僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

「長祈山 木之本地蔵院(浄信寺)の秘仏展」~滋賀県 長浜市木ノ本町~

2019-12-31 18:12:31 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 このひと月ほど「丁稚羊羹」にハマってしまい、滋賀県内を出歩く度に丁稚羊羹を買って味比べをしていました。
丁稚羊羹は、丁稚奉公の丁稚さんが里帰りの時に土産にしたもので、どちらかというと庶民的な和菓子のことをいい、お店や地域によって随分と味も価格も違います。

そんな丁稚羊羹行脚の中で見つけたお店が木之本地蔵院の向いにあり、正月用のお茶菓子を買いに行った時に木之本地蔵尊で秘仏御開帳がされているのを見て、そのまま参拝へと向かいました。
木之本地蔵院は、約6mある銅像の地蔵尊と参道に露店が並ぶ大縁日で知られている寺院で、木之本地蔵尊は日本三大地蔵にも数えられているといいます。



木之本地蔵院の本尊は天武天皇の時代、難波の浦(大阪)に地蔵菩薩像が流れ着き「金光寺」を建立して祀ったのが始まりといいます。
その後、この地蔵像を仏法の縁深き地に安置するため、奈良薬師寺の祚蓮上人が北国街道を下る途中、柳の木の下に地蔵像をおろしたところ、そこから動かなくなり前にもまして金光を放つようになったという。
その地が木之本だといわれ、木之本の地に伽藍を建立したのが木之本地蔵院の草創だとされます。



812年になると弘法大師・空海が尊像を拝巡して、霊躯破損おびただしい尊像を修復し、閻魔王と俱正神の御脇士を刻み安置したとの縁起があります。
寺院には空海の他にも木曽義仲・足利尊氏・足利義明らも参拝したといい、菅原道真に関する伝承も残されているようです。



今回の「秘佛展」は、本来は9月14日から12月8日までだったようですが、看板に“拝観期間延長 現在開催中”のシールが上貼りされていたのに偶然気が付きました。
神社では大晦日に「大祓」が行われますが、当方は寺院で今年一年の穢れと罪を祓うことになりました。



木之本地蔵院は正式には時宗の浄信寺といいますが、地元の人が日課のように立ち寄るような親しみ深い寺院で、やはり“木之本のお地蔵さん”と呼んだ方がしっくりとくる。
また、木之本地蔵は眼の神様として信仰を集めていて、“すべての人々の大切な眼がお地蔵さまのご加護をいただけますように”と身代わりの願をかけて片目をつむっている身代わり蛙の信仰があります。
そのため随所にカエルが祀られており、手水で吐水しているのも龍ではなく、カエルです。



梵鐘は自由に撞けるようになっており、撞かせて頂きましたが、撞木が随分とすり減っていて、参拝に来られた方を含めて日常的に撞かれることが多いのかと思います。
梵鐘には昭和22年8月鋳造の銘があり、昭和22年頃は戦後の復興もままならなかった時代かと想像しますが、そんな時代に梵鐘が鋳造出来たのは信仰の厚さゆえなのでしょう。



境内に立つ「地蔵尊銅像」は、1894年に建立されたものだといい、大戦の時には供出命令を受けたとされます。
しかし、当院三十世住職其阿上人学樹足下は拒否し、東條英機の妻・勝子の援助もあって供出を免れたそうです。
尚、この其阿学樹という上人の名は梵鐘にも刻まれていました。



地蔵銅像の周囲には数多くの片目をつむったカエルが奉納されており、中には手製と思われるカエルが奉納されています。
身代わりの願をかけているカエルとはいえ、ウィンクしているとしか見えない姿には愛嬌を感じてしまいます。



本堂の外陣で参拝して、地蔵堂へ入った堂内で秘仏展は行われており、般若心経の一文字を書いて“一字奉納”をしてから中へと入ります。
“来迎讃”の読経が響く堂内でまず最初に会うのは「地蔵銅像」の下型となった仏足木型で、触ると御利益があるとのことで軽く撫でさせて頂きました。



同じ部屋には空海の伝承に由来する「木造閻魔王立像(鎌倉期・重文)」「木造倶生神立像(鎌倉期・重文)が並び、曼荼羅・涅槃図が掛けられている。
次の間には「木造阿弥陀如来坐像(平安期・重文)」、「四天王像画」「稲荷明神像画」があり、阿弥陀座像の前で線香を焚かして頂き手を合わす。



部屋を移動すると「善光寺式阿弥陀三尊」が中心にあり、「一遍像」「千体仏画」「毘沙門天立像」など。
総数30躰の仏が各部屋に展示されているのは読経の響きもあって静かな興奮状態で拝観できましたが、特に仏画の種類と数の多さは見応えのあるものでした。



秘仏展を見た後、本堂の須弥壇の裏側にある「裏地蔵尊」に参り、カエルが吐水する「御香水」に触れてから本堂を出る。
本堂には56.7mの闇の中を歩く「御戒壇巡り」がありますが、今回は遠慮させて頂いて「阿弥陀堂」へと向かう。



木之本地蔵院(浄信寺)の秘仏展で仏像が拝めたのは、偶然が重なってそうなったとしか言いようはありませんが、これも縁だったのだと解釈しています。
2019年の厄を大晦日に落としてから新年を迎える準備が出来たのも仏縁だったのでしょう。


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御朱印蒐集~京都市右京区 五位山 法金剛院~

2019-12-30 15:20:20 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都左京区花園に建つ法金剛院は「関西花の寺 第一三番」に数えられ、「苑池」と名付けられた池には夏になると蓮が咲き誇り、極楽浄土を思わせる光景が見られるといいます。
また、鉢に植えられた蓮は約90種もあるといい、7月第2土曜日から3週間行われる「観蓮会」では早朝から寺院が開放されて蓮の花の鑑賞が出来るようです。

法金剛院は「花の寺」が強調されている寺院ではあるものの、重文指定された平安期の仏像群が素晴らしい寺院であり、蓮の季節の混雑を避けての法金剛院への参拝となりました。
花園界隈には仁和寺や妙心寺などの大寺院が並ぶ地域ですが、その間に挟まれた位置にこぢんまりと佇んでいるのが法金剛院でした。



法金剛院は平安時代の初期の830年、右大臣・清原夏野が山荘を建て珍花奇花を植え、嵯峨・淳和・仁明天皇の行幸を仰いだといい、夏野の死後は「双丘寺」を称したとされます。
858年になると文徳天皇が伽藍を建てて「天安寺」と称するも、その後衰退していったといいます。



寺院が復興されるのは1130年になってのことで、 鳥羽天皇の中宮であり崇徳天皇・後白河天皇の母である待賢門院によるものだといいます。
「法金剛院」と寺名を改めた寺院の最盛期には西御堂(丈六阿弥陀堂)、南御堂(九体阿弥陀堂)・三重塔・東御堂・水閣が並ぶ寺院だったとされます。
1279年になると円覚によって律宗に改められたようですが、残念ながら応仁の乱・天正・慶長の震災で堂宇を失ってしまい、元の壮観な堂宇が再び復興されることはなかったようです。



法金剛院は大通りに面して山門を構え、双ヶ丘を背にして建てられており、広大な寺院ではないが境内は回遊できるようになっている。
中門から境内に入るが、個人的には初めて参拝する寺社へ行くと最初に配置を確認してからまずは周辺部から歩き出すことが多い。



