僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

湖北の巨樹を巡る3~「大吉寺」「醍醐寺」「アカショウビンと子熊」~

2020-06-30 06:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「草野川」は、滋賀県と岐阜県の境界にある「金糞岳(1317m)」から流れ出る「東俣谷川」と「西俣谷川」を源流とし、長浜市高山町の辺りで合流した後、姉川と合流して琵琶湖に注ぎ込みます。
「金糞岳」と連なる「己高山(923m)」の西側には一大仏教圏が広がりますが、草野川流域にも歴史のある神社や寺院が今も残ります。

高山キャンプ場から下流に少し下ったところに「野瀬」集落はあり、そこには巨樹の寺院「大吉寺」があります。
草野川に流れ込む「天吉寺川」に沿って上流へ向かう道筋には植林された杉が林立し、また道の脇には幾つかの巨石が見られる。



「大吉寺」は、865年に創建された天台宗寺院だといい、「天吉寺山(918m)」の山頂付近に伽藍があったとされます。
また、平治の乱(1159年)の後、源頼朝が東国落ちした際、大吉寺にかくまわれて庇護を受けたとも伝わります。

室町時代には幕府の祈祷寺として保護を受けていたものの、戦国時代に入ると六角定頼の兵火(1525年)や織田信長の破却(1572年)などにより寺院は衰退してしまったといいます。
現在は、山麓の大吉寺(かつての子院)が遺存するのみとなり、山中に本堂跡・門跡・塔跡・鐘楼跡・入定窟・閼伽池・石階などが遺構として残されているようです。



山門から入山すると庫裡があり、苔の美しい「大吉寺庭園」がある。
山門の対面には句碑が刻まれた石と剥き出しの岩肌が見え、少し先には大吉寺の開山である安然上人を祀る「安然上人堂」の祠がある。



本堂へは更に石段を登っていくことになりますが、苔むして実に雰囲気のある石段です。
山麓のひとけのない場所にある寺院ですから、聞こえてくるのは天吉寺川の勢いのある水の音と野鳥の囀りのみ。





手水は山から流れ出る水を引き込んでいるのでしょう。とても勢いよく流れ出る水です。
手水鉢も苔むしており、山麓の古寺ならではの光景が見られる。



大吉寺の御本尊の「聖観音菩薩立像」は、60年に一度の御開帳とされ、次回は2049年になるそうです。
別名「浮木観音」と呼ばれる御本尊の他には、「御前立聖観音立像」「阿弥陀如来立像」「地蔵菩薩立像」「元三大師坐像」「源頼朝像」などが祀られているというが、拝観には事前予約が必要。



本堂エリアから庫裡のエリアに戻り、「大吉寺庭園」へ入る。
苔の絨毯の上を歩くのが惜しく思いますが、迂回しては進めず、止む無く苔の上を歩かせてもらう。

「大吉寺庭園」は江戸元禄期に築造された枯山水庭園だといい、庭園の中心には三尊石組が組まれている。
三尊石組を阿弥陀三尊と考えると、中央に阿弥陀如来(170cm)、左脇侍の観音菩薩(63cm)・右脇侍の勢至菩薩(57cm)が苔の絨毯の上に祀られる。



方丈池の中の島には宝篋印経が祀られ、後方の石垣にも苔がびっしりと生えている。
大きな庭園ではないとはいえ、山麓のわずかな平面を利用して造園された庭は、杉の木立に囲まれて美しい。
庭園は、庫裡の縁側に座って眺める造りとなっており、庫裡は開いていないものの、庫裡側から庭園を楽しむ。



この庭園のある高台から道を挟んだ向かい側の山の斜面には、2本のスギが合体した巨樹が見えます。
環境省の「巨樹・巨木林データベース」によると、大吉寺には幹周が335~860m・樹高が26~46mあるスギが16本あるといいます。



それ以外にもカウントされていないスギが数えきれない数ありますので、広大なスギの森に囲まれて...としか言いようがありません。
また、そのスギは山に向かってどこまでも続いているように見え、おそらくは三桁の数のスギが林立している。





どのスギが最大のスギなのか分かりませんが、下のスギ2本はこの山でも大きい部類に入るスギだと思います。
総幹周が5mを越えれば巨樹でも大きい部類になりますが、先述のデータベースには、幹周が5m以上のスギが7本あります。





川辺には天吉寺川の清流にずり落ちそうになりながらも、持ち直して上へと伸びるたくましいスギの姿。
水が流れる音がこれほどまで山の中に響き渡るのかと驚くほど、水の勢いと水音が凄い。





大吉寺の建つ高台の下にある石段を登っていくと、鎮守社である「上之森神社」が祀られています。
鳥居の前には二股に株立したスギの巨樹が社の結界として立ちます。



凄まじい数のスギの大吉寺から林道沿いに麓へ降りる途中にある巨石です。
幾つかの巨石がある中で一番大きなものですが、特にお祀りはされていないようです。



ところで、大吉寺の頂上近くにあるという「大吉寺跡」は、急坂の多い登山道らしいので、そちらは諦めて巨石と落差10mという「釋神の滝」がある方向へ向かってみる。
しかし、途中の道が工事中で行き止まりとなっていて、滝への道が見つからず、諦めて引き返すことになりました。

<醍醐寺>

大吉寺から国道通りへ向かう途中に二股のスギの巨樹を見つけて立ち寄ってみる。
横に「醍醐寺」の石標がありましたので寺院の御霊木かと思ったのですが、実際の醍醐寺はここから車で数分はかかる集落の中にありますので、このスギと醍醐寺との関連は不明です。



このスギのサイズ等は不明ですが、目を引く巨樹であることは確かです。
太陽光がよく当たる側はスギらしい木肌をしており、日当たりのよくない側にはツタ属の葉がスギを覆うように生えていました。





「醍醐寺」は、役小角の開創と伝わり、1501年に根来寺の覚遍上人が真言宗新義の教風を宣し復興されたといいます。
往時は四十九坊を有した大寺院だったといい、伝 運慶作とされる「毘沙門天立像(鎌倉期・重文)」の他、「不動明王立像(伝 運慶作)」「大日如来坐像」などの仏像が伝わるといいます。



また、この醍醐寺の近くには縄文時代の「醍醐遺跡」があり、出土した土器からは他の地域の影響が伺えることから、縄文文化の東西の接点として栄えていたと言われています。
「醍醐遺跡」の付近には「塚原古墳群」が隣接しているといい、50基以上の古墳時代後期の群集墳が存在しているともいわれています。



余談ですが、大吉寺の林道を進む時にサンコウチョウの居そうな場所だと思っていた処、山の奥から微かに聞こえてきたのはアカショウビンの美しい声でした。
声のする山の方へと入って行ったのですが、声は遠いうえに、いつしか声は途絶えてしまい引き返すことに...。
先週は別の場所でサンコウチョウ。今週はアカショウビン。と声だけですが、夏の野鳥の声を聞けたのは嬉しく思います。



追記:アカショウビンには別の山で3回挑戦しましたが、撮影は叶わないままシーズンを終えることになりました。
 第1回:上記動画。アカショウビンとの距離は近く、枝を移って飛ぶ姿は確認できたが、木の裏側に入ってしまい断念。
 第2回:声はするが遠い。声がする方に行こうにも道が危なすぎて断念。
 第3回:アカショウビンの声が聞こえない。 待っていたら出会いがしらに子熊に遭遇!距離は10mもありませんでした。
    しばらく熊が姿を見せるのを待ったが、熊はすでに谷を下ってしまっており、姿は見えず。人と熊の活動範囲の近さに驚きます。

