僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

ジョウビタキとシロハラをパチリ!

2023-01-29 15:22:22 | 野鳥
 冬になると雪のあまり降らない温暖な地域に住んでいる方から“雪は大丈夫か?”と連絡が入ります。
しかし、身の回りではこの寒波で道路に雪で真っ白になっていたのは半日ちょっとで、この冬はあっけないほど雪が少ない。
雪本番の2月はまだとはいえ、大雪に埋もれていた昨冬の大雪のことを思えば楽に過ごせる冬が続いています。

久しぶりに晴れ間の出た休日でしたので野鳥を見に行こうと北へ向かうと、進めば進むほど空が鉛色になり小雪が舞ってくる。
これは湖北地方の御馴染みの気候ではありますが、少し晴れ間が出てきた時に姿を見せてくれた野鳥を撮ってみました。
まずはジョウビタキをパチリ!



ジョウビタキは警戒心が他の小鳥に比べて若干薄いので撮りやすく、特にこの場所で冬を過ごすジョウビタキはあまり人を怖れません。
カメラのファインダーを覗いているので手を伸ばせば届きそうに錯覚することもありますが、ジョウビタキは人との最低限の距離を保ちながらエサを探しています。



冬の小鳥の中ではもっとも人と近い場所で暮らす野鳥で、オレンジ・黒・グレー・白の模様が綺麗な小鳥だと思います。
民家の植え込みなどでも見かけることがあり、以前はお隣さんの庭によく遊びにきていました。



今朝はシロハラにも5~6羽出会いましたが、今年はツグミの仲間が来るのは少し遅かったようです。
ガサゴソと落ち葉をひっくり返してエサ探しに夢中でしたので、陽の当たる所に出てくる時を狙ってパチリ!



降雪量が地面に降りてエサ取りする野鳥にはちょうど良い加減でしたので、他の小鳥の出に期待しましたが、出たのはツグミ・モズ・ヒヨドリだけでした。
ライファーの鳥とか思わず感動してしまうような野鳥との出会いが最近ないので、そろそろあっ!と驚くような感動の出会いに期待したいところです。



ツグミも見かける機会が多くなってきたように思いますが、近年は普通のツグミしか会っておりません。
珍種のツグミはともかくとしてハチジョウツグミとかには久しぶりに会いたいですね。





ついでにモズもパチリ!
モズも冬場になってから見かけることが多くなった鳥です。



渓流で見かけることはあっても琵琶湖近くの平地ではあまり見かけないキセキレイが足早に通り過ぎていきました。
速足で動くのでレンズで追いかけるのが大変です。まぁその瞬間が楽しいのですけどね。



お腹の色が淡い黄色なので、こいつは幼鳥なのかと思いますが、定住しているのか移動してきたのか。
付近にはセグロセキレイとハクセキレイの姿がありましたので、セキレイ3種が近い場所で暮らしているようです。



水辺にミコアイサの♂が見えましたので、撮れそうな位置まで移動中にどんどんと遠くへ離れてしまい証拠写真にもならず。
シーズン中にリベンジしておきたい水鳥です。



ミコアイサを探している時にイカルの小グループがいましたので撮ってみましたが、枝にピントを持っていかれました。
顔はいかついけど声は綺麗な鳥で、声が聞こえてくると聞き惚れてしまう鳥です。



冬の野鳥シーズンは2月も続きます。
3月に入るとウグイスの初鳴きが聞こえてきたりして、野鳥は北帰してしまったり、山へ帰ったりして移動が始まってしまいます。
残された期間でいい出会いに期待したいですね。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東近江市八日市の勧請縄1~五智町の勧請縄~

2023-01-27 06:06:06 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 3年ほど前に巨樹を探して滋賀県内を巡っていた頃に湖東の神社で「勧請縄」を見て以来、県内あちこちの勧請縄を見て回っています。
最初は行き当たりばったりでそれらしい集落を巡っていましたが、西村泰郎さんの「勧請縄-個性豊かな村境の魔よけ-」という本に出会い道案内のように利用させて頂いています。