まず「苑池」を一回りしたが、花期を終えたとはいえ蓮が勢いよく咲いていた時期の様子が充分想像できる光景でした。
平安の昔から蓮の花が咲き誇る池の端から堂宇を眺めながら極楽浄土を思い浮かべてきたのは今も昔も変わらないということなのでしょう。



境内には苔の庭に石仏がひっそりと佇み、山側には20躰ほどの石仏群が祀られていました。
いつの時代に彫られたものか不明ですが、修復された跡が見られます。





この近くには特別名勝になっている「青女の滝」がありますが、その話は後ほどとして仏足石の方へと参ります。
こちらも制作年代は分からないものの、紋様ははっきりと残っていますので、それほど古い物ではないようにも思えます。



庭園を一回りして堂宇に向かうと、庫裡へと続く玄関の横を通ることになります。
鉢植えには蓮の名称を記載した札が建てられてあり、約90種の蓮があるというのも理解出来ます。
花期に訪れたらさぞや壮観な光景が見られるのでしょう。



本堂となる「礼堂」は1618年に再建されたもので「釣殿」と呼ばれる舞台とつながっている。
ただしこの御堂には入れず、仏像はさらに奥にある「仏殿」と「地蔵堂」に収蔵されている。



仏殿に入った瞬間に目に入ってきたのは丈六の「木造阿弥陀如来坐像(平安末期・重文)」で思わず“あっ!”と声が出てしまうほど貫禄がありつつも落ち着いた表情をされた仏像でした。
古くは平等院・法界寺と共に定朝の三阿弥陀と呼ばれていたようであり、仏師は院覚という定朝の系譜に連なる方だとされます。



法金剛院で最も気になっていた仏像は4臂・坐像の「十一面観音像(1316年・重文」でした。
4臂の十一面観音像は別の寺院で見たことがありますが、4臂で坐像というのは珍しいと思います。

実はもっと大きな仏像だと思っていましたが、実際は像高69cmほどの大きさで意外な小ささに驚きつつも、やはり仏像は実際に見てみないと分らないとの思いを強める。
仏像と共に素晴らしいのは十一面観音像が納められている「厨子(鎌倉期・重文)」で、三方開きの扉に描かれた天女は素晴らしく、仏像の背後や上方に垣間見える天井・背板の絵も実に美しい。



堂内には「僧形文殊菩薩(平安後期)」「木造地蔵菩薩(平安後期)」、藤原期の「不動明王立像」、十一面観音坐像の胎内に納入されていた「十一面観音摺仏・真言」、出土された藤原期の瓦などが展示。
また廊下の奥にある「地蔵堂」には平安後期の丈六「木造地蔵菩薩坐像(通称:金目地蔵)」始め、「天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道」の六道を表す地蔵菩薩が安置。
最前列には「閻魔大王」がおられましたので、閻魔大王に裁かれつつも、その化身である地蔵菩薩に救われる構図になっているとも言えます。

地蔵堂は通常非公開のため、内部には入れずガラス越しだったとはいえ、なかなか見応えのある地蔵菩薩群だったと思います。
法金剛院は「花の寺」として知られるとはいえ、やはりこの寺院は「仏像の寺」との思いを強めながら、境内にある「青女の滝」へと戻ります。



「青女の滝」は日本最古の人工の滝とされており、かつては自然の水が流れていたといいますが、現在はポンプで苑池の水を組み上げて循環させているようです。
今の季節は雨が少なく池の水位が低いため、ポンプの焼き付き防止のため、15分だけポンプアップしてまた止めていると係りの方に教えていただきました。

最初に行った時に水が流れていなかったのはポンプが止まっていた時間帯だったのでしょう。
“今なら滝が流れていますよ。”の一言に一旦出そうになっていた寺院の中へもう一度入れてもらいました。



法金剛院では春は桜、初夏に花菖蒲・紫陽花・菩提樹・沙羅双樹、夏は蓮、秋は紅葉、冬は仏手柑の実・千両・万両など各季節の花が楽しめるといいます。
今回はゆっくりと仏像が観たかったため、花の季節を外して参拝しましたが、蓮の花が咲き誇り早朝に開催される「観蓮会」の頃に訪れてみたい寺院です。


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「妙光寺山磨崖仏」と「岩神大龍神」~滋賀県野洲市妙光寺~

2019-12-25 17:38:38 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 白洲正子さんは「近江山河抄」の中で“妙光寺山という所へ、石仏を探しに行き、古墳群の中へ迷い込んだことがあるが、そこにはドルメンのような建造物が建っていて(中略)おそらく神が降臨する磐座か、何かの記念碑のようなもので...”と書いている。
ドルメンとは巨石墳墓のことをいうそうだが、妙光寺山の磨崖仏の近くにある「岩神」のことを指しているかどうは分らない。

一言で妙光寺山といってもこの地は妙光寺古墳群と呼ばれて約70基の古墳が確認されているといい、ドルメン(巨石墳墓)の多い場所になっている。
また、妙光寺山のある野洲市は「銅鐸のまち」と呼ばれるほど銅鐸の出土が多いため、弥生時代~古墳時代に力のある豪族が治めていた地といえます。



妙光寺山には「福林寺跡磨崖仏」があって、福林寺跡の方は以前訪れたことがありましたが、やっと「妙光寺山磨崖仏」にも訪れることが出来ました。
妙光寺山磨崖仏への道は、夏はブッシュが多いそうであり、秋に入ると松茸山となって入山出来なくなるため、シーズンが終わるのを待っての参拝です。

何で山の中に磨崖仏があるのか?というのは不思議な話で、大きな寺院があってその寺領だったとか、寺への道中だとか、山越えの街道があったとか...。
磨崖仏のある山の入口にはいつも獣避けのフェンスから入ることになりますが、毎度思うのは獣のいる檻の中に入るの?という心配と躊躇。



15分くらい登れば行けるらしいと聞いてはいたが、山の中で独りは少し怖い。
急ではあるが道は整備されているので、息は切れるが木の階段を登っていく。



やだな~と思うのは、道はあるけど途切れてしまいそうな道。
道筋の木にテープが巻いてあったので目印にして歩きましたけど、結構ジトジトとした道でした。



随分と登った気がしたが、ここから250mの看板がある。
あとひと踏ん張りで磨崖仏が見えてくる...はず。



さらに登るが、道はどんどんと荒れてくる。
途中で前のめりになって倒れて膝を擦りむいてしまいました。





少し道が広がった先に見えてきたのは「岩神大龍神」の特異な姿。
磐座というよりも古墳かと思われるが、まさしくドルメンのような建造物。

石碑によると「岩神大龍神」は1500年前に鎮座したとされ、石柱が立つ巨石の祠のように見え、中にはお供え物などがありました。
元々は内部に石室があったのかもしれないが見える範囲で中はそれほど広くはなく、古墳だったとしてもかろうじて支えているかのように見える石柱がこの巨石を特異な姿に見せている。





岩神大龍神の近くには不動明王と何かの石仏を祀った場所があり、道はそこでU字となっていて先はない。
どうしたことかと見上げてみると、山に露出する巨石に「妙光寺山磨崖仏」の姿が浮き上がる。