数年前に出会ったアカショウビン。
来シーズンに期待です...。




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御朱印蒐集~石光山 石山寺2『御神木・宝篋印塔・硅灰石』~

2020-06-25 20:12:12 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 石山寺へ秘仏本尊「木造如意輪観音坐像(平安後期・重文)」の御開扉に参拝し、巨大で温和な姿の御本尊に手を合わせ、石山寺に安置される仏像群に堪能させてもらうことが出来ました。
石山寺へ前回参拝したのは2016年の秋のことでしたので、4年近く前の事になりますが、その時は33年ごとの御本尊の御開扉の年でもありました。

その間、当方の興味の対象や趣味嗜好も多少変わったのでしょう。
今回の参拝では仏像中心の面と、石・木・塔への興味の面など幾つかの面から石山寺を堪能させていただきました。
駐車場に車を停めて、最初に遭遇したのは「郎澄律師 大徳遊鬼境」の像でした。



郎澄律師は石山寺の鎌倉初期の学僧で、自分は鬼の姿となって石山寺の経典と聖教を守ると誓い、鬼の姿になったと伝わります。
石山寺で5月に開催される「青鬼まつり」に登場する杉の葉で作られた大鬼は、鬼の姿となった郎澄律師を表すといいます。

東大門から入山すると参道の横に「比良明神神影向石」が祀られているのが見える。
石山寺の開山・良弁が、聖武天皇より東大寺の大仏建立に必要な黄金の調達を命じられて、金剛蔵王の夢告に従って石山へ訪れる。
岩の上で釣りをしていた老人(比良明神)から、夢告の地がここ石山であることを知らされたといいます。



比良明神は高島市にある白髭神社の別称でもありますから、奈良の良弁と近江が結びついた地と言えるのかもしれません。
石山寺の前には琵琶湖の唯一流れ出る川であった瀬田川があり、奈良の寺院建立に使う木材などを滋賀の湖南で伐り出して琵琶湖の水運で都へ運んだといいます。
資材は、淀川を下って大阪湾へと出て、大和川を遡って運んだといわれますから、古来より都との結びつきは深かったと考えられます。

影向石を過ぎると、「くぐり岩」の奇岩があり、このあたりの岩は全部大理石だという。
天然にできた体内くぐりだとされており、せっかくなので中へと入ってみる。



入口はさほど狭いとは思わなかったが、内部の天井はかなり低い所がある。
前日まで雨が続いていたので水溜まりが出来ており、そもそも大理石なので滑りやすく、短い穴にも関わらず、途中でしゃがんだまま少し休んで出口から出る。



「観音堂」「毘沙門堂」「本堂」へと続く石段の上には、「千年杉」と呼ばれる石山寺の御神木が立ちます。
説明書には“天平時代 石山寺草創当時からの老杉である”と書かれてあったが、巨樹ではあるものの幹周は5mには至らないように見える。



樹高は30mはありそうですが、こんなバランスの悪そうな場所に真っすぐに立っているのを不思議に思う。
石山寺には3本の御神木があるといい、1本はこの「千年杉」、もう1本見ることが出来た杉は「天狗杉」といい、幹の太さはこの「千年杉」の方が樹齢が経っていると思います。



「千年杉」から「観音堂」「毘沙門堂」へと歩いていくと、南北朝期の作と推定されている「宝篋印塔」がある。
高さ182cmの塔の周りには四国八十八ヶ所の砂が敷かれてあり、お砂踏みができるようになっている。
石山寺には宝篋印塔が幾つかあり、石塔めぐりで歩いても興味深い寺院だと思います。



この地が石山と呼ばれる所以となったのは、「石山寺硅灰石」と呼ばれる奇岩の大岩塊となり、何度見てもその独特の姿には圧倒される他ありません。
硅灰石は、石灰岩が地中から突出した花崗岩との接触による熱作用で変質したものとされ、通常はその作用で大理石になるものが、石山寺では硅灰石となったといいます。



硅灰石の上部には「多宝塔」が見えますが、剥き出しになっていないまでも、この地には多くの硅灰石が眠っているのかと思います。
こういう姿は、自然の奇跡のみが成しうる造形だといえ、この硅灰石は国の天然記念物に指定されています。



上の高台から硅灰石を眺めると、ミミチュア・サイズではあるものの、高山の険しい絶壁を連想してしまいます。
この地は地球のエネルギーが噴き出す場所、奇岩が突出する場所であったことで、信仰を集めた霊地となり、石山寺の建立に至ったといえるのでしょう。



硅灰石を越えたところには、県下で最古の校倉造の遺構「経蔵(16世紀頃・重文)」があり、高床式の経蔵の束の一部に硅灰石が露出しています。
岩盤には座布団が置かれてあり、束を抱くように岩盤に座ると安産になるといわれています。



「経蔵」の横には「紫式部供養塔(重要美術品)」が笠を3つ重ねた不思議な姿で立っている。
一番下の4面に仏像が彫られてあり、寄せ集めではないことも証明されている鎌倉時代に造られた宝篋印塔だといいます。
高さも2.6mある珍しい塔の隣には、松尾芭蕉の句碑もある。



「多宝塔」のあるエリアまで登ると、2基の宝篋印塔があり、右が源頼朝の供養塔、左が頼朝の娘の乳母である亀谷禅尼の供養塔だという。
亀谷禅尼は、石山寺の毘沙門天に戦勝祈願した中原親能の妻だったといい、剃髪後は石山寺に住み、宝塔院の本尊大日如来の胎内に頼朝の毛髪を納めて日々勤行し、頼朝に石山寺の再興を勧めた人とされます。
尚、亀谷禅尼の宝篋印塔は、南北朝期に造られたものとされ、重要文化財に指定されています。



「多宝塔」の西側には鎌倉期に造られたという「めかくし石」があります。
筒形の塔身には何も彫られた跡はなく、目隠しして塔身を抱きとめることが出来れば願い事が叶うという御利益があるそうです。



記憶が曖昧になっていてよく分からないのが下の宝篋印塔2基。
多宝塔の近くだったとは思いますが、玉垣に囲まれたこの宝篋印塔は誰の供養塔だったのでしょうか。
石山寺には他にも石塔が多く、見落としが多かったかもしれない。



本堂の裏てから「子育て観音」へ向かう道の途中に、阿弥陀如来の石仏があった。
ただここでは石仏よりも剥き出しになった硅灰石?の巨石に目を引かれます。
さすが石山の名そのものの巨石群が至る所に見られ、この地が特別な場所だったことが分かる。



石山寺で最後に立ち寄ったのは「天狗杉」と呼ばれるもう一本の御神木でした。
石山寺の経典と聖教を守ると誓い鬼になった郎澄律師は、律師の死後に出臣の行宴が松の梢の上で金色の鬼の姿を見たと「石山寺縁起絵巻」に描かれてあり、それとは別に杉の上に現れたとも伝わるといいます。



寺院の石段の上にあった「千年杉」よりは幹が細いため、若いと思われますが、上部で二股に分かれていて樹勢のよい木に見えます。
石山寺には、もう一本の御神木があるようですが、コロナ感染症拡大防止により、境内が通行止めとなっていて辿り着けず、またの機会となりました。



