僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

ホシムクドリとコハクチョウをパチリ!~湖北の野鳥たち1~

2020-11-29 17:07:17 | 野鳥
 湖北野鳥センター(長浜市)から湖北の野鳥ファン待望の『湖北の野鳥図鑑』が刊行されました。
鳥好きの方なら野鳥図鑑の1冊くらいはお持ちかと思いますが、一般的な野鳥図鑑と違い湖北一帯で見られる野鳥たちに特化した図鑑というのがいいですね。

『湖北の野鳥図鑑』では湖北で観察された330種というもの凄い数の野鳥が紹介されており、どこへ行ったらいいのかと悩むところです。
もちろん「湖北の探鳥地」についても紹介されていますので、会えると信じていれば会える(かも?)。



当方の基本スタイルは珍鳥・大物狙いというよりも、季節ごとに湖北で普通に見られる野鳥が中心になります。
田圃道をムクドリの集団をチェックしながら移動していると、2つ目のムクドリの集団の中にホシムクドリが混じっていましたよ。



20~30羽程度のムクドリの集団の中にホシムクドリは5羽は居たでしょうか。
ホシムクドリ比率が高くってラッキーでしたが、電線から飛ぶと遥か遠くの方へ飛んで行ってしまいましたので、電線留まりだけパチリ!



ムクドリは街で集団繁殖したりして騒音・糞害などで困られていることも多く、鳥見でもパスする鳥ですが、たまに見られるコムクドリやホシムクドリは出会うとちょっと嬉しい鳥です。
冬はムクドリやツグミやスズメの集団に会うと、無意識にチェックしてしまう方も多いかもしれませんね。



秋以降、モズは多くなってきていて電線などによく留まっていたり、どこからか声が聞こえてきたりしますが、警戒心は強目なのですぐに飛びます。
別の鳥の出待ちをしたりしている時にふっと出てきたりした時は、意外に気付かれないようではあります。





草蔭にはシロハラの姿もありました。
シロハラは見つけやすい鳥ですが、冬の間にアカハラやトラツグミにも出会いたいものです。



田園地帯を移動しているとコハクチョウの大きな集団に遭遇しましたよ。
ちょうど田圃から田圃への移動の時間帯でしたので、移動の様子をパチリ!



まだ積雪のない伊吹山や湖北の山々をバックに気持ちよさそうに飛んでいくコハクチョウ。
こういう光景が普通に見られる湖北はやはり凄い場所です。
それだけ環境が保全されていて、人と自然が共生しているということになりますので、自然環境を守っていくことの大事さというのは野鳥観察をしていると身に染みて実感できます。





次に田園地帯でコハクチョウと過ごす時には伊吹山に雪が積もった時かな。
雪化粧した伊吹山の前を横切るようにして飛ぶコハクチョウの美しさは絶景の光景だと思います。





一旦高度を上げたコハクチョウが着地のために高度を下げてきました。
二番穂の田圃に降りる頃には、ほぼ慣性状態できれいな着地をします。





田圃に着地すると、家族や仲間通しでコーコーと確認するように鳴き交わしの行動をみせます。
騒々しいけど、その様子が湖北の冬の風物詩の如く楽ませてくれます。





コハクチョウの群れの中や近くにオオハクチョウやアメリカコハクチョウが混じっていることがありますが、今シーズンはどうでしょう。
以前は珍種のガンカモが混じっていることもありましたので、よく見たら何か変わったやつがいるかもしれないと眺めてしまいます。


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「湖北のアール・ブリュット展」2020~長浜市曳山博物館~

2020-11-28 05:53:53 | アート・ライブ・読書
 「湖北アール・ブリュット展」が始まったのは2011年からといい、例年は秋のアートイベント「アートインナガハマ」との同時開催でした。
アール・ブリュット展では会場での展示の他にも商店街での展示「まちなか Art Brut」も開催され、「アートインナガハマ」と共に街はアートに染まります。

残念ながら今年は新型コロナの影響で「アートインナガハマ」が中止となっれしまいましたが、「湖北アール・ブリュット展」は無事開催。
夏の十里街道生活工芸館テオリアでの開催に続いて、11月の曳山博物館と2度の開催となり、湖北で馴染み深いアーティストの作品が展示されました。



武友 義樹さん(粘土)と三橋真巳さん(クラフトテープ)のコラボ作品は、棒状に丸めたクラフトテープとプリミティブで力強い粘土の壺のコラボは感性を刺戟される。
武友 義樹さんの作品を見るのは今年3回目で、夏の「湖北アール・ブリュット展(テオリア)」・ボーダレス・アートミュージアムNO-MA美術館の芸術祭「ちかくのまち」と公開が続く。
特に「ちかくのまち」ではNO-MA美術館での展示は元より、西の湖の湿地帯での屋外展示で古代の原風景のような展示が素晴らしかった。




武友 義樹さん&三橋真巳さんのコラボレーション

片山みづほさんの「おじぞうさん」も湖北で馴染み深い作家さんです。
手を合わせた粘土人形は素朴な作品ですが、それぞれ顔の表情が違い、やさしい気持ちにさせてくれる作品だと思います。


片山みづほさん「おじぞうさん」

吉井裕介さんのカッパシリーズは毎回楽しみな作品です。
粘土で造ったカッパの集団ですが、何か思いついたものに見立てて造ったカッパ達には思わず笑いを誘われるような面白さがあります。


「ゾウカッパ」

「ゾウカッパ」はなんでまたカッパがゾウになっているんでしょうか?発想がユニーク過ぎるのが作品の魅力です。
下は「卒業カッパ」。カッパの卒業式で校長先生の挨拶をカッパの生徒が神妙に聞いている・


「卒業カッパ」

カッパ全員がマスクを付けた「マスクカッパ」という時世を反映したような作品がある中で、「カトリセンコウカッパ」なんて作品もある。
カッパがカトリセンコウになってしまう発想はアバンギャルド過ぎて愉快になる。


「カトリセンコウカッパ」

「イヌカッパとネコカッパ」はイヌを模したカッパとネコを模したカッパが集団で並んでいる作品。
見たもの感じたものを自由に、またストレートに表現されていて、気をてらったものではなく造りたいから造っている作品群なのでしょうね。


「イヌカッパとネコカッパ」

会場には「近江学園の作品」が展示されており、「湖北アール・ブリュット展」では毎回力作揃いの作品を観ることが出来ます。
近江学園は1946年に創立された施設で70年以上の歴史を持ち、「この子らを世の光に」をモットーに知的障がい者の療育をされてきたとされます。

近江学園で取り入れられた粘土による造形活動は滋賀県のアール・ブリュットの始まりともいえ、それは世界で日本のアール・ブリュットが評価されることに続くともいえます。
粘土作品からは心のヒダのような内側の世界のようなものを感じてしまい、アール・ブリュットの領域にとどまらないアート作品に昇華していると思います。



近江学園の作品で特に気になったのは、次の4つの作品です。
民俗的土着の神のような印象も受けますし、七福神のような感じもします。
今回の近江学園の作品群の中では少し異質な光を放っています。



