僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

雪の田圃の野鳥たち!

2017-01-29 18:21:11 | 野鳥
 今年はあと何回雪が降るのか分かりませんが、雪の風景も撮っとかないと降らなかった時に後悔しますよね。
道路の雪はほぼ消えましたが、田園地帯に行くとまだ一面真っ白な銀世界でした。

残雪が凍ってチカチカと光を放ち、太陽の反射もあって眩しい景色です。
そんな中、キジがエサを探して田圃の上でエサ探しをしていました。



キジが探していたのは大豆か枝豆かの実でしたが、雪の上に突き出したわずかな豆の木を探して♂1羽・♀3羽が残雪の田圃をウロウロとしていました。
 鞘をつついてこいつは豆を無事ゲットしたようです。



雪の溶けた田圃にはタシギが数羽集まって食事中です。
長いクチバシを突っ込んで何やら食べていましたが、雪の溶けた田圃はいい餌場になっているようですね。





イカルも数羽が群れてお食事中です。
首(体)を伸ばして木の種を探しています。





もういい加減シロハラはやめとけよ!って感じですが、この場所でトラツグミとアカハラを見てしまったので未練がましく待っていた時に相手してもらいました。
まぁ結局はシロハラしか撮れなかったんですけどね。



おまけでモズとホオジロをパチリ!





さて2月になったら、どんな野鳥と出会えるか楽しみですね!


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御朱印蒐集~近江八幡市 奥石神社~

2017-01-25 19:33:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
近江八幡市安土町にある奥石神社は、「老蘇(おいそ)の森」の中にある神社で、国道8号線から少し横道に入ったところにある神社です。
「老蘇の森」には、孝霊天皇の時代(紀元前290年~215年)に、“この地は地裂け水湧いて、とても人の住む所ではなかったが、石辺大連という人が神の助けを得てこの地に松・杉・桧を植えたところ、たちまち大森林になった”という謂れがあるそうです。

石辺大連は百数十歳まで生きたため「老蘇」(老が蘇る)意味から「老蘇の森」(おいそのもり)と呼ぶようになったと伝わるそうです。
そのため奥石神社は「おいそ神社」と読むのですが、奥石神社は「延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)」という927年にまとめられた全国の神社一覧に載せられている格式高く、由緒ある神社だそうです。

「延喜式内社」となった理由として、“繖山を御神体とする最も古く原始的、根源的な神社であったため”と書かれてありました。
「繖山」は、霊山としてアニミズム信仰の山として古代から信仰の対象とされていたことが伺い知れる話ですね。



奥石神社の御祭神は、藤原氏の祖とされる「天児屋根命」(あめのこやねのみこと)ですから、言い換えると中臣鎌足の祖ということになりますね。
鳥居は表参堂と裏参道にありますが、表参道の鳥居は民家の並ぶ町並みに突然現れます。



鳥居の横には石碑があり、「老蘇森」の石碑の横には「安産守護 鎌宮」の石碑がありました。
「鎌宮(かまみや)」とは奥石神社のもうひとつの呼び名で、「蒲生野宮(かまふのみや)」がなまって名付けられたとされています。
ここ安土町から東近江市につながる蒲生野(がもうの)では天智天皇(中大兄皇子)が薬猟を行っていたとの記録があるそうですので、中臣鎌足こと藤原鎌足の祖を祀る神社との関係がありそうです。



参道には老蘇の森と呼ばれるだけあって、こんもりと茂った木々が連なる道です。
左手に摂社の吉住稲荷社の赤い鳥居、右手に慰霊碑を見ながら約100mほどの参道を歩いていきます。



参道から境内への入り口の手前には御神木の姿がありました。
樹齢やサイズなど詳しいことは分かりませんが、真っ直ぐ一直線に伸びた巨木です。



参道を抜けると、老蘇の森を背景に拝殿と本殿が見えてきます。
この日は初宮参りの大家族が何組かご祈祷に参拝されており、境内にハレの雰囲気が漂っていました。





奥石神社は「鎌宮」と呼ばれていたこともあって、御神紋は鎌が交差した神紋になっており、いたるところに鎌の神紋を見ることが出来ます。
奥の方に見える神紋は、何となく“こち亀の両津勘吉の眉毛と目”に見えてしまうのはご愛嬌です。