石山寺では紫式部展が開催されている豊浄殿でも来館者が脱いだスリッパをアルコール消毒されていたり、エチケットパネルを設置したりして、感染防止に努められていました。
入山の時には護摩供養済みの護符を頂き、コロナ終息への願いを感じます。
久しぶりの寺院参拝でしたが、普通に寺院の中に入って仏像に手を合わせることの出来る日常に戻ることを祈ります。




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御朱印蒐集~石光山 石山寺1『御即位御吉例 御開扉』~

2020-06-21 15:50:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 大津市にある石山寺では、新天皇の即位を祝して秘仏本尊「木造如意輪観音坐像(平安後期・重文)」の御開扉が行われています。
秘仏本尊の御開扉は、天皇即位の翌年と33年に1度、あるいは特別な記念行事の時のみに開かれるといい、次はいつ拝観できるか分からない仏像になる。

御開扉は3月18日から始まったものの、新型コロナウィルス感染症の緊急事態宣言により5月いっぱいまで閉門。
宣言が解除された6月から“時間短縮や境内の一部通行止め”など感染防止対策を徹底した上での開山となりました。



当方も御堂の中に入って仏像を拝観するのは3月20日の西明寺の『国宝本堂後陣 仏像群特別拝観』以来ですので、約3ヶ月ぶりの仏像拝観に心は落ち着かない。
もちろん初めて拝観する仏像への期待感や、寺院で境内を見て歩く楽しみはあるものの、終息していないコロナに対する気持ち悪さや、混乱している世の中へのある種の気まずさみたいなものも同時に感じる。



石山寺は747年、聖武天皇の勅願により良弁僧正が草庵を立てて寺院としたのが始まりとされます。
良弁は、東大寺の大仏建立に使う黄金の産出を祈願するため、聖徳太子の念持仏であった如意輪観音に祈願したところ、陸奥国で黄金が発見されたといいます。
祈願が達成されたため、岩の上に祀った念持仏を移動させようとするが動かなかったため、そこに寺院を建立したのが始まりと伝わります。



石山寺の「東大門(重要文化財)」は、1190年の建立とはされているが定かではなく、淀殿による「慶長の大修理」の際に、再建に近い大修理が行われたとされます。
鎌倉末~室町初期に製作された「石山寺縁起絵巻」には彩色豊かな東大門の様子が描かれており、門の両脇に祀られた「仁王像」は、伝わるところでは鎌倉期の運慶・湛慶の作だといいます。





石山寺の一直線に伸びた参道の両脇には青もみじ。
まだ山門が開いたばかりの時間ということもあって、人はまばらにしか居られず、ゆっくりと歩きながら季節を楽しむ。



石段を登りながら「蓮如堂(慶長期・重文)」「観音堂(1773年建立)」「毘沙門堂(1773年建立)」「御影堂(室町期・重文)」などのあるエリアを拝観し、本堂へと向かう。
「本堂」は、天平期(761年頃)に建てられたものの、1078年に焼失。
現在の本堂は1096年に再建されたもので、慶長期に淀君による改築を経て、1952年には国宝の指定を受けています。



本堂は懸造となっているのですが、全景を見渡せる場所がなく、“本堂正面が一望できる”とある「雅の台」へ登ってみたものの、その前にあるスギの樹勢の良さに遮られてしまう。
本堂は、滋賀県最古の木造建築物とされ、1096に建造された「内陣(正堂)」と、慶長期に淀君によって改築された「外陣(礼堂)」がつながった複合建築となっているといいます。



外陣(礼堂)には、西国巡礼札所らしい雰囲気が漂い、真言宗の寺院であることを示す五色幕が掛けられている。
格子の上には大きな懸仏が懸けられており、如意輪観音と脇侍2仏の懸仏は、1656年に開眼されたもののようです。
過去に参拝した時に懸仏を見落としていたのは、当時はまだ懸仏に対する関心がなかったからなのでしょう。



本殿の東端には「源氏の間」があり、紫式部がここに参篭して「源氏物語」の着想を得たとされています。
この部屋は、主に天皇・貴族・高僧の参拝や参篭に使われたといい、平安京と石山の距離を考えると、別荘地のような位置関係にあったのかと思われます。
人形は有職御人形司 十世 伊東久重の作だといい、現在まで一子相伝で継承されてきた「有職御人形司伊東久重」の名は、1767年に後桜町天皇より賜ったものだそうです。



本堂の内陣に入ると、右に「執金剛神像」、左に「蔵王権現像」が並び、中央に御本尊である「木造如意輪観音坐像」が安置されている。
如意輪観音坐像は、2臂で自然石(硅灰石)の上に座し、総高さは5mもあり、丈六を越える大きな仏像にまずは驚く。
ふくよかな姿、温和な表情をされている御本尊からは、穏やかな情緒を取り戻させてくださるように感じ、特に蓮華を持たれている右手側からの姿が美しい。

堂内には尼僧の方が読経をされていて、おごそかな空気が漂っており、参拝者が途切れた時に仏像の前に正座して下から拝んでもみる。
「勅封秘仏 御開扉大法会」の様子は映像で見ることができますが、皇室の勅使の方や御開扉の僧がおられた場所から拝観出来たのは実にありがたいことです。



護摩壇のある脇陣には「石除不動明王座像(平安期・重文)」と鎌倉期の「二十八部衆」が安置。
後陣には2002年の「開基1250年記念 御開扉」の際に確認されたという「本尊胎内仏4躰」が公開されていました。

「観世菩薩(天平時代)」「観世菩薩(飛鳥時代)」2躰、「如来立像(飛鳥時代)」のそれぞれ30センチ前後の銅造の仏像は、鎌倉時代に胎内に納入されてからずっと眠っていたことになります。
また、奈良時代に造立され、火災で崩壊した初代の御本尊の塑像の一部が公開されており、足の指の断片からは、初代の如意輪観音も大きな仏像であったことが伺われます。



「混合蔵王立像心木(奈良時代・重文)」は、元は塑像の心木だったもので、修理の際に塑土が除去されたところ、造立当時の心木が現れ、その姿のまま残されているというもの。
思い出せませんが、どこかの仏像展で出会ったことのある心木で、最初に見た時に受けた衝撃は今回も変わらずでした。

内陣の右側に並ぶ仏像は「持国天」「増長天」と、一際大きさが目立つ「毘沙門天」(すべて平安期・重文)や、「吉祥天立像」「良弁座像」と実に見応えがある。
右正面には「薬師如来坐像(平安期)」が安置されており、この薬師さんは“初公開”の仏像だったようです。
最後にもう一度御本尊の「如意輪観音坐像」を観ていると、ちょうど読経が終わりましたので、これで本堂を後にすることとします。



「多宝塔」は、源頼朝に寄進されたと伝えられる1194年建立の国宝建築物になります。
円形の上層部分が細く、下層はどっしりした造りで、広がった屋根と反った軒とのバランスが美しい塔だと思います。

塔の内部に祀られている「大日如来座像(鎌倉期・重文)は、智拳印を結び、射るような視線をされている仏像で、快慶の作とされています。
この大日如来像は、大津市歴史博物館の「神仏のかたち」展で観て以来、好きな仏像の一つです。



