僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

若狭歴史博物館~『1300年記念特別公開 妙楽寺』~

2019-07-28 19:50:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 若狭地方・小浜の地は、奈良・平安時代より大陸との玄関口となる港が開かれ、都のあった奈良・京都への流通拠点となっていたといいます。
その際には物資の流通だけでなく、大陸の文化や奈良・京都の文化が行き来したことにより国内外の文化が流入し、小浜地方は仏像の宝庫となっています。

「若狭歴史博物館」では、常設展『若狭のみほとけ』で十数躰(複製含む)の仏像が展示されているほか、特別展として『1300年記念特別公開 妙楽寺』が公開されています。
若狭歴史博物館へは2017年に開催された『知られざるみほとけ~中世若狭の仏像~』の拝観以来となり、小浜の名宝の拝観を楽しみにしておりました。



「岩屋山 妙楽寺」は縁起によると、719年に行基が千手千眼像を彫り山中の岩窟に安置したことに始まり、797年に空海が伽藍を整備して妙楽寺としたとされています。
今回の展示は、御本尊の「千手千眼観音立像」は寺院に残るものの、平安期の「聖観音菩薩立像(像高161.5cm)」「不動明王坐像}などの仏像に加えて、4躰の「懸仏」、若狭塗の木箱等5品など多岐に渡っています。
妙楽寺には過去に参拝したことがありますので聖観音菩薩立像は初見ではありませんが、内陣に祀られている時と、360°の視野で観るのとでは少し受け取り方が変わります。



興味深かったのは「懸仏」で、「千手観音懸仏(鎌倉期1・南北朝期1343年1)」の2躰、室町期(1458年)の扇形をした「薬師三尊懸仏」と小ぶりな「地蔵菩薩懸仏」が展示。
「薬師三尊懸仏」は通常の円形ではなく、扇形の上に薬師如来・日光・月光菩薩がつけられたもので、これまで見たことのない姿の懸仏に驚きます。
また、鎌倉期のやや小ぶりな「地蔵菩薩懸仏」は今回の展示会の準備中に見つかったものとか。



常設展『若狭のみほとけ』では、平安期の「不動明王立像と2童子」「釈迦如来坐像」「不動明王立像」「地蔵立像」「大日如来坐像」「阿弥陀如来坐像」などの平安仏が並びます。
複製の中で目を引くのは、高浜町・馬居寺の「馬頭観世音菩薩坐像」でしょう。
この仏像は12年に一度の御開帳になっており、馬居寺では観れなかった仏像でしたのでありがたい。



妙楽寺の御本尊「二十四面千手観音像」と「地蔵菩薩座像」等は寺院の方にありますので、若狭歴史博物館での拝観の後、妙楽寺へと向かいます。
余談になりますが、若狭歴史博物館の横には「若狭の里公園」がありますので、少し歩いてみます。
若狭の里公園には池に面した四阿(あずまや)や若狭民家園という江戸時代末の民家があり、軽く散歩するには手頃なスペースかと思います。



寺院巡りも最近は過去に参拝した寺院へのリピート参拝が多くなっており、妙楽寺へは2年弱ぶりの参拝になります。
小浜の寺院に感じるのは、広大な寺院ではないものの歴史的な建造物が多く残され、山の麓の古寺感を強く感じる寺院が多いということでしょうか。



大悲閣の扁額が掛かる山門の左右には力強い金剛力士像が安置され、寺院の守護に当っています。
妙楽寺では山門以外の堂宇もみな古色のままで、なんとも落ち着きが良い。



山門から続く参道の両脇には樹齢何百年もありそうな御霊木が空気を引き締めている。
木の根っこなどは苔むしており、神社へ参拝したような雰囲気すらしてくる。



梵鐘は1602年の鋳造物といい、300年以上も前の鋳造物でありながら現在も撞かせて頂くことが出来ます。
緑青が浮いていて独特の色合いの梵鐘は、撞いてみると音色はとても柔らかい響きが誰も来ない境内に響きます。



本堂は鎌倉期初期の建立といわれ、若狭では最古の建造物とされています。
檜皮葺の屋根は平成30年に吹き替えた新しいもので、到着した時は昨日の雨の影響もあったのでしょう、屋根からは水蒸気が上がっていました。



屋根の鬼瓦に相当する部分には何とも変わった鬼瓦状のものがありました。
何を意味しているのかは分かりませんが、奇妙で日本的ではない感じのする鬼瓦です。



御本尊の「千手観音菩薩像」は、珍しい二十四面の尊顔と四十二本の脇手を持つ像高176cmの平安仏で、金箔の残る見事な千手観音像です。
安置されている鎌倉期の厨子(1296年)は重要文化財に指定されており、内陣の四隅に四天王が守護していますが、聖観音像は出張中のため空席となっている。
後陣には本尊が秘仏だった時代にお前立ちだったものか、千手観音菩薩像が安置されていました。