本では161もの勧請縄が紹介されていますが、本が出版されたのは2013年と10年も前のことであり、中絶してしまった集落や吊るされた場所に行きあたらないことも多い。
東近江市の旧八日市エリアを巡ってみましたが、予定の半分少々しか出会えなかったのには中絶された・吊るす時期がまだだった・コロナ渦で見送っているなどの理由があるのかと思います。



五智町の勧請縄は、愛知川岸の森の中にある竹林の間を抜けていくような寂しい道を進み、「国寶五智如来」の石碑の前に勧請縄がありました。
集落の反対側の竹林から集落の入口に着いたことになり、勧請縄の吊るされた場所の先に集落があった。
五智町の勧請縄はまさに村の出入口から悪霊や疫病が入ってこないように張られた結界になります。



勧請縄は折り返してねじられた主縄の上に小幣が3本挿し込まれ、下には12本の小縄の束が吊るされている。
中心部には丸に十のトリクグラズにソヨゴの枝葉を丸い形で巻き付けた形状となっています。



トリクグラズは集落によってそれぞれ形が異なり、弓や角・蛇・月や日・セーマンを模したものや祈祷札が貼られたものなどがあります。
五智町北口の勧請縄のトリクグラズは丸に十と形状としてはオーソドックスなものですが、迫力を感じます。
薄暗く寂寥感のある場所に吊るされた勧請縄は、道の先が不気味な細い道となっていることもあって場の雰囲気に怖さや神秘性を感じてしまいます。



勧請縄の下の石積みには護符とかわらけ皿・小幣が祀られており、この護符は集落内にある興福寺の祈祷札だといいます。
興福寺は臨済宗永源寺派の寺院で平安期の「木造大日如来坐像」を本尊とし、同じく平安期の「木造聖観世音菩薩立像」とともに国の重要文化財に指定されているという。

大日・薬師・宝生・釈迦・阿弥陀の各如来(平安期)が祀られていることから「五智如来の寺」として地名にもなっており、739年に行基によって開山されたと伝わる。
寺院の前を通りがかると当日は何か寺院の行事が行われていたようで、境内に村の人が集まっておられましたが、ソトの者が入るわけにはいかず通り過ぎる。



五智町の南辻には「五智如来道」の石碑が立てられてあり、五智集落は五智如来を祀る興福寺を中心にした集落のように感じられます。
天平期に開山し、平安期の仏を祀る興福寺は織田信長の兵火で多くの堂宇を失ったとされますが、その後復興して江戸期には井伊家の庇護を受けていたといいます。



五智町では集落の南と北に勧請縄で結界が張られており、北は山側・南は町名の看板がある集落の入口。
勧請縄は北口も南辻も同じ作り方をされており、主縄上に小幣が3本・下に小縄の束が12本・中央にトリクグラズがある。



勧請縄は祠の横に吊るされており、辻向かいには地蔵さんの祠がありますので勧請縄の前の祠は何らかの神さまを祀っているようです。
集落内の興福寺の前に小さな「御霊神社」の祠がありますので、この祠は御霊神社に関係するものなのかもしれません。



勧請縄の下には「蘇民将来子孫繁栄」と書かれた護符と小幣が6本とかわらけ皿に盛られたお米が供えられています。
「蘇民将来」は災厄を払い疫病を除いて福を招く神として民間信仰されているとされ、スサノオとのつながりや陰陽道との関係があるという。



京都の八坂神社の祇園祭の山鉾で授与される「厄除粽(ちまき)」には「蘇民将来子孫也」と記されており、スサノオと蘇民将来のつながりが分かる。
尚、八坂神社は主祭神として素戔嗚尊(スサノオ)を祀っています。

 

勧請縄は裏側から見ても表裏に大きな違いはなく、村の境にある十字路の一角で道切りの役割を果たしているようです。
五智町はさほど大きな集落ではありませんが、山への入口に吊るす勧請縄と田園地帯につながる村の境に吊るす勧請縄によって道切りの魔よけを行っているのでしょう。