アール・ブリュット作品には粘土作品なら無数の突起物があったり、絵なら小さなドットで色彩豊かな作品があったりしますが、次の作品は大小無数の顔がヒダのようになって集合体を形成しています。
この作品も思わず魅入ってしまった作品です。



さてそれでは曳山博物館を後にして、街へ出て「まちなかArt Brut」へと足を運びます。
大手門通りにある「文泉堂」は江戸期より続く商家だといい、両替商から始まり現在は一風変わった書店となっています。
店の前には近江学園の作家の方の達磨のような作品が展示。



同じ大手門通りにある「まちづくり役場」は旧商家を使った情報発信基地で、こちらには武友 義樹さんの「つぼ」が展示。
武友さんの作品は、長浜御坊表参道の大通寺前にある呉服店「いと吉」の前にも展示されていました。





ゆう壱番街商店街の老舗町屋旅館「三谷旅館」の前には信楽学園から4匹の亀が積みあがった作品が展示。
亀だと思うが、亀でないかもしれないところも面白いところです。



街中は観光客で溢れかえっていましたが、「アール・ブリュット展」に訪れる方は疎らで、人を気にせずゆっくり観られたのは良かったものの、少し寂しいような気もします。
来年は新型コロナが終息して「アートインナガハマ」共々開催されて、街中がアートに染まることを願っています。


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湖北の巨樹を巡る10~「日吉神社(瓜生薬師堂)のスギとヒイラギ」~

2020-11-25 18:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 湖北の探鳥地の一つに冬にはオオヒシクイや多くのカモが飛来する「西池」があり、西池から林道を抜けて須賀谷温泉へ行く道筋も野鳥との出会いの多い場所です。
この林道の西池側に神社があるのは知っていたものの、これまで何度も通りながら訪れるのは初めてのことでした。

実はこの浅井町瓜生にある「日吉神社(瓜生薬師堂)」には樹齢1500年と伝わるヒイラギの古木と幹周6mといわれる巨樹があると知り参拝することになりました。
静かで落ち着いた神社だとは思っていましたが、巨樹があったとは足元暗しということだったのでしょう。



境内へ入ると地面は落葉したイチョウの葉が一面に広がります。
薬師堂の前にあるのはケヤキ?でしょうか。なかなかの樹で最初に目に飛び込んできます。



この樹は少し東側にせり出しており、傾いた幹を支えるが如く反対側の根が力強く這っています。
東向きの境内には朝の光が差し込んで心地よく、境内をうろうろと歩きまわることとなりました。



瓜生薬師堂の横には奇妙な形をしたスギの巨樹があり、その姿は逆立ちして肩まで地面に埋まった人の体のようにも見えてしまう。
それというのも幹が途中で二幹分かれていることからの連想ですが、角度を変えるともう1本細い枝が枝分かれしている。



このスギの幹周は5.8m、樹高37mで樹齢は不明となっている。(環境省巨樹 巨木林データベース)
しかし、幹の太さからするとかなりの樹齢だと思われる巨樹で、不思議な形に魅力を感じる。



スギの横にある「瓜生薬師堂」は予約拝観のため拝観は叶わなかったが、平安時代後期の丈六「木造薬師如来座像(重文)」と「日光・月光菩薩立像」が祀られていると聞きます。
以前から瓜生の集落の入口に「国宝 薬師如来」の石標があるのが気になっていたのですが、それは「日吉神社(瓜生薬師堂)」のことだったようですね。



「日吉神社」は社伝によると天智天皇10年(671年)に右大臣・中臣金連が草創したとされ、浅井氏(亮政・久政)の崇敬を受けていたとされますが、小谷城落城の際に灰燼に帰したとされます。
その後、慶長元年(1596年)に再興されたといい、境内社には「天神宮」と「稲荷神社」が祀られている。

日吉神社の祠の横にあるのがヒイラギの樹で、幹周は1.8m・樹高5mとされており、永禄4年(1561年)に火災にあい、半分を消失してしまったといいます。
樹幹の半分が生き残っているのは極めて珍しいといい町指定文化財となっている。



実際に1500年もの樹齢なのかどうかは確かめようもないが、幹の瘤を見ていると膨大な年月を過ごしてきたことが伺われます。
ヒイラギの古木というよりも老樹と呼んだ方が適正かもしれませんが、葉は良く茂り樹勢の良さはまだまだ若木には負けんぞといった感があります。





ヒイラギの葉はギザギザした鋸葉に馴染みがありますが、老樹になると鋸葉がなくなり丸い葉となってくるといいます。
初めて見たのはヒイラギの花で、樹の葉の全域に白い花を咲かせていて、これには驚きました。



ヒイラギはモクセイ科モクセイ属の植物とされますからキンモクセイ(金木犀)と同じ属となり、香りも良いといわれているが、香りには気付かなかった。
とはいえ、節分の魔除けに柊鰯として使われる棘々した葉の植物が、こんな可憐な花を咲かせるとは考えてもみませんでした。





瓜生の集落は、安土桃山時代の絵師・海北友松の出生地であるとの説があります。
海北氏は小谷浅井家の家臣として仕え、最期は浅井氏と共に小谷城で運命を共にしたといいます。
当時の海北氏の当主は綱親で、友松はその五男で出家していたため生き延びることが出来たと伝えられています。



ところで、瓜生の集落にはこの「日吉神社のスギとヒイラギ」の他にも「波久奴神社のケヤキ」があり、巨樹が多く残る集落ですが、もう1本「榧(カヤ)の老木」があります。
延宝年間(1673~1681年)の「検地帳」に名があり、享保12年(1727年)作成の「瓜生村絵図」にも現在の場所と考えられる所に1本の大木が描かれているといいます。



横に伸びた枝は支えが必要になっていますが、推定樹齢450~500年となれば多少の老化は致し方がない。
ただし主幹と思われる幹は力強く、葉の茂り方も樹勢が良いため、まだこれからもその姿を見せてくれるでしょう。





瓜生の集落周辺には巨樹はあり、野鳥の探鳥ポイントはあり、重要文化財の仏像が祀られ、絵師・海北友松のゆかりの地でもあります。
物部守屋を祀る波久奴神社には山中に奥宮があり、そこには物部守屋が隠れ住んだともいわれる岩屋や磐座があると聞きます。
小谷山は浅井長政の小谷城が有名とはいえ、その周辺には古代よりの歴史が多く残されているようです。


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「意冨布良神社」と「田神山観音寺」の紅葉~長浜市木之本町木之本~

2020-11-22 15:03:03 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 長浜市木之本町は、北国街道(京と越前を結ぶ街道)・北国脇往還(木之本から関ケ原以東への近道)が交差する場所にあったことから、江戸時代に宿場町「木之本宿」として栄えたといいます。
JR木之本駅から地蔵坂の石畳を歩いていくと突き当りに6mの地蔵仏が遠目にも目立つ「木之本地蔵院(浄信寺)」があり、町屋が軒を連ねる門前町には宿場町の風情が今も漂います。

「木之本地蔵」から北国街道を北上し、「木之本牛馬市跡」の辺りから大洞山の山麓へ向かうと「意冨布良(おほふら)神社」の鳥居が見えてきます。
意冨布良神社の紅葉は、イチョウは少し散ってしまったかなといった感じではあったものの、モミジやカエデの赤色は見頃を迎えており、一部の樹の下では赤の絨毯が見られる見応えのあるものでした。



