁のヒ(火)の部分を嫌って字を変えているとされます。



信長は記録に残っている限り本能寺に4回の滞在をしているとされており、信長にとっては縁の深い寺院だったようです。
信長と本能寺との関係については3つの理由があるとされていて、一つ目は当時の本能寺の日承上人が天皇の親戚であったことから、天皇家に近づきたい信長が接近したという説があります。



2つ目は当時の本能寺が安全な造りとなっていたことによるとされます。
光秀の謀反で寺院は焼かれてしまいますが、信長の遺体はみつかっていないことから、攻められてすぐに落ちてしまうような寺院ではなかったと考えられます。

3つ目は本能寺が種子島にたくさんの信者を抱えていたことが大きいようです。
種子島は鉄砲や火薬とつながりが深い場所ですので、鉄砲・火薬の入手に役立っていたようです。
この話には信長の合理主義者ぶりが伺われますね。



現在の本能寺は7院の塔頭はあるものの、寺院自体はその名の有名さほどは大きくはない寺院でした。
それよりもホテル本能寺(本能寺文化会館)の建物の大きさの方が目に付き、ビルの谷間にある寺院といった印象を受けます。



本能寺に隣接する「ホテル本能寺」は、全国から京都を訪れる修学旅行生などが宿泊する宿だそうですが、その名からは映画「本能寺ホテル」を思い浮かべますね。
映画のロケには使われてはいませんが、ホテル支配人役には風間杜夫。
思いもかけず宿泊することになった綾瀬はるかと信長との不思議な出会いのドラマが思い起こされます。



本堂は1928年に建てられており、内陣には祖師像が祀られていました。
比較的新しい堂宇でありながらも参拝者が多いのは、やはり“本能寺”があまりにも有名な寺院であることがあるのでしょう。



本堂の横には「本能寺の火伏せのイチョウ」という大木がビルの谷間にそそり立っています。
説明書きによると、この樹は本能寺の変の後に移植したものと伝わり、「天明の大火(1788年)」で市中が猛火に襲われた時にはイチョウから水が吹き出し木の下に身をよせていた人々を救ったという言い伝えがあるそうです。



本堂の裏手には「信長公廟」があり、信長の墓と本能寺の変で戦死した家臣たちの墓がありました。
信長の墓所は各地に幾つかありますが、本能寺の墓所は信長の三男の信孝による建立とされています。
しかし、信孝は後に秀吉との対立から悲運な人生を歩んでしまい26年の生涯を自害によって閉じてしまった方とされています。



新京極商店街と並行し錦市場とも直角に交わる寺町通りは、外国人観光客や日本人の買い物や観光の客・修学旅行生でにぎわう京都随一の繁華街になります。
本能寺の名はあまりにも有名であるにも関わらず、商店街の中のビルの谷間にひっそりとある寺院ですが、フラリと訪れる方の多い寺院といえますね。


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『生誕110年 田中一村展』~佐川美術館~

2018-09-02 17:35:35 | アート・ライブ・読書
 『日本のゴーギャン』『早熟な南画家』『奄美の自然を愛した孤高の画家』、画家・田中一村を形容する言葉が幾つかあります。
滋賀県守山市にある佐川美術館で「田中一村展」が開催されているのは知っていたものの、田中一村という画家については全く知らず危うく見逃してしまうところでした。

きっかけとなったのはNHKの「日曜美術館」で放送された「奄美大島へ 田中一村と奄美を感じる旅」での田中一村の描く奄美の情景を見たからで、感動のあまり番組終了の2時間後には佐川美術館に居たというしだいです。
描かれる画からは写真家・今森光彦、中村征夫、星野道夫に通じるような自然への眼差し、観察力と精密な描写を感じるというのが第一印象でした。



一村は幼少の頃から南画を描き始め、7歳の時に描いたとされる「菊図」(当時の雅号は米邨)などは既に完成度の高い作品となっており、「早熟な南画家」、または「神童」と呼ばれる所以となったと思われます。
その後、東京美術学校(現在の東京藝術大学)へ進むものの2ヶ月で退学。
これには家庭事情・自身の病などの説があるようですが、学校からもう一村には教えることはないといった理由や画壇の世界での派閥のようなものに入らなかったからなど諸説があるようです。
(南日本新聞社編の「田中一村伝」では中学時代に患った結核の再発と経済的事情と記されている)     



美術展は全4部で構成されており、第一章「青年時代、若き南画家」から始まります。
解説文によると、琳派への傾倒から「たらし込み」や「没骨法」の技巧を使っているとあり、襖絵などは広く大きく空間を取った画となっていました。
一村の生き物への嗜好はすでに感じられ、題材にはルリカケス・カワセミ・コオロギ・リス・蝶などが描かれているのが嬉しい。


「つゆ草にコオロギ」「蓮図」...パンフレット

第2章「千葉時代、新しい画風の模索」では南画と決別した一村が新しい絵画への挑戦をしていた時期とされます。
この時代は支援者もなく寡作の時代で、母型の親戚を頼って千葉で写生に没頭したとされます。