さて、石山寺では御開扉特別記念展示として、『石山寺と紫式部』展が開催されており、開催場所の「豊浄殿」へと向かいます。
会場には「祖師像」の絵画や書、紫式部を始めとする平安時代の様子を描いた絵などと一緒に、仏像群が展示されていました。

仏像は、観音三十三応現神像として「婆羅門婦女身」「毘沙門身」、如意輪半跏像(平安期・重文)」、片膝を上げた「如意輪半跏座像(平安期)」、蓮の代わりに剣を持った「如意輪半跏像(室町期)」。
他にも智拳印を結んだ「大日如来坐像(平安期)」ということで石山寺の御本尊・多宝塔の仏像にまつわるものが多い中、白鳳時代から奈良時代初期とされる小さな「釈迦座像」は異彩を放つ仏像でした。



展示会で特に魅了されてしまったのは、「ボンボニエール」の高貴な美しさでした。
ボンボニエールは、元はヨーロッパで慶事の際にお菓子を入れて贈る容器とされており、日本では皇室の晩餐会などの引き出物として金平糖を納めて配布されて、定着していったとされます。
石山寺は皇室とのつながりが深かったのでしょう。31個のボンボニエールが展示され、主に銀で作られたボンボニエールには十六葉八重表菊が刻まれ、デザインや造形が見事でした。

ところで、石山寺には「無憂園」という庭園があり、花菖蒲が見頃でアジサイも咲いているということで散策してきました。
花菖蒲は花は見頃とはいえ、数はそれほどでもなく、「甘露の滝」の水音を聞きながら東屋で一休みする。





石山寺のスイーツ巡礼は、石山寺の名物・叶匠寿庵の「石餅」を頂きました。
白と蓬を重ねた餅の上につぶ餡が乗せられた石餅は、甘党も唸るような甘さです。
蒸し蒸しと湿度が高く、温度も上昇している中、汗を流しながらの参拝でしたので、疲れた時の糖分補給になりましたよ。



石山寺へは御本尊の御開扉を楽しみにして行きましたが、仏像は充分堪能でき、知らなかったボンボニエールの魅力を知ることもできました。
とはいえ、広大な石山寺には他にも見応えのあるものがたくさんあり、続編で書き残したいと思います。
...続く。


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「高月町の野神さん」6~馬上・東高田・高月(大円寺)~

2020-06-17 06:12:12 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 高月の「野神さん」を巡る中で、もっとも異質で独特の姿なのが「馬上(まけ)の野神さん」でした。
「野神さん」には巨樹があったり、石碑や祠があるのが大半ですが、「馬上の野神さん」は竹で造られた鳥居の奥に御幣を挟んだ竹が祀られてありました。



高時川の堤防から河川敷を見下ろした場所に「野神さん」は祀られており、もしかするとかつてはこの場所に「野神さん」があり、高時川の増水で流されてしまったのか。
高時川と集落の間には田園地帯があり、山側となる馬上集落の中にも驚くほど水量の多い川が流れていることから、「水と野神さん」の関係の深さを考えることにもなります。



地元の人以外は誰も訪れないような場所に手作りで結界を張り、儀礼を行っておられるのは五穀豊穣の願いとともに、水利に対する願いや畏怖があったのでしょう。
今の時期は草に埋もれるようになっていますが、お盆の頃までには「野神さん」の儀礼が行われるに相応しい場所となっているのだと思います。



尚、高時川は余呉の辺りを起点として湖北を流れ、姉川と合流して琵琶湖に流れ込む河川ですが、数年前までは上流に「丹生ダム」という多目的ダムの建設予定があったようです。
建設予定地では離村された方もおられたそうですが、諸々の議論があり、2016年に工事中止が決定されたといいます。

< 東高田の野神さん>

東高田の集落には「赤分寺」の観音堂があり、「十一面観音立像」や「地蔵菩薩半跏像」「宇賀弁財天」が祀られ、境内には樹齢100年とされる「ハナノキ」が国の天然記念物に指定されています。
東高田の集落のはずれ、唐川集落との境界を主張するかのような位置に「東高田の野神さん」が立ちます。



「東高田の野神さん」は、涌出山(標高200.1m)の麓にある「櫻崎神社」の参道の入口にあり、野神さんの東高田方向には田園が広がり、唐川方向にはすぐに民家があるという位置です。
隣合わせの集落内に「赤分寺」と「赤後寺」と『赤』が付く寺院があるのが興味深いのですが、両集落を流れる「赤川」が関係しているのではないかと思われます。
木之本を起点とする赤川は、唐川・東高田・磯野を通って余呉川に流れ込みます。



この野神さんは元は2本の合体樹だったようにも見えますが、手前の方は枯れた根の部分だけが残っているのみです。
御幣を付けた竹が縛られてあるため「野神さん」だと分かりますが、道路沿いにポツンと立っている姿には少し寂しいものを感じます。



各集落の「野神さん」にはそれぞれの特徴があり、信仰の形にも少しづつ違いが見受けられます。
そこに集落を取り巻く自然環境や、その土地の歴史が反映されているのだと思います。

<高月 大円寺のスギ>

高月町高月の集落はJRの駅があることから高月町の中心部でやや開けた町といえます。
駅からすぐのところにはかつて呼ばれた「高槻」の名を残す「神高槻神社」と曹洞宗「大円寺」が同じ境内に建ちます。

「大円寺」というよりも「高月観音堂」と言った方が有名なのは、観音堂に祀られる「十一面千手観音菩薩像」の素晴らしさによるもの。
他にも「不動明王立像」「地蔵菩薩立像」「毘沙門天像」「阿弥陀如来立像」「薬師三尊」「弁財天」が祀られ、「高月観音の里歴史民俗資料館」にある「釈迦苦行像」もこの寺院の所有だとか。
その大円寺の境内には今にも倒れそうに斜めに傾いた「大円寺のスギ」があります。



「大円寺のスギ」は樹高は20mで幹周は5.15mとされ、樹齢は800年だと書かれてある。
鉄製の支柱に支えられながらも参道にゲートのような姿で立ちます。
高月集落の「野神さん」は集落から離れたはずれの地にありますので、このスギは「神高槻神社」の御神木ということになります。





「大円寺のスギ」には通称「おしどり杉」という呼び名があり、それは幹が上に向かって2本に分かれ、どちらが主幹ともいえないような姿からきているのではと想像します。
主幹から右に分かれている枝も斜め上へと伸びているのも、この独特の姿をした木の美感をバランスの良いものにしています。





「大円寺のスギ」は大円寺(高月観音堂)の参道にありますが、隣り合わせにある「神高槻神社」の本殿の脇にも「保存樹指定樹木標識」であるセンダンの木がありました。。
樹高は8m・幹周1.5mとされるこのエンダンの木は上部の枝が伐られているため、小枝や葉が少なくなっており、花や結実は何年か先になりそうです。



巨樹の人を圧倒する神々しさに魅了されて巡ってきましたが、湖北の「野神さん」信仰や風習・儀礼などその背景にあるものに興味を感じます。
それは観音信仰にも同じことが言えるかもしれず、集落で何百年にもわたって守り続けてきたものの大きさに驚くばかりです。


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「高月町の野神さん」5~柳野中・西柳野・高野~

2020-06-15 16:38:08 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「野神さん」として祀られている巨樹や見る者を圧倒するような巨樹を探して、湖北の田圃や山麓を巡る日が続きます。
樹木が巨樹と呼ばれるようになるには何百年の歳月を必要としますが、残念なのは巨樹の中の幾つかが失われていっていることです。