道がU字になっているのは磨崖仏の下へ回り込むための道だったようで、U字の道を登って磨崖仏の下へ入る。
巨石に刻まれているのは高さ160cm・厚さ10cmの地蔵菩薩立像であり、地元では書込地蔵とも呼ばれているという。



地蔵菩薩立像は鎌倉期のものとされ、像の左右には「元亨4年(1324年)7月10日」と「大願主経貞」の銘が微かだが確認出来る。
磨崖仏のサイズが畳一枚くらいだとすると、彫られている巨石の大きさにも圧倒されるものがあります。



地蔵菩薩が浮き上がるように見えるのは、磨崖仏が彫られている枠の中が白く汚れがないからなのでしょう。
地元の方が定期的に手入れをされているのかと思われますが、山中の巨石に浮き立つ地蔵様の姿には感動を覚えると共に、出会えたことに感謝の気持ちが高まります。



また、厚さ10cmの地蔵尊は劣化や傷みが少なく、くっきりとした姿が残っているのも珍しい。
これは長年、草木の中に埋もれていて風雪を免れたことが影響しているともいうが、詳しいことは分らない。



滋賀県の南部、湖南地方には磨崖仏が多く残されていて、古代よりの巨石信仰と山岳宗教・神道・仏教が融合した信仰がみられます。
この地に良質な巨石が多かった影響もあるかと思いますが、弥生~古墳時代に崇められた石の文化が鎌倉期に磨崖仏の文化として花開いたとの考え方もあるようです。


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富川磨崖仏(耳だれ不動)~滋賀県大津市大石富川町~

2019-12-21 19:50:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県大津市の外れに“高さ30m・幅20m”の岸壁に鎌倉時代の磨崖仏があるという。
阿弥陀三尊と不動明王が彫られた磨崖仏は「富川磨崖仏」といい、耳の病に御利益があるとされることから通称「耳だれ不動」と呼ばれているといいます。

磨崖仏のある大津市大石富川町は大津市とはなっていますが、むしろ信楽の雰囲気が強い。
信楽川沿いの道を下流に向かって進んで行くことになり、片側に渓流・もう一方は山際となる道を進んで行くのははとても気持ちがいい。



信楽川は琵琶湖から流れ出している瀬田川に流れ込み、宇治からは宇治川と名を変え、やがて桂川・木津川と合流して淀川になり、大阪湾へと流れ込む。
今は、ダムや洗堰によって水量が調整されているものの、かつては水運の航路として利用されていた川なのでしょう。



信楽川の峡谷にはゴツゴツとした巨石と激流が流れ、迫力は充分です。
川岸に降りてみたい気持ちもあったが、危なすぎてとても近づけそうにはない。



岩屋不動橋という小さな橋を渡っていくと、勢田川漁業協同組合の建物があり、車を停めて山へと足を進める。
勢多川漁業協同組合は遊魚場の管理をされており、“にじます・あまご・いわな”が釣れるそうですが、期間は冬から春までということで、周辺は閑散としたもの。



さっそく山に足を踏み入れますが、誰もいない山で距離も分からず、道はあるはずと進むのは何とも不安です。
石段が組まれているものの、ゴツゴツとした岩ばかりで歩きにくい事この上ない。



道には折り重なるように倒木が倒れている場所があり、木の上を乗り越えなければ他に道はない。
好き好んでこういう道を歩いているのかと思われるでしょうけど、山登りやハイキングが趣味の人間ではないので、怖さ半分でおどおどしながら道を進んでいます。



石段の周囲は木々で覆われているおり案内板もないため、どこまで登ったら磨崖仏があるのか分らないと不安になっていると、道の先にはまたもや倒木。
この辺りには幾つか道があったので、倒木を避けて道を変えてみる。



少し昇ると山の岸壁に彫られた阿弥陀仏の顔が見えてきました。
実際に見る富川磨崖仏は想像以上に大きい。サイズ的にはプールが垂直に立っていることになりますから、まさしく巨大な岸壁に彫られた磨崖仏です。

磨崖仏は中尊に「阿弥陀如来像」、右に「勢至菩薩像」左に「観音菩薩像」の脇侍が彫られており、「不動明王立像」が左下に彫られています。
岩肌に1369年の銘があるといいますが、説明板には“刻銘は直接の年号とはないものの、その頃の彫刻”と曖昧な表現で書かれています。
大津歴史博物館のデータベースには鎌倉時代の作と記されていますから、鎌倉期あるいは鎌倉中期の作とするのが適切なのかと思います。



この地にはかつて「富川寺」という寺院があったとされており、白洲正子さんは「石をたずねて」の中に“古くはここに富川寺が建ち、興福寺の修行場があったと聞く”と書かれています。
大津市教育委員会の説明書きには“この付近は「岩屋不動院明王寺跡」で715年に義淵によって開かれた”とあります。
いずれにしても湖南地方は古来より巨石信仰が盛んな地であったことは、湖南地方に磨崖仏が集中して残っていることが明らかにしていると思います。

瀬田川の上流には「石山寺」、瀬田川の反対側には「岩間寺」と西国三十三所札所寺院があり、それぞれ「岩」「石」と石にまつわる文字を使った寺名が付いている。
また当地の大石富川町は「大石内蔵助」の大石家の出生の地であるといい、苗字と地名に「石」の文字が使われています。
それだけ「石」「岩」が多い地方で、石の文化があった土地という言い方が出来ると思います。



阿弥陀三尊は薄肉彫になっており、巨大なレリーフを見るような迫力があります。
「勢至菩薩像」は阿弥陀如来像の方に顔を向け、与願印を結んでおられます。



「観音菩薩像」も阿弥陀如来に顔を向け、こちらも与願印を結ぶとされるが、風化があって細かい部分は読み取れない。
両仏ともに与願印は阿弥陀像の側で結んでいるのは、阿弥陀さんに協力して願いを聞き届けようという姿勢を示しているのかもしれません。



残念なことに風化が進んで識別困難になっているのが「不動明王立像」。
何らかの仏が彫られているのは分かるのですが、不動明王と見るのは難しい。



岸壁の中央に彫られているのは御本尊である「阿弥陀如来像」。
ちょうど本尊の正面に小堂があるため、蓮華座を含む阿弥陀如来の全身を見ようとすると、斜めからの角度になってしまいます。



阿弥陀如来像の像高は3.6mあるといい、この大きさの磨崖仏を彫った人々の信仰の凄まじさに恐れ入ります。
最近、集中して近江の磨崖仏や石仏を見てきましたが、レリーフのような薄肉彫りの磨崖仏はこれまで見ていないと思います。





富川磨崖仏が「耳だれ不動」と呼ばれているのは、「岩屋不動院明王寺跡」から不動さんとしているのもありますが、本尊の阿弥陀如来像の左耳に鉱水が湧き流れ出て淡紅色になっていることに由来するようです。
小堂には何本もの「錐」が奉納されており、これは“耳が聞こえるように・通るように”の願いを込めての奉納だそうです。



磨崖仏のある岸壁の右方向には「岩屋」がぽっかりと口を開けています。
修行場だったのか、何らかの石仏が祀られていたのか、あるいは古墳跡なのでしょうか。





「長島大明神」と書かれた祠には鰐口があり、「長島水神」の扁額がかかる鳥居のようなものの下には湧水がありました。
尺が置かれていることから、ここで水を汲む方がおられるのかも知れず、今は手水の役割を果たしている可能性もあります。