意冨布良神社の草創は、天武天皇の時代・白鳳四年(676年)とされ、天智天皇の御代に設けられた「近江四祓所」(南:唐崎、西:白髭社、北:木之本、中:荒神山)の一社であったといいます。
裏山の大洞山は古来霊峰として神域視され、山麓一帯は里宮と呼ばれ、山腹には3社があったといいますが、現在は合祀神として意冨布良神社に祀られているようです。



意冨布良神社は古来より武家の信仰が厚かったといい、1182年には木曽義仲が上洛の途次祈願した、1351年 足利将軍八相山合戦の時に桃井若狭守直常が加護を祈ったとされます。
社殿は織田信長の小谷城攻略の時に焼失し、1583年の賤ケ岳の合戦の時にも再び兵火に遭遇。
1601年に豊臣秀頼が再興し、1676年には井伊玄蕃頭が奉拝したと伝わります。

紅葉は、現在の一之鳥居から参道を二之鳥居へ歩いて行った辺りが一番美しい。
イチョウの葉が残り僅かだったとはいえ、大洞山の緑は美しく、空は気持ちよい青色だったのは幸いでした。



神馬像の後方のモミジも真っ赤に色づいています。
この神社では夜間のライトアップをされてきたそうですが、夜の紅葉はさぞや幻想的な世界だったことでしょう。



石燈籠にかぶるように真っ赤なモミジの葉が拡がります。
境内には橙色の紅葉もありましたが、圧倒的に多いのは赤く色づくモミジでしょうか。





中に拝殿が見える三之鳥居の横にも真っ赤なモミジ。
意冨布良神社には鳥居が境内に何カ所もあります。



まず拝殿から参拝していきましたが、武将に崇敬されたとは思えないような穏やかな雰囲気のある神社です。
神社に参拝に来られたのは地元の方らしき方一人と宮司さんだけでしたので、静かで穏やかな時間をゆっくりと過ごせます。



御祭神は本社(名神)に「建速須佐之男命」と「梨迹臣命」を祀り、合祀神(相殿)に「大穴牟遅命」「猿田彦大神」「八意思兼神」を祀るとされます。
また、幾度もの戦災から逃れて相殿に鎮座されている「御神像」は、延喜時代(901~923年)の様式のものだと国の美術鑑定により鑑査状を受けているといいます。



摂社は右から「稲荷大明神」「豊栄神社(神明さん)」、末社の「田神山天満宮」「秋葉神社」と並び、それぞれに鳥居がある社となっている。
稲荷大明神の後方の山の裾野に石神が4神祀られており、〇〇大神とか〇〇龍神と彫られていたが、気になるのだけれど読み取れず。



境内には「武将兜掛石」が祀られており、これは木曽義仲が越後国より京へ出陣の途中、武運を祈って兵糧を神供し、祈願の際に兜を脱いで置いたといわれる「兜石」だといいます。
数々の歴史を残す意冨布良神社では「オコナイ」神事や神輿を担いで木之本地蔵院の門前町を練り歩く「秋葉祭」が行われるといいます。



さて、神社の境内つながりの場所には「田神山観音寺」があり、室町期の「聖観音菩薩立像」と平安期の「阿弥陀如来坐像」が祀られているといいます。
意冨布良神社の宮司さんに聞くと、同じ境内にはあるがつながりはなく、観音寺は無住の寺院のため地元の方が管理されているとおっしゃっていました。



方丈池から観音堂に向かうと参道に聖観音菩薩が祀られ、石段の先に観音堂が見える。
神社と寺院は横並びのほぼ場所にありますが、観音寺の方が落葉は少し早いのか、、地面に落ちた赤い葉が目立ちます。



五層塔の横に玉垣があり奥に見えるのは神社の拝殿ですから、まさに神社と観音寺は隣り合わせ。
湖北には神社と観音堂が並ぶ事が多々ありますから、かつては神仏習合で祀っていたのかもしれません。



鐘楼の鐘は自由に撞いてもよいようでしたので「施無畏」と書かれた扁額のある鐘を撞かせていただきました。
「施無畏」とは「何ものをも畏れない力を与えること」「色々の畏れを取り去って救うこと」「安心させること」の意であるといいます。



「田神山観音寺」は伝教大師・最澄が開いたと伝わり、その後衰退していたところを1670年頃に「木之本地蔵院(浄信寺)」の雄山上人が再興されて、現在も地元の方によって守り続けられているといいます。
予約拝観が必要なため内部拝観はしていませんが、小さなガラスの窓から見ると中に金色の仏像が伺えました。見えた仏像が本尊なのか御前立なのかは不明です。



境内の山側には西国三十三所「観世音菩薩霊場」の石碑があり、かつて中腹にあった意冨布良神社の「上の宮跡」や、賤ケ岳の合戦で秀吉の弟・羽柴秀長が陣城した田上山城跡があるといいます。
合戦の時に実質的に本陣だったとされる砦跡は標高323mにあるといいますが、登り口に折れた木が横倒しになっていてあっさりと諦めます。
宮司さんの話でも道が荒れているところもあるということでしたので無理はせずということです。




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湖北の巨樹を巡る9~長浜市南浜町「八幡神社」と「南濱神社」のイチョウ~

2020-11-15 17:11:11 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 南浜町「八幡神社のイチョウの紅葉」

紅葉の季節が始まり、紅葉の名所として有名な場所には紅葉狩りの方が押し寄せているかと思います。
新型コロナでイベント等は中止や縮小になっている場所もあるようですが、やはり少しは紅葉を楽しみたいところです。

真っ赤や橙色に色づいたモミジも美しいですが、黄色く色づいたイチョウの紅葉もまた美しい。
長浜市南浜町の「八幡神社」ではすでにイチョウの紅葉が始まっており、これから見頃を迎えようとしています。



南浜町は琵琶湖に注ぎ込む姉川の河口部を含んで、河の両端に分かれている町で「八幡神社」は集落と田園地帯の境のような場所に位置します。
御祭神に誉田別命を祀り、境外社の「和田神社」は南浜水泳場近くの湖畔に社を構えます。

田園地帯から見る「八幡神社」は、神社の規模は村の鎮守社といった感じですが、イチョウの巨樹が神社の良さを引き立てるように目立ちます。
左のイチョウは色づいていますが、右の大きなイチョウはまだこれからということで、見頃はまだ先といった感じでしょうか。



鳥居の正面に来ると、赤・黄・緑と複数の色が混じり、晩秋らしい光景が楽しめる。
車で通りすがりに見るだけでは勿体ない光景です。



もっとも紅葉が進んでいたのは手水舎の横にあったイチョウでした。
ほぼ完全に色づいたイチョウを眺めている間に他に来られた方は、神社にお供え物を持ってこられた当番の方だけです。
誰もいない神社の境内は貸し切り状態で、ゆったりとした時間を過ごすことが出来ました。