自然災害によって倒壊したものや、老木として寿命を終えたもの、枯死や害虫の被害が治癒出来なかったもの。
あるいは道路工事などで環境が悪化して樹勢を失ったもの、倒壊の危険からやむを得ず伐採されたもの。
巨樹のあるはずの場所へ行っても、株だけが残っていたり、跡形もなくなっていたりすることが多々あります。

<西柳野の野神さん>

高月町の各集落には、集落の神社・主に浄土真宗系の寺院・観音堂や地蔵堂があることが多々あります。
西柳野集落にも「八幡神社」、「圓行寺(真宗大谷派)」があり、圓行寺の境内には「地蔵菩薩立像」を祀る「地蔵堂」があります。



また、八幡神社の境内社には「野神神社」があり、「野神さん」の祠が祀られていました。
八幡神社の鳥居の横にスギはあったものの、野神神社には野神さんらしき樹木はない。



3本の切り株が残されており、社の後方にかつて「野神さん」として祀られていたのであろう木の切り株がある。
切り株を見ると何年も前に伐られたという感じではなかったため、近年この姿になったようだが、何とかその姿をとどめてはいる。



湖北で是非見たかった巨樹というのが何本かあったのですが、そのうちの何本かは見ることもなく消滅していました。
どうしても見つからなかった木があって、地元の人に正確な場所を教えてもらって現地へ行ったら、更地になっていたなんてこともありましたよ。

<柳野中の野神さん>

柳野中集落には「地蔵堂・大表神社の野神さん」が祀られており、境内地の正面に「地蔵堂」、地蔵堂の後方の鳥居の先に「大表神社」が社を構えている。
「地蔵堂」は想像以上の立派な御堂となっていて、西柳野の「圓行寺地蔵堂」とともに、この辺りの地蔵信仰が根強さが伺われます。
滋賀県は「地蔵盆」が盛んな地ですから、地蔵堂を中心とした地蔵盆は、地元の子供たちの夏の一大イベントになっていることでしょう。



大表神社は“慶雲2年(705年)、和国葛樹木水分神八大龍王を奉祀し、祈雨太水分神と称した。”と伝わり、「水分神」とは水路の分水点などに祀られるといいます。
大表神社は、現在は道路で隔てられていますが、かつては余呉川に面していたと考えられる位置にありますから、農地への分水点で野神さんとともに祀られてきたのかと思います。



「野神さん」にはまだ新しい「野神碑」が建てられ、竹に挟まれた御幣が注連縄で結ばれており、手厚く野神さんを祀られています。
年々失われつつある村社会は、良い面としんどい面がありそうですが、農耕を中心としてきた集落が結束して難局を乗り切るという側面もあったのかと思います。



本殿の玉垣の右側には“野神さん”に負けず劣らずの巨樹がありました。
木の前には石で囲まれた場所があり、何らかの聖域と思われる場所にこの巨樹はありました。



「野神さん」ともう1本の神木は社殿の左右を挟むようにして立ちます。
2本とも野神さんに相応しい木で男女の巨樹といってもよいのかも?と感じます。

<高野の野神さん>

高月町高野には己高山満願寺と称して、己高山仏教圏の中心寺院「惣山之七箇寺」の一つだったという寺院があったといい、現在は「高野大師堂」として残っています。
「薬師堂」には「薬師如来坐像」「日光・月光菩薩立像」「不動明王立像」「毘沙門天」「一二神将」が祀られており、大師堂には「伝・伝教大師坐像」が祀られています。

高野集落の入口にあたる三叉路にはスギの巨樹「高野の野神さん」が道祖神のごとく立ち、見る人を圧倒します。
この巨樹を最初に見たのは「観音の里ふるさとまつり」の巡回バスの車中からでしたが、その後もう一度訪れ、今回が3回目の出会いとなります。



遠くからでも目に入ってくるこの巨樹の前には「野大神」の石碑が建ち、根元には石仏や石塔が置かれている。
御幣を挟んだ竹が注連縄で括り付けられ、集落の入口に結界を張るようにその姿はある。





高野集落は、高月町と木之本町の境界にあり、「石道寺」や「鶏足寺」のある地域と接している。
集落の背後には己高山が控え、「己高山仏教文化圏」の中心部にあった地域だといえそうです。
「己高山仏教文化」は、山岳信仰に奈良の都の仏教文化、北陸の白山信仰に比叡山延暦寺の影響を受けながら発展したとされ、湖北一帯には今もその信仰の痕跡が残ります。



「野神さん」を巡る道は、湖北の「観音さま」を巡る道でもあり、それは独特の風習や祭りにもつながる道かと思います。
「野神さん」や「御神木」などの巨樹には、人の手は入っているとはいえ、人為的には作り出せない造形の美しさがあります。


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「高月町の野神さん」4~松尾・重則・西野・磯野~

2020-06-13 14:20:20 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 高月町には31の字があるといい、その大多数の集落に「野神さん」が祀られているといいます。
巨樹を野神さんとして祀るところ、石や石碑・祠を祀るところ、別のシンボル的なものを野神さんとして祀るところなど、それぞれ違いはあるようですが、どんな形であれ野神さんを祀る信仰は今も息づいている。

<松尾・重則の野神さん>

「松尾・重則の野神さん」は、田園地帯にある穏やかな野神さんとは受ける印象が違い、むしろ荒々しい山の神のような印象を受けます。
幹周6m・樹高35mの巨樹は、荒ぶる神の精霊が宿る依り代の木という言葉がしっくりきます。



余呉川と山に挟まれた松尾・重則地域には「十一面観音立像」を祀る「松尾寺(覚念寺)」、「聖観音立像」を祀る重則「普門院」があります。
「松尾・重則の野神さん」を最初に見たのは「観音の里ふるさとまつり」の時でしたから、高月の観音さんを訪ねた道を野神さんを探して歩いていることになりますね。





<西野の野神さん>

松尾・重則の隣村にあたる西野集落にも「伝薬師如来立像」「十一面観音立像」を祀る「充満寺(西野薬師堂)」や「千手千足観音立像」を祀る「正妙寺」がある。
いずれの仏像も、仏像ファンの心を引き付けてやまない仏像揃いで拝観者の多い地域となる。
西野の野神さんは村はずれの古保利丘陵の山麓にあり、巨石と御幣を巻いた竹が1本の木と共に祀られていました。



「西野の野神さん」は、西野集落の中でも北西の山の窪みのような奥まった場所にあり、日常とはかけ離れているような場所と感じたが、整備は行き届いています。
細い農道の奥のネットの中にもう1本道が通っており、松尾の方まで続いているようですが、奥の道は農地整備される前の旧道だったのかもしれません。
最初は旧道沿いにあると思い込み、扉を開けて歩こうとしてしまいましたが、そのまま行くと出口ははるか先になる。



野神さんは遠くから見るとそれほどの巨木には見えませんが、近くで見ると幹は太い。
巨石が共に祀られており、巨石が野神さんとして信仰されているのか、樹木が信仰されているのか、あるいは両方か。



かつて山を越えた琵琶湖側には「阿曾津千軒」といわれる大きな集落があったとされており、巨大地震によって湖底に沈んだという伝承があります。
その時に逃れた里人が「西野・松尾・熊野・東柳野・柳野中・西柳野・磯野」の七村に移って集落を作ったとも言われています。

