僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

紅葉の山本山の「念性岩」を目指せ!②~長浜市湖北町山本~

2021-11-29 05:50:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 山本山は見る場所によって単立の山のように見えますが、琵琶湖に沿って賤ヶ岳まで縦走して余呉湖まで出ることができ、山はそのまま福井県や岐阜県まで連なっていきます。
山本山から賤ヶ岳に至る尾根には古墳時代前期から終末期と推定される100基以上の古墳群があり、古保利古墳群と呼ばれている。

そのルートは西は琵琶湖を使った水運、東は街道が通り、日本海側と都とを結ぶ重要なルートであったことからかなり有力な豪族が治めていたと推定されます。
山本山に関しては、平安時代末期に山本源氏・山本義経が築城し、戦国時代まで続く山本山城の歴史を語られることが多いのですが、「念性岩」については信仰の対象になっているのが分かる以外は情報がない。



登山道の途中に「念性岩」の分岐があることを確認して、まずは山頂まで行き分岐まで戻ったところで「念性岩」へ向かいます。
山頂までの道は整備されて歩きやすい道でしたが、「念性岩」への道は距離は近いが道が荒れています。



道が狭く片側が削れ落ちていますので要注意の道でしたが、支えに掴むことの出来る樹もない。
仕方なしにゆるゆるに張られたロープを頼りにして進み、滑り落ちても3~4mで止まるかな?と楽観的な方へ気持ちを向けます。



最後のカーブを曲がると「念性岩」へと到着。
巨石には注連縄が巻かれ、岩の上には祠、手前には蝋燭台が置かれていますので、信仰されている巨石であるのが分かる。



山本山の「天孫降臨御聖地」の由緒には“瓊々杵之尊が豊葦原中津国を開拓せんと、朝日山(山本山)を目標に御降臨された。”
“四方を山に囲まれた清らかな湖水(天之真名井)をたたえ、土地肥沃にして五穀豊穣の地である。”とされている。

また、“瓊々杵之尊は幾多の御辛苦をなめられ、その使命を果たされたが、この地で御終焉あらせられたので、山頂に齋き祭り永久に民安かれと鎮まり給うたのである。”ともされている。
由緒と単純に結びつける訳ではありませんが、「念性岩」と「天孫降臨」の伝承には何か関係があるのかもしれない。



「念性岩」の裏側から登れそうな道らしきはあったものの、とても入れそうにないのでここで折り返します。
山本山は巨石はあまり見かけない山ですので、この「念性岩」はかなり特異な場所となっており、信仰されているのも納得がいきます。





ところで、下山して山本山の登山口近くにある「常楽寺」まで降りてくると、なんと御堂が開いています。
世話方らしき方に聞いてみると、10日に一度開けてお世話をしにきているとのこと。
この御堂には2017年6月の『湖北の秘仏特別公開』以来の参拝となり、世話方の方にお願いして御堂内で参拝させていただきました。



「常楽寺」は山本源氏山本判官義経が本寺を祈願時として崇敬し七堂伽藍を有した寺院と伝えられ、幾度かの兵火にあったものの村人により守り伝えられ、明治の神仏分離令により現在地に移されたといいます。
現在は真言宗泉湧寺派に属し、御本尊に「薬師如来坐像」を祀り、秘仏として平安後期の「木造聖観世音菩薩立像」・南北朝期の「毘沙門天立像」、弘法大師・不動明王(板仏)をお祀りされています。
御本尊の「薬師如来坐像」以外の厨子は秘仏のため扉が閉められていますが、コロナ渦以降は御堂で参拝する機会がほぼありませんでしたので、格別の想いがある。



御本尊の「薬師如来坐像」はそれほど古い仏像ではありませんので、兵火等で焼失してしまって新しい御本尊を迎えたのかと思います。
これから歴史を刻んでいく仏像なのかと思われる薬師如来像は、地元の方の手によって丁寧にお祀りされているようでした。


『湖北の秘仏特別公開』での参拝にて撮影

1mほどの背丈の「聖観音立像」は、衣紋も表情からも穏やかでひかえめな印象を受ける仏像で、静かに衆生を見守ってくださるような仏像の印象があります。
山・樹・岩などへの自然信仰、白山信仰の影響、天台宗の繁栄と深くかかわりながら観音の里となった湖北では、浄土真宗が熱心に信仰されるようになっても観音様だけは守ってきた独自の文化圏があります。


『湖北の秘仏特別公開』での参拝にて撮影

「常楽寺」に対する信仰の篤さを感じるのは奉納された石仏の多さでしょうか。
石仏が奉納されるようになったのは30~40年前からだそうですが、それぞれ形も表情も違って見て回るのも面白いものです。



3つの鐘が吊るされた鐘楼には少し変わった石仏が立っておられて目を引きます。
この像に限っていえば、石仏というよりもオブジェのようなアートに見えてしまいます。



登山道の出口近くの小山には「太神宮」の常夜塔が置かれています。
「太神宮」は、伊勢の皇大神宮(内宮)または天照大神を指すといいますから、天照の孫であり山本山に御降臨したとされる瓊々杵之尊によるものか、単に伊勢神宮への信仰からか。