勧請縄の下には両面に護符と6本の小幣とかわらけ皿に盛られたお米などが供えられており、村の外側にあたる場所には2枚の祈祷札が供えられています。
片方の祈祷札が倒れてしまっていて、直したかったがよそ者が直すわけにはいかずそのままにしておく。
冒頭に「無位真人面門現」から始まる言葉は、臨済宗の禅語に関わる言葉だと思われます。



旧八日市は勧請縄の盛んに行われている地域だとされますが、既に中断されてしまった集落もあるようで中々見つけられない。
勧請縄の行事があるような古くからの集落は、村中の道が細くて曲がりくねっていて切り返しやバックが必要な道が多く、道を聞こうにも人の姿があまりない。

中小路町の「塞神神社」に勧請縄が吊るされるということでしたが、探せども見つからない。
神社の御神木の横に勧請縄を吊るすための木があったものの、勧請縄はない。
古い勧請縄の形跡もありませんでしたので、ここにはないと確信して次の集落へと向かいます。...続く。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日野町の勧請縄2~「金峰神社の山の神」「北脇の野神」「諸木神社と西明寺の勧請縄」~

2023-01-22 17:52:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 勧請縄は村の境などに吊るして悪霊や疫病が入ってこないように、呪物などを付した縄を張る習慣で滋賀県では湖東・湖南地方に多く見られる民俗信仰です。
勧請縄に一定の決まりはなく、集落ごとに特徴のある勧請縄にトリクグラズと呼ばれる呪物が付けられることが多いのですが、集落によってトリクグラズは様々な形をしています。

勧請縄が吊るされる時期は年末であったり、年が明けてからであったりでバラバラではありますが、日野町の勧請縄はおそらく吊るされたであろうと予想して日野町を訪れました。
最初に「馬見岡綿向神社」へ参拝し、「熊野神社」に参拝した後、道筋に藁の奇妙な飾りを見つけましたので、さっそく立ち寄ってみました。



見妙な藁の飾りが祀られていたのは「山の神」で「金峯神社」という神社の境内にありました。
金峯神社は「蔵王権現」と称し、綿向山西明寺等一山の山伏が大和吉野より勧請したと伝えられているという。
この神社でも綿向山の修験道との関係の濃さを伺い知ることができ、この地における綿向山への信仰の深さが分かります。



綿向山は別称「大嶽」「朝日山」「綿面山」と呼ばれ、野洲川や日野川の水源地であるとともに山岳信仰の霊山とされてきたという。
前回の「馬見岡綿向神社」や「熊野神社」も同じでしたが、綿向山と吉野山(奈良)や熊野(和歌山)の修験道の影響が強く感じられ、綿向山の霊山としての信仰される姿が感じられます。
山の神には藁の輪のようなものが吊るされていますが、どのような由来を持つものか分からず、結界や神域を示すものなのか?お祀りするための何かか?



本殿は石段の上の高い場所にあり、戦国時代に兵火で炎上した際の記述から相当大きな社屋を持っていたと考えられています。
また、明治29年には山崩れにより埋没したとされますが、直ちに復旧現在に到るとされています。



本殿への石段の前には人工的と思われる滝が池につながっており、かつては滝行が行われた清めの場だったのでしょうか。
確かに人ひとりが座するには収まりのいい感じの場所ですが、池の部分にネットが張られていることからすると、鯉でも飼っているのかもしれません。





金峯神社と山の神に参拝した後は「西明寺」という集落の勧請縄を探しに行きます。
西明寺とはいっても湖東三山の西明寺ではなく、綿向山の山麓にある県境最後の山村のような集落で、山麓には綿向山の登山口があります。

西明寺には集落の西と東の境に勧請縄が吊るされるそうですが、発見できたのは谷へとつながる東の勧請縄だけでした。
勧請縄は「道切り」とも呼ばれ、この奥に墓地があるとのことから谷への道を切る意味も含まれていると考えられます。