<西野の薄墨桜と西野水道>

西野は北と西を山に囲まれた低地にあり、余呉川が氾濫すると田畑が冠水して大きな被害を受けた地だといいます。
西野充満寺住職の西野恵荘が放水路を造らなければと工事に着工したものの、岩盤の硬さや事故・資金の問題などで難工事となったといいます。
1845年に5年の歳月をかけて初代の西野水道は完成したといい、その後2代目・3代目の放水路が造られています。



西野水道の横に「保存樹指定樹木標識」があり、1本の薄墨桜がありました。
薄墨桜の樹齢は165年(平成22年度指定なので現在175年)、幹周が2.9mで樹高は15mとされています。



この薄墨桜は主幹は伐られていますが、平地に向けて枝が伸びていて葉もよく茂っている。
桜の季節にはどんな花を咲かせていたのでしょうね。



長浜市の保存樹は『世の中の移り変わりをじっと見つめ、豊な緑で私たちに潤いと安らぎを与えてくれる、樹齢を重ねているなどの由緒ある樹木』とされます。
「西野の薄墨桜」は、その主旨で選ばれている樹木の中の1本となります。
尚、平成22年の指定は長浜市合併に伴う指定ですので、そうそうたる巨樹に交じっての指定となります。

<磯野の野神さん>

かつて磯野集落には「磯野の一本杉」という野神さんがあったとされますが、枯れてしまい新たなスギが植えられています。
巨樹は倒壊したり、枯れたり、事情によって伐採されたりすることがありますので、機会を逃してしまうと、2度と見ることが出来なくなる事があります。
次の世代の木が巨樹になるまでには最低でも100年単位の年月が必要になりますから、何代か先の子孫の時代に見ることが出来るというレベルになってしまいます。



磯野の野神さんには「野大神」の石碑と「農萬年寿」の石碑が建ち、7本の若いスギが植えられています。
たとえ野神さんが一旦は失われても、次の世代の野神さんを育てていく姿勢には連綿と続く五穀豊穣の祈りが込められているのでしょう。



木の根元には石仏や五輪塔が集められていましたが、いつの時代に造られたものでしょうか、劣化がかなり進んでいます。
かつては道々に祀られていたと思われ、道路や田圃が整備された時に集められたのでしょう。



“高月町を歩けば「観音さま」と「野神さん」に出会う”というのを実感します。
また、高月町を含む湖北地方には小さな森があちこちにあり、祠が祀られていることが多い。
湖北の信仰には独特の風習が残り、興味深く感じる歴史の多い地域だと改めて感じます。


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「高月町の野神さん」3~高月・渡岸寺・唐川(赤後寺)~

2020-06-11 06:01:01 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 湖北地方にはスギやケヤキの古木を「野神さん」として祀り、現在も五穀豊穣の神としてお盆の頃に「野神祭」が行われている集落があると聞きます。
野神さんは集落のはずれにあることが多く、村へ悪いものを入れない結界であったりするのかとも思われ、害のあるもの(害虫)を集落の外へ追い出す意味もあるのかと思われます。

後者は松明を持ったり、鉦・太鼓を鳴らしたりしながら田畑を回る郷回り「虫送り」の神事として残っているとも聞きます。
早春に行われる「オコナイ」神事や、夏の「野神祭」によって五穀豊穣を願う神事が伝承されていることは、「観音の里」と呼ばれる高月の人々の信仰深さを表しているのかもしれません。

<高月の野神さん>



「高月の野神さん」は工場の敷地の一角にあり、周囲を工場の建屋に取り囲まれた場所にある野神さんでした。
野神さんとしては珍しい「ムクの木」で幹周は3m、樹高30mの堂々たる姿で樹勢の良い実に見事な巨樹で、このようなところにあるのは違和感を感じつつもよくぞ残してくれたと思います。



この事業所の沿革によると工場は1964年に開設されたようですから、元々は農地だった場所を買収して建てられたと思われ、その際に「野神さん」だけが工場の敷地内に残されたのでしょう。
高月集落の隣村の宇根集落の野神さんも工場の敷地内にあったそうですが、「宇根の野神さん」の方は今は現存しないと聞きます。





「高月の野神さん」の後方にある少し盛り上がった塚には「前田俊蔵」という方の壮絶な話があります。

明治16年、日照りが100日余りも続いて水が枯れ、稲も苗も今にも枯れ死んでしまいそうになった。
28歳の前田俊蔵は、美濃の夜叉ヶ池へ行って龍神に雨を祈り、その祈願の甲斐あって大雨が降り、数ヶ村あまねくうるおい、枯れていた稲もみなことごとく蘇った。
村へ戻った前田俊蔵は龍神さまに“雨に恵まれたら私の命を捧げますと誓った”と書き残し、この場所で自害したと伝わります。

高月では、前田俊蔵を「郷土の義人」として死を惜しみ、碑文を刻んだ碑を建て、その徳を後々にまで伝えています。


(高月 大円寺 前田俊蔵碑)

現在の高月町は、用水路が張り巡らされていて農業用水を確保していますが、かつては日照りの年などに集落間で死者も出るような流血の水争いなどがあったようです。
高時川に堰を造って支流(川の両岸)に水を流して下流の集落に水を流していたといいますが、渇水の時には瀬切れを起こし、田圃が干上がっってしまうことがあったといいます。

そのため番水といわれる取水のローテーションが行われるようになり、「井落し(堰落とし)」によって高時川の水を分配して田圃に取水するようになったといいます。
これを「餅の井落し」といい、昭和の初期まで400年に渡って続いていたとされますが、時代が下るにつれて様式化された調停へと変わっていったといいます。
農村にとって水は村の生死に関わることですから血なまぐさい激しい争いの時代を経て、様式化された「餅の井落し」によって、共存する道を進んで行ったのでしょう。

<渡岸寺の野神さん>

高月町渡岸寺集落には国宝「十一面観音立像」や重文「大日如来坐像」を祀る「渡岸寺観音堂」があり、その門前の用水路の横に「渡岸寺野神」が祀られています。
何度か訪れた観音堂ですので「渡岸寺野神」のことは知ってはいたものの、今までは「野神さん」として認識して見てはいませんでした。



渡岸寺のケヤキは樹齢が300年にも及ぶと推定されており、幹周は3.2mで樹高は10mとされ、用水路の横に立っている。
田植えの季節ということもあって、水量は多く勢い良く流れているのが心地よい。



渡岸寺の境内に入ってみるとケヤキやサクラと思われる木が何本も植えられているのが新鮮で、見る方の感性が変わると見える風景が変わるのだと実感する。
これまでは用水路の野神さんとかつて仁王門の前に斜めに生えていた松だけが樹木として印象に残っていたのですが...。



境内にある「天神社」の本殿の前にも数本の木が並び、2月にはオコナイの神事が行われるそうです。
「天神社」の御祭神は「泥土煮尊」という土や砂を表わす神とされ、菅原道真公が鎮祭して産土神として祀った神と伝わります。



渡岸寺(正式には「向源寺(渡岸寺観音堂)」)は国宝・重文の仏像もさることながら「野神さん」や境内の樹木にも魅力のある寺院です。
また、すぐそばには「高月観音の里歴史民俗資料館」があり、収蔵された仏像群が素晴らしく、ある意味で渡岸寺集落は観音の里の首都とでもいうような場所かと思います。