下山した後、西側から山本山を振り返ってみます。
やや右の高い所が山本山の頂上で、尾根筋を辿れば賤ヶ岳から福井県へと山は連なります。




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紅葉の山本山の念性岩を目指せ!①~長浜市湖北町山本~

2021-11-26 06:17:54 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 オオワシの飛来地として有名な山本山(標高324m)は別名:朝日山・田中山・白山と呼ばれ、琵琶湖のどこから見ても姿が見えることから見当山とも呼ばれている。
琵琶湖の湖周道路を走行する際に、湖南の三上山・湖東の伊吹山・湖北の山本山は現在地の見当を付けるにはとても役に立つ山です。

山本山は伝承の時代、第9代天皇・開化天皇の皇子・彦坐命の4世の孫が「綏靖、安寧、懿徳」の3帝(第2、3、4代天皇)を祀られたと伝承されているようです。
麓に祀られる「朝日山神社」の由緒では、天孫瓊々杵尊が高天原から豊葦原へ朝日山を目標として御降臨されたとあり、朝日山(山本山)近江高天原とする説にもなっているようです。



平安時代末期には山本源氏義経が山本山城を築城して当地を治めたとされますが、源平争乱の時に平知盛らに攻められ落城したという。
戦国時代になると浅井氏の小谷城の支城となり、浅井氏の家臣阿閉氏の本拠となったものの、織田信長の浅井氏攻めにより木下藤吉郎により攻められたが守りきり、翌年信長に降伏して開城したとされます。



朝日山神社は明治5年に、最澄が山頂に白山比売神を勧請したとされる白山神社と、山本源氏が奉斎していた源氏の守護神・八幡宮を合祀し、綏靖・安寧・懿徳の3帝をも合せ祀ったといいます。
湖北地方の古来の神への信仰と白山信仰・天台密教が混在して融合していった一端が伺われます。



このような経緯から朝日山神社には「綏靖・安寧・懿徳」と「応神天皇」「白山比咩命」の5柱が御祭神として祀られ、境内には鹿の像など奉納品が多くあることから、地元での信仰の篤さが感じられます。
境内には何本かの御神木がありますが、もっとも見事なのは本殿の横にあるスギの巨樹で、環境省のDBに登録されている3本のスギの中で幹周4.5m・樹高25mのスギがこの樹のことかと考えられます。



朝日山神社の隣にある朝日小学校の校舎横から山本山へ登ることになりますが、数十m登ると道の脇にたくさんの石仏が見えてきます。
その先には真言宗泉湧寺派の寺院「常楽寺」があり、寺院は山本源氏・山本義経の祈願所だったといい、かつては七堂伽藍を有する寺院だったとされます。





前置きが長くなりましたが、ここからが登山の始まりです。
今回どうしても見てみたいのは「念性岩」という巨石で、詳しいことは分からないのですが信仰の対象になっている巨巌です。
湖北の山には獣除けの柵と“クマ出没注意”の看板が多く、山本山も例にもれませんが、今回は熊鈴をぶら下げてきたのでちょっと心強い。



ちょうど時期が良かったのでしょう、登山道の各所に色づいた紅葉が見え、秋の山登りの心地よさを感じることが出来ました。
登るにつれて小学校の生徒たちのにぎやかな声が聞こえなくなり、時々聞こえる小鳥の声と垣間見える小鳥の姿に心が和む。



山本山の紅葉は登るにつれて落葉していってしまいますが、中腹域は今が見頃だったのではないでしょうか。
最初の方は道も緩やかな登りで、樹木の隙間から見える田園風景も少しずつ下に見えるようになる。



とはいえ、山本山の山道はただひたすら九十九折の登りが続き、アップダウンもない登りのため段々と息が上がってくる。
途中で熊鈴の音が聞こえてきたと思ったら、地元の方と思われる方が下山されてきてこの日最初に出会った人になりました。



息が上がってきた頃、目の前には絶景の紅葉の場所があり、ここで一息いれる。
この日の登山道ではこの場所の紅葉が一番綺麗で、いい時期に登ったなぁと運の良さを感じます。



道の途中に「念性岩」への分岐がありましたが、まずは頂上まで登って帰りに寄ることにして山頂近くの二の丸跡を目指します。
山頂付近は山城があっただけあって広い広場のようになっており、休憩するのは最適の場所でした。



また山本山からは西には琵琶湖、東には伊吹山や湖北の山々が望め、眺望もいいですね。
朝の時間帯は東側は陽の光が強いため風景が見にくいですが、西側には琵琶湖がすぐ近くに望めます。



少しモヤがかかっていましたので鮮明には見えませんが、水鳥公園の向こうには竹生島がぼんやりと見えます。



角度を変えると尾上港とその向こうに葛篭尾崎が見えます。
見慣れた風景でも高所から眺めると随分と印象が異なりますね。



二の丸跡には少しだけ小高くなった小山があり、そこが山本山の山頂になります。
小山を駆け上がってみると何枚かの山頂表示がかかっていました。



山頂の小山の上には山本山の二等三角点。
三角点は測量のために設置されているものだといい、二等三角点の設置間隔は役8キロで全国に約5000点あるといわれています。



さて、それでは分岐点まで下山して「念性岩」へと向かうことにします。
途中の道で2~3組の登山者に出会いましたが、おそらく山本山から賤ヶ岳へ縦走して、余呉湖方面まで行かれる方なのでしょう。
「念性岩」は後編に続く...。