勧請縄は主縄に小縄を12本吊るし、主縄の上にシキミの木を割った小幣を立てている。
トリクグラズは主縄の上にシキミの枝で小さな輪を作ったものを付けており、このトリクグラズは月を表すといいます。





勧請縄の下には仏の名が書かれた七角形の木が置かれており、毎年新たに作られるが処分はされないようで、かなり朽ちた木もある。
木には十三仏の名が書かれているといい、十三仏とは亡くなった後の初七日から三十三回忌まで導いて下さる仏様ですので、西明寺の勧請縄は仏教色の濃い信仰となっているように思います。



谷への道から戻ると道の脇には湧き水が流れ出ている場所がありました。
車で乗り付けて沢山のペットボトルに水を入れている方がおられましたので、知る人ぞ知る名水なのかと思います。



国道まで戻って北脇という集落を目指すと「諸木神社」の勧請縄が見えてきます。
諸木神社の勧請縄はまだ今年は架け替えておられず、昨年見た勧請縄がそのまま吊るされていました。



主縄は太く、頭は大きく枯れ木に吊るされていることもあって見応えのある勧請縄で、小幣や小縄はありません。
トリクグラズは割竹で丸に十を作り、シキミの枝を掲げますが、ほぼ1年間吊るされたシキミからは葉は落ちて枝だけになっています。



「諸木五社大明神」の扁額のある拝殿には正月らしい注連縄が掛けられており、松の内が明けたら取り外す正月の注連縄と1年間吊るされる勧請縄とは元々違う信仰のものといえます。
藁で編んだ縄と言う意味で勧請縄と注連縄は似ていますが、正月に架けて明ければ取り外す注連縄と正月が終わってから吊るす勧請縄では思想が違うということです。



諸木神社の御祭神は句句廼馳命 金山彦命 罔象女命 迦具土命 埴安彦命の5柱。
後に合祀されて5柱になったのではなく、古くから祭神五座を祀る神社だったようで、仁徳天皇12年草創の古社との記録もあるようです。



日野町の勧請縄の最後は、北脇の道切りと野神さんです。
ここには畦道に道切りが吊るされ、その下にはこんもりとした土盛りの上に竹矢来。

右手の森側には同じく土盛りと竹矢来があり、プリミティブな印象を受ける神標が注連縄で結び付けられています。
一見、山の神のようにも見える土盛りの前には明らかに祭場と思われる場所がある。



道切り(勧請縄)にはトリクグラズも小幣も小縄もないが、村の境界にある道を切るという意味でも勧請縄と言えると思います。
勧請縄を吊るしている木とポールの下には土盛りの上に竹矢来があり、その前には山の神が祀られているかのような男と女を模した股木が祀られている。



勧請縄は頭と尾があり頭の房は大きい。
すぐ近くにある諸木神社の勧請縄とはトリクグラズがあるかないかの違いはあるが、形状は良く似ています。



勧請縄を吊るす木の下には昨年吊るされていたと思われる縄が取り外されて置かれています。
土に炭のようなものが見られますので、ある時期にお焚き上げされるのではないでしょうか。



野神さんの祭場には独特の形をしたヒトガタのようなものが巻き付けてあり、男女の結合のような印象を受けます。
山の神を思わせる股木も祀られていることから、子孫繁栄の願いが伝承されているとも考えられます。



北脇の野神さんでは、御神木の前で子供の奉納相撲が行われるといい、道切り(勧請縄)や野神さん・山の神・注連縄とヒトガタなどいろいろな要素を含んでいます。
言い方を変えると、古くからの信仰の形には複数の要素があり、ここではそれが原型に近い形で残っていると言えるのではないでしょうか。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日野町の勧請縄1~「馬見岡綿向神社」「熊野神社」~