まだ色づいていないイチョウの方は、色づいているイチョウよりも遥かに大きく、幹も太い。
手前のイチョウの方が幹周も樹高もありますが、詳しいサイズは分かりません。





根っこも地表から浮き上がって広がりがあり、生命感に溢れている。
これだけ根が張ると、隣のイチョウの根と地中で絡み合っているのかもしれません。



本殿はこじんまりとしたお宮さんになっていますが、湖北は「オコナイ」神事が盛んな土地ですので、八幡神社でも2月に盛大に「オコナイ」さんが行われるようです。
TVで「川道のオコナイ」さんが取り上げられているのを見てその盛大さに驚いたがありますが、南浜でも「オコナイ神事」が行われるといいます。
川道と南浜は隣合わせの集落ですし、漁港もある集落ですので「オコナイ」さんもさぞやにぎやかに行われるのでしょう。



境内には落ち葉は少ないものの、銀杏が無数に落ちてあり、拾って帰ろうかと思いながらも臭いが凄いので諦める。
落ち葉は、神社のお世話をされている集落の方が掃除されているのでしょう、空き地には落ち葉の山があり、境内は綺麗に整えられています。



「八幡神社」に伝わる伝承には、“延喜年間に神社改官人が別当寺たる平尾寺に止宿し、和歌を詠み八幡神社の額筆をしたためたといい、この官人は紀貫之であった”と伝わります。

南浜町「南濱神社のイチョウ」

南浜町の南東に祀られているのが「八幡神社」なら、姉川を越えて南浜町の北端にあるのが「南濱神社」で、こちらにもイチョウの巨樹がありました。
湖北でいうと高月町雨森の「天川命神社のイチョウ(幹周6.3m 樹高30m)」が見た中では最大ですが、「南濱神社のイチョウ」も負けず劣らずの見事な巨樹です。



鳥居の両端にイチョウの樹がまず見えますが、境内には巨樹レベルのイチョウが3本は確認でき、本殿の後方にもイチョウの樹があります。
南濱神社のイチョウは緑々した状態で紅葉が始まった様子は見えませんでしたので、このイチョウは紅葉の時期が遅いのでしょう。



南濱神社でもっとも大きなイチョウは本殿の右前にあるイチョウで、幹周5.5mで樹高は10m、樹齢が(伝)400~500年だといいます。
樹高が低いのは上部が伐採されているからと思われますが、幹の太さは尋常ではない。
というのも樹は上部へ行くにしたがって細くなったり、枝分かれしていくものですが、この樹は寸胴のように同じ太さで上部へと伸びています。



南濱神社でも地域の方が落ち葉をかき集めて掃除をされていましたが、写真の左端に半身写ってしまった人と樹の幹を比較して頂けるとその幹の太さが分かります。
掃除されている方からすれば、イチョウの樹を見上げて嬉しそうな顔をしている酔狂なやつと映ったかもしれませんね。



南濱神社は、古くは午頭天王社と奉称して天王前なる地に鎮座されていたといいます。
しかし姉川の洪水たびたびおこり、荒壌を避けるため現在地の中浜の地に移遷したと伝わります。

今でこそ姉川には堤防が築かれていて決壊することはないとは思いますが、堤防ギリギリまで水位が高くなる事も大型台風が来た時などにはあるといいます。
決壊すれば田畑も住居も水に浸かってしまいますので、水は無くてはならないものであると同時に怖ろしくも荒れるものと言えそうです。



南濱神社の本殿は、入母屋造の建築で御祭神に建速須佐之男命を祀るといいます。
建速須佐之男命はスサノオを指し、午頭天王は薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地とされていますので、神社の歴史上つながる神の系譜がありそうです。



さて、神社を離れて田圃道を行くと、何羽ものツグミの姿に出会います。
ツグミが湖北を去る時のように田圃に姿が多いということは、ツグミが一気に流れ込んできたからなのでしょうか。
楽しみの多い季節になってきましたね。




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ボーダレス・エリア近江八幡芸術祭『ちかくのまち』④~奥村家住宅~

2020-11-12 18:13:13 | アート・ライブ・読書
 「よしきりの池」「B&G 海洋センター 」「NO-MA美術館」と近江八幡(安土)の4カ所で展開されてきたボーダレス・エリア近江八幡芸術祭『ちかくのまち』も奥村家が最後の会場となりました。
『ちかくのまち』は「知覚のまち」の意があるといい、これまで訪れた3会場では、まさに知覚を刺激するアート作品と出会うことが出来ました。

最後に訪れた奥村家では「魲万里絵 × 谷澤紗和子」さんのコラボレーション、庭園を利用して展示された「米田文」さんの粘土作品、蔵では「ドゥイ・プトロ×ナワ・トゥンガル」さんの作品がインドネシアより届く。
4会場それぞれの特色が感じられる展示からは、作家の作品の力と企画・演出の見事さの両方が感じられ、近江八幡にアートの魅力が渦巻いているような印象を受けました。



魲万里絵さんは、ふくよかな女性の肉体に乳房や性器が剥き出しになったような絵画を描かれ、エロティックともグロテスクとも言える作品には、全てを引き裂くかの如く鋏が描かれていることがある。
和室にあがってすぐの部屋にはやや小サイズの絵があり、原色の多い色彩で描かれた精密な絵が並びます。



魲さんが絵に付けるタイトルは、ダイナミックで精密な絵とは裏腹に思わず笑みを浮かべてしまうものがよくあります。
今回は絵のタイトルは分からなかったのですが、以下3枚の絵からは欲望.畏れ.回帰.嫌悪.緊迫.衝動...適切な言葉は見つからず。


魲万里絵

アールブリュットに分類される作品には、ミニマムな反復というのが一つの特徴であると言えるとはいえ、魲さんの作品にはエネルギーに埋め尽くされたかのように圧倒される。
人間の内面を曝け出すとこのような世界があるのか?と感じ入ってしまう作品群でした。





今回の芸術祭で魲万里絵さんとのコラボを実現された谷澤紗和子さんは、切り絵を使ったインスタレーションや、貝殻と土を焼成したオブジェなどで活躍される作家で、今回は切り絵とコラボレーションでの出品でした。
「妄想力の拡張」をテーマにされているといい、《NO》という作品ではオノ・ヨーコの《YES》を、女性がダンスしているかの作品はアンリ・マティス《ダンス》へのオマージュだといいます。




谷澤紗和子

では、魲万里絵さんとた谷澤紗和子さんがコラボしたらどんな作品になるのでしょう。
昨年の芸術祭で個別に出品されていた二人を結び付けたのは、この芸術祭のキュレーターで2人の共同制作は「文通」という形で行われたといいます。
奥村家のキャプションには、“本芸術祭での展示は終着点ではなく、一つの通過点であり、今時点の2人の重なりの具現化である”とされており、今後の進化が楽しみになるコラボ作品です。




魲万里絵 × 谷澤紗和子

奥村家は、江戸時代後期に建てられ、重要伝統的建造物群保存地区に位置する町屋です。
かつては呉服屋を営まれていたといい、母屋と蔵の間にある広い庭園は近江商人の町屋の名残りを残しています。