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「逆さ地蔵」「割れ地蔵」「駄口の一里塚」~敦賀市 七里半街道2

2021-11-22 15:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 古くからの街道で舗装はされていても都市化はされていない、人の生活が感じられる道筋というのは味わいがあっていいものです。
滋賀県の高島市から福井県敦賀市へとつながる「七里半越え(七里半街道)」もその一つで、現在は国道が通っているものの、一歩集落の中に入ると街道を行く旅人を見守るような石仏に出会うことがあります。

市橋という集落の道を進むと「逆さ地蔵」という上下反対となったお地蔵さんがありました。
集落の横を流れる笙の川を休憩がてら眺めていて、ふと振り返ると「逆さ地蔵」の案内板があり、整備された遊歩道を登っていきます。



大きめの石に浮彫された「逆さ地蔵」は、頭の部分が斜め下を向いた不思議な姿勢でお祀りされています。
滋賀県栗東市の金勝山にある摩崖仏「逆さ観音(「阿弥陀三尊石仏)」も頭の部分が下を向いた姿でしたが、あちらは一部を石材として使われたためバランスが崩れて逆さになったもの。



こちらの「逆さ地蔵」は、元は近くの橋の袂にあったものを道路工事のために今の場所に移動したものだという。
移動した際に逆さのままでは不憫に思った作業員が正しい姿勢にして安置したところ、病気になってしまったため、逆さの姿に戻したという話があるそうです。



「逆さ地蔵」は後述の「割れ地蔵」と合わせて、四国八十八箇所の写し霊場である「若越新四国八十八箇所」の22番札所となっており、街道のお地蔵さんとして信仰を集めていたようです。
「若越新四国八十八箇所」の霊場は地蔵尊をお祀りする札所が多いといい、古来より若狭・越前と都を行き交う人の旅の安堵を見守り続けてきたお地蔵さんなのでしょう。



「逆さ地蔵」と2つで「若越新四国八十八箇所」の札所になっているのは「割れ地蔵」という石が斜めの割れている地蔵尊です。
2つのお地蔵さんは数百メートルの位置に隣接していますが、逆さだったり割れていたりする特徴的な石仏が近くに祀られているのは不思議な感覚に陥ります。



「七里半越え」の旧街道沿いにはお地蔵さん、先述の2つの地蔵尊を含めて大きな石仏が丁寧にお祀りされていることに驚きます。
小河口集落にはツバキとケヤキの樹を祠としたような石仏が祀られていました。
仏には前掛けが掛けられていて姿は分かりませんが、背後の樹の樹勢の良さもあって見ごたえのあるお地蔵さんです。



旧街道沿いには「笙の川」が流れており、敦賀市の市街地を通って敦賀湾へ流れ込むといいます。
ゴツゴツとした岩が点在し、池河内湿原を源流とする笙の川の水は透き通るような清流です。



疋田集落まで戻ってくると、笙の川へと流れ込む「敦賀運河疋田舟川」があり、かつては日本海に運ばれた物資をこの疎水を使って運搬したといいます。
物資は山を越えて滋賀県に運び込まれ、琵琶湖の水運を利用して京・近江へと荷を運搬したようです。

1815年に幕府や小浜藩によって完成した舟川は、幅が9尺(約2.7m)あり、敦賀湊から疋田まで水路による大量輸送を担っていたとされます。
現在も物流を担った集落の雰囲気は残っており、歴史観を感じる場所です。



「七里半越え」を滋賀県方向に進むと、圧倒されるような巨樹の前に「一里塚」の石碑があります。
「駄口の一里塚」というそうですが、もう県境まであと少しといった場所にある一里塚です。



一里塚のエノキの樹は、幹周が5~6mある見事な巨樹で樹勢もとても良いように見えます。
滋賀・福井のどちらから峠に入ったとしても、旅人はこの一里塚で今いる場所を知り、一時の休憩で体と心を休めたことでしょう。



旧街道は今は国道が通り、観光スポットもないため、通り過ぎるだけの道のように捉えられがちですが、ここかしこに興味深く、見る者を堪能させる場所があります。
普通に人が生活しつつも、古き良き名残りが見られる場所は面白いものです。


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コハクチョウをパチリ!

2021-11-20 18:55:55 | 野鳥
 琵琶湖の水位が今日現在で-0.67m低下していており、湖岸へ出ると岸辺近くは湖の底が剥き出しになっている場所もあります。
このまま水位が低下していくと-70cmで渇水対策本部が設置されて節水の呼び掛けが始まり、-90cmになると取水制限が実施される可能性があるとのこと。

琵琶湖の水位が観測史上最低になったのは1994年の-123cmで、この時は琵琶湖で潮干狩り(貝掘り)が出来たという伝説の年でした。
治水や利水対策が実施されているので深刻な水不足にはならないだろうとは思いますが、見慣れた琵琶湖の風景も少し感じが変わってきています。
例年と理がってコハクチョウも沖合にいることが多く、距離があり過ぎて観察がしにくいですね。



湖岸道路を走行していると、琵琶湖の岸辺からやや近いところにコハクチョウ数羽がいましたので湖畔に降りてみる。
3~4組のコハクチョウの家族を見ていると、第一陣・第二陣のコハクチョウ達が次々と飛んできます。
仲間のいる所がよく分かるなぁと思うと共に、飛んできた方向が南方向からだったので“一体どこに居たんだ?”と不思議にも思う。