この拝殿で面白いのは木鼻が象の形になっていることでしょうか。
寺院なんかではよく見かけますが、神社でもこのような木鼻があるのには少し驚きました。



本殿は、1581年に織田信長が家臣の柴田家久(勝家の一族)に命じて再建された建物で、この本殿は国の重要文化財となっています。
この神社の再建は安土城の城下町を形成する施策に関連したものだとされていますが、信長が本能寺の変で自害するのは、翌1582年6月のことですから、信長晩年の建造物ということになるのでしょうね。





「老蘇の森」は、万葉の昔から多くの歌に詠まれてきた太古からの森と言われます。
境内には老蘇の森への入口がありましたので少し覗いてみましたが、晴天の日中にも関わらず深い森の中にはほとんど光は射しておらず、鬱蒼と木々の茂る森に怖れをなしてしまい森の中へ入っていく勇気はありませんでした。


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ヤマシギ・アトリ・アオジ・シメをパチリ!

2017-01-22 18:03:33 | 野鳥
 昨日、せっかくヤマシギを見つけたのに、やらかしてしまったんです。
突然、目の前にいたヤマシギを発見したんだけど、カメラはバッグの中。慌てて取り出した時にモードが切り替わってしまってピンボケを1枚撮ったところであたふたしているうちに逃げられてしまいました。

前回ヤマシギに会ったのは6年前の2011年2月でしたから、もう会えない鳥かと思っていましたけど、出会えたことに関しては運が良かったのかな。
まぁ残念だったけど6年後に再会出来ることを期待するとして、愛想よく相手してくれたアトリをパチリ!



寒波の影響なのかアトリを見かけることが多くなりましたね。
数え切れない大集団のアトリには今シーズンは出会っていませんけど、分散して小グループで群れている感じです。





例年ならよく見かけるアオジも今年はあまり出てくれません。
定番の場所にも入っていないようですので少し寂しい気分になりますね。



最近になってやっとイカルのモーニング・コールが聞こえてくるようになりましたが、イカルだけの単独集団が多く、シメの姿は今シーズン初でした。
シメがエサを探しているところに出会いましたのでしばらく見ていましたが、1羽だけで行動しているようです。



シメは18cmくらいの小鳥なんですが、どうしても怖い顔に見えてしまいます。
硬い木の実を割って食べるためクチバシがごついんだけど、きつい感じのする目が怖いからなのかな。





 さて、証拠写真になるかどうかすら分かりませんが、大ピンボケのヤマシギです。



来週末まで残っていてくれるといいんですがね。


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御朱印蒐集~高島市 川裾宮 唐崎神社~

2017-01-18 20:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 近江八景の一つに「唐崎夜雨(からさき の やう)」で知られる唐崎神社が湖南地方の大津市にありますが、その神社とは違ってこちらは琵琶湖の湖西地方の高島市にある唐崎神社のことになります。
同じ名前の2社に継がりがあるのかどうかは知りませんが、共に琵琶湖の湖畔近くに建つ神社ということでは共通点があります。

創立年代は不詳とされていますが、天智天皇(626~672年)の時代には既に鎮座されていたとされる古社で、延喜式内社(927年にまとめられた全国の神社一覧)にも記載されていた神社のようです。
その当時は大川神社という社号で延喜式神名帳に記載されていたそうで、その大川神社が現在の唐崎神社だと伝えられています。



神社が立地するマキノ町知内には知内川・生来川・百瀬川の3本の川が流れており、かつては川につからないと行くことの出来ない斎場であったようです。
参拝の前に川を渡りますから、自然と禊をして身を清めることが出来るようになっていたと由緒書きにあります。
また湖上交通による参拝も盛んであったとされていますが、湖周道路や川岸整備された現在の地形からはちょっと想像がつきにくいですね。



石碑には「川裾宮」と彫られていますが、唐崎神社は創始時は「大川明神」と呼ばれ、その後「日月星三光明神」「川据大明神」と社号の変遷があったようです。
現在は「川裾宮 唐崎神社」が正式名となっておりますが、地元の人には通称「川裾さん」として親しまれているそうです。



鳥居を抜けて参道を歩いて行きましたが、参拝者は自分以外に誰もいず小鳥の声だけがにぎやかな参道でした。
小ぶりな実のなった柿の木にはツグミやヒヨドリ・シロハラの姿が実をついばみながら飛び交う、ひっそりとして自然に恵まれた杜でした。