庭園の各所に展示されているのは、金沢市を拠点として活動されている陶芸家・米田文さんの増殖するかのイメージの陶芸作品です。
米田さんが金沢卯辰山工芸工房に在籍していた1998年からの2年間製作していたのが「うずまきさん」というシリーズだとされています。


米田文≪うずまきさん≫

本来は九谷焼の作家になりますが、家や人など日常的な題材をテーマにされているといい、奥村家に展示されている作品群は、かなり実験的な作品を造られていた頃のもの、となるのかも知れません。
小さな渦が折り重なるように増殖している作品は、自然が造った造形とも精神世界の造形とも取りようは見た人の感性によって、捉え方が変わりそうな作品群です。





庭園に展示された米田さんの作品を見て回っていると、奥にある蔵の中で映像が映し出されているのに気付く。
蔵の中での展示はインドネシアのドゥイ・プトロ×ナワ・トゥンガルさんのコラボレーション作品でした。


ドゥイ・プトロ×ナワ・トゥンガル

ドゥイ・プトロさんは、インドネシア(ジャワ島やバリ島など)で行われるワヤン・クリという影絵芝居に登場する人形や女性像を描く作家だといいます。
幼少の頃、、実家の近くで開かれたワヤンを観たかったが叶わなかったという苦い経験から、観られないのであれば自分で生み出そうという発想がモチベーションになったと紹介されています。

弟のナワ・トゥンガルさんは、インドネシア アール・ブリュット ファンデーションを立ち上げて活動を行い、兄の作品を軸に映像を作成したのが、今回展示の映像作品だという。
この映像作品にはインドネシアがパンデミックから解放されることへの希望が込められているといい、映像に登場するのはコロナ防護服に身を包んだ人物と絵が中心となる。



巨大な壁画の壁に、防護服の人が1枚1枚絵を掛けていき、作品は完成されていく。
それはワヤン・クリでの操り人形の影絵が、色彩豊かで特徴的なキャラクターを描いた絵になり替わって芝居を演じているようでもある。



本場のワヤン・クリではガムランが奏でられると聞きますが、この映像はCOVID-19からの解放を訴えていることから、抑揚の少ない静かな音楽が使われている。
エンディング・ロール には言葉が書き込まれており、パンディミックへのメッセージとなっている。



「生めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従わせよ 海の魚と空の鳥と、地に動くすべての生き物を治めよ」
「大自然はいつも人間を優しく撫でる」

「新型コロナウィルスの大流行は、小さな後押しでしかない
  人間が悔い改められるようにするための
  人間が方向性を見直すようにするための」



「ちかくのまち」はまさに「知覚のまち」。
4会場10組のアーティストの作品は、多様性に富み意外性もはらんだ興味深い展覧会でした。
当方は3回に分けて訪れましたが、じっくり見ようとすると1回では無理かもしれませんね。


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ボーダレス・エリア近江八幡芸術祭『ちかくのまち』③~ボーダレス・アートミュージアムNO-MA~

2020-11-10 05:35:55 | アート・ライブ・読書
 近江八幡を舞台にボーダレスな芸術祭『ちかくのまち』は、10組のアーティストの作品が4会場で展示されており、3回目となる芸術祭では「NO-MA美術館」と「奥村家」へ訪れました。
プリミティブな立体造形作品が展示された「よしきりの池」、ユーモラスな農夫アートのカカシが並ぶ「B&G 海洋センター 」は屋外展示でしたが、残りの2会場は旧町屋での展示となります。

「NO-MA美術館」では、映像や触図・音声などアート空間としての演出がされており、その手法の目的には障がいのある人の鑑賞をサポートする意味があるといいます。
作家自体の作品も進化すれば、作家同士のコラボレーションによる新たな魅力の創造。展示方法も進化し続けているというのが、まず最初の感想です。



最初のコーナーに展示されているのは杉浦篤さんの写真の作品。
写真といっても自分でカメラで撮影したものではなく、旅先での風景や記念写真など思い入れのある作品を触り続けた結果、劣化・摩耗し変色して写真とは別の物へと形を変えている。


杉浦篤 Untitled

上の写真は父の墓がある霊園で撮った写真だといい、右に写る女性は杉浦さんの手を握っていて、杉浦さんの母だと思われる女性とされている。
写真の中の世界や記憶に愛おしさを感じるあまり、撫で続けているのかと想像してしまいますが、実際はのんびりとした時間を過ごす時に、淡々と触り続けているのだといいます。



展示場所の一角には8枚の作品が展示され、面白いのは手をかざして映像を操作するセンサーが設置されていたこと。
センサーにかざした手を上へ動かすと映像が拡大され、左右に動かすと左右の作品の映像へと移動できる。
このような視覚に訴えかける装置がある一方で、目の見えない方や見えづらい人が鑑賞できるように触図化されたものや、写真に写るもの(枯葉)などのハンズオン展示もされている。



思わず魅入ってしまったのは次のヤマガミユキヒロさんの「キャンバス・プロジェクション」の作品。
いろいろな場所(例えば街や駅のホームや浅草寺や工場)を鉛筆で描写し、同じ視線で撮影した映像を重ねるという手法で造られた作品です。

しかも映像はその場所の24時間を切り取ったもので、誰もいない灰色の街が始発電車が動きだすと人も動き出し、工場が稼働して観光客が動き出していく。
夜になると工場の煙突の煙は消え、街には人が溢れだし、終電と共にひとけはなくなり、街も眠りだす。


ヤマガミユキヒロ《location huntion》

絵に重ねられた映像にはサンプリングした音声も重ねられており、ぼんやりと人が動く姿から受ける印象は、人の営みの虚ろさでした。
こうした作品を見ていると、現実世界は実は一つだけではなく、同じ時間軸で別の現実世界があるような錯覚を覚えてしまいます。





ドローイングは、新宿・尼崎・高崎・京都・神戸三宮など全11点があり、それぞれ全く異質な場所で同じ時間が進んでいき、同じ日常が翌日も繰り返される。
長椅子に座って作品世界でいう2日間を過ごしましたが、不思議な感覚の余韻が残ります。





「よしきりの池」の湿地に陶芸の「壺」を展示されていた武友義樹さんは、NO-MA美術館ではダンサー・舞踏家の福留麻里さんとのコラボでのインスタレーションでの展示です。
武友さんは3歳の時から紐を振り続ける行為を続けて、50年後の今もなお5m以上の紐を振り続けられているといいます。

展示スペースには3台のモニターが設置されていて、メインは武友さんが紐を振ったり施設で過ごす姿を映し、左のモニターには紐につける道具を造る様子や線で描いた絵を映す。
右には足のみが映し出されてステップを刻んでいる。会場には福留さんが5日間、武友さんの暮らす施設に滞在して、武友さんの感覚や行為を短い言葉で抽出した音声が流れる。


武友義樹 ちょうどよい結び目をつくる-武友さんのサークル

会場のモニターをつなぐコードはスネーク・ホース状態となっているが、これは紐やつながりを表現しているといいます。
2階の窓から蔵へとつながる庭には武友さんの「壺」も展示されている。