帰路に瀬田川を渡るコースを行くと、目の前に広がるのはゴツゴツとした岩場の絶景で、地球の地肌がむき出しになっているとも言うべき場所です。
これほど岩が浸食されているということは、如何に瀬田川が激流だったかが分かります。
途中で思い出したのですが、ここは立木観音の参道近くで、立木観音へ参拝した時も立ち寄った場所でした。見えると思わず立ち寄ってしまう場所ということなのでしょう。



磨崖仏があるような場所は、人が立ち入れるようにはなっているものの、自然に囲まれた場所が多い。
少しだけ苦労して磨崖仏へたどり着くと、そこには圧倒されるような世界が拡がっています。
磨崖仏・石仏巡りをしていると、湖南地方には独特の文化があったことに驚きを感じます。


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曲谷(白山神社)の石造板碑~滋賀県米原市曲谷~

2019-12-18 06:12:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 伊吹山の麓、米原市から姉川ダムや奥伊吹スキー場へと続く県道があり、その途中にある曲谷という集落には鎌倉期の作といわれる板碑があるといいます。
板碑は“頭部を四角錐状に作り、二条線を彫った下に仏像を彫刻したもの(米原市教育委員会)”で卒塔婆の原型となったともいわれ、一般的に板碑は関東に多いとされているようです。

曲谷集落は「石臼(粉挽臼)作りの里」と呼ばれ、大正末期まで石臼が造られており、明治の時代には集落の全ての家が石屋であったといいます。
石工の歴史は平安時代末期にまで遡ると伝わり、石造板碑の拝見と合わせて石臼の里へと向かいました。



姉川に沿った道中には所々に道祖神が祀られ、古来より最奥の甲津原に至る道筋に集落が点在していたことが伺われます。
姉川ダムの手前まで来ると曲谷の集落が見えてきたため、石造板碑のある白山神社を探し回るが、狭い集落にも関わらず場所が分からない。
人の姿があったので場所を教えてもらうと、“道が狭いし、歩いてもわずかな距離だから家に停めておいていいよ。”とありがたい言葉をいただく。



山の斜面に建てられた白山神社は、731年に行基が白山大権現を勧請して社殿を造営したと伝わる神社だとされます。
隣村になる米原市甲賀にも白山神社がありましたので、この界隈には白山神社が多いのかもしれません。

境内に入って驚くのは「乳イチョウ」の巨木です。
枝から大きな乳房状の突起が垂下しており、枝先にも幾つも突起が成長を待つかのように垂れています。
このようなイチョウの樹は見たことがなく驚きますが、地面にはイチョウの実らしきものがたくさん落ちていたのも印象的です。





拝殿に参詣した後、本殿の右の山裾の斜面に回り込むと、鎌倉時代末期作とされる石造板碑はありました。
高さ140cmほどの板碑は花崗岩で造られたもので、竹藪の前にひっそりと祀られているのは墓標を連想させる。



二塔のうちの右塔には舟形輪郭の中に蓮華座に乗る阿弥陀仏が彫られており、下には脇侍である観音菩薩・勢至菩薩が梵字で彫られているといいます。
これまで石造板碑に関心を持って見ていなかったこともありますが、こういった石造板碑を意識的に見た記憶はなく、初めてかと思います。





対する左塔は、風化がひどく見えにくくなっているものの、舟形輪郭の中に納まる半肉彫りの阿弥陀仏は何とか識別出来る状態。
頭部の四角錐状の二条線の部分を比較すると、左塔の方は最初から造りが荒かったようにも思えます。



板碑に横には石室があり、「秀吉の母の石仏」が安置されています。
なぜここに祀られているのか不思議であり、秀吉とは縁もゆかりもなさそうな米原に祀られているのは謎のままです。

石室の扉は閉まっており、さすがに扉を開けるのは不謹慎なため、石仏は見ていませんが、説明板に石仏の写真で確認。
集落の人々は優しげな姿の石仏に“大政所(なか)”の姿を思い浮かべたのかもしれません。





二塔と石室の横には石仏や石塔が置かれてあり、それらも南北朝期のものと推定されています。
石仏はこの場所以外にも周辺部一帯に石仏が多く祀られていたことから、良質な石(花崗岩)の産地であるとともに、信仰の深い地であったことが伺われます。



曲谷に伝わる伝承として「西仏坊」にまつわる話があります。
西仏坊は1129年頃、信州の武士の家に生まれ、興福寺の僧となったといいます。

その後、平清盛への反乱に加わって信州に逃れ、木曽義仲の家臣となり、木曽義仲が戦死した後に追っ手から逃れるために曲谷に滞在したとされます。
その時に曲谷の人に石工の技術を伝え、後の石臼作りの起源になったと伝わります。



石臼作りが盛んだった痕跡は今でも集落の中に作りかけの石臼や廃棄された石臼が数多く残っていることから分かります。
また山中には石切場が何ヶ所か現在も残されているといい、特殊な石の文化を持つ曲谷の歴史が残ります。



米原市のウェブサイトによると、曲谷集落北東一帯には花崗岩床があり、その花崗岩は「粘っこい」ため、粉をひいても石材が崩れず石臼に適しているとあります。
また、稜が鋭く立たないため墓石には向かないとありますが、石仏などには用いられているといいます。

集落の入口付近には「石臼公園」があり、大きな石臼のモニュメントが置かれています。
曲谷の石臼は主に湖北や美濃に拡がったといい、神社仏閣の石灯籠などにも名作があるといいます。



公園の石段にも石臼が使われており、「石臼作りの里」の遺構が残されています。
曲谷の石灰岩は加工時に割ることが多かったそうで、うまく作れなかったものを住居などに利用してきたのかと思います。



石臼段の横には石室に祀られた二尊石仏があり、周辺にも石仏が置かれています。
曲谷の石工は、石灯篭や手水鉢の銘文には「曲谷村」文字を入れ、姓は木曽を名乗っていたといいますら、曲谷石工が西仏坊にまつわる伝承を大事にされていたことが分かります。
興味深い処では西国三十三所の満願結願の寺院「華厳寺」の笠灯篭が曲谷の作だといいますので、満願の暁の参拝時に確認したいと思います。



ところで、「伊吹山文化資料館」には“曲谷の石臼作り”のコーナーがありましたので立ち寄ってみました。
資料館は「伊吹山地とその山麓の自然と文化」をメインテーマとしており、展示室全4室には伊吹山の民俗や自然、縄文から戦国時代に至るまでの出土品など小さいながら充実した資料館です。





伊吹山麓には古墳が幾つかあったといい、資料館の外には「ミミ塚古墳」が移築されています。
滋賀県で一番東の古墳だとそうですが、伊吹山山麓は位置的にも美濃地方の影響が強かったかもしれません。



平安時代の最末期頃に曲谷に滞在して石工の技術を教えたと伝わる西仏坊には、石工の技術者も同行していたと考えられています。
鎌倉・室町期に関東を中心に石造板碑が発達したといいますが、その流れが石臼の里・曲谷にも入り込んできて石造板碑が造られたのでしょう。


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深坂古道の「深坂地蔵」~長浜市西浅井町沓掛~

2019-12-14 06:18:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「深坂古道」は古来より「深坂越え」と呼ばれ、越前敦賀と近江塩津を結ぶ主要道路だったといます。
万葉の歌人・笠金村(越前守)や平安時代の歌人・紫式部が父である越後守・藤原為時に連れられて通った道であると伝わります。

「深坂越え」は深坂峠(標高370m)を越える難所であったものの、塩津~敦賀の最短距離であり、敦賀に陸揚げされた海の幸や塩や米などを畿内へと運ぶ街道だったといいます。
塩津街道は「塩の道」とも呼ばれており、日本海に面する越前の玄関口として街道は大いににぎわったようです。



深坂古道は塩津街道の最難関な峠であったことから、平清盛は嫡男・重盛に琵琶湖と敦賀間の運河の開削を命じたといます。
しかし、山には巨岩が多く工事は難行し、大岩を割ろうとした者が突然腹痛を起こし、その岩を掘り起こすと地蔵様が出てきたので工事を中断したという伝承があります。
そのため「深坂地蔵」には別名として「堀止め地蔵」という呼び名があるといいます。



古道は滋賀県側から峠を越えて福井県の疋田(JR新疋田)までつながってはいるが、滋賀県側から入って「深坂地蔵」まで行って折り返すことにする。
古道というと熊野古道を連想するが、深坂古道を歩く人は他に誰も見かけず、やや不安を感じながら道を進む。



道は手が入っているため、雑草などに悩まされることはありませんでしたが、熊や獣が出そうな雰囲気がある。
水路と並行に道があり、地面に山からの水で湿気っている場所があるので蛇とかいたら怖いなぁと足元を確認しながらの道中。



深坂古道南口より300mほど進んだ所には「深坂問屋跡」の石垣が見られる。
かつて敦賀からの荷物は馬に乗せて運んだといい、峠を越えると別の業者の馬に「馬継ぎ」したといいます。
「問屋跡」はその際に使われた荷受問屋の跡地で、積み替えた荷物は塩津港に運ばれ、舟で琵琶湖の各港へ運ばれたそうです。



問屋跡を越え、地蔵堂へは約600m。
県境となる深坂峠までは緩やかな坂道なので、歩くのはさほど苦にはならないが、ひとけがないのに風があったため、山がざわついているのが気になる。



途中に道の真ん中に石で塚のようなものが作られていて不思議に感じる。
明らかに人が積んだもので、苔などが見られないため、最近になっても積んでいるように見えます。



反対側には巨岩が地面に埋まっており、その岩の後方に石が積まれている。
お地蔵さんに見立てた岩が祀られているが、賽の河原を連想すると同時に巨岩に対する信仰めいたものを感じてしまいます。



お地蔵さん(岩)の後ろには木彫りの仏が奉納されていて、賽の河原で鬼から子供たちを守る地蔵菩薩の宗教観が感じ取れます。
「深坂地蔵」は子供の守り神とされているということから、お地蔵さんにまつわるものが各所に見られます。



更に道を進んだ先に「深坂地蔵」の御堂がありましたが、こんな山の中にあって実によく整備されています。
地域の方の尽力によるものでしょうけど、それだけこのお地蔵さんが大事にされているということでしょう。



参道の横には山から流れ出す水を使った手水があります。
尺が置いてあるのですが、下に流れ出た水が溜まっており、手は届かずで水には触れられずでした。



御堂(地蔵堂)はそれほど古いものではなさそうで、「深坂地蔵尊」の扁額が掛けられている。
閉まっていたので地蔵尊を拝めないかと思いつつ、障子に手を掛けると簡単に開く。
自由に拝観出来るようなのでありがたく堂内に上がらせていただきます。



深坂地蔵は街道を行く人が道中の安全を祈る時に、当時貴重品だった塩を供えたことから「塩かけ地蔵」の呼び名があるといいます。
以前は塩を石仏にかけていたようですが、現在は塩かけは禁止されているようです。



“仏像や石仏は実物を見ないと分らない”と個人的には思っており、深坂地蔵はもっと小さな石仏かと想像していたのですが、その大きさに驚く。
須弥壇に祀られているということもあるとはいえ、高さ約160cmで顔は35cm、岩の厚みも厚く、浮き彫りの厚さもかなり浮き出ている。



お地蔵さんは前掛けで包まれているので躰は見えないものの、右手に持つ錫杖や左手の部分ははっきりと残っている模様。
お顔は劣化が激しく、その表情は伺え知れない。



地蔵堂の周囲には涎掛けをした石が数多く並んでおり、石を地蔵に見立てて奉納・信仰していることが見て取れる。
小さな石に涎掛けを着せているものが大半であるが、幾つか巨岩に涎掛けを着せているものもある。





山の各所にも巨岩が多く見られたことから、平重盛が運河の工事を中断せざるを得なかったことが理解出来る気がします。
それと共に、この地の方や古道を通る人に「石」に対する畏怖する心があったのではないか?とも思います。



地蔵堂より福井県側は傾斜のきつい道となっており、それ以上進むことはありませんでしたが、この先には「笠金村の歌碑」や「紫式部の歌碑」があるといいます。
興味深いのは、古道の各所に見られる“大岩があると必ずと言っていいほど小石が積まれていること。”でしょうか。
この小石は、深坂地蔵にお参りに来られた方々が積まれているのかと思われます。



古道を戻って古道の南口近くまで来ると、周囲を観察する余裕が出てくる。
キンモンガやウラギンヒョウモン?の姿を見ることも出来、自然豊かな森の良さに触れる。



山を下ってこの辺りまで戻ると、周辺は山と湿地のみ。
いい景色だと安堵して歩いていると、足に違和感。
なんと蛇を踏んでしまった!

思わず悲鳴を上げたが、悲鳴が聞こえた人がいたとしても1㌔は離れている。
いきなり踏まれた蛇も恐怖だったでしょうけど、知らずに蛇を踏んだこっちも恐怖です。足元をしっかり見なさいというメッセージかな。



「深坂古道」は、秀吉によって高低差の少ない「新道野越え」の新道が開かれると、難所ゆえに衰退していったといいます。
とはいえ、現在も残る古道からは、いにしえの時代の匂いが漂い、かつてのにぎわいを想像してみることの楽しさが味わえます。


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川内倫子写真展「いのちといのち」~やまなみ工房のいとなみ~

2019-12-11 20:03:33 | アート・ライブ・読書
 「近江商人」の代表的な商人は、高島商人・湖東商人(五箇荘)・八幡商人・日野商人などがあり、現在に至っても近江商人発祥の大企業が幾つも残ります。
その中の日野商人は「万病感応丸」を関東や東方地域に売って財を成したといい、「旧正野薬店」を改造した「日野まちかど感応館」は江戸時代の佇まいを残す建物として観光案内所になっています。

「日野まちかど感応館」のギャラリーTUTUMUでは、写真家・川内倫子さんが甲賀市甲南町にある障害者福祉施設「やまなみ工房」での約1年間の日々を切り取った写真展と「やまなみ工房」の作品展が開催されました。
近江日野商人ゆかりの地で開催されるアールブリュット作品展・工房での日常を切り取った写真と映像のコラボを体感すべく日野の町へと足を運びました。



近江商人は伊藤忠商事や丸紅、西武や高島屋などの大型店舗を都市部で展開したとされますが、日野商人は地方で沢山の小型店を出店していったといいます。
いわゆる百貨店方式の商店とコンビニ方式の商店と商法の違いがあったようです。
最初は地場産業の日野椀を売り歩いていたとされますが、正野玄三の「万病感応丸」の大ヒットにより日野の町に潤いをもたらしたといい、感応丸は現在も販売中です。





会場となった「日野まちかど感応館」は、日野売薬の創始者となった旧正野薬店の店を利用した建物で、日野の薬業や町並みのシンボルとなっています。
薬棚に詰められた生薬と薬の加工道具が並ぶ部屋では、係りの方から丁寧な説明が聞け、日野の歴史が少し理解出来ました。



本題に入りますと、川内倫子さんは滋賀県生まれの写真家で「第27回木村伊兵衛写真賞」受賞を受賞されている方なんだそうです。
木村伊兵衛写真賞は「写真界の芥川賞」とも呼ばれる賞で過去の受賞者には、“藤原新也・星野道夫・今森光彦・蜷川実花”など著名な写真家がおられます。

展示写真は「やまなみ工房」での日常を写したものですが、リアルさを追求したというよりもありのままを切り取っているという印象がある。
露出をオーバー気味に撮っている写真が多く感じられ、言葉でうまく表現できないがフワフワしたような世界感のある写真との印象を受けました。



「やまなみ工房」はアールブリュットの美術展によく出品のある有名な作家が多い工房で、展示作品が予想以上に多かったのは嬉しい誤算です。
やまなみ工房には6つのグループがあり、粘土や絵画の創作活動を行う「ころぼっくる」、刺繍や絵画に取り組む「スタジオこっとん」、散歩や健康づくりをしながら創作活動を行う「ぷれんだむ」。
地域のトイレ清掃を中心に作業する「もくもく」、古紙回収の「たゆたゆ」、施設内のカフェを担当する「hughug」など、その人の個性に合わせた生活をされているそうです。



山際正己さんは30年間で5万体もの作品を造られたといい、1日30分ほどの創作時間以外はダンボールなどの整理をされているという。
縁側の端から端まで並べられた「正己地蔵」は、1体1体は素朴な地蔵さんですが、これだけ並ぶと生命が吹き込まれたような力を感じる。



同じく地蔵を創作されているのは「菜穂子地蔵」の大原菜穂子さん。
極端な言い方ですが、この作品を見た時に円空仏を思い出しました。

これまでに造った作品は2万点にも及ぶといい、それぞれの地蔵さんの表情は同じように見えて、みな違った表情をしている。
綺麗好きで整理整頓の人だそうで、ダンボールの整理をする山際さんと整理が好きなのは共通点がありますね。





“恋する女性”ともされる鎌江一美さんは、恋する人へ毎日ラブレターをつづり、作品を見て欲しい、褒めて欲しいと作品を造られているという。
10年ほど前から全ての作品に「まさとさん」が登場するといい、工房ではみんなの優しいお姉さん的存在だといいます。



吉川秀昭さんの「目・目・鼻・口」は、突起状の粘土細工にミクロレベルの点々を抽象的に刻んでいます。
当方の目では細かすぎてよく見えませんが、その点々は“目・鼻・口”だといい、膨大な数の顔が表現されている。



「こっとん班」の作品は、刺繍やボタンを使った作品になり、清水千秋さんの「壇蜜」は2年がかりで完成した作品だそうです。
最近では自身のお母さんをモチーフにして作品を造られているといい、近年さまざまな場所で評価が高まり、やりがいを感じて彼女の中で自信につながっているそうです。



鮮やかな布に大量のボタンを縫い付けている作品は井村ももか三の「ボタンの玉」。
布一面にボタンを縫い付けると丸めて、更に上に布を縫い付けてボタンを付けて、それを繰り返す。
完成すると頭の上に乗せて歌い歩くこともあり、工房のみんなの人気者だとか。



無数の模様と文字を鮮やかな色彩で描きあげているのは三井圭吾さんの「ふうせん」。
食事も忘れて絵画に没頭する日もあるという彼の目に見える風景はどう映っているのだろうか。



岡本俊雄さんは、床に寝そべって割り箸と墨汁で描くのが彼のスタイルだという。
溢れ出さんばかりのエネルギーを感じる絵だが、当初は環境に馴染めなかった彼が、創作を始めたのは通所してから10年が経ってからだといいます。



神山美智子さんは1枚の作品を約1年かけて描いていかれるといい、その絵は精密に描かれた5ミリ程度の人の姿が背景となっている。
細かな人の姿は拡大してみると、心地よくダンスしている人にも見え、横たわる犬の姿もあるが、タイトルは「かいぶつ」と付けられた不思議な絵です。





この『川内倫子写真展-いのちといのち-』展は、日野観光協会が主催し、たねやグループが協力しての写真・美術展でした。
たねやグループが発行する冊子『ラ コリーナ』の14号には川内倫子さんの「やまなみ工房」での写真と「やまなみ工房」の作品集が載せられていて、写真集としても図録としても楽しめるものとなっています。
まさに『三方よし』の事業展開ですが、実は「たねや」さんも近江商人の一つになす八幡商人の系譜です。


冊子『ラ コリーナ』14号

日野は酒蔵と清酒販売も盛んだったとされ、最後に立ち寄った「近江日野商人館」は、酒の卸業で財を成した山中兵右衛門邸が活用されている資料館です。
ここでも案内の方が実に丁寧な説明をしていただき、これは五個荘の近江商人屋敷でも言えることですが、地元の方には今も近江商人の心が根付いているからなのかもしれません。





今年の初詣は、亥年にちなんで猪を神の使いとする日野の「馬見岡綿向神社」に参拝しましたが、あの有名な「日野祭」は馬見岡綿向神社の春の例祭だそうです。
800年以上前の歴史を持ち、16基の曳山がある日野祭で奏でられる祭囃子は、京都に近いにも関わらず京風ではなく、日野商人が商圏としていた関東風の太鼓が鳴り響くのにぎやかな祭囃子でした。
その土地に受け継がれてきた文化は地域によって全く違うのが面白いですね。


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「湖北のアールブリュット展2019」~長浜 曳山博物館~

2019-12-08 19:50:00 | アート・ライブ・読書
 『アール・ブリュット』は正規の美術教育を受けていない人々が他者を意識せずに創作した芸術作品のことをいいますが、一般的には知的障がいのある人の作品と捉えられています。
それぞれの作家の作品は、個性的で独創的なものが多く、それは理屈をこねくり回したような嫌らしさを全く感じない無垢な作品だと思います。

滋賀県は障がい者福祉で先進的な取り組みをしてきた県だとされていて、各施設では日常の業務以外にも自己表現の場として創作活動を取り入れておられるようです。
そんな彼らの作品の発表の場の一つに「湖北のアールブリュット展」があり、9年前から開催場所を変えつつも続けられているそうです。



今年の「湖北のアールブリュット展」も昨年に続いて“長浜市曳山博物館”での開催となり、博物館1階の伝承スタジオで美術展は行われました。
会場へ入ってまず目に入るのは鈴木さんの「無題」。
手を動かすことの得意な鈴木さんは、絵の具を直接手に付けて、布に触れることで色を付けていくといいます。



視覚・聴覚に障がいのある後藤さんのコミュニケーション手段にスキンシップがあるそうです。
手に絵の具を付けて、職員の方に触れながら色付けされた帽子やシャツは、施設での日常の中で職員の方と楽しく触れ合う姿が思い浮かびます。