<赤後寺のスギ>

唐川集落には2018年9月の台風21号によって倒壊するまでは「唐川の野大神スギ」という樹齢400年にも及ぶ巨樹があったといいます。
幹周7.6m、樹高20mあったといい、幾本にも枝分かれしたスギだったといいますが、残念ながら一度も見ることなく消滅してしまいました。



唐川集落にある「赤後寺」にも巨大スギがあり訪れてみると、スギは数本あるものの「赤後寺のスギ」と呼ばれる幹周6.4m、樹高40mとされた二股のスギがありませんでした。
台風による倒壊被害を防止するために切られたとのことらしいのですが、赤後寺にはまだスギの巨樹が数本残されているのが救いです。



残されているスギでもっとも大きいのは太い巨樹の根から若い幹が伸びている二股のスギでしょうか。
根っこの部分にもう1本あったようですが、その木は伐られて株だけが残っていました。





「赤後寺」は平安前期の重文「千手観音立像」「聖観音立像」が祀られており、度々の戦火では土の中や川に沈めて守ってきた仏像だと伝わります。
そのため手首やつま先のない痛々しい姿をされていますが、逆に包容力を感じる仏像で、通称「コロリ観音」と呼ばれている仏像です。


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「高月町の野神さん」2~「柏原八幡神社のケヤキ」「佐味神社の三本杉」「田中のエノキ」~

2020-06-09 19:12:12 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県の湖北地方には五穀豊穣の儀礼を行う「野神(野大神)」の信仰があり、集落単位で野神さんと呼ばれる巨樹や古木を崇めることが多いとされます。
山里の神社仏閣へ行くと、野の神・山の神の両方を祀るところもありますから、巨樹や山を神あるいは神の依り代として崇める自然崇拝の形が残されているといえるのかもしれません。

湖北地方でも高月町は、ケヤキの古木・大木が多い場所で、「高月」がかつて「高槻(槻はケヤキの古名)」と呼ばれていたのも納得がいきます。
柏原集落の村外れにある「八幡神社」には「八幡神社のケヤキ(野神ケヤキ)」と崇められているケヤキの見事な巨樹があります。



八幡神社のケヤキは樹齢500年と推定されているといい、幹周が8.9m・樹高は22mに及ぶといいます。
樹冠に至っては下がれるだけ下がってもフレームにおさまらない広がりがあり、樹勢にも勢いが感じられます。



このケヤキには「観音の里ふるさとまつり」でも出会っていますが、晩秋の観音まつりで見た時と新緑のケヤキでは随分と印象が違うので別の樹なのかと錯覚してしまう。
八幡神社の奥には「阿弥陀堂(来光寺)」があり、御本尊の「薬師如来立像(平安初期)」、脇侍の「日光・月光菩薩」、守護にあたる「十二神将」が祀られています。



八幡神社のケヤキはその太い幹・ゴツゴツとした瘤から受ける人を圧倒するような神々しい姿には“神が宿る樹”との称号がふさわしい。
おそらく柏原集落の方にとっては「薬師三尊像」とともにこの「八幡神社のケヤキ」は心の拠り所であり、地元の誇り高き野大神さんなのだと思います。



<佐味神社の三本杉>

柏原集落の八幡神社からさらに北の田園地帯へ進むと、聳え立つような杉が唐突に見えてくる。
「佐味神社」という豊城入彦命を御祭神として祀る神社であり、「佐味神社の三本杉」という巨樹と数本の杉に囲まれて小さな祠が祀られている。



祠の前には注連縄を巻かれた三本杉の樹高はそれぞれ12m・25m・25mといい、幹周は295cm・460cm・470cmと堂々たる巨樹三本です。
「淡海の巨木・名木次世代継承事業」では平成28年に治療が施されたといい、公益財団法人からも守られている杉のようです。



山麓の神社などには杉の巨樹がよく見られますがこの三本杉は田圃の真ん中にあり、何か不思議な感覚を覚えます。
高月町にはあちこちに小さなお宮さんと周囲を取り巻く小さな森があることが多く、そこには古代に何か塚のようなものがあったのかと思ってしまいます。



<田中のエノキ(えんねの榎実木)>

高月町の南に隣接する湖北町の山本山からさらに南下すると田中という集落があり、「田中のエノキ(えんねの榎実木)」という独特の姿をした野神さんがおられます。
田中のエノキは集落の東の田園地帯に面した位置にあり、東に伊吹山・北に山本山が望める場所に小さな祠とともに祀られています。



この地にはかつて街道が通っていたとされ、ここは一里塚であったと言い伝えられており、エノキは里柱として植えられたものと書かれてありました。
樹齢は250年、樹高は4.6mで樹高は10mの榎の前にして、8月には五穀豊穣のお祈りをする祭典が行われるといいます。



田園地帯に生える木ですからさぞや風当たりが強いだろうと思われますが、一部折れた枝はあるものの、しっかりと残ってきたのはこの幹の太さ強さなのでしょう。
“木は巨樹に育って神となる”とは巨樹を巡っていて感じた事。



湖北の野神さんは集落の入口や村はずれ、近隣集落との境にあることが多いように思います。
野神さんは五穀豊穣を祀る儀礼の象徴とされ、神が宿る樹という意味合いがあったのでしょう。
境界になる場所などには石仏が祀られていることもあり、集落に悪いものが入ってこないように防ぐ結界の役割もあったのかと思われます。


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「高月町の野神さん」1~「雨森芳洲庵のケヤキ」「雨森観音寺の野神さん」「天川命神社のイチョウ」~

2020-06-07 14:30:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県の湖北地方に位置する高月町は、「観音の里」と知られ、集落ごとに観音さんを祀り、守り継がれてきた信仰の深い地域になります。
信仰の形態は集落ごとに「神社と観音堂」が並ぶ神仏習合の形を取っていることが多く、併せて集落には別の寺院(浄土真宗系寺院が多い)があります。

一般的に言われるのは湖北地方は“古くから己高山信仰(山岳信仰)が栄えていた地に、白山信仰や天台密教が混合して独特の宗教文化を形成し、その後に浄土真宗が定着していった。”となります。
興味深いのは、湖北には観音信仰や神社での「オコナイ」などの信仰や風習と共に「野神さん」を祀る信仰があり、そこには巨樹を神として崇める自然信仰の姿がみられます。



もちろん巨樹が全て野神さんと呼ばれている訳ではなく、御神木として祀られているものも多いのですが、“高月町内を巡るとあちこちに巨樹がある”のには驚きます。
雨森芳洲は江戸時代中期に活躍した儒学者で日朝外交に尽力された方とされ、芳洲の生誕地とされる雨森にある「東アジア交流ハウス雨森芳洲庵」の門前に大きなケヤキの樹があります。



高月には古来より「槻(ケヤキの古名)」の巨木が多かったことから、当初は「高槻」と呼ばれていたといい、平安時代の歌人・大江匡房が月見の名所と和歌を詠んだことから「高月」に変わったという伝承があります。
今も高月にはケヤキの大木が多く、この「雨森芳洲庵のケヤキ」は、幹周6.6m・樹高15mと力強くも迫力のある巨樹です。