最後は今回の芸術祭のメインキャラクターともなっている「美保さん」の作者・平野智之さんの作品やビデオが展示されていました。
「美保さん」とは平野さんが通う福祉施設でかつて支援員として働いていた女性がモデルだといい、美保さんを主人公とした物語が絵で描かれ、絵の上に書かれた文字があるのは字幕だという。
美保さんには超現実的な出来事が次々と起こり、ストーリー?が展開される。


平野智之 《美保さんシリーズ番外編》

ビデオでは平野さんが近江八幡を訪れて、名所を観光して回る姿の記録が映され、もう一つのモニターには絵の物語が映し出されている。
会場にはボード化された美保さんや美保さん人形が展示されており、近江八幡の旧市街地や安土駅周辺の店舗10店では「美保さんガイド」も聞けるそうです。



平野さんが近江八幡を訪れた時の映像を、平野さんは「近畿イベント」と呼んでいるらしいですが、語り口と物語の「字幕」が同じ口調だったのも面白い。
なんか眺めているうちに「美保さん」に愛着を感じてきてしまいますね。



次の「奥村家住宅」では魲万里絵さんの作品が展示されています。
奥村家では魲万里絵の絵画と切り絵の谷澤紗和子のコラボ作品が見られということですので、どんな作品になっているのか楽しみにしながら奥村家へと向かいます。


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『聖衆来迎寺と盛安寺-明智光秀ゆかりの下阪本の社寺-』~大津市歴史博物館~

2020-11-06 05:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県では栗東歴史民俗博物館開館30周年記念展「栗太郡の神・仏 祈りのかがやき」と、大津市歴史博物館の開館30周年記念企画展「聖衆来迎寺と盛安寺」が開催中です。
開館30周年を迎える両博物館が開館されたのは、2館ともに平成2年(1990年)で、世はバブル景気に沸きつつもバブル崩壊が間近に迫ってきていた頃となります。

いわゆる箱物行政の産物ではありますが、博物館が開館されて今もその恩恵にあやかれるのですから、ありがたいことであり、好景気に沸いた時代ゆえの成果ともいえます。
今回は近江の正倉院こと「聖衆来迎寺」の寺宝と、珍しい四臂の十一面観音像に代表される「盛安寺」の仏像などが100点近く公開されています。



企画展は「1.坂本城と下阪本の社寺」「2.盛安寺」「3.聖衆来迎寺の名宝」の3部構成となっています。
「3.聖衆来迎寺の名宝」では(1)聖衆来迎寺の歴史、(2)元応国清寺、(3)聖衆来迎寺の経典・聖教、(4)聖衆来迎寺の仏像、(5)聖衆来迎寺の工芸、(6)聖衆来迎寺の絵画と続きます。

今回の企画展の目玉は、「3.聖衆来迎寺の名宝」での『国宝 六道絵(鎌倉期)』となり、15幅全てが県内で展示されるのは36年ぶりとのこと。
朝イチに到着しましたが、来場者は予想よりも多く、待ち望まれていた企画展との印象を強く受けました。



「盛安寺」からは四臂の「十一面観音立像(平安期・重文)」「聖観音立像(平安期)」、片袖の阿弥陀と呼ばれる「阿弥陀如来立像(鎌倉期)」、「地蔵菩薩立像(鎌倉期)」...。
会場内で撮影可だったのは「十一面観音立像」のみでしたが、盛安寺で拝観した時よりも距離は近く、目の前で拝観することができて細部まで見ることが出来たのはありがたい。



同様の事が「片袖の阿弥陀」や「聖観音立像」にも言え、「地蔵菩薩立像」に至っては像内納入品まで見ることが出来たのは博物館での展示ならではといったところです。
少し違和感を感じたのは「聖観音菩薩立像」で、盛安寺の収蔵庫で見た時とは随分と印象が異なります。
美しい仏だと感銘を受けた記憶(写真も)があるのですが、なんか綺麗になっていたように見える。


盛安寺 収蔵庫の「聖観音菩薩立像」

盛安寺は穴太衆を輩出した土地とされる坂本にある天台真盛宗の寺院で、室町時代の文明年間(1459~87年)に越前・朝倉氏の家臣・杉若盛安が再興したといいます。
白洲正子さんは「十一面観音巡礼」の中で、盛安寺の十一面観音は奈良時代末に十大寺と称された「崇福寺」に祀られていた仏像だと言い伝えられていると書かれています。
また十一面観音と地蔵菩薩の2つを合体したものがこの四臂の十一面観音像といえないだろうかとも書かれています。



十一面観音の多くは左手に蓮華を生けた花瓶を持ち、右手を垂下している姿が主ですが、この十一面観音は花瓶は持つものの、本来は地蔵菩薩が持つ大錫杖を右手に持ちます。
長谷寺の十一面観音像も同じように二臂で右手に大錫杖を持っていますが、盛安寺の十一面観音とは似ても似つかない。



錫杖は厄災や魔を祓う法具とされ、地蔵菩薩は衆生を救う菩薩。
十一面観音は苦しんでいる人を救済する菩薩。
十一面観音の頭上にある11の化仏は、苦しんでいる人を見つけやすいように全方位を見つつ、時に人をなだめたり、怒ったり励ましたり笑ったりもする。



大津市で明智光秀ゆかりの寺院としては、光秀の供養塔や光秀一族の墓のある「西教寺」、江戸時代に「明智寺」と呼ばれていた「盛安寺」、光秀の坂本城の城門を表門として移築された「聖衆来迎寺」となる。
「聖衆来迎寺」は1001年、源信がここで弥陀聖衆の来迎を感じたことが寺名の由来となっているといい、宝物の多さから「比叡山の正倉院」の呼び名を持つ寺院です。

源信は恵心僧都の尊称を有し、『往生要集』を書いた人として名を知られ、浄土信仰を広めた僧として知られています。
六道絵は、源信が示した死後の世界のイメージを絵にして表現したものとされ、聖衆来迎寺の「六道絵」15幅はその思想を怖ろしくも儚い人の死を表しています。


配布されていた読み解き開設付きのパンフレット

六道絵はまず死後に閻魔大王によって裁きを受ける「閻魔庁図」から始まり、「等活地獄」「黒縄地獄」「習合地獄」「阿鼻地獄」の怖ろしくい永遠の苦痛に苦しむ姿が描かれます。
地獄道の次には「餓鬼道」「畜生道」「阿修羅道」の三道が描かれるが、飢えと渇きに苦しむ餓鬼やただひたすら使役されるだけの畜生。終始戦い続ける修羅などどの世界にも苦しみが溢れている。

「人道」は儚くも無常な「不浄相図」、生・老・病・死の四苦を描いた「苦相図」、人生の無常を描いた「無常相図」と我々が生きる人道にも儚くも生きる人の姿が描かれます。
六道最後の「天道」は、さぞかし楽しい竜宮城のような場所かと思いきや、煩悩から解き放たれることがないため、死が近づくと異臭を放ち醜くく老いて嫌がられるようになる。
解脱せず六道を回っている間は、どの世界に行っても救われないということを教えているのでしょう。