唐崎神社の御祭神は「瀬織津比咩神」「速開都比咩神」「速佐須良比咩神」の3柱ですが、神様はやはり難しいですね。

「瀬織津比咩神」は「水」を司る神で自然界の浄化の神様。
「速開都比咩神」は水戸(ミナト。水と水、流れと流れの出会うところ)のお祓いの神様。
「速佐須良比咩神」は根の国、底の国の浄化の神様。

地上にある罪や穢れを「瀬織津比咩神」と「速開都比咩神」が運び、最後は根の国・底の国の神である「速佐須良比咩神」が祓うということなのでしょうか。
3本の川が琵琶湖へ注ぎ込む下流の地にある神社ですので、そんな思いも浮かびます。





神社の後方には古墳時代(7世紀)の円墳があったと言われているそうです。
また安土桃山時代には「知内城(知内浜城)」が築かれていたとされ城跡があるようでしたが、どれがその痕跡かは結局分らずじまいでした。
本殿の横には磐座のような苔むした岩が置かれて結界が張られていましたが、これも何を意味しているかは分りません。



かつて御神木でもあったかのような大きな切株があり、ほとんど朽ちかけてはいるのですが一部から新葉が出てきています。
樹木の強い生命力を感じてしまいますね。



御朱印は境内にある宮司さんの家で頂きましたが、“唐崎神社は古くからの神社であるとともに「西近江七福神」の一つでもあります”と説明して下さりました。
「西近江七福神」は、北は海津の大崎寺から南は白髭神社までの7ヶ所になっていますので、七福神巡りを目的に湖西を巡るのも面白いかもしれませんね。


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クロガネモチの赤い実に集まる小鳥たち!

2017-01-15 20:03:33 | 野鳥
 昨日から降り続いた雪は一体どうなることやらと心配していましたが、20cm程度の積雪で済みそうですのでまずは一安心。
しかし今日は妙な天候で、青空が広がり雪による光の反射もあって明るく美しい雪景色になったかと思うと、薄暗い雲と北風に煽られた雪が降ってきて寒々とした冬景色に変わるという両極端な天気が繰り返されていました。

青空が広がった時間帯を狙って少し探鳥してみましたが、探鳥するには少し雪が多いかな。土の部分が出ている場所がないので野鳥が降りる場所がありません。
そんな中で姿が見られるのはクロガネモチの赤い実を求めてやってくる鳥たちでした。





数羽のヒヨドリが入れ替わり立ち替わりやってきて実をついばんでいます。
クチバシに咥えて、ポイッとほおってゴックンって感じの器用な仕草で何個もたべておりました。



この木にはシロハラやツグミもやってきていましたが、この雪でエサが捕れる場所が限られているんでしょうね。
シロハラは先週からの寒波で急に数が増えてきました。これからツグミの仲間も楽しみな季節になってきましたよ。





シロハラがこっちを向いて実を咥えたところをパチリ!





クロガネモチの実に群がってくる鳥の個体数は多かったけど、種類はヒヨドリ・シロハラ・ツグミだけで変わったやつは見当たりませんでした。
ツグミは枝陰に入って食べていましたので、桜の木に移ったところをパチリ!



おまけは積雪量の少なかった昨日のシロハラです。ここでは地面に落ちた黒い実を拾って食べていました。
ヒヨドリも地面に降りようとするんですが、このシロハラは強気な奴でヒヨドリは追い払う、別のシロハラも追い払ってしまうという敵なしの状態です。





寒波は一旦通り過ぎるようですから、今週の雪が溶け始めた頃の鳥見は楽しそうですね。
平日なんで行くことは出来ませんけど...。


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初雪の田圃のオオヒシクイ・マガン・コハクチョウ!

2017-01-14 18:20:17 | 野鳥
 ついに湖北に初雪が降りましたね。
厳密に言うと「初雪」ではないのかもしれませんが、広域に積雪したという意味では2017年の初雪といってよいのかと思います。

朝は幹線道路に積雪はわずかでチラチラと雪が舞っている程度でしたので、湖北の様子を見に北上してみました。
しかしさすがは雪国“湖北”。北へ行くほど雪が増えてきて、横殴りの吹雪に見舞われてしまいました。



田圃には数百のオオヒシクイとマガン、コハクチョウがエサ獲りをしています。
視界が悪いので警戒されないのはいいんだけど写真になりませんね。



雰囲気が分かるのは動画の方がマシかと思って動画に変更。
田圃3枚に散らばっていて数はとてもじゃないけど数えられない。



マガンの多い方の田圃へ移動したんだけど、段々と吹雪が激しくなってきた。
開けた車の窓から吹雪が吹き込んできて寒い!手がかじかむ。車中にいてもカメラも服も濡れてしまう...と何をやってんだろうね。



田圃にはカシラダカが3羽いましたのでピンボケ写真をパチリ!