雨森芳洲庵から少し移動すると「己高山観音寺(雨森観音堂)」の野神さんに出会う。
事前に調べていなくても次々と巨樹に出会えるのは「高月の観音里まつり」の観音巡りと同じような感覚で、すぐに次の巨樹が目に入ってくる。



己高山観音寺(雨森観音堂)は、中尊に像高は27cmとやや小ぶりだが、清水式の千手観音「千手観音立像」を祀り、横には脇侍である「毘沙門天」「不動明王」が祀る観音堂。
奥には平安時代に起源を持ち、浅井氏に仕えていたという雨森氏の墓所「雨森家元祖墓所」があり、歴史深い観音堂となっている。



この野神さんは、雨森集落と保延寺集落の2つの集落でお祀りしているといい、かつては雨森の野神さんは別にあったようだが、現在は観音堂の野神さんを祀っているだとか。
2018年の台風で枝が折れて歪な形となっているが、樹勢は良さそうに見えるため、何年か先には形が変わってくるのかと思います。



雨森観音堂の境内はそれほど広くは感じないものの、樹勢豊かな大木が多く見受けられます。
神社の入口にあたる石橋の前に巨木があり、石橋からは二股の杉が望める。
境内に入ると角の方にひときわ背の高い木が目に付いたので見に行ってみる。



周辺に木が多く、近づいても竹が生えているため全体像が見にくいですが、勢いのある樹です。
集落の中にある森を伐採して更地にしてしまわないところに自然のものを敬おうとする集落の方々の気質が感じられます。



ところで、雨森集落には祭神五十八柱を祀るという「天川命神社」があり、鳥居の後方には「天川命神社のイチョウ」と呼ばれるイチョウの巨樹があります。
このイチョウは樹齢300年以上と推定されており、幹周は5.7m・樹高はなんと32mという巨樹で、地元では「宮さんの大イチョウ」と呼ばれて親しまれているようです。



注連縄が巻かれた御神木のイチョウは新緑の季節ゆえ美しい緑に気持ちが和まされる。
これだけの大木が色づく秋はさぞや美しいであろうと思われ、「観音の里ふるさとまつり」の時に高月を巡る時に、もう一度訪れてみようかと思います。



下からイチョウを見上げると、緑の美しさとともに分岐した枝の造形が美しく感じられ、唖然としてしまう。
このように生命感を感じるものはけっして人が意図して造ることは出来ない自然がなせる業だと思います。



高月町では、その地名の由来でもある槻(ケヤキ)にちなんで「槻の木十選」として町内にあるケヤキの中から10本を「高月町歴史のおくりものシリーズ」として選んでいます。
「天川命神社のケヤキ」も十選の中に選ばれており、本殿の後方にあるのがそのケヤキかと思われます。



高月町は観音さま巡りで何度も訪れた町。また高月町から湖北町・びわ町にかけては野鳥を探して駆けずり回った地でもあります。
巨樹や野神さんを巡ってうろうろしていると、目的は違えども実は同じ道を歩いていることに気が付いて思わず頬が緩む。


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湖北の巨樹を巡る2~佐波加刀神社の「権現の杉」~

2020-06-03 17:48:32 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 長浜市木之本町を北上し、鶏足寺や石道寺のある古橋集落から余呉方面へと向かう道筋に「佐波加刀神社」はあり、神社には「権現の杉」と呼ばれる巨樹があると聞きます。
道路は、高時川と杉野川に沿いながら2つの街道に分かれており、片や岐阜県の揖斐川町へとつながり、もう一方は余呉町へとつながる。

ちょうど高時川が2つの川に分岐する辺りの所に「佐波加刀神社」はあり、日本の原風景のようなものがまだまだ残されている地域です。
佐波加刀神社は、御祭神として開化天皇の皇子「日子坐王」と、その御子たち7柱を祀るとされ、御祭神の神像8躰は鎌倉初期の作として重要文化財の指定を受けているといいます。



高時川に架かる鉄橋を渡るとすぐに佐波加刀神社の石碑が見えてきて、集落の中を通って鳥居へと向かう。
佐波加刀神社の創建は不明とされているが、佐波加刀神社の由緒には“百聞山に御鎮座ありしを天平年間現在の地に遷座す。”とある。

滋賀県に百聞山という山はないようですが、この百聞山とは和歌山県田辺市にある「百聞山」を指しているのでしょうか。
和歌山から当地に遷座されたというのは途方もない距離にも思える。ただし水運でならつながりそうな気もする。
その後、佐波加刀神社には神宮寺が出来て神仏習合していったといいます。



緩やかな石段の参道の両脇には杉が植えられている。
山の麓の神社ならではのピンと張り詰めた空気感があり、身が引き締まるとともに何とも言えない爽やかな気分となる。
第二鳥居を抜けると本殿への最後の石段へと差し掛かり、山の方向からは小鳥の囀りがにぎやかになってくる。





かつてここに神宮寺があった証なのでしょう。「天台宗 東林寺 圓蔵坊跡」の石碑がありました。
その横に背の高い木があり目を引く。後方の杉も枝打ちされて植林の山がよく整備されているのが分かります。



境内には拝殿・本殿が縦に並び、横には「八幡宮」と「薬師堂」が建てられています。
八幡神社と薬師堂の前には「権現の杉」。



「権現の杉」の樹齢は300年以上、幹周6.5m・樹高35mの巨樹は、まさに“権現(仏や菩薩が神の姿となって現れた神)の樹”といえるのではないでしょうか。
この巨樹が見えた時は圧倒的な迫力と神々しさにすっかり気圧されてしまいました。



八幡神社の鳥居の中にある杉も大きな杉ではありますが、権現の杉と並ぶとさすがに見劣りしてしまいます。
権現の杉を眺めていると高時川に清流に住むカジカカエルと思われる澄んだ声が境内に響く。
突然、連続して子供の叫ぶような声が聞こえてきたが、どうやら猿の群れが近くにいて威嚇しているようだ。



本殿を後方にした権現の杉。
山には種々の樹木が茂り、すぐ近くには高時川の清流が流れる川合の集落の奥に位置する佐波加刀神社では人工的な音は全く聞こえず、自然界の音だけの静寂が広がる。



幹の下部から突き出ている細い枝は、見ようによっては吐水する龍の姿にも見える。
遠い未来にこの枝が大枝に育ったりすると、また権現の杉の姿に変化が出てくるかもしれませんね。



本殿の左にあるのは「子安地蔵」の祠。
祠の前にある杉や苔むした岩も雰囲気があり、この神社の良さに一役買っている。



佐波加刀神社が特徴的なのは、「野神」さんを樹木ではなく、御神体として祀っていることでしょう。
権現の杉が野神さんかと思いきや、この神社の野神さんは岩でした。
一概には言えませんが、山里の神社などでは“野の神・山の神”を岩に見立てていることがあるようです。





川合の鉄橋の上から見た高時川の清流。
繁殖期を終えたオシドリでも居そうな川だが、ここは川が少し開きすぎているかな。



川合の集落には絶品の「鯖のなれ寿司」の製造販売店がありますが、鯖のルートには高時川の水運が利用されていたのでしょうか。
「鯖街道」は湖西を通るルートですが、鯖街道の支流から「北国街道」を経由して入っていたルートがあったのでしょう。

いづれにしても日本海とつながっていることになり、その道は都にもつながっている。
鯖の道は、文化や人を運んだと思いますので、鯖の道を辿ってみるのも面白いのかもしれません。


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