湖北の空は冬になるとコハクチョウのグループやヒシクイの集団が交差するように行き交う姿が見られますが、今年は初めて見たな。
コォーコォーの声が聞こえてくると毎年のことながら嬉しくなりますね。



コハクチョウは湖上を旋回しながら琵琶湖へ着水。
どんどん着水するので、一気にコハクチョウの数が増えてきました。



既に湖面でエサ取りをしているコハクチョウの周囲にはヒドリガモやオオバンがおこぼれにあずかろうとひっついています。
首の長いコハクチョウでないと取れない水草が湖面に浮いてくるのを目ざとく拾います。



1羽だけ羽ばたきしてくれるのがいましたよ。
写真の精度は悪いけど、コハクチョウの羽ばたきする姿はほんと美しいですね。





羽ばたいてくれたのは1羽だけでしたが、見れただけでも満足でした。
この先、コハクチョウ達が田圃に上がるようになると、また楽しませてくれるはずです。



飛んでくるコハクチョウもひと段落すると、皆エサ取りに夢中になります。
お腹が膨れたらどこかでお昼寝タイムに入ることでしょう。



コハクチョウが離水する光景にも出会いたかったのですが、当分はお食事タイムでしょうからこれで引きあげる。
ガンカモ・猛禽・小鳥と湖北の冬が始まりましたね。


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「大岩大権現」~敦賀市 七里半街道1~

2021-11-18 06:15:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 福井県敦賀市と滋賀県高島市の間には両市を隔てる七里半越という峠があり、敦賀市疋田から高島市マキノ町海津までの七里半の道は「七里半街道」と呼ばれています。
敦賀側には古代三関とされる「愛発関」(平安中期に大津市の逢坂関に代わる)があり、日本海と畿内への道の間で関所となっていたようです。

古代三関の残りの2つは、美濃国からの侵入を遮断する「不破関」、伊勢国方面に設けられた「鈴鹿関」となり、東国からの侵入を防いだり、謀反者の東国への逃走を防ぐ役割を果たしていたという。
七里半街道の疋田には巨石を御神体として祀る「大岩大権現」があるといいますので、七里半街道(国道161号線)を北へ向かうことにしました。



疋田集落は村の中央に川舟運送のために作られた「敦賀運河(疋田舟川)跡」が流れる古くからの集落ですが、どこから山へ入っていっていいか分からない。
地元の方に道を聞き、舗装された細い山道を登っていった先には、大岩大権現を示す看板が掲げられていました。
朱に塗られた橋を渡ると、橋の下に流れる笙の川の清流が眺められる。



鳥居の奥には驚くほど大きな巨石が祀られているが、この神社には巨石以外には祠も何もなく、御神体の巨石だけが信仰の対象になっています。
また、山の中腹にありながらも綺麗に下草が刈られていることから、地元の方の信仰の篤さが伺われます。



現地案内板によると、慶応2年5月15日、夕方から激しい雨が降り続き、翌朝には山が鳴り出し土石流が流れ出した。
村人は逃げ出そうとするものの、村の上下におびただしい大石や大木が流れ出て、大川は大洪水となっていて逃げ出すことができず、人々はそこかしこにかがみこみ、泣き叫ぶばかりだったという。

同日の昼時分になって晴天になってきたので、山に登り様子を見にいったところ、大岩が現れ出て、この大岩が村を直撃する大石や大木を堰き止めたり、水を左右に分けたりして、村人の命を守っていたことが分かった。
村人は感謝して氏神に「おみくじ」でお伺いを立てたところ、山王権現のお力によって救われたと告げられた。と伝わります。



山王権現は、日吉大社の祭神であり、山岳宗教と神道・天台宗が融合した神仏習合の神とされています。
「大岩大権現」の由来は1866年の災害とされていますが、明治維新による神仏分離・廃仏毀釈が2年後の1868年ですので、「大権現」と名乗り続けられたのは謎になります。
もしかするとこの大岩は、遥か昔からの信仰の対象だったのではないかと考えた方が正解かもしれません。



大岩の裏側に回り込んでみると、別の岩に支えられる形で隙間が出来ており、鳥居が置かれています。
この岩の隙間は、闇の空間ともいえ、足が竦むような場所でもあります。



恐る恐る大岩の下の空間を除いてみると、中にももう一つの鳥居が祀られている。
そして大岩の向こうからは一筋の光。



境内には御神体の巨石の他にもう一つの大岩があり、こちらの大岩にも水が供えられてお祀りをされているようです。
岩や巨樹あるいは山に対する信仰は、日本人の共通のDNAだったのかもしれません。



疋田集落には「黒龍と白龍の伝説」という大蛇と人間の娘との悲恋伝説が残るといい、大蛇に恋した娘が祈ったとされるのが「大岩大権現」だったという伝説があります。
この伝説は、平安末期~鎌倉時代の話ともされていますので、その頃から「大岩大権現」が存在していたことが伺われる伝説です。


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『79億の他人――この星に住む、すべての「わたし』へ②~近江八幡市まちや倶楽部~