2023-01-17 06:33:03 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 勧請縄は村の境や神社の鳥居や参道に吊るして、村に悪霊や疫病が入って来ないように呪物などを付した縄を張る習慣とされ、道切りとよばれることがあります。
滋賀県では湖東地方や湖南地方にみられますが、湖北地方や湖西地方では稀なものとなり、滋賀県以外では三重県の伊賀地方・京都府南山城・奈良県東部など限られた地域でしか行われないようです。

勧請縄はそれぞれの集落ごとに特徴があり、近い集落では似たようなものがある場合がありますが、基本は集落独自の形となっています。
勧請縄の中心にはトリクグラズという呪物が付けられ、祈祷札や弓、木の葉や枝で造られた円形や四角のもの、セーマンであったり、蛇や角など魔除けの意味の強いものなどがある。



過去2~3年の間、滋賀県の勧請縄を見て回っていましたが、既に止められている村やコロナ渦で見送られている村も多々あり、失われつつある民俗行事になりつつあり、可能な範囲で主に湖東地方を巡っています。
勧請縄は神仏との関わりが感じられますが、野神信仰や山の神信仰に近い部分もあり、ひとつの信仰というよりも民俗的な信仰・行事の意味合いが感じられます。
最初に参拝した「馬見岡綿向神社」では神社の境内の入口に勧請縄が吊るされていました。



勧請縄には「下がり」と呼ばれる12本の小縄が吊るされており、中心部から端にむかって長さが短くなっているのは1年の各月の日の長さを表しているといいます。
主縄の上にも12本の小幣が挿し込まれていて、中央にはトリクグラズが吊るされる。



トリクグラズは2つの円で“日”と“月”を表しているとされます。
「馬見岡綿向神社」は後方の綿向山を神体山として崇める神社であり、月と日・月の長さを表すことは五穀豊穣の祈りが込められているのかもしれません。



勧請縄が吊るされた2本の木の下にはそれぞれ6本づつの小幣が挿し込まれています。
小幣が挿し込まれるのは日野町の勧請縄の特徴だとされますが、これもところによっては祈祷札であったり、十三仏であったりで集落によって様々な特徴があります。



「馬見岡綿向神社」は神武天皇の時代に「綿向山」に出雲国開拓の祖神を祀り、545年欽明天皇の時代に綿向山の山頂に祠を建てたのが始まりとされます。
平安時代の796年になると里宮として現在の地に祀られたといい、御祀神に天穂日命・天夷鳥命・武三熊大人命の3柱を祀る。

綿向山山頂(標高1110m)に祀る奥之宮(大嵩神社)は、古来より21年目ごとに社殿を建て替える式年遷宮が現在も絶えることなく続けられているといいます。
馬見岡綿向神社には境内入口に鳥居はなく、社殿が並ぶところに銅鳥居があるのですが、境内は広く社殿も重厚なまでの立派な造りとなっています。



当地は鎌倉期から安土桃山時代に蒲生氏の領地で、蒲生氏が氏神として庇護したことや、江戸時代に日野商人(近江商人)の財力などで支えられたことが繁栄につながっているようです。
手水には柚子と鬼柚子(獅子柚子)が浮かべられており、少し珍しくも季節感を感じることができる手水となっています。



拝殿は1803年の再建とされ、本殿とともに重厚さを感じる建物となっており、今年の干支の卯の大絵馬が吊るされています。
正月や松の内に神社に参拝すると各神社独特の大絵馬を見ることができるのも参拝の楽しみになります。



本殿は創建が796年、再建が1707年とされていて、銅板葺きの屋根は昭和58年までは檜皮葺きだったそうです。
千鳥破風と唐破風が3層になっているように見えるので重厚感を感じるのだと思います。(滋賀県有形文化財)



欽明天皇の時代に綿向山に2人の豪族が猟に来ていた時、大雪の中で大きな猪の足跡を見つけて頂上まで行くと、白髪の老人(綿向山の神)から御託宣を受け祠を建てたという。
以降、馬見岡綿向神社では神使として「猪」をお祀りされており、平成31年には亥年にのみに奉製授与される「猪の焼き印入り絵馬」授与されました。