「椿図」という画には片隅にクロアゲハが舞い降りる姿がみられますが、この蝶の動きの描写は面白いと思います。
実際に蝶を見ていると、羽根を閉じてスーといった感じで下降することがあるのですが、画からこの“スー”の動きが伝わってくる観察力抜群の描写に感激してしまいました。

また墨の濃淡だけで描いた背景に花にだけ赤を使った「彼岸花」や息を呑むように美しい「秋色」など魅力的な画に混じって、ミヤマホオジロ・オナガ・モズ・カワセミなどが描かれてるのがたまらない。
この時代の一村は仏画(十六羅漢や白衣観音、観世音菩薩)などの異質な作品がありますが、当時の一村は闘病生活の苦しみの中で光明を求めるように観音像を描いていた時期があったとされます。


「秋色」(部分)...ポストカード

第3章は「一村誕生」となり、この時代に「米邨」から「一村」に雅号を改めます。
この時代に画壇へのデビューを果たしたようですが、ことごとく落選の憂き目にあったようですね。

初めての出品作(1947年の青龍社展)・「白い花」は竹林を背景にヤマボウシの花と葉を描いた作品で、片隅にはトラツグミの姿があります。
トラツグミを描いた絵が何作か展示されていましたが、その精密な描写には驚くと同時に構成の凄さに感嘆してしまいます。

田中一村の作品を見ていると優れた写真家の作品をみているような錯覚を起こします。
しれは写真のような描写力もさることながら、こんな写真が撮れたら...と憧れるような構図になっていることです。
一村は千葉時代に写真撮影をしていたことがあり腕前も見事なものだったといいますが、それは類まれに見る美的センスに恵まれた方ゆえということなのでしょう。


「白い花」...ポストカード

そういった意味では冒頭に田村一村の画を好きなカメラマン作品になぞらせたのは大きな間違いではないと思います。
また、画としてここまで精密に描写できるのは一村がずば抜けたカメラアイ(見えすぎる目)の持ち主だったことが伺われます。
この第3章ではトラツグミの他にもヨシキリ・カケス・アカゲラ・軍鶏・鶴などの野鳥の姿も登場します。


「秋色虎鶫」...ポストカード

第4章ではいよいよ「奄美時代、旅立ちと新たなる始まり」となり、一村作品が花開く奄美時代が始まります。
田村一村は1955年の西日本スケッチ旅行がきっかけとなり、1958年に奄美大島へ移住したとされます。

大島紬の染色工として働き資金を貯めた後、知人の紹介によりハンセン病の療養所である和光園で暮らし、写生に明け暮れたといいます。
ところで、奄美大島には南国の楽園のようなイメージがありますが、イメージに反して奄美の日照時間は少なく降雨量の多い場所のようですね。


「奄美の海に蘇鉄とアダン」(展示なし)...ポストカード

曇り空が続き、雨が続く奄美の原生林で来る日も来る日も写生を続けられたのでしょう。
アカショウビンを描いた画が複数ありましたが、あの臆病な野鳥を描写できるのは出てくれるのをひたすら待つ忍耐力と観察力と記憶力。構図と色調のバランスも絶妙ですね。
しかも、奄美大島には20万匹のハブが生息しているそうですから、ヘビ嫌いな当方にはとても入れないような場所での観察だったと思われます。


「初夏の海に赤翡翠」(部分)...ポストカード

他の画のもトカラに乗るアマサギ・イシガケチョウ・コウライウグイス・アカヒゲ・アサギマダラなどの姿が見える絵が並びます。
面白いのはカラフルな奄美の魚を描いた画でしょうか。
地元の魚屋さんに並ぶ奄美の魚をデッサンした作品ですが、色彩豊かで独特の形をした魚に魅力を感じて夢中になって描かれたのでしょう。

田中一村の晩年の最高傑作といわれる「アダンの海辺」も期間限定で公開されていました。
浜辺に育つ奄美の植物アダンを描いていますが、静謐なアダンの描写の凄さとCGでも使ったかのようにリアルな海岸や波が描かれています。
この画は一村自らが「閻魔大王へ手土産」というほど心血を注いだ作品だったようです。


左「アダンの海辺」...パンフレット

田中一村を“不遇な画家”という呼び方をする場合がありますが、確かに当時すたれつつあった南画をベースにしていた事や画壇では認められず無名のまま生涯を閉じられたことを指すのでしょう。
しかし、その有り余るほどの才能は変遷の末、奄美で大きく花開いたと考えれば、心底描きたい画を求めて完成することができた気骨の人といえるのかもしれません。
こういう画家を今まで知らなかったのは随分と損をしていたなぁと思わずにはいられません。


「日本のゴーギャン」南日本新聞社編

追記:田中一村展は今回の機会を逃すと田中一村記念美術館のある奄美大島まで行かなければ見る機会がないかもしれないと思い、もう一度訪れてみました。
「アダンの海辺」は展示期間が終わりパネルになっていましたが、その横に今回は公開されなかった「不喰芋と蘇鐵」が大判パネルで展示されていたのが嬉しい限り。
佐川美術館へ訪れた2回とも会場は大盛況でしたので、田中一村に魅力を感じている方はことのほか多いのでしょう、


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