吹雪が激しくなってきたので退散して帰宅しましたが、午後は雪が降り続いて道もすっかり積雪してしまいました。
これはかなり積もりそうですよ!


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僕の友達はイソヒヨドリ!

2017-01-13 18:39:39 | 野鳥
 知り合ったのは半年ほど前のことだったんですけどね。
最初の頃はたまに顔を合わす程度だったんですけど、最近急に仲良くなって、よく3人で遊んでいます。

家へ遊びにくると、いつも綺麗な歌を聞かせてくれるので“今日はお食事でもいかが?”とおそるおそる誘ってみたら快諾してくれて、ちょっとしたお食事会となりました。
ご馳走といっても家には何もなかったのだけど、2人は自家製の粗末なオカキを喜んで食べてくれましたよ。



...なんて相変わらず馬鹿なことを書いていますが、このイソヒヨドリ2羽はほぼ毎日やってくるので、すっかり友達感覚になってしまいました。
家族はイソヒヨドリが来たのを見つけると“お友達が来てるよ!”と呼んでくれますが、そのうちに家族も“イソヒヨドリの友達化”させてしまおうかと目論んでいるんですよ。





野鳥に餌をあげるのは本当は良くないことなんでしょうけど、オカキをあげてみたらバクバクと食べていました。
1~2mのところでジッと待っていて、オカキを投げるとすぐに寄ってきて、食べ終わったら入念にクチバシのお手入れをしてから去っていきます。





この2羽の不思議なのは、当方と♂の間に♀が必ず留まっていること。これは半年前から同じ行動です。
まるで警戒・監視を♀が仕切っているような感じです。また、囀るのも♀が多い。

本来は縄張りは♂が守るように思うのですが、この2羽は不思議です。
まさかまだ親子が行動を共にしているとは思えませんしね。



イソヒヨドリが遊びにくると窓を開けて眺めているんですが、いつまでたってもウロウロしているので寒さに耐えながら見ることになってしまいます。
でもイソヒヨドリさん、雪が積もってエサが捕れなくて困り果てたらいつでも言ってくれよ!何とかしてみるから。


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長浜豊国神社~十日戎で笹もってこい!~

2017-01-11 18:50:05 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 “♪商売繁盛で笹もってこい!♪”の掛け声が笛や太鼓い鐘の音と一緒に聞こえてくると、ワクワクとした晴がましい気持ちになってしまいます。
カレンダーの都合上、十日戎の本戎・残り戎には行けませんので9日の宵戎に参拝しました。

長浜豊国神社は太閤 豊臣秀吉をお祀りする神社で、長浜市(旧城下町)の町衆の「秀吉愛」の神社といえます。
豊臣秀吉は1573~1576年に長浜城の城主として長浜城下の基盤を作られたことから、曳山祭りとともに豊国神社は町衆の手によって守られてきた遺産とされています。



鳥居の先の参道に人の姿が見えますが、これは福餅まきが始まるのを待って後方に陣取っている人です。
巫女さんが壇上から福餅を惜しみなくまいてくれるのですが、これは十日戎の楽しみなイベントとなっていて当方ももちろん参加致しました。



到着したのが開始のギリギリだったため、場所取りに失敗して結果はいまいちでしたが、福餅はなんとかゲットすることが出来ました。
福餅まきなので全部が福餅なんですが、“福”のシールの貼った“福餅の中の福餅”ってのがあって、これが取れたのはラッキーでした。この福餅はお札所へ持っていくと“おたね福銭”がいただけます。

  

餅まきが終了すると皆さん一斉に参拝に向かわれて本殿は大行列となっていましたので先に出世稲荷神社に参拝です。



出世稲荷神社には、足軽から長浜城主になり最後は太閤にまで登りつめた秀吉の出世物語にあやかろうと参拝される方もおられるようです。
拝殿には七福神の置物が置いてありましたが、さて恵比寿さんはどの方でしょう?