境内を歩いているとジョウビタキの♂がひょっこりと現れてくれました。
付近の森にはシロハラやシジュウカラ・コゲラ・ヤマガラなどの姿があり、しばらく参拝から野鳥観察に切り替えて周辺を歩いてみました。



日野町で次に訪れた勧請縄のある神社は「熊野神社」ですが、熊野は滋賀県の端っこに位置する集落になり、綿向山の山麓になり、鳥居や本殿の後方には綿向山の峰が聳え立ちます。
「熊野神社」は平安末期の鳥羽天皇の時代に紀伊国熊野三所の大神を勧請して創建されたと社殿に伝わり、神体山である綿向山が修験道の拠点であったことから紀伊の熊野と関わりがあるようです。



怖ろしいほど静まり返った山村に祀られる神社の鳥居には勧請縄が吊るされ、トリクグラズを除けば馬見岡綿向神社の勧請縄と同じような形式となっている。
勧請縄には集落ごとの独特の形式を持つものが多いが、近隣地域特有の似たような形式のものもあり、その地域のつながりを感じ取れるのも面白いと思います。



トリクグラズはサカキの枝を束ねずに丸を作って主縄の上に立てる形状のもので、日輪(太陽)を表しているという。
方角的には太陽は綿向山の方から登ると考えられますので、まさに日が昇る神体山をお祀りする神社ということがいえるのかと思います。



小幣は鳥居の左右の木の切り株に12本づつ挿し込まれており、6本づつ挿し込まれた馬見岡綿向神社とは違いが見られます。
鳥居の横もそうですが、境内を本殿まで行く間に巨樹や伐られた巨樹の切り株などが見られて、神社の歴史の深さとありのままに近い姿が残された神社だと感じ入ります。





神社の手前の道は「弓取りの神事」の場でもあり、「おろち塚」と呼ばれる塚の場所に的を吊るして矢を入る神事があるのだといいます。
その真横には「熊野神社のタコ杉」と呼ばれるタコを逆さにしたような巨樹があり、幹周7.2m樹高20m推定樹齢400年とされますが、形状はこの地の積雪の厳しさを物語っているのかもしれません。



「熊野神社」には過去にも参拝したことがありますが、鳥居には勧請縄・鳥居前には珍妙な形の巨樹・後方に見えるは綿向山の峰・境内には山の神や野神の碑もあります。
山岳信仰や修験道・神道に民俗信仰の色合いが色濃く残り、古い時代からの信仰の名残りが感じられる集落です。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長浜豊国神社の十日戎~「長浜開町450年記念 復活58年祭」~

2023-01-10 12:22:22 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 長浜豊国神社は、「豊国大明神」こと豊臣秀吉をお祀りする神社で、長浜城主であった秀吉の3回忌にあたる1600年に秀吉の遺徳を偲んで建立されたと伝わります。
しかし、江戸時代になると幕府の命により秀吉を祀ることが禁止され、恵比須神(事代主)を祀る神社として再興して本殿の奥で密かに秀吉を祀り続けたという。

豊国神社は江戸時代には「蛭子神社」と呼ばれ、恵比須神(事代主)を祀ることから「十日戎」が開催されてきており、かつて商店街では「えびす講」と称する大売出しが行われて大変な盛況ぶりだったといいます。
長浜の開町は、秀吉が長浜城主となった1573年とされており、今年が450年となることから長浜十日戎は「長浜開町450年記念 復活58年祭」と銘打ち開催されています。



長浜は、秀吉によって長浜の町を年貢300石の朱印地(免税地)に定められ、江戸時代に彦根藩となった後も継続されたこともあって太閤秀吉に対する信仰が残ります。
「長浜曳山祭り」は秀吉が男子出生を祝って町民に砂金を振る舞い、それをもとに曳山を造ったことが始まりとされており、徳川四天王の井伊家が治める彦根藩にあって独自のお祭りが続けられてきています。