2021-11-13 16:39:39 | アート・ライブ・読書
 ボーダレス・アートミュージアムNOMA美術館の秋の企画展は『79億の他人――この星に住む、すべての「わたし』をテーマにNOMA美術館と「まちや倶楽部」の二カ所での開催となっています。
多様性とコミニュケーションを主題として取り上げた美術展は、「NOMA美術館」では多様性を、「まちや倶楽部」ではコミュニケーション困難な方とのコミニュケーションの可能性を感じるものでした。



会場となった「まちや倶楽部」は、レトロな建物の横丁のような場所に垢ぬけたお店が並んでおり、奥が会場となっていました。
一見、ウナギの寝床のような辻には滋賀県らしからぬといっては失礼かもしれませんが、小さいながらもお洒落な店舗が並びます。



奥へと進むと広い部屋が続いているので、その広さに驚きますが、聞いてみると江戸時代からの造り酒屋の内装を変えたものだそうで、店が入りだしたのはこの2~3年くらいとのこと。
商家を改造したNOMA美術館も魅力がありますが、造り酒屋を改修した「まちや倶楽部」での美術展も雰囲気たっぷりの会場です。



大きなタンクは発酵させたお酒を入れるタンクでしょうか。
銘板には昭和の日付がありましたので、近年まで酒屋をやっておられたのかもしれません。



入ってすぐのエントランスに置かれているモニターからは、五十嵐英之さんと倉地雅徳さんが絵を描いている光景が映し出されています。
美術家の倉地さんは、特別支援学校で教員を務め、意思疎通の難しい自閉症の五十嵐さんと出会い「相互描画法」という方法でコミニュケーションを取るようになったといいます。



きっかけとなる絵を五十嵐さんが描き、しれを見た倉地さんが選んだ紙に自分の絵として完成させ、それに反応して五十嵐さんが描いていくという。
二人のセッションは29年目を迎えているといい、セッションから生まれた絵は5000枚を優に超えるとされ、相互に絵を描くという行為のコミニュケーションの記録といえます。



「重症心身障がい者通所施設えがお」からは、肢体不自由と知的障がいによって意思疎通が困難な方との創作活動の様子が動画と作品で展示されています。
絵の具を塗った手で布を掴んだりして色付けされた作品は、無作為に掴んだだけでありながら、アブストラクト作品のような作品になっています。





えがおの作品の中にはTシャツを着た支援者に絵の具を塗った手で抱き着いて造られた作品もあります。
コンクリート壁に囲まれたレトロな建物の高い天井に、色付けられたTシャツが吊るされている光景は何とも言えない味わいがあります。



建物の一番奥にある槽蔵では佐々木卓也さんの女性をモチーフにした粘土作品が並びます。
プリミティブな印象を受ける粘土の女性は皆、真っすぐに伸ばした右腕の肘の内側を左手で触れるポーズをしています。
彼にとって右ひじの内側は“心の安らぐ大切な場所”というのは彼の母親の言葉として紹介されています。



また、粘土作品として造られた女性はすべて実在の女性で、モデルにした女性の名前がつけられているとあります。
本やテレビを含めて自分の見知る誰か(女性)に自分の好むこのポーズを取らせたうえで再現しているという架空のコミニュケーションが交わされているようです。


《ゆみちゃん》

藤本正人さんは、カセットテープのケースに20cmほどの長さの刺し子糸を輪ゴムで留めた「振り子」をつまみ持ち、くるくると回る様子を眺めながら1日を過ごし、そんな生活を40年に亘って続けられてきたといいます。
「振り子」を分解して、福祉施設に来られる方に手渡し、組み立てられて戻ってくると再度分解して、また誰かに渡して組み立ててもらうというルーチンを繰り返されるそうです。
唯々回る「振り子」を眺める日常の中で、分解して他者に渡すのは、他社とのコミニュケーションの回路でもあるという。





会場の入口には「みんなの“鑑賞”」というコーナーがあり、体験が出来るようになっています。
視覚障害の方の体験は、目を閉じて佐々木卓也さんの粘土作品《あやちゃん》を触って体験できます。
最初に目で確認してしまっているので触っても形が把握できましたが、見えてなかったら何かよく分からなかったと思います。



もう一つ紹介すると、野原健司さんの立体感のある絵画を、高さを変えて一番見やすい高さに変えてみる体験です。
後ろにあるチェーンブロックを巻いて高さを変えていく試みは「絵の高さが変えられる壁」とタイトルがついていて、鑑賞方法を自分で選べるようになっています。



ボーダレス・アートミュージアムNOMA美術館は、アールブリュット作品のみにとどまらず一つのテーマの元にボーダレスに作家を紹介してくれるので毎回楽しみにしています。
また作品以外にも近江八幡の近江商人が住んだ街並みや町家を利用した展示会場、今回のように歴史ある造り酒屋での展示や屋外での展示など、伝統的な町にアートが融け合ったような魅力があります。


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『79億の他人――この星に住む、すべての「わたし」へ』①~ボーダレス・アートミュージアムNOMA~

2021-11-11 07:07:07 | アート・ライブ・読書
 近江八幡市のボーダレス・アートミュージアムNOMAでは秋の企画展として『79億の他人――この星に住む、すべての「わたし」へ』展が2つの会場で開催されています。
世界で79億人いるという違いを持った他人が、いかに多様であるか、いかにコミュニケーションするかという問いにさらされていると案内文に書かれています。