聖衆来迎寺の「六道絵(鎌倉期・国宝)」は複数の美術館や博物館に寄託されているといい、「閻魔庁図」が京都国立博物館での『西国三十三所 草創1300年記念 聖地をたずねて」で公開されたのは記憶に新しいところ。
また、聖衆来迎寺では年に一度、「六道絵」の虫干しをされていますが、その際に公開されるのは江戸時代の模本となります。
色彩は模本の方がはっきりと読み取ることが出来ますので、比較してみるのも面白い。



大津市歴史博物館の仏像を含む企画展では、撮影可のコーナーに1躰だけ撮影してもよい仏像が展示され、今回は「盛安寺」の「十一面観音立像(平安期・重文)」でした。
エントランスには半丈六の「地蔵菩薩坐像(平安~鎌倉期)が展示されていて、こちらも撮影が可能となっています。





今回の企画展の図録は、大津市歴史博物館のHPには載っていなかったのでないのかと思っていたら、ミュージアムショップに平積みで置かれていたので、さっそく購入。
美術館や博物館に行くとつい図録を買ってしまいますが、見てきたものをもう一度写真や解説で見直せますし、時間がたっても記憶を蘇らせることが出来ますので便利なものです。


図録

おまけは来場者が希望すればもらえる大津絵のシオリです。
絵柄は「鬼の寒念佛」で、僧衣をまとった慈悲深い姿をしているのとは裏腹に、中身は鬼(偽善者)という風刺画。



聖衆来迎寺の工芸・絵画で興味深かったのは、寺院の玄関から本坊に向かう入口の上に掛けられていた」という「鬼型像(室町期)」という像で、「角大師」のお札の木造立体版ともいえます。
また、「両面曼荼羅図(鎌倉期)は、厨子の中の両面に胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の18センチ角ほどの曼荼羅が納められた珍しいものでした。
さすが近江の正倉院と呼ばれるだけのことはありますね。


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「金勝山 浄厳院」と現代美術展「2020 AT ARTS EXHIBITION」~滋賀県近江八幡市安土~

2020-11-02 17:18:18 | アート・ライブ・読書
 織田信長が安土城を築き、町を開いた安土にある「金勝山 浄厳院」では、寺院の中で現代美術展「2020 AT ARTS EXHIBITION」が開催されています。
出展されている作家は、勝山信隆さん・西村のんきさん・綿野佐世さん・藤野裕美子さんの4名の作品と、コロナ禍で来日できなかった海外の作家の映像作品と見応えはたっぷりです。
浄厳院での展示場所は“書院・渡り廊下・庫裡、観音堂”の各所で、もちろん本堂の拝観も出来ます。

浄厳院の本堂には定朝様の丈六「木造阿弥陀如来坐像」が御本尊として祀られているものの、通常非公開のためこれまで拝観出来なかった仏像の一つでした。
今回の美術展では、「阿弥陀如来座像」を始めとした諸仏が拝観できる上に、現代美術も楽しめる企画ですので両方見たい当方にとっては願ったり叶ったり。



勝山さんと西村さんは浄厳院に来山されており、各々の作品が展示されている部屋では作品の説明をしていただけました。
庫裡には勝山信隆さんの作品が展示されていたのですが、聞いてみると勝山さんは浄厳院の生まれで現在は特別支援学校に勤務されているそうです。

支援学校で障がいのある子供たちに接している影響もあり、画材として使われているのは食用のオブラート。
オブラートに描画や印刷をされたものを紗の布に乗せ、水に浸して漉くという手法のようです。

脆い性質のオブラートから、亀裂や剥がれや素材の流れなどを生み出すといいますから、想定通りと想定外の両方が混在する作品になるのかと思います。
作品の制作手法に関して普通の絵との違いは、料理の調理方法での煮る焼く炊くなどの違いだけで基本は同じものともいわれていました。



3枚の絵の一番右の絵の下には創作風景を記録した映像が流れていて、水の入った箱の中でオブラートに描いた絵を並べながら水を切っていく工程がよく分かりました。
何に近いかというと、紙漉きの作業に近いのかもしれない。
絵はオブラートゆえに形が崩れている部分や亀裂の入った部分があることによって絵に強い個性が感じられ、勝山さんが話されていた「諸行無常」を具現した作品となっているように感じます。



さて、気になるのは床の間に横たわる人形のようなもの。
作品は「大きな袋と蝶々」と題され、学校の理科室にあるような骨格模型にスポンジを巻き、シフォンでくるんだ作品で、床の間に展示されているのもイメージが高まり効果的でした。

触ると柔らかいスポンジ(肉)の中に骨(骨格模型)が感じられ、滅びることを美しさとして表現されているようにも受け取れる。
挨拶文に“すべてのものは膨張し収縮し変容し、そしてやがては崩壊します。”とあり、永遠のものは存在しないゆえに滅びにも美があるということになるのでしょうか。



人形のオブジェの上や畳の上にバラまかれているのは蝶をイメージしたもの。ある意味で散華のようにも受け取れる。
靴下に付くので取ろうとしていると、そのまま歩いてもらって寺の中にまき散らして欲しいとのことでしたので、そのままくっ付けて歩いてまき散らすことになりました。
所々に蝶を落として、最後の1枚は帰り際に靴を履く時まで残っていました。

次に書院に向かうとまず廊下に西村のんきさんの大きな絵が見えてきます。
絵は廊下の突き当たりに2枚と廊下の角に2枚。2枚は女性の絵であとの2枚は仏頭です。



話を聞いてみると西村さんも特別支援学校に勤務されていたといい、勝山さんとは同僚だった縁があって美術展に参加しているといわれていました。
絵は光の入る場所に展示されているため、自然光によって絵の見え方が変わるといい、自然光を使った表現手法になっているようです。



西村さんの言葉を借りると“体力に優れたネアンデルタール人からホモソピエンスの時代となったのは、コミュニケーション能力の差があったが、これから人類はどんな進化を遂げていくかが重要”。
確かに歴史が語る2000年間、同じことの繰り返してきた歴史がありますので、新たな社会性のようなものが求められている時代ともいえます。

書院の中へ入るとそこに広がるのは闇と光と音の世界。
前にある作品は透かしの絵の上に映像を重ねた幻想的ともいえる作品で、光が当たる側からも光が透ける側からも絵が見え、その表裏は同じもののようで違った作品になっている。






書院の奥の間は、かつて信長が天皇を招待するために設計された部屋だとされ、欄間には結界が張られているという。
巨大な絵は小学校で展示しようとした時に部屋の高さが足りなかったというほどの巨大な作品で、地中海をイメージした水中に女性が横たわっている作品です。

海から生み出されるものを表現されているといい、絶えず水音(波)の音が流れるヒーリング空間が拡がる。
流れ続ける水音は、みさき公園で自身が録音したものだといい、美術展のテーマである『間』の世界が堪能できます。

“畳に座って見た方がいい。見ていると日本の障壁画の文化が分かってくる。”、“また自分の影が写り込むことで絵が違ったものにも見えてくる”と勧められて、奥の間で正座して『間』の世界を味わう。
畳の上に座って見る「闇と光と自然の音、映像の動き」の世界を寺院の広間で見ると、美術館では味わえない格別のイメージが広がり、いい美術展だったと記憶に残るなぁと感慨に耽ります。