「十日戎」へは宵戎に参拝しましたが、例年なら長浜駅に来ると聞こえるお囃子の音が全く聞こえてきません。
何か寂しい感じだなぁと思いつつ神社へ入ると、甘酒の接待や福餅まきが行われており、境内はにぎやかで本殿にお参りすると参拝している間中、横で福娘が神楽鈴を鳴らしてくれます。





境内の真ん中あたりではお焚き上げをされていて宵戎から古札や福笹を納めにきた人が多かったことが伺われます。
夜間は消火されると思いますが、残戎の終わる夕刻まで燃やされる火です。



十日戎は商売繁盛を祈願する祭礼行事ですから、商売をされている方々から奉納された提灯もところ狭しと吊るされています。
みなさん景気回復を祈念して奉納されていると思われ、当方も本殿で神さまにお願いしましたが、なかなか懐は暖かくなりそうな気配はないですね。



「稲荷社」の朱の鳥居も数が増えたのでしょうか?
拝殿まで鳥居がずら~と続いています。



いろ種類の福笹が売られていますが、購入は見送って豪華な福笹を眺めるだけで帰ります。
いったい値段はおいくらなのでしょうと気になるものの、買う気もないのに値段を聞くにも聞けずです。



ところで人の気配は多いのに参拝している人が少ないのはなぜか。それは皆さん福餅まきの場所取りに集まっているからです。
福餅まきは「散餅の儀」という神事に基づくとされていますが、餅がたくさん落ちてくる密集場所などでは押されて泣く子供もいるくらいの混乱ぶり。



長浜では新春の風物詩「長浜盆梅展」、春には長浜開町450年を祝って13基全ての曳山が揃う「曳山勢揃(ぞろ)い」が行われるようです。
春らしいといえば春らしい行事が続きますが、今年は平地では全く雪が降っておりませんのでいまいち新春の気分にはなりませんね。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2023年の初詣は「太郎坊宮(阿賀神社)」~太郎坊天狗が守る宮~

2023-01-04 17:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「太郎坊宮」は正式名称を「阿賀神社」といい、巨岩を磐座とする神道・天台山岳仏教・修験道が混じり合った信仰形態の神社になります。
本殿は太郎坊山(赤神山)の中腹にあり、後方の山は箕作山・小脇山・岩戸山などのピークが連なる神宿る信仰の山とされており、近年何度も訪れている霊山です。

湖東の近江盆地に点在する山々は「湖東流紋岩」と呼ばれ、石灰岩などと比べると硬く緻密で風化に強いため、周辺の山々を歩くと巨石やゴロゴロとした岩場に出会うことが多い。
巨石の点在する山々が古代から信仰を集めてきたパワースポットを代表するような神社「太郎坊宮」を2023年の初詣の神社と決めて参拝へ向かいました。



太郎坊宮(阿賀神社)へは電車なら近江鉄道の「太郎坊宮前駅」から行けますが、車で行くと「一之鳥居」は車で抜けて、駐車した後「二之鳥居」の前から歩きだします。
後方に見える赤神山の上方の岩が剥き出しになっている場所が「夫婦岩」でその横に本殿があり、訪れる度に新鮮な気持ちになります。
東近江市の名物「飛び出し坊や」が複数立てられた参道を進むと、天台宗「成願寺」への石段へと続きます。



「成願寺」の山号は赤神山で、799年に最澄が「阿賀神社」の神宮寺として建立したとされます。
成願寺は戦国時代に戦火により炎上したものの、江戸期に本堂と鐘楼が再建されますが、成願寺と村人との間で入会地を巡る争いが起こり阿賀神社と成願寺は分離される。
1753年には成願寺は「太郎坊大権現」を名乗り、阿賀神社は「太郎坊宮」と称されるようになったといいます。



数年前に成願寺の堂内に入らせてもらったことがありましたが、御前立の薬師如来像・十二神将像・閻魔像・二天像が祀られていて見事な仏像群に圧倒された記憶があります。
滋賀県は浄土真宗が盛んな地ですが、現存する天台宗寺院や観音堂の仏像はやはり見応えのあるものが多いと思います。