例えば身近な職場環境でも「多様性(ダイバーシティ)」や「コミニュケーション」という言葉がよく語られるようになっていますが、ネガティブな要素の強い環境下では定着したとしても遥か未來の事のように思えます。
今回の企画展では自己と他所の差異が分断や排除につながっていくとの考えの元、13組のアーティストによる表現で多様性とコミニュケーションを考える機会となる美術展です。



写真家・北野謙さんは数十人の人物写真を多重露光させて、多人数の他人を一人の人物として表現されたり、クロモジェニックプリントという技法を使った写真が展示されていました。
《our fece》というシリーズでは、海外や日本の各地で20数名から60人までの人物を重ねた写真となっていて、それぞれの人が融合して存在しない新しい人物を創造しているような写真でした。



最初の写真は「カシュガル旧市街の子供34人を重ねた肖像(中国 新疆ウイグル自治区)」。
北野さんの写真を通じて感じられるのは、多重露光された肖像写真であるにも関わらず、顔に合成感がなく実在する人物の顔のように見えること。



「多良見町立琴海中学校の生徒(女子)60人を重ねた写真(長崎県 多良見町 校庭)」。
中心にいる人を撮った写真ながら、後ろに人がいる写真も何枚か混じっているのでしょう。淡く写る人の顔が印象に残ります。



「岸和田だんじり祭 並松町の人60人を重ねた肖像(岸和田市 並松町)」。
シャーマンかと見誤るような写真ですが、祭りとあって60人もの人の多重露光であったも顔がにこやかに笑っています。



《Unseen Portrait》という作品ではガラスに写真乳剤でプリントした肖像を前に置き、後ろにはすりガラスや昔懐かしい型板ガラスを置いて、多重露光のような効果を狙ったものかと思います。
人が持つと思っている他者との差異は、実はぼんやりとした不明瞭なものかもしれませんね。



金仁淑さんの映像作品は、自身の結婚式を撮ったドキュメンタリー作品で日本・韓国・北朝鮮の文化や儀式を取り入れた結婚式や披露宴の様子が映し出されています。
それぞれ住む国によって思考や文化が違うのですが、披露宴などは3つの国に分かれて暮らしてはいるものの、通じ合う姿は日本の披露宴と同じような盛り上がり方なのに驚きます。



𡈽方ゑいさんは、2018年の「GIRLS 毎日を絵にした少女たち」にも登場された作家さんです。
82 歳になってから絵を描き始めたというゑいさんの絵は、生きた時代の思い出を奔放に明るく描かれています。
今回は孫でイラストレーターのヒジカタクミさんとのコラボで登場です。



大東亜戦争で火の海となった名古屋から子供2人と御主人とで大八車に荷物を乗せて逃げていく記憶をたどった絵。
乳母車を押している人や杖をついている人、防空頭巾をかぶって歩く人などが描かれています。



「山の中のトラの親子」は“ゑいとクミ”のコラボレーション。
トラの夫婦に子供が5匹。ネコと宇宙人みたいなネコの姿も見えますね。



蔵の中での展示は八幡亜樹さんの映像インスタレーションで、ミクロネシア連邦のピンゲラップ環礁にあるピンゲラップ島民の生活をドキュメンタリーのように映し出します。
生活はカーレックによる漁業が中心とのことですが、この島の島民は高確率でモノクロームでしか見えない全色盲の人が生まれるのだという。



映像は、映像を見る島民という形式となり、時に言葉が語られる。
エンディングでの語りでは、ピンゲラップ島から出ていく人が多いのを嘆く言葉が続く。
“出て行った島民たちが恋しいわ”



“もう誰も住もうとしなくなるだろう”



“ピンゲラップ島は近い将来なくなると思う”



蔵の中には誰も来なかったので23分の映像を床に座り込んで見ていました。
「NOMA会場」では多様性を伝える表現が多かったと思いますが、「まちや倶楽部」会場ではコミュニケーション困難な方とのコミュニケーションの可能性へと展開されていきます。...続く。


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「三輪神社阿弥陀堂」と「石田神社」~長浜市谷口町~

2021-11-07 12:52:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 奥山へと向かう林道を進んだ先にある神社へ参拝してみると、人影は見えず誰も来ていないにも関わらず、神事の準備がされていました。
山の中という場所の特異さもあって、祭りの最中のような光景には狐に化かされたような不思議な感覚と、すでに祭りが始まっているかのようなハレの空間に驚くばかりでした。

長浜市谷口町は、金糞岳や伊吹山などが連なる伊吹山系の麓にあり、西側には浅井三代で知られた小谷山を望む小さな盆地にあります。
徳川時代には谷口集落は天領であり、木材の伐採が厳しく制限されていて必要な分だけしか伐採が許されなかったことにより、良質の大径木の山だったといいます。



山に挟まれた縦に長い集落の外れまでくると、おそらくは林業関係の人しか通らないようなスギ林の道を進むことになる。
この辺りはツキノワグマが出没しても不思議ではない場所で、「クマ剥ぎ」の被害もあるということですから、車を降りてから大丈夫かなぁとやや不安な気持ちを持ちつつも林道を進む。



ただ、林道の両脇には川柳なども書かれた手作りの行燈が吊るされており、ひとけはないものの人間の出入りが感じられてほっとした気分になる。
林道を進んでいくと「三輪神社」の石標が見えてきて、奥に鳥居のある場所に到着したが、山の中にあって手作りの行燈や提灯が吊るされている光景は不思議な世界に紛れ込んだ感覚さえ憶える。