今回の美術展の舞台となった「浄厳院」は、もとは佐々木六角氏が建立した天台宗寺院の威徳院「慈恩寺」だとされますが、1471年と1570年の2度の兵乱と佐々木六角氏の敗退により衰退したといいます。
1577年に織田信長が金勝山で行った鷹狩りの際に高徳に感銘したという僧・応誉明感を安土に招き「金勝山 浄厳院」の寺名で、応誉明感を開山とする浄土宗の寺院として再興。



重要文化財に指定されている「浄厳院楼門」は、天文年間(1532~1555年)に慈恩寺の楼門として建立されたものを、浄厳院の楼門として遺されたものだといいます。
建立時期は楼門に祀られている仁王像の岩座墨書から、慈恩寺の建物と分かったのだといいます。

仁王像は力強い力感にあふれており、傷みつつあるその姿からは古仏の美しさが伝わります。
楼閣からは平成の時代に2躰の僧形座像(1躰は1613年のものと判明)が発見され、本堂に2躰が祀られていましたが、痛みはあるものの(あるゆえの)美を感じるものでした。





本堂も重要文化財に指定されており、浄厳院が再興された時に近江八幡多賀村の「興隆寺」から移建されたものだとされます。
浄厳院は、浄土宗と法華宗が宗教論争「安土問答(安土衆論)」を行った場所で、信長が法華宗を弾圧するために工作したという説もある法論です。
安土問答に勝利した浄土宗が喜んで鉦や太鼓を叩きながら念仏を唱えたのが、今に伝わる「かちどき念仏」の法要の始まりだといいます。



本堂でも副住職の方から詳しい説明を受けることができ、内陣での御本尊拝観や奥内陣に祀られた仏像の数々を拝観することが叶いました。

「信長座像(1613年)」、楼閣で発見された「僧形座像」2躰。
「応誉商人座像」、「法然座像」と「善道大師座像」、「増長天」と「持国天?」が並ぶ中で、碁盤の上に立つ「薬師如来立像」が興味深い。
特に関心を魅かれたのが清凉寺式の「阿弥陀如来立像(南北朝期)」で、浄厳院に清凉寺式があるのはあまり知られていないかもしれない。



念願の対面となった「阿弥陀如来坐像」は、天正6年(1578年)に愛知郡二階堂から移したものとされる平安期の丈六仏(像高2.73m)で重要文化財に指定されている。
定朝様の丸く穏やかな表情をされ、堂々とした姿からは極楽浄土を想像させる威厳がある。

この阿弥陀如来で特筆されるのは、仏像本体・光背・天蓋・蓮弁の全てが揃って残されていること。
光背には大日如来を頂点として、左右6躰づつの飛天が透かし彫りになっており、天蓋も美しい。



浄厳院には数々の寺宝があったようですが、大半の宝物と文書類は博物館に寄託されているので、写真での説明となる。
写真の中に見覚えのある寺宝がありましたので記憶をたどると、先月訪れた栗東歴史民俗博物館での「栗太郡の神・仏 祈りのかがやき」で実物を見ていたことを思い出す。

「厨子入銀造阿弥陀如来立像(鎌倉期・重文)」の蒔絵の美しさ、「火焔宝珠嵌装舎利厨子(室町期・重文)」、「日吉山王曼荼羅図(鎌倉期・重文)」。印象的な宝物ばかりです。
絹本著色「観経変相図 (南北朝期)」は展示時期の違いにより見ていませんが、極楽浄土の世界を描いた周辺にコマ送りのように描かれた「観無量寿経」の絵解きについても説明していただけました。

下は書院から見た「勅使門」。
信長は天皇を招いた時にこの門から入山してもらい、書院へお通しするよう考えていたようですが、結局それは叶わなかったことになります。



浄厳院は御本尊の丈六阿弥陀、清凉寺式阿弥陀、碁盤に乗る薬師如来と想像以上の仏像の宝庫でした。
現代美術展「2020 AT ARTS EXHIBITION」に出品されている作家さんは初めて知った方ばかりですが、感情移入しやすい世界観の作品が多かったと思います。

2人の作家さんにいろいろ説明いただき、作品を受け入れやすく見ることが出来たのも良かったことの一つです。
寺院を始めとする歴史ある日本建築の中で見る現代アートの試みが増えてきているのは楽しみなことですし、これからも期待が高まる企画だと思います。




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ノスリとチョウゲンボウとジョウビタキをパチリ!

2020-11-01 16:55:55 | 野鳥
 土日に天気が崩れることが多かった湖北でしたが、この週末は快晴の鳥日和となりました。
琵琶湖に浮かぶカモの数もかなり増えてきましたし、早朝からイカルの声が届けられ、あちこちでモズの声や姿に出会うようになりました。

田園地帯に行くと猛禽の仲間を見ることが多くなり、いよいよ冬の野鳥の季節がやってきた感が強くなります。
ノスリが田圃の畔で食事中のところへ車を停めたので、食事を中断して棒へ留まる。



電柱には別個体のノスリが獲物を窺っています。
ノスリはずんぐりした体形で顔も可愛らしい感じがしますが、ヘビだって捕まえて食べるタカ目タカ科の鳥です。



湖北の冬の田園地帯ではノスリを頻度高く見かけますが、一つは電柱に留まることが多いですから目に留まりやすいのでしょう。
カラスの縄張りでは2羽のカラスにちょっかいをかけられていましたが、そこは猛禽、泰然として留まっておりました。



別の場所ではチョウゲンボウも電柱に留まって獲物を窺っています。
同じ猛禽でもチョウゲンボウはハヤブサ目ハヤブサ科の鳥で、スマートな体形で田圃の上空で軽々とホバリングしながら獲物を探している姿を見かけます。



冬の湖北ではノスリやチョウゲンボウには出合え過ぎてスルーするなんていう贅沢なことをしてしまいますが、それだけ野鳥が多いということ。
湖北の田園地帯を鳥見すると、運が良ければ1シーズンに10種以上の猛禽に出会うこともあるかと思います。



こちらの気配に気が付いて飛んでしまいましたが、こうしてみると小さいながらもハヤブサの顔をしていることが分かります。
本家ハヤブサやコチョウゲンボウにはこの冬も出会いたいですね。



ジョウビタキも何カ所かで姿を見かけるようになりましたので、随分と数が増えてきたのだと思います。
巡回コースの4~5カ所にジョウビタキが落ち着いている場所があり、綺麗な姿を楽しませてくれます。
2羽の♂が縄張り争いしている場所もありましたよ。



上と下の写真は、写真を斑点させたのではなくて、ジョウビタキがあっち向いたりこっち向いたりしていた姿です。
まだ定番の近所の庭にはジョウビタキは来ていませんが、これからはもっと身近な場所でも見かけるようになると思います。



ジョウビタキが地面に降りているところをパチリ!
こいつは車の前方の地面にばかり降りますので追い回したみたいな形になって申し訳なかったが、1本道なので進むしかなかった。



シーズン初見のツグミも見かけましたので、琵琶湖近くには冬鳥がどんどんと入ってきているようです。
山近くにはもう冬鳥が入ってきているのでしょうか。別コースで探鳥してみたいところです。


コメント (2)
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