おそらく一番上が「大黒天」。2列目は左から「恵比寿天」「毘沙門天」。
3列目は左から「福禄寿」「弁才天」「寿老人」で一番下には「宝袋尊」かな?
出世稲荷神社には回廊があり一周出来ますので、本宮の裏側からも参拝することが出来ます。



本殿へ戻ってみるとまだ長い行列が続いていました。並んでる間に雨がパラついてくる中での参拝です。
この豊国神社は江戸時代になると幕府によって秀吉信仰が禁じられ、社殿も取り壊されたそうですが、町衆は恵比寿神を祀る神社としてカモフラージュしながら裏で秀吉公を祀っていたようです。



豊国神社の社号が復活したのは明治維新後で、再建されたのは秀吉の300回忌にあたる1898年だったそうです。
秀吉信仰を取り締まっていたのは彦根井伊藩ということになりますが、近隣市でありながら旧長浜の町衆には「秀吉愛」があり、彦根城下では「井伊の殿様愛」のようなものが感じられるのが面白いですね。



夜の豊国神社も雰囲気があって好きなので宵々戎の夕暮れ後にパチリ!





昨年から御朱印蒐集を始めたのですが、2枚目の御朱印を頂いたのがこの豊国神社でした。
いつまで神社・仏閣熱が続くことやらと思っていましたが、まだ当分の間は熱は冷めそうになさそうだったりする。
 おまけは残り戎のお焚き上げ!



これで新しい年がスタートやね。


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御朱印蒐集~高島市 海津天神社~

2017-01-09 14:57:27 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 海津天神社は琵琶湖からほど近い場所に位置し、山崎山(307.6m)の裾野に建てられた神社で梅の季節には境内横の梅苑に咲く紅白の梅の花が美しい神社です。
約800本のソメイヨシノが並ぶ「海津大崎の桜」からも距離的に近いことから、海津というと初春の華やかなイメージを連想してしまいます。

「天神社」のその社名の通り菅原道真公を御祭神として祀った天満宮になりますので、各地に広がった天神信仰の社の一つということになります。
勧請は1191年と伝わるそうですから、平安時代が終わって鎌倉時代始まってすぐくらいの時代になるようです。



以前に正月の初詣に参拝したことがあって、その時は大勢の参拝客でにぎわっていた記憶があるのですが、1月も7日ともなると参拝客は当方を入れても5組だけのゆったり参拝です。
ある年の正月に参拝しようとした際には途中の道中の豪雪のため断念して引き返したことがあったことを思えば、この晴天には違和感を感じてしまいます。



鳥居を抜けて境内に入ると、まず正面に拝殿がありますが、松の内とあって今年の干支の酉の絵馬がかけられています。
この神社の酉は、ニワトリとヒヨコの可愛らしい図柄になっていますね。道真公の神社ですから絵馬には「合格」の文字もあります。





海津天神社の少し変わっているところは本殿がデンと構えているのではなく、約10棟の社が並んで建てられていることでしょうか。
本殿(天神社)を挟んで「大鍬神社」と「小野神社」があり、他にも「貴船社・恵比寿社・稲荷社・白山社」などの摂社が並びます。
これだと祈願したい内容に併せて社が選べるといった感じですね。



「天満宮」の勧請は鎌倉初期ということでしたが、「大鍬神社と小野神社」については社伝によると、9~10世紀が創祀とされていますので天神社の勧請以前よりあった神社のようです。
御祭神は「大鍬神社」が大己貴命(おおなむちのみこと)、「小野神社」が天押足彦命(あまのおしたちひこのみこと)が祀られているそうです。



海津天神社は“1571年(比叡山焼き討ちの年)に織田信長の兵火にあい社領を失ったとされています。
なぜ信長は湖西の神社にまで兵火を及ぼしたのか不思議だったのですが、これは浅井長政の高島郡侵攻と関係があるのかもしれません。

その後の1576年に高島郡司 磯野員昌が本殿を寄進し、1585年には豊臣秀吉が社領を寄進して以降は歴代の将軍から朱印状が与えられてきたようです。
磯野員昌という人を調べてみると、佐和山城主にして元浅井家家臣、転じて織田家家臣、信長の勘気にふれ追放、最後は帰農。なかなか数奇な運命の方みたいですね。



神社は本殿の右には「大鍬神社」「恵比寿社」「八坂社」「稲荷社」が並び、石段の上には「愛宕社」と「白山社」の社が並びます。
石段を登った突き当たりには「愛宕社」の社がよく茂った木々の中にひっそりと鎮座していました。