神社の周辺の山には手入れの行き届いたスギが林立しています。
江戸時代から続く「谷口杉」は、私有林147ヘクタールに約30万本のスギが植えられているといい、樹齢300年を超える巨木が10本程度あるとされます。
スギが伐採されることはほとんどなくなっているとされますが、枝打ちなどはしっかり行われているようです。



スギ林の山から流れ出る清らかな川に架かる橋を渡って鳥居へと進みますが、この位置から見るだけでも雰囲気のある美しい神社であることが実感できる。
石段にも行燈が吊るされ、石段の上の境内地には光が差し込んで聖地に来た感が強まります。



鳥居の下には苔が覆いつくしていますが、参拝道は綺麗に下草が刈られており、地元の方の手がよく入っていることが分かります。
湖北の山麓の神社には独特のオーラを感じる神社が多々ありますが、「三輪神社」も神聖で不浄なものを寄せ付けないような神社だと感じます。



境内へ入って驚くのは、社の立派さと何個も置かれた御神燈のある種の異様な光景でした。
陽が沈んだ後に、行燈に火が灯されてぼんやりとした光が輝く様子を想像すると、まるで祖霊が帰ってきたような雰囲気になるのではないでしょうか。



行燈が吊るされているのは何かの神事が行われるのだと分かったのは、入口に御神酒の一升瓶がおいてあり、神コップが準備されていたからでした。
さすがに御神酒は頂きませんでしたが、横にはかがり火も準備されていましたので、日暮れには何かのお祭りが始まるのでしょう。



近くには太鼓型の鐘も準備されていて、祭りが始まったら何度もこの鐘を鳴らすのかもしれません。
いずれにしても山の中で行われるこの祭りが始まる前の時間を一人で過ごすのは表現しようのない昂揚感を感じます。



境内には御神木があり、長浜市の保存樹指定樹木標識によると、このスギは幹周5m・樹高40mで樹齢が500年とされているスギです。
4本の内のどのスギを指しているのか不明ですが、中央の2本は同じくらいのサイズのスギかと思われ、この4本の御神木は集落の方向を向いているように思います。



「三輪神社」は大和の大神神社を勧請して奉斎したのが始まりとされており、当初は村の北一里の寺山の頂上に鎮座していたとされます。
小谷城築城の後、この寺山が艮の方にあたるため鬼門鎮護の神として浅井家の尊敬が篤かったともされており、現在地に移遷されたのは明治24年のことだといいます。

三輪山を神として祀る大神神社に習い、山への原始信仰の強かった地ともいえるこの神社は、参拝してみると神仏習合そのものの神社でもありました。
御祭神に三輪大神を祀りつつも、神社の本殿より「薬師如来堂(仮名)」や「阿弥陀堂」の方が大きな建物となっています。
現地に神社が移遷されたのが明治の中期ですから、神仏分離のほとぼりの冷めた頃に合祀したのかと思われます。



この日は祭事の特別な日らしかったこともあって、二カ所ある玉垣が開かれ本殿の扉までもが開かれていました。
急に思いついて参拝したにも関わらず、特別なハレの日に参拝出来たのは何か導かれるものがあったのかと思いたくなります。



「三輪神社阿弥陀堂」とも呼ばれるこの神社では、「薬師如来坐像」を祀る千鳥軒唐破風付の御堂が最も凝った造りになっています。
山の中にこのような立派な神社があるのは驚きと共に畏怖感を感じざるを得ません。



御堂の中には「薬師如来坐像」が祀られています。
新型コロナウイルス感染症の発生により仏像拝観の機会が激減していた中、山の神社で仏像を拝観出来たのはまさか!と驚く奇跡のような縁でした。



右側に祀られている「阿弥陀堂」も流造の見事な社殿です。
「三輪神社」が移遷された時に建てられたとしたら、築130年の建造物になります。
木材は古色感がありますが、屋根などは定期的に葺き替えてこられたのでしょう。



阿弥陀如来坐像は煤で黒ずんではいますが、お顔は柔和そのものの表情に見えます。
蓮の華の上に座られていて、湯呑も蓮の華の柄の器がお供えされています。



ところで、この林道の途中には「石田神社」という小さな祠が祀られています。
「石田神社」は、関ケ原の合戦で敗れた石田三成が伊吹山の尾根を北上して、吉槻などの東草野谷に逃れ、七曲峠を越えてこの地(谷口)に辿り着いたと伝わります。
当時、ここには谷口六十戸余りの集落があり、庄屋の石田家の床下に手厚く匿われ、その後山中を北へ向かったが、古橋村で捕縛され、最後は六条河原で斬首されたとされます。

光成は匿ってくれたお礼として、刀や石田の姓、鳩八の家紋を与えたといいますが、石田神社では今も新しい石灯籠や石標が奉納されています。
尚、当時の谷口集落は1896年の大洪水によって流出してしまい、現在の谷口町に居を移しているということです。




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摺針峠(磨針峠)の空海縁の地~中山道 鳥居本宿から番場宿~

2021-11-04 07:20:21 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 江戸時代には五街道と呼ばれる大きな街道が発達し、近江国では美濃国に通じる「中山道」、伊勢国へ通じる「東海道」が通り、それぞれ江戸と京都を結んでいました。
近江国には南北に走る「北国街道」があり、越前国で北陸道通じていることから、江戸時代から国と国を結ぶ街道が縦横に張めぐされていたことになります。