太郎坊宮へは約740段余りの石段を登らないといけませんので、石段登りに慣れていない人だとやや苦行になるかもしれません。
元旦にも関わらず、石段の最初の方は随分と空いているなぁと感じて今年は参拝者が少ないのかと錯覚してしまいましたが、これは最初の石段だけでした。



石段の途中には玉垣に囲まれた中に「不上石」という石があり、この石は旧石段のひとつで明治初年頃までは“参拝当日に魚鳥肉類を食べた者はこの石より上には登らず、ここで拝礼した”という。
石面は自然に魚の形をしているとあり、言われてみれば魚のようにも見えます。



参集殿が近くなって石垣が見えてくると、石段で大渋滞が始まります。
参集殿の近くで石段から登ってきた人と中腹駐車場から来た人が合流し、尚且つ「夫婦岩」が近くなると石段一段に4人ほど登れたのが一人しか通れなくなる。
また夫婦岩を抜けた所にある「本殿」が一組ごとにしか参拝出来ないこともあって滞った列は中々進まない。



途中の石段の横には「竜神舎御霊水」の手水舎があり、ゴツゴツとした岩の窪みのようなところにある手水で身を清めます。
この竜神舎の横の道はハイキング道になっており「赤神山北峰」や「太郎坊山」「箕作山」方面への登山口になっていて、歩いたら岩戸山まで周回できます。



「夫婦岩」は高さ20m近い巨石の間に巾80cm・長さ12mほどの間道が通り“良い心の持ち主はどんな願い事も叶い、悪い心の持ち主が通ると岩に挟まれる”と言い伝えられている。
夫婦岩は「近江の高天原」とも唱えられ、神社を守護する太郎坊天狗が住むともされています。



霊山と呼ばれる山には巨石の間を通り抜けた先に祭事の場所があることが多々ありますが、門のような巨石は山の磐座であるとともに結界の役割を果たしているのではないかと思います。
御神体は夫婦岩のある場所側の山頂(南峰)と考えられますが、南峰は神体山で禁足地となっているため登れません。
ただし、もうひとつのピークである北峰には登ることができ、神が降臨する南峰を眺めることが出来ます。



太郎坊宮の石段の横には境内社が幾つか祀られており、この場所には稲荷大神を祀る「稲荷社」、石段の先には「愛宕社」があり、すぐ横には「義経公腰掛岩」がある。
山に張り付くようにして境内地があるため、境内社は石段の参道のすぐ横の岩場やわずかな平坦地に建てられています。



やっと夫婦岩の前の銅鳥居の前まで来ましたが、この岩の大きさには何度見ても圧倒されます。
伝承では太郎坊大神が神力により押し開いたと伝わるそうですが、この姿になるのに何が作用したのか不思議に感じます。



夫婦岩の間道から上を見ると、巨石の間をさほど巾の違わない隙間があり、まさに神様の力によって押し開かれた天狗の住まいとの伝承も頷けます。
岩のわずかな凹みには御賽銭がねじ込まれていて、時には千円札が挟まれていることもあって人々の願いの強さが伺われる。



夫婦岩を抜けて展望台から岩を振り返るが、フレームにはとても納まりきれない巨石が並びます。
怖ろしいまでの自然の造形に驚かされるとともに、赤神山が古代から信仰されてきた理由も納得してしまうような畏敬の念を感じます。



展望台から見えるのは蒲生野の光景。
この季節の展望台の前にはタマミズキの紅い実が風物詩になっていますが、かなり実が落ちてしまっているのは残念でした。



太郎坊天狗の額が掛けられている絵馬殿の奥に古札納所の回収箱がありますので、昨年の神札をお返しして改めて新年のスタートとします。
歳を重ねるとともに年々“平穏”を求める気持ちが強くなってきていますが、今年は何か新しいチャレンジや新しい関係作りを求めていきたいと思います。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする