僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

「明智十兵衛屋敷跡」と「十二相神社」~光秀の出身地は多賀だった!?~

2020-03-29 18:55:15 | 風景・イベント・グルメ
 NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公・明智光秀と滋賀県は「坂本城」や明智一族の菩提寺である「西教寺」のつながりから“大津との縁が深い”というのが大方の意見かと思います。
ところが何と、湖東にある多賀町では“明智光秀 多賀出身説”が持ち上がり、光秀のルーツは多賀にあり!との説があるようです。

光秀の前半生は謎に包まれているとはいいますが、多賀出身というのは聞いたことがありませんでした。
ただし多賀では“出身説”としており、“誕生説”ではないところが微妙なところとはいえ、説は文献や伝承を元にした大真面目な説です。



十兵衛屋敷跡がある多賀町佐目の集落は、三重県と滋賀県の県境に位置し、伊勢神宮と多賀大社の参拝の通り道にあたる地だったとされています。
戦国時代には近隣武将や土豪の勢力争いの最前線になる地であったこともあって、周囲を山に囲まれたこの地には山城が幾つかあったといいます。
屋敷跡の後方に見えるのは高室山でしょうか。ここにもかつて山城があったと聞きます。



佐目が光秀の出身地とするには幾つかの理由があり、一つは17世紀後半に編纂された『近江温故録』という地誌に書かれた内容と佐目の口伝が一致すること。
“光秀の2~3代前の美濃出身で土岐氏に仕えていた先祖が明智十左衛門と名乗って佐目に住んでいた。”
“十兵衛は六角高頼に仕官し、2~3代後の十兵衛光秀は越前朝倉家に仕えた。”と書かれてあるという。
“山崎の戦いで光秀の家来ではなかった犬上衆が昔の旧き(ふる)好み(よし)で応戦した”という伝承もあるようです。


(多賀観光協会チラシ)

佐目には光秀の「ミツ」の字をもらい、「見津(ミツ)」と書いて「けんつ」と読む一族がいるといい、実際に表札が確認出来ました。
明智の一族が佐目に住んでいた話がどこまで光秀につながっているかは分かりませんが、興味深い話です。

ところで、十兵衛屋敷跡のすぐ山側には佐目の鎮守社である「十二相神社」があり、参拝に向かいます。
主祭神は「少彦名命」とされ、少彦名命は大国主命と協力して国土の経営にあたり「医薬・禁厭」などの法を創めたとされています。



境内から背後の山にかけて杉の巨木が多いが、何といっても社殿両側にある4本の杉の巨木の迫力と神秘的に魅入られる。
樹齢は500~1000年といい、下段の2本の杉は胸高周囲4.9mと4.5mの巨木。
上段には6.5mと6.15mと更に太い杉がある。





これだけの巨木があると圧倒されるしかないが、境内にある木はどれも几帳面に枝打ちされており、よく整備されていることが分かる。
佐目は多賀町でも三重県いなべ市と隣接したかなり奥地にある集落という印象を受けましたが、なぜ明智十兵衛は美濃から佐目へ来たのでしょうか?



明智十兵衛屋敷跡で世話方の話を聞いている時に“道路に車が何台も停まっているところがあっただろう。あそこの山でミツマタが満開だから寄っていったらどうか。”と教えて頂きました。
現地へ行って山から出てこられた人に聞くと“20分くらい登ったら群生があるよ。凄く綺麗だよ。”と教えてもらって砂利道の登り坂を登っていく。



ミツマタの群生は山の斜面一帯に広がり、道の反対側の谷側にも群生が広がっている。
まさに周囲全てがミツマタの花に埋め尽くされていて、ミツマタの群生地というよりミツマタの花の森と呼んだ方がしっくりくる。



ミツマタは中国産の落葉低木で江戸時代から製紙に使われていたといい、枝が必ず三叉に分かれることからミツマタの名が付いたそうです。
山へ入られる人も多く、ここが有名なミツマタ群生地とは知らなかったにも関わらず、満開の時期に教えていただけたのは運が良かったですね。



ツマタの群生地への入口付近にはエメラルドグリーンのため池があります。
なかなかに神秘的な場所です。



『麒麟がくる』での光秀は美濃を舞台に活躍していますが、実は多賀町佐目の出身だったと別のストーリーを思う浮かべるのも面白いかもしれません。
山々に囲まれた佐目の周辺は自然が多く、十二相神社の杉やミツマタの群生地などを見ながら心が満たされていくのを感じます。


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龍応山 西明寺『国宝本堂後陣 仏像群特別拝観』~滋賀県犬上郡甲良町池寺~

2020-03-25 17:58:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県では浄土真宗の寺院が圧倒的に多いとされていますが、大寺院という括りで見ると天台宗の寺院が特に目立ちます。
古来より盛んだったとされる山岳信仰や修験道が密教へつながっていったこと、「比叡山延暦寺」の影響が強かったことなどが理由かと考えられ、湖南から湖東にかけて連なる山に準じるように天台宗寺院が並びます。

「湖東三山」の一つに数えられる天台宗寺院「西明寺」は、834年に三修上人が仁明天皇の勅願により開創された古刹で、秋の紅葉の季節には多くの人が訪れる寺院です。
三修上人は、滋賀県と岐阜県の県境にある「伊吹山」に伊吹山寺を開山した行者でもあり、伊吹山修験道と関わりの深かった上人とされています。



「西明寺」では期間限定で『国宝本堂後陣 仏像群特別拝観』が行われており、久しぶりの西明寺参拝となりました。
本堂の内陣には「十二神将像(鎌倉期)」や「二天王像(平安期・重文)」など見応えのある仏像が多い寺院ですが、後陣の仏像群の想像以上の素晴らしさには驚くほかありませんでした。



前回参拝した時には真新しかった「惣門」は、時を経て木の色合いにも変化があり、古寺の雰囲気にに少しづつ馴染できているようです。
「惣門」が立て直されたのが2015年ですから5年分の風格が出てきつつあり、今後年を重ねるごとに雰囲気が出てくるのでしょう。

大きな草鞋が祀られた「二天門(室町期・重文)」は風格といい、古刹感といいまさに寺院の顔と呼べる門となる杮葺きの八脚門で、室町でも初期の建立だといいます。
巻斗には1407年の墨書があるといい、その時代は足利幕府の全盛期であり、応仁の乱が起こることなど想定外の時代。
ましてや織田信長の焼き討ちにあるとは夢にも思っていなかったことでしょう。



「二天門」には「持国天」と「増長天」の二天が睨みを利かせており、像高2m近い仏像は室町時代に院尋という仏師によって造像されたものだといいます。
尚、織田信長の焼き討ちによって諸堂・僧坊が焼失したものの、この二天門と本堂・三重塔は焼失を免れたとされます。





二天門への石段の横には樹齢千年とも言われる「千年夫婦杉」が立ちます。
2本の杉が寄り添って1本の杉になっていることから「夫婦杉」と呼ばれますが、2本の間からさらにもう1本の若木が生えてきていて、今は夫婦と子供が寄り添う霊木となっています。



参拝順序は西明寺本坊庭園「蓬萊庭」から巡るようになっているため、まずは庭園エリアへと進む。
「蓬萊庭」は江戸時代中期に造園された池泉鑑賞式庭園とされているが、現在は水が抜かれている。
掃除をされていた方に聞くと、石組が沈んでしまったので修復して江戸時代の姿に戻しているとのこと。



築山の立石群は本尊の薬師如来と日光・月光菩薩、眷属である一二神将を表す、1673年に小堀遠州の作庭を参考に友閑が作庭したものだという。
工事中ではあるものの、立石群は実に見応えのあるものです。

西明寺には1000本ともいわれる楓があり、紅葉の美しい寺院となっていますが、グリーンのカーペットのような美しい苔を有する寺院でもあります。
「この苔は西明寺が好きです。大事にしましょう」と書かれている看板もあり、苔に痛みは見られないことから大事にされていることが伺われます。





庭園を歩いていると所々にショウジョウバカマの花が咲いていて、春めいた気持ちになる。
毎年どこかでショウジョウバカマの花を見て春を感じ、嬉しい気分になりますが、もうカタクリの花もどこかで咲いているのでしょうね。



「三重塔」は鎌倉時代後期に建立された国宝の塔で、釘を1本も使用しないで建てた塔だといいます。
三重塔は期間限定で内壁画の特別公開をされており、以前に内部拝観した時には、大日如来像を中心として壁に描かれている極彩色の壁画に感動した記憶があります。



三重塔の裏側から山に向かって少し登った所には「西明寺宝塔」という鎌倉時代後期(1304年)に建てられた重要文化財の宝塔がある。
過去、西明寺へ参拝した時にこの宝塔を見ていませんでしたが、寺院巡りを続けるうちに興味の対象が広がってきたということなのでしょう。



宝塔には読み取れなかったものの嘉元二年(1304年)と刻まれているといい、高さ2.15mのこの石造宝塔は重要文化財に指定されている。
塔身に何かが刻まれていたのかもしれないが、現在は枠線しか読み取れない。





「本堂」も三重塔と同様に釘を使わず建立された建物で、「瑠璃殿」との別称を持つ国宝の建築物です。
本尊である秘仏の「薬師如来」は、比叡山延暦寺の根本中堂の薬師如来と向き合うように建てられているといいます。



須弥壇の仏像群はあまりにも有名なので今更記載なしとして、後陣の仏像はまさに仏像の宝庫といえる素晴らしさでした。
焼失した諸堂から運び出された仏像が多いそうですが、仏像の種類は多岐に渡り、重要文化財に指定された仏像も多い。

「親鸞聖人座像(室町期)」。親鸞聖人は念仏に帰依したために、越後に流罪にされたといい、寒い地方へ行くためこの像は首に襟巻を巻き手ろ衣の中に入れている。
天台宗寺院に親鸞聖人の像が祀られているのは違和感を感じるが、五木寛之は「百寺巡礼」の中で「トレランス(寛容)」という言葉で読者に問いかけている。

「元三大師座像(室町期)」の塑像と向き合う位置に祀られているのは「役行者と前鬼・後鬼」。
前鬼は男、後鬼は女とされており、後方から見ると前鬼はふんどしを付けている。

「地蔵菩薩立像(鎌倉期)」はライトを当ててもらうと截金の模様が浮かび上がってきて美しい。
衣の紋様を美しいが、衣の裏側に截金で描かれている貝や雲丹・ワカメなどの海産物は興味深い。

「釈迦如来立像(鎌倉期)」は清涼寺式の仏像で、中国から渡来した清凉寺の釈迦如来を模刻された19躰のなかの1躰だという。
手相や爪がくっきりと彫られており、運命線が強く伸びている。また髪は丸まった螺髪ではなく編み込まれたように彫られ、救済の姿となる。

仏像は他にも天地眼がはっきりと彫られた「不動明王座像・制多迦童子・矜羯羅童子(平安期・重文)」、「阿弥陀如来」2躰、「聖観音」「十一面観音座像(室町期)」「宇賀弁財天」など多数。
もっとも興味深かったのは快慶作と伝わる「阿弥陀三尊像(鎌倉期)」で素人目にもいい仏像だと感じる三尊の顔にライトを当ててもらうと男っぽいキリリとした顔、光を消すと慈悲深くやさしい顔に変わる。
TV版の「百寺巡礼」では後陣の様子が映し出され、五木寛之が後陣の仏像群を「仏像ミュージアム」と呼んだのも納得できる素晴らしさでした。

ところで、西明寺には『三修上人が琵琶湖の西岸を歩いていると、琵琶湖の東方に紫雲が現れまぶしい光が差した。上人が湖東の山中に分け入ると、一筋の光明を放つ池があった。』との縁起があります。
この伝承に纏わる池が山の中にあると聞き、探しに行ってみる。



西明寺が「池寺」と呼ばれる由来を表す池からは湧き水が湧いているようであるが、この湧き水は本堂の裏にある閼伽池へと水が引かれているため水量はない。
池の横には木の根が浮き出た道があるが、この道は迂回して本堂エリアへと戻る。





山から本堂の裏側に戻ると水が引き下ろされた「閼伽池」がある。
万病に効く霊水と書かれているが、水は山の中の伝説の池から想像する濁った水とは違い、澄み切った水だったのは意外だった。





西明寺には朝一に参拝したこともあって、寺院をほぼ貸し切り状態での参拝となり、ゆっくりと仏像を拝観することが出来たのは幸いです。
参道を名神高速が横切ったりしている変わった寺院ではありますが、仏像は素晴らしく、古刹としての魅力は、我儘な当方の想いを満たしてくださる寺院です。


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人形師・東之湖さんの即位雛と令和雛~「商家に伝わるひな人形めぐり」東近江市五個荘~

2020-03-20 21:10:10 | アート・ライブ・読書
 滋賀県では毎年、ひな祭りの季節に合わせて「びわ湖のひな人形めぐり」が県内9カ所で開催されます。
成功した近江商人が多く住んでいた五個荘の町で展示される江戸時代からのひな人形は見どころが多く、町自体の佇まいにも魅力があります。

近江商人の家の主屋には伝統的な日本家屋の良さと、明治・大正のモダンさが入り混じった建築物の優雅さも五個荘の豪商邸ならではのもの。
東近江市五個荘の「商家に伝わるひな人形めぐり」では豪商が所有していたひな人形もさることながら、「人形作家・東之湖さんの創作ひな人形」は、様式や伝統を踏襲しつつも艶やかで幻想的な空間を創造された作品です。



五個荘金堂町には重要文化財の本堂を構えた弘誓寺など寺院が多く、大きな鳥居のある神社も多い街並みからは、この町から近江国の外へ出て商いで成功した商人たちの裕福さと信仰がみえる。
通りに面して流れる川にはカラフルな鯉が泳ぎ、竹で作られた舟にはひな人形が乗ってプカリプカリと浮いていて風情が感じられます。



五個荘では公開されている近江商人屋敷や博物館が幾つかありますが、そのうち3つの近江商人屋敷の共通券を購入してまずは「外村繁邸」へと入る。
外村繁家は東京日本橋と高田馬場で呉服木綿問屋を開いて財を成した家といい、一時当主を継いだ外村繁は私小説作家として評価されているといいます。



庭園の一角にはひな人形が飾られ、心落ち着く光景が広がる。
邸宅を取り巻くように造園された広い庭園には桃山時代の茶人“古田織部”が草案したものとも言われる「織部灯籠」が置かれている。



庭園に複数置かれているのは「陶狸」という少し変わった焼き物の狸。
陶狸は、“大きな目で社会情勢を見渡せるように”“太っ腹な精神を持ち、タヌキ(他抜き)のごとく秀でた人になるように”との願いが込められているといいます。
家や蔵を守る守護狸として置かれた個性的な狸です。



「外村繁邸」の隣にあるのは外村家の本家筋にあたる「外村宇兵衛邸」で、東京・横浜・京都・福井で呉服類の販売で商圏を広げていた方の家だそうです。
2つの外村家は基本的に同じような造りとなっているため家の中にいるとやや混同してしまいますが、両者とも大きな主屋を構え、立派な蔵・広い水屋をしつらえた見事な商人屋敷です。



江戸時代の「有職雛」の雅さを伝えるひな人形もありましたが、「御殿飾り」と呼ばれる宮中を再現したかのようなひな人形も豪奢なもの。
寛永の頃のものとされる「古今雛御殿飾り」では仕える女官の姿も詳細に造られていて、御殿の下には武士が控える。
江戸時代にあっても武士は公家の下に位置付けられていたのでしょう。



外村宇兵衛邸の庭園はかつて“神崎郡内一番の庭”と呼ばれていたといい、一時半分ほどが取り壊されていたといいますが、明治の時代に復元されたといいます。
庭の中央にある池の向こうには「茶屋」があり、そこにもひな人形の姿が飾られています。



最後に訪れた「中江準五郎邸」には「人形師・東之湖」さんのひな人形が展示されているので向かう足取りも軽くなる。
中江準五郎は呉服店に始まり、朝鮮半島や中国大陸で展開した“三中井百貨店”を20余店舗経営し、百貨店王と呼ばれた一族の方の本宅だそうです。

邸宅内に入るとまず目に飛び込んでくるのは東之湖さんの「清湖雛物語」の艶やかな人形たちの織り成す幻想的な世界。
意図が太く曲げにくいという「近江の麻」で作った雛人形は、2006年から毎年シリーズ化しているとい、その世界は毎年進化している。





主屋の和室に拡がる東之湖さんの人形群には圧倒されてしまうとしか言いようがなく、その世界観に見惚れてしまいます。
部屋の右に飾り付けられているのは「近江八景 唐崎夜雨」と名付けられた人形と、桜色に染められた「十人囃子」。
桜の華やかさと儚さの魅力に溢れている。



空間は「清湖雛」を中心にして、白砂の琵琶湖と「近江八景」を描き出し、四方の守り神が湖北・湖西・湖南・湖東を守護している。
若い頃に滋賀県に転居して、五個荘町に店舗兼工房を構えた東之湖さんの湖東・滋賀への想いが感じられる作品ですね。





今年の「商家に伝わるひな人形めぐり」では「清湖雛」の展示と併せて「即位礼正殿の儀」と「令和雛」が特別展示です。
「即位礼正殿の儀」で「高御座」と「御帳台」の幕が開かれて、装束姿の天皇陛下と皇后雅子さまが姿を現した光景が思い出されます。



もう一組の「令和雛」は、5月行われた大嘗祭での天皇皇后をイメージして造られた人形を公開。
あくまでも個人的な意見ですが、天皇家が万人に親しまれるようになったのは上皇明仁さまと上皇后の美智子さまのご尽力のおかげなのかもしれないと思っています。
昭和の時代にはあまりにも多くのことがあり過ぎたのでしょう。



中江準五郎邸には琵琶湖を模った庭園がありますので、池泉回遊式庭園一回りして今年の「商家に伝わるひな人形めぐり」を終わりとする。
近江商人の邸宅は、主は県外・国外で商いをしていたため、邸宅は妻が仕切り使用人をまとめていたといいます。
たまの帰郷をした主は庭園を眺めながらゆっくりとくつろいで英気を養ったのでしょう。



訪れる度に、1躰づつ増加していく東之湖さんの人形が見れるのは、この季節の楽しみになってきています。
今年は新型コロナウィルスの影響でイベント等は中止となり、団体客のキャンセルも相次いだそうです。
来年の開催時は是非とも盛り返していけるといいですね。


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「松尾宮山古墳群」~滋賀県長浜市高月町~

2020-03-17 06:15:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀の北部にある高月町は「観音の里」として知られており、集落で観音さまをお守りしている観音信仰の根強い地域です。
また、高月には「古墳の野外博物館」とも呼ばれている数多くの古墳が残されており、中でももっとも有名なのは「古保利古墳群」という132基が確認されている古墳群かと思います。

高月町にある古墳が築造されたのは3世紀~7世紀頃と推定されており、その期間は「古墳時代」そのものの年代であるといいます。
それゆえ“前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳”と時代ごとの古墳が残されていて、古墳時代の変遷を伝えるものといえます。



高月町には「古保利古墳群」とは別に「松尾宮山古墳群」があり、石室・石棺が見られるようなので松尾集落を訪れました。
いつものことですが、「松尾宮山古墳群」でも獣除けの柵を開けて山の中へ入ることになる。



サイト山と呼ばれる山の斜面に松尾宮山古墳はあり、3基の古墳が確認されているというが、現地で確認出来たのは「松尾宮山1号墳」のみでした。
覆屋の中に1号墳があるが、斜面が急で登りづらいうえに雨で濡れた落葉で足が滑って歩きにくい。
滑って登れそうにないので、やむを得ずあまり頼りになりそうにはない草を掴みながら体を支えて覆屋まで登る。



古墳には時代区分があるそうで、大まかには3世紀後半からの「古墳時代前期(円墳・前方後円墳)」、5世紀初めからの「古墳時代中期(大古墳群)」。
6世紀になると「古墳時代後期(横穴式石室)」、7世紀には「終末期古墳(円墳・方墳・八角墳)」と分類されているようです。
弥生時代の終わりから始まった古墳時代は、飛鳥時代に入ってきた仏教思想の影響によって劇的な変化を迎え、終末期に入ったとされます。



松尾宮山1号墳は「終末期古墳」に分類されるといい、横穴式石室に石棺が置かれているが、天井石と開口部の側壁はなくなっています。
1990年の調査では、墳丘は東西17m・南北13mあるといい、横穴式石室は全長8.5m・幅1.4mあるという。
「松尾宮山古墳群」からは“鉄刀・鉄鏃・馬具・耳環・須恵器や土師器が40個体以上”が発掘されており、かなり身分の高い人が葬られていたと考えられているようです。



興味深いのは、石棺の材質が1号墳が兵庫県加古川流域で産出する竜山石、2号墳の石棺が奈良県の二上山で産出する石だったという調査結果です。
7世紀にはすでに兵庫県・奈良県から滋賀県湖北地方に流通ルートが整備されていたのは驚異と感じられますが、そこには琵琶湖の湖上海運が一役買っていたのでしょう。



松尾宮山1号墳は山の斜面の下の方にあるのですが、少しサイト山を登れば稜線に出て、山の向こう側に見えると思われる琵琶湖を望んでみたいと思ってしまった。
しかし、登り始めると段は組まれているものの、土が被っているため滑ってしまい、途中からは段はなくなり、登り切れそうにない急斜面に恐れをなして途中で引き返す。





ところで、松尾の集落を移動していて驚いたのは、集落の外れにある大迫力の杉の巨木です。
樹齢は分からないものの、樹高約35m・幹周6mの神々しい姿はまるで生き物のように強烈な印象を残します。
湖北には集落の外れに野神さんとして祀られている巨木を見ることがありますが、巨木や巨石に神めいたものを感じてしまうのは人のDNAに刷り込まれているからなのか。





もう一カ所立ち寄った古墳は、滋賀県最大の前方後方墳とされる「姫塚古墳」です。
全長約80mの古墳からは埴輪は出土されていないものの、古墳の形態から3世紀頃に築造されたのではないかと推定されているようです。



姫塚古墳を近くで見ると小山のようにしか見えませんが、グーグルマップの航空写真で見ると前方後円墳の形に見えるのが面白い。(2001年の調査で前方後方墳と判明したらしい)
かつて地元の人の中で“姫塚古墳を発掘すると災いに見舞われる”との伝説があったというのは、不可侵の領域とされていた証なのかとも思われます。



長浜市には古墳が600基以上あるとされていますから、古墳時代には有力な豪族が当地を仕切っていたのでしょう。
また、彼らのつながりは地域のみならず、日本の広い範囲での関わりがあったことが伺われます。
滋賀県の古代の息吹きを残す遺跡歩きもなかなか面白いものです。


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勝堂古墳群「赤塚古墳」と「弁天塚古墳」~滋賀県東近江市~

2020-03-12 18:07:07 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 史跡や遺跡などを探している時に、どうしても現地に辿り着けないことがあります。
場所が大まかにしか分かってなかったり、聞ける人の姿が見当たらなかったりすると散々迷ったあげくに辿り着ずということになります。

そういった場所というのはカーナビの設定のしようがない場所ですが、この日も目的の場所には辿り着けず、道中に偶然見つけた古墳に立ち寄ることになりました。
古墳の周囲はほとんど田圃に囲まれ“古墳公園”と名前は付いているものの、看板も何もなく現地にいた時は“不明の古墳”として古墳を見て回る。



帰宅してから調べてみるとこの古墳は「勝堂古墳群」の一つである「赤塚古墳」といい、6世紀後半に築造された古墳だといいます。
「勝堂古墳群」は江戸時代には48基が確認されていたといい、現在は8基が現存していて「赤塚古墳」はその中の1基になるようです。
「赤塚古墳」は直径約32m、高さ5.2mの横穴式石室を内部主体とする円墳とされており、田圃の真ん中にある小山といった姿をした古墳です。