本殿の左には「小野神社」「靖国社と国狹槌社」「貴船社」が並びこちらにも上へ行く石段があります。
石段の上にあるのは「金毘羅社」。これより先は神の領域ですので進むことは出来ません。





梅苑の梅の木は一部に蕾が膨らんで花が開きかけているものもありましたが、開花はまだ当分先といった感じです。
雪の下から草木の新しい芽が出てくるのも季節的にはまだ先なんだけど、一度は雪が降ってくれないと冬の季節感が感じられませんね。


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御朱印蒐集~東近江市 太郎坊宮(阿賀神社)・成願寺

2017-01-07 18:05:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 太郎坊宮のある赤神山は古代より「神宿る霊山」として崇拝されてきたといいます。
岩肌がむき出しになった荒々しい姿は、人の心を惹きつけてきた霊山の神々しさのようなものが感じられます。

赤神山は標高357mの低山ではありますが急勾配の山で、その中腹辺りにあるのが太郎坊宮こと阿賀神社になります。
太郎坊宮(阿賀神社)は「勝利の神さま」とされていますので、ここ数年我が家では勝運を祈願するために初詣で参拝しています。





参道を歩いていくと見えてくるのは赤神山の猛々しい姿と大鳥居で自然と気持ちが高ぶってきます。
しかし本殿にたどり着くには、肌がむき出しになっている辺りまでの740段の石段登りの苦行が待っている。



途中にある成願寺から先は太郎坊宮への長い石段が続きます。
軽快に登っていく方も居られるが、大半の方は休み休みの道中のようです。
当方は息も絶え絶えで気持ちは前に進んでいるが、足の運びは遅々として進まない。



石段の最後に「夫婦岩」があり、その先が本殿となりますが、近づくにつれて人の動きが止まって人の大渋滞が始まります。
これは狭い夫婦岩を通るためとその先の本殿で参拝する人の列待ちによるものですが、実際にこの2枚の岩は高さが12mと大きな岩にも関わらず巾は80cmとひと一人やっと通れるだけの狭い空間です。





現在の本殿は江戸時代の建築とされており、御祭神は「正哉吾勝勝速日天忍穂耳大神」(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノオオカミ)。この神様は天照大神の第一皇子神にあたる方だそうです。
太郎坊宮には古代からの山岳信仰に加えて聖徳太子や伝教大師最澄も参拝したと伝わり、特に最澄は太郎坊に50余りの社殿・社坊を建立したとされていますから、神道に天台山岳密教と修験道の信仰の入り混じった神社ということになるようです。



本殿にお参りした後は裏参道を下っていき、「一願成就社」で絵馬を書いて蝋燭を灯してもう一度祈願をしました。
最後に「赤神山不動明王尊」に参拝して阿賀神社を下りました。



さて、初参りということでお参りしたのは赤神山の麓近く(阿賀神社の下)にある成願寺です。
成願寺は伝教大師最澄により799年に開基されたと伝えられており、山号はもちろん「赤神山」。
最盛期には60余坊の大寺院だったそうですが、織田信長の兵火により2坊を残すのみとなってしまったそうです。



成願寺は現在も天台宗の寺院で本尊は秘仏の「薬師如来坐像」で1753年に奥の院にあった「太郎坊大権現」を秘仏として祀っています。
鐘楼の鐘には本尊にちなんで「薬師瑠璃光如来」と彫られており、初参りの前に鐘をつかせていただきました。



成願寺の御朱印を頂いている時にお願いしてみたら快く内陣でお参りさせて頂くことが出来たのはありがたかった。
全く予想していなかったのですが、須弥壇に並ぶ仏像は本当に素晴らしいものでした。

本尊は秘仏のため厨子に安置されて見ることは出来ませんが、「前立仏」があり、その横には6躰づつに分けられた薬師如来の眷属である「十二神将」が守護しています。
右側の十二神将の横には「閻魔像」があり、須弥壇の左右の隅には「二天像」がそれぞれ安置されていましたので、しばらくその場を離れることが出来なくなってしまいました。



話が後先になりますが、阿賀神社の本殿横の展望台から見えるのは、紅い花が咲いたかのようなタマミズキの赤い実と広がる蒲生野の景色。
今年のタマミズキはよく実がなっていて、実り多い感があります。



当方もこのタマミズキの実りにあやかって、実り多い一年にしたいものです。


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