北国街道は、湖北地方を通って福井県今庄方面へ向かう街道ですが、中山道の鳥居本宿(彦根市)を越えた辺りで中山道と分岐して北上しています。
追分の近くには「右 中山道 摺針・番場」「左 北國街道 米原・きの本道」の道標があり、ここが北国街道の起点となっているようです。



追分から中山道へ入ると、「磨針峠 望湖堂」と彫られた石碑があり、横に「弘法大師縁の地」と彫られてあり、中山道・摺針峠(磨針峠)へと向かってみました。
石碑には「明治天皇御聖跡」とも彫られていて、「磨針峠(すりはりとうげ)」という峠の名にも興味がひかれます。



旧の中山道は舗装された生活道になっていますが、国道から分岐した最初の部分は荒れた旧中山道と舗装道が平行しています。
旧中山道の道は草で埋め尽くされたような道となっていて、さすがにこの季節には歩く人もいないような荒れた道です。



舗装道を進んで摺針峠に差し掛かると、峠の最上部に「望湖堂跡」と「摺針神明宮」が見えてきました。
ここは舗装された道と坂道に分岐していて、坂道を登った一段高い場所に神社はあり、かつての旧中山道は神社の前を通っていたとされています。



「摺針神明宮」は霊仙山系の山麓に祀られた神社で、この峠に弘法大師・空海にちなんだ逸話が残されているという。
“諸国を修行して歩いていた青年層が挫折しそうな精神状態の時にこの峠に差し掛かった時、白髪の老婆が石で斧を磨ぐのに出会ったという。”
“青年僧が老婆に聞いてみると、1本しかない大切な針を折ってしまい、斧を磨いて針にするといったといいます。”

青年僧は、神が僧にひたむきに生きる老婆の姿を見せて、修行に打ち込ませようとしたのだと悟り、自分の未熟さを恥じて修行に励んだとされます。
その青年僧が後の弘法大師・空海であったと伝わります。



その後、再び摺針峠(磨針峠)を訪れた空海は、摺針神明宮に栃餅を供えて、杉の若木を植えて歌を詠んだと伝わります。
「道はなほ学ぶることの難(かた)からむ 斧を針とせし人もこそあれ」



本堂に通じる石段の横には、弘法大師お手植え杉跡の石碑が祀られ、後方には巨大な切り株が残されています。
弘法大師お手植えと伝えられた「弘法杉」は、幹周8m・樹高40mともされていた巨大杉で、その幹周には驚きを隠せませんが、切り株の大きさからかなりの巨樹だったことが伺われます。
「弘法杉」は残念ながら昭和56年(1981年)の「五六豪雪」と呼ばれる記録的豪雪によって倒壊してしまったという。



本殿はこじんまりとした祠でしたが、後方に広がる山には畏れのような感覚を覚えます。
山麓の神社に参拝すると、ある種の緊張感を感じざるを得ません。





さて、この場所にあった「磨針峠 望湖堂」は、かつて磨針峠にあった大きな茶屋だったといい、参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、幕末の和宮降嫁の際にも立ち寄られたといわれます。
建物は本陣構えで、その繁栄ぶりから両隣の宿場の鳥居本宿や番場宿の本陣から奉行宛に連署で、望湖堂に本陣まがいの営業を慎むよう訴えられたとか。
望湖堂は1991年の失火により、参勤交代や朝鮮通信使の資料とともに失われてしまったようで、弘法杉とともに失われた歴史となってしまいました。



浮世絵師・歌川広重は中山道の69の宿場を描いた「木曽海道六十九次」の中で鳥居本を描いていますが、実際に絵のモチーフとして描かれているのは磨針峠から見降ろした風景です。
遠くに琵琶湖を眺めながら、望湖堂で景色を眺めながらくつろいでいる人たちの姿があります。
角度は違いますが、江戸時代の人が眺めた景色を味わってみます。



広重の絵には琵琶湖の前に内湖が見えていますが、これはかつてここに内湖があったということでしょう。
戦前の琵琶湖周辺には40数か所の内湖があったといい、戦中・戦後に食料増産のため干拓事業が行われたため、内湖の多数は干拓または規模縮小されたといいます。
広重の絵は、もう見ることの出来ない風景を描いているということになります。



磨針峠を東側に下ると見えてくるのは「磨針一里塚跡」の石碑。
道の両端は空き地になっているが、もう一里塚があった痕跡は見られません。



中山道を進むと分岐があり、右に行くと鳥居本宿方面で、左に行くと番場宿方面。
どちらへ行ってもよかったのですが、番場宿を抜けて国道8号線へ戻る道へ進む。



名神高速に沿った中山道を進んで行くと、小摺針峠へ入る前に「泰平水」という湧き水とお地蔵さんの祠がありました。
水量はあまり豊富ではありませんでしたが、中山道を行く旅人たちの喉を潤したり、地蔵さんに手を合わせて旅の安堵を祈られたことでしょう。



番場宿の一角にはお地蔵さんに見立てた石が2躰祀られていて、お花が供えられています。
後方の木の下にはもう花期を終えようとしているはずの彼岸花が咲き残っていました。




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