古墳の周囲を歩いてみると石室の開口部を見つけたので回り込んで近づいてみる。
湖東地方(愛知郡周辺)は渡来人系氏族の「依智秦氏」が権力を誇っていた地だとされており「依智秦氏」は秦河勝を輩出した秦氏の一族とする説があります。

勝堂古墳群の被葬者は、百済を救済するため白村江の戦いで唐・新羅連合軍と戦った“朴市秦造田来津”の一族の可能性が高いとの指摘があり、弁天塚古墳の被葬者は朴市秦造田来津である可能性もあります。
(滋賀県文化財保護協会HP)





羨道の長さは2.4m以上あり、奥にある玄室の長さは約4m・幅約2m・高さ1.6m以上あるといい、両袖式横穴石室を主体部とする円墳だとされています。
石室入口から羨道をのぞき込んでみたものの、土が溜まってしまっていて這い蹲らないと入れない状態であり、ここで諦める。



ところで、赤塚古墳の至近距離(40m)の所にももう一つ古墳があり、その古墳は「弁天塚古墳」と呼ばれ、これら2つの古墳を合わせて古墳公園として整備されています。
弁天塚古墳は直径約20m・高さ4.3mの円墳で、古墳の周囲にははっきりとは見えないものの濠がめぐり、外周に造られた堤は現在も確認が出来る。



弁天塚古墳は内部主体の構造は未調査のため不明だといい、古墳の上には小さな祠が祀られてありました。
将来、この古墳が調査されることがあったとしたら、何が埋葬されているのかと興味深く思います。



「勝堂古墳群」は東近江市と愛荘町の境に位置しますが、愛荘町には298基にも及んだ「金剛寺野古墳群(上蚊野古墳群)」があり、勝堂古墳群は同じ墓域だとされています。
その古墳群は共に依知秦氏が開発を主導した地だとされ、渡来人系氏族・依知秦氏とのつながりは深く、それは近江と渡来人の関係へとつながります。
古墳自体に大きな興味があった訳ではありませんが、見て回ると興味が高まってくるものです。


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「三ツ山古墳」~滋賀県蒲生郡竜王町~

2020-03-08 06:50:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群-」が世界文化遺産に登録されたのは記憶に新しいところですが、滋賀県でも約900の古墳・古墳群が確認されているといいます。
滋賀県の古墳は、皇室や中央の豪族の巨大古墳と比べると規模はやや小さいとはいえ、見応えのある古墳や古墳群が県内各所に残されています。

白洲正子さんは「近江山河抄」で“妙光寺山にあるドルメン(巨石墳墓)”のことを書かれているのを読み、興味を引かれて実際に見に行って、その特異な姿に圧倒された記憶があります。
妙光寺山の巨石建造物は「岩神大龍神」として祀られて信仰されていましたが、竜王町にある「三ツ山古墳群」の剥き出しになった玄室も妙光寺山のドルメンに匹敵する迫力がある。



「三ツ山古墳群」は、新しい新興住宅街のすぐ近くにあると聞き、住宅街の中を探すが中々見つからない。
誰かに聞いてみようかと人を探すが山村のように立ち話されている方もおられず、人が居ても住宅街では声をかけにくい。
何とか看板を見つけて進んでいくのは民家の裏庭にある道でした。



子供の頃に遊んだような裏山に古墳はあり、整備された新興住宅街とはかけ離れた光景に別世界への境界を越えていくような違和感すら感じる。
裏山には倒木が何本も倒れているが、その先に古墳らしき岩のモニュメントが見えてくる。



「三ツ山古墳群」は“鏡山から派生する丘陵先端部に位置し、10数基から構成されている古墳群でしたが、現在は1基を残すのみとなっています”と説明板にあった。
現在は“墳丘の大部分が消失しており、石室の天井部、玄室部の一部が露出して残存している状態”だといいます。



岡を登るとまず石室の後部が見えてきて、まずその巨大さに驚く。
それもそのはずで、玄室の大きさは長さ5.4m、幅1.8m、高さ2.1mで、面積だけでも3坪近くのサイズとなっている。