粘土の壺とクラフトテープのコラボ作品はプリミティブな創世の世界を思わせるもの。
武友さんの「つぼ」は信楽焼きのひも造りのように、延ばしたひも状の粘土を巻き上げて造ったもので指跡がくっきりと残る作品です。

三橋さんは自室に入るとベッドに横になりクラフトテープをクルクルと丸めて、くっつけていくといいます。
テープの粘着が指にくっつく感覚が面白いそうなのです。



作品は湖北在住の作家だけではなく、湖南市の「近江学園」からの出品が多くありました。
近江学園は1946年に知的障がい者と戦災浮浪児を保護・教育するために設立された施設で、方針とされる「この子らを世の光に」は、伝教大師の「一隅を照らす」という言葉に通じるものを感じます。



近江学園は、戦後まもなく粘土を使った造形活動を始めた施設だといい、現在も個性的な粘土作品作家を輩出されているようです。
作品の中には完成度の高いものが多く、インテリアとしても面白いのではないでしょうか。



“亀かスッポン”のような造形の作品の甲羅の上には楽しそうな楽団が並びます。
どんな曲を演奏しているのか耳を傾けたくなりますね。





下の壺は海の底に沈む壺なのでしょうか。
壺の周りには魚たちが気持ちよさそうに泳ぐ姿が見られ、上部にはヒトデの姿もあります。





独創的で自由に造られた作品にはどこか別の世界からやってきた生物のようなものも幾つか見られます。
古くはウルトラ・シリーズなんかの怪獣モノに出てきそうな生き物たちです。





人らしきモノが折り重なるように盆の上につながっている作品があります。
もしくは臓器のヒダ、融けてしまった人間と、いろいろなことが連想できる作品です。



ほのぼのとした作品は吉居さんのカッパ・シリーズ。
今回はなんと「はぶらしカッパ」です。



「おじぞうさん」を造られるのは片山さん。
好んでおじぞうさんを造っておられるようで、いろいろな表情を見せて手を合わせている小さなお地蔵さんを見守る大きなお地蔵さんの優しい顔がいいですね。



絵の展示も多かった中、ひときわ目を引いたのが「気持ちよく泳ぐ さかな」でした。
“自分も魚の気分になって絵を描きました”と添えられた言葉そのものに、気持ち良さそうに泳いでいる魚は彩色豊かで繊細に描かれています。



アールブリュットは特殊な世界のものではなく、自由に創作された作品を自由な想いを馳せながら鑑賞するということかと思います。
とはいえ、アールブリュットは現代のアート・シーンの中で一つの潮流となっているのも確かなのかもしれません。


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『ウィーン・モダン-クリムト、シーレ 世紀末への道』~大阪国立国際美術館~

2019-12-06 17:55:55 | アート・ライブ・読書
 2019年も大小さまざまな美術展が開催されましたが、個人的にはグスタフ・クリムトを中心とした世紀末ウィーンをテーマにした3つの美術展が今年の肝だったように思います。
世紀末ウィーンのアートは絵画だけでなく、建築・ファッション・インテリア・デザイン・音楽などを含めた総合的なものを指し、その中に「ウィーン分離派」の活動があったようです。

年初の京都では「世紀末ウィーンのグラフィック展」、夏から愛知県では「クリムト展」、続いて大阪での「ウィーン・モダン展」。2019年はまさに世紀末ウィーンに染まる一年だった感があります。
大阪国立国際美術館で開催された『ウィーン・モダン-クリムト、シーレ 世紀末への道』は、日本・オーストリア外交樹立150周年を記念して「ウィーン・ミュージアム」の所蔵品が約300点も上陸しての大規模な美術展となりました。



美術展は18世紀のハプスブルク帝国時代の作品を集めた「啓蒙主義時代のウィーン」に始まる。
大きなキャンバスに描かれた古典的な絵に圧倒されるが、興味深いのは「フリーメイソンのロッジ」という懇親会の様子を描いた絵の片隅にモーツアルトの姿があることでしょう。

「ビーダーマイアーの時代」ではナポレオン戦争終結後から1848革命が起こるまでの期間。
「リンク通りとウィーン」では1916年までのフランツ・ヨーゼフ1世の時代を描く。
ここまでがタイトルにもあるようにウィーン「世紀末への道」として歴史的背景や変遷を描いたもので、次の「1900年-世紀末ウィーン-」でクリムトの作品が展示される。

ギリシャ神話に登場する《パラス・アテナ》は、装飾性豊かな金色の甲冑を身に付けて、威厳に満ちた姿で立ち、暗い背景には人物や梟が描かれている。
右手の上には「ヌーダ・ヴェリタス」が描かれ、胸の辺りにはメデューサが舌を出して嘲笑するかのように笑っている。



ウィーンでは1873年に「ウィーン万国博覧会」が開催されており、日本はこの万博が初めての公式参加だったといいます。
日本からは岩倉使節団(岩倉具視・木戸孝允・大久保利通・伊藤博文など)も見学に訪れたといい、メンバーの顔ぶれから時代が想像出来ますね。
この万博によってウィーンでもジャポニズムが注目されるようになったといい、クリムトがジャポニズムの影響を受けたことが伺われるのが《愛》という絵。

中央には愛し合う男女の姿が描かれているが、後方には心霊写真のように子供・女性・老婆・死者が描かれ、人の人生を暗示するような絵になっている。
キャンバスの1/3を占める両端には薔薇の花が左右非対称に描かれているのは如何にも日本的な構図に見えます。



美術館は撮影禁止ですが、驚いたのは今回の美術展の象徴的な作品といえる《エミーリエ・フレーゲの肖像》が撮影OKだったこと。
平日に来場したのでさほど人は多くはなかったものの、絵の前にはスマホを持った人が何人も順番待ちをしている。
土日祭日なんかだと凄い行列になっているのでしょうね。



クリムトは官能的な女性を数多く描いており、十数名の女性と愛人関係にあって婚外子は少なくとも14名いるといいますが、唯一心安らげた女性がエミーリエ・フレーゲだったといわれています。
エミーリエはモード・サロンの経営者でもありファッションデザイナーでもある自立した女性だったといい、颯爽とした女史の印象がある人に見えます。



モードの変化が分かる例として《黄色いドレスの女(マクシミリアン・クルツヴァイル)》の絵が展示されています。
当時主流だったと思われるお腹をコルセットで目一杯締めつけたドレスから、ゆったりした服へと流行が変わってきたのが分かります。



エゴレ・シーレは“二十代で早世した天才画家”とされ、28歳の若さでスペイン風邪で亡くなったといいます。
15歳で父親を梅毒で亡くしたシーレは、叔父に引き取られ16歳でウィーン工芸学校へ入学し、更にウィーン美術アカデミー(アドルフ・ヒットラーは3度受験して不合格)へ進学。

その後、17歳のヌードモデルの少女と田舎町で暮らすものの、閉鎖的な田舎町から追い出されてウィーンへ舞い戻るが、少女をアトリエに引き入れたりしてヌード画を描く癖は治らなかったといいます。
挙句は14歳の少女の告発によって逮捕されて禁固刑を受けてしまい、その後に裕福な家庭の娘と結婚するが、選んだ理由は“社会的に許される人間を選んだ”と思考回路がおかしい。