今にも崩れそうな石組に見えるが、今まで現存しているということは絶妙のバランスで組み上げられているということなのでしょう。
天井岩は何tあるのか不明とはいえ、よく積み上げたと感心します。もっともその頃は周囲を封土が覆っていたのかもしれません。



玄室の正面に回り込むと、その堂々たる姿に圧倒されてしまいます。
表現はおかしいですが、まるで生き物のような、あるいは今にも動き出しそうな生命感すら感じてしまいます。



玄室を下から見上げると天井石の巨大さに改めて驚く。
石舞台とでも呼べるこの古墳を造る時には膨大な労働力が必要であったでしょうし、元は10数基から構成されていた古墳群だったといいますから、かなり権力のあった一族がこの地を治めていたのでしょう。





最近“摩崖仏・石仏・磐座・古墳など”を見て回っていますが、共通するのは全て石であること。
巨石と石に対する信仰のようなものに魅力を感じてきているのでしょう。


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『岩屋古墳 岩屋不動』~滋賀県 蒲生郡 竜王町~

2020-03-04 18:30:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 世界遺産に登録された「百舌鳥・古市古墳群」や「高松塚古墳」・「キトラ古墳」などには及ばないものの、滋賀県にも多くの古墳が残されています。
滋賀県の古墳は湖南・湖東・湖西・湖北と県内の全域で確認されており、広い範囲で古墳文化が根付いていた地といえます。

竜王町の周辺にも幾つかの古墳や古墳群が確認されていて、その中の一つの「不動岩屋古墳」には古墳跡の石室内に江戸時代に彫られた「不動明王石仏」が祀ってあります。
大型のショッピングセンターと向き合う場所にあるため何度も通ったことのある道ですが、こんな場所に古墳があったとはこれまで気付かなかった。



鳥居は正面と裏側の2カ所にあり、駐車場から入る時は裏側の鳥居から入ることになる。
鳥居を越えた辺りから響くように読経が聞こえてきたが、それは岩屋の中で読教されている声。



鳥居の先には「護摩堂」があるが、ここにあるのは屋根のみであり、奥にある古墳と岩屋不動で護摩法要などの時の参拝場所と思われる。
しばらく護摩堂にいると、先にお参りされていた方が“お先に。”と声を掛けて去っていかれましたので、さっそく岩屋古墳へと向かう。



岩屋古墳は全長36m前方後円墳で、後円部19m・前方部23mと大きな古墳ではないもの、6世紀頃に築造されたものと推定されています。
石室は後円部にあり、長さ5m・幅2m~2.5m・高さが2.4mとなっており、不動明王は奥の壁の一枚岩に彫られているという。



こういう場所に来ると、人は巨石やドルメンに対して畏怖する気持ちが湧いてくるのがよく分かる。
格子の奥の不動妙石仏は祭壇の格子の隙間越しにしか見えないが、さほど広くはない石室の中は線香の煙が漂い、ビシッとした空気に満ちている。



不動明王が祀られている場所では時々ここのような張り詰めた空気の場所があるのだけれど、これは不動明王の持つ力というより、信仰されている方々の気が満ちているといった方がいいのでしょう。
祭壇の前に座り、線香を焚いて手を合わせましたが、自然とそうしたくなる雰囲気がここにはあります。





境内には石仏が安置されていて“第49番札所 浄土寺”の石碑があります。
この一帯では「薬師山 四国八十八ヵ所霊場」が昭和12年に開山されており、巡礼道となっているようです。
この霊場巡りは山の中を通って約2時間の道中になるといい、信者・行者の参詣が絶えることはないといいます。



最後に正面側の鳥居へと向かう。
鳥居はショッピングモールと向かい合うような位置にあるが、鳥居を結界としてまさしく知る人ぞ知る異空間となっている。



岩屋古墳の石室内は張り詰めた空気と共に、厳しく律するような雰囲気があります。
不動明王と向き合うのはやはりこのような神秘的な場所が良いのかと感じてしまう。


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