シーレは結婚した相手と永年の同棲相手の両方を繋ぎとめたかったものの、同棲相手は当然のごとくシーレの元を去ったといいます。
シーレは結婚した後、結婚相手の姉とも関係があったといいますから、クリムトもシーレも女性関係はかなりなものだったようですね。



今回の美術展にはシーレ作品が11点展示されており、その独特な画風が最も際立っているのは《自画像》でしょう。
自画像の後方には人の横顔をした陶器製のポットがありますが、明暗・陰陽・表裏・光と影・真偽の両面のシーレが想像させられます。
作品は他にもゴッホの影響を受けたかに思われる《ひまわり》や《ノイレングバッハの画家の部屋》などもシーレのゴッホ好きが分かって興味深い。



会場となった大阪国立国際美術館は元は日本万国博覧会(大阪万博)の「万国博美術館」を中之島に移転したものだといいます。
設計はあべのハルカスなども手がけている建築家のシーザー・ペリーで、地下2・3階が展示室となっていて、現代建築の特徴のあるビルが並ぶ中之島でも異彩を放っていました。


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「胡宮神社の石造観世音立像」と「胡宮の磐座」~滋賀県犬上郡多賀町~

2019-12-03 06:50:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県の東近江~湖東地方には紅葉スポットが多く、特に「湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)」へ紅葉狩りを楽しみに訪れる方が多くなります。
犬上郡多賀町にある「胡宮神社」にも紅葉狩りに足を運ばれる方も居られますので、通常混雑することのない国道307号線は、観光バスやマイカーが急増する季節になります。

胡宮神社では期間限定で「石造観世音立像」の特別公開がされており、一度その姿を拝みたいこともあり、胡宮神社へ参拝しました。
「石造観世音立像」は聖徳太子が諸国巡礼した際に奇石に聖観音像を彫ったとの伝承があり、胡宮神社を取り巻く周辺には古くからの信仰の歴史があるようです。



山の麓にある胡宮神社の後方に聳える山は清瀧山といい、山上に磐座を祀り、古代原始信仰の対称として神体山として崇敬されてきたといいます。
奈良時代の聖武天皇の時代には近在の「水沼庄」が東大寺の荘園となり、30町歩を寄進され、鎌倉期まで東大寺との関係があったそうです。

水沼庄のある大字敏満寺にはかつて「敏満寺」という堂塔48宇余と言われた巨大な寺院があり、その規模は湖東三山と並ぶほどであったといいます。
敏満寺の創建については幾つかの説がありますが、6世紀~9世紀には創建されていたようであり、先の荘園の話からすると聖武天皇の時代には寺院として成立していたのかと思われます。



しかし、1560年には浅井長政の兵火にかかり復興の途上の1572年、織田信長の焼き討ちによって廃寺になってしまったといいます。
敏満寺は湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)と同じく天台宗の寺院であったといいますから、被害を受けたそれぞれの寺院の中でも最も被害を受けてしまったということになります。
胡宮神社は敏満寺の鎮守社であったとされ、再建後は多賀大社の奥之院・別宮とされることがあり、御祭神も多賀大社と同じ伊邪那岐命・伊邪那美命をお祀りしています。。

「石造観世音立像」が「要予約」となっているのを知らなかったため、ダメ元で世話方の方にお願いしてみると観音堂を開けてくださるといいます。
2人の世話方に案内されて観音堂を開けて入らせてもらうと、想像を越える独特の雰囲気を醸し出す石像が祀られていました。



石造観世音立像には“聖徳太子が石造の聖観音を自作された”との伝承があるといいますが、鎌倉期のものではないか?といわれています。
自然石の高さは186cmあるといい、見えていない床下部分にも50~60cmあるといいます。



観音堂の扉の部分は新しい修復がされているが、元々の建物は寛永15年(1638年)に建てられたものだという。
三間四面の観音堂の内部には外陣・内陣にあたる間があり、間近に寄って見せて頂けたのは実にありがたい。
世話方の話では“十一面観音の可能性もある”とのことで実際に頭部は化仏があるようにも見える。



ところで、世話方から“山頂の磐座を見たことがあるか?見る価値があるよ。”と聞かれたが行ったことがないので“何分くらいかかります?”と聞く。
“わしらは休み休みなので30分はかかるが、あなたなら20分で行ける。”と勧められて山を登ることになる。



登り始めてすぐの所に高圧電流の流れるフェンスがあるので扉を開けて中に入る。
そもそも電流の流れるフェンスなんてのは獣避けなんですが、毎度こうやって獣の檻の中に入っていくことになる。



世話方から“最初はキツイがすぐに歩きやすくなる。”と聞いていたが、この木の階段登りはかなりしんどい。
距離感が分らないから先行きが不安になるが、ブッシュがないのが幸い。そこだけは安心です。



と思いきや、シダがよく生えている場所に出る。
山の中に居るのは自分一人きりだし、あまり気持ちのいい道ではないがとにかく登っていく。



いつになったら歩きやすい道になるんだろうと思いながら登るが、日頃の運動不足が祟って息が切れて仕方がない。
世話方が普段農業とかをやっているとしたら、年は取っていても当方より体力があるだろうことにここまで来てから気付く。



中間地点を過ぎた辺りに「御池」へと下る看板があった。
御池は、御神体の磐座に参る時に身体や供物を潔斉する手水の役割と、日照りの時に御池の神に雨乞いした場所だといいます。
50mほど下って御池へ行くと小さな池があったが、降りた分だけまた登ることになる。



木々の隙間から光が差し込んで明るくなってきたので到着かと思うと、“ここから いわくらのみち”の看板。
“野鳥の森”と案内板にあるが、山の中で野鳥の囀りはほとんど聞こえなかったのは今の季節ゆえかな。



この清瀧山は双耳峰からなる山だといい、磐座のある場所は低い方の峰の頂上だといいます。
巨石を御神体として信仰して龍宮を祀り、長寿・豊作・雨乞の祈願をしていたこの場所はかつては選ばれた者しか立ち入ることが出来なかったようです。
そのため人々が麓から遙拝出来るようにするため、胡宮神社の社殿を造ったといわれ、山頂に御神体を祀る神社では同じような話を聞くことがあります。



巨石信仰の磐座へ訪れたことが何度かありますが、そこで感じるのは圧倒的な神秘性と神々しさです。
胡宮の磐座は、神体山として古代より埋もれもせずに祀られ・守られてきたのでしょう。



ところで、角度を変えて磐座を見て驚いたのは、磐座が人の顔のように見えてしまうことです。
飛び出した両目があり、鼻の下には大きく横に割れた口。





こういった神聖な場所に来ると何か勘違いにも似た心境になることがあり、近くにあった石にも磨崖仏のようなものが見えてくる。
正面の上部に2躰あるように見えたが、これは思い込みの激しさゆえなのだろう。



胡宮神社には何度か参拝していて清々しく気持ちのいい神社だという印象が強かったのですが、今回新たな魅力を感じました。
「石造観世音立像」は奇石に彫られた見応えのある観音様でしたし、山を登ってたどり着いた「胡宮の磐座」も神秘的な巨石でした。
予約なしだったにも関わらず観音堂を開けていただき、磐座へ行くことを勧めていただいた世話役の方にも感謝すると共にこれも縁だったのかと思う。


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