妙楽寺の堂宇は本堂の他には「地蔵堂」と「薬師堂」があり、地蔵堂には地蔵菩薩が安置されています。
奉納された無数のお地蔵さんが見える堂内には、ふくよかな丸顔の地蔵菩薩の顔が浮き上がっていました。





弘法大師の石像の左にあるのが薬師堂。
池をはさんだ薬師堂への道筋には芭蕉の句碑があります。



小浜の市街地を走行していると「若狭観音霊場三十三所」の幾つかへの寺院への案内板に出会うことが多く、古来よりこの地に仏教文化が栄えていたことを感じます。
小浜から奈良・京都へ、奈良・京都から小浜へ。往来しながら仏教文化が熟成されていったのでしょう。


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『忘れようとしても思い出せない』~ボーダレス・アートミュージアムNO-MA~

2019-07-25 17:55:15 | アート・ライブ・読書
 近江八幡市のボーダレス・アートミュージアムNO-MAでは『忘れようとしても思い出せない』という分かるようで分らない言葉をテーマに展覧会が開催されています。
NO-MA美術館で開催される展覧会へはもう4年以上通うようになっていますが、毎回その企画の面白さに感心するとともに、ボーダレスなアーティストの裾野の広さを実感することにもなります。

NO-MA美術館は近江八幡市の歴史ある重要伝統的建造物群保存地区にある昭和初期の町屋を改築した建物で、町並みの良さもあって刺戟を受けつつもゆったりと落ち着ける美術館です。
今回の企画は“言葉にならない風景や出来事を、 絵画や写真、映像で表現する5名と1組の作者を紹介”とあり、失われた記憶や未知の記憶を辿るような展覧会となっていました。



入館してすぐの壁には「齋藤勝利」さんの絵が掛けられており、絵はスケッチブックを開いて2ページで1枚の絵を描くという描き方で風景を描かれています。
斎藤さんは生まれつきの聾唖であったため当初は言葉を扱えず、担当教師と絵によって意思疎通を図るコミュニケーション手段で繋がっていたそうです。

絵は斎藤さんが車窓から眺めた景色を記憶して、持ち帰った後で描いたものだといいます。
恐るべし観察力と記憶力ということになりますが、その絵には生まれ育った山形の景色が生き生きと描かれているといいます。


斎藤勝利「無題」

1986年生まれの田中秀介さんは、美術専門学校~芸術大学を卒業された方で、“主観的なイメージで「何気ない」事象が、異彩を放つ「何者か」として立ち現れてくる”と書かれています。
少し悩ましいのが絵のタイトルなのですが、謎解きが必要で下の絵は左が「度外視」で右が「化門」というタイトルでこの謎解きは難しい。


田中秀佑「度外視」「化門」

壁に5点掛けられた絵は左から「秘め皺」「渡世の山」「連立びより」「思惑の受け入れ先」「二人の一人」となる。
見ていると絵と言葉がつながり、そういう意味かと思える絵もあれば、分からなかった絵もありました。
とはいえ、そこにこだわる必要はないとは思います。



岡部亮佑さんは、1枚の絵に何かを描いては修正液や白い紙を貼り付けて消し、その上にまた描くという創作を繰り返されているといいます。
作品の中には写真の一部に破った紙を貼ったり、その上に線をなぞった作品もあり、その作品は思い出せない記憶を辿りながらの創作行為なのかもしれません。


岡部亮佑 「無題」(前向きの人)



西村一幸さんは54歳の時に不慮の事故によって記憶を失ってしまったといいます。
当初は全ての記憶を失ったものの、やがて部分的に記憶を取り戻していき、かつて仕事で訪れた工場の付近に生えていた姿を思い出しながら「ピラカンサ」を描かれているそうです。


西村一幸「ピラカンサ」

実際のピラカンサは絵とは似ても似つかないのですが、西村さんの記憶の中には存在する植物で、また記憶の中で進化しつつある植物とも受け取れます。
西村さん自身の記憶も、過去と現在が混在して認識されることがあるといい、今も記憶の中で新しいピラカンサが形成されているのかもしれません。



2階の和室には西村さんの作品の部屋と、おうみ映像ラボ「8ミリフィルム発掘プロジェクト」として4台のプロジェクターを使っての8ミリフィルムの上映がされていました。
滋賀県で撮影されたフィルムには「昭和の田圃(田植え・稲刈り)や「昭和の結婚式」や「多賀の松茸狩り」、「桜並木がまだない海津大崎の景色」など...。
昭和一桁から40年代くらいまでの映像が部屋の四方の襖や床の間・壁・スクリーンで同時に上映されます。

昭和の手作業でやる田植えや稲刈り、その田圃で遊ぶ子供の姿は、幼い頃に何となく記憶にあるやらないやらの光景です。
また先端に切れ目を入れた竹でカキの実を収穫する光景などは、現在でも見られるような気がする光景で非常に懐かしく思います。
映像に映る昭和の子供の姿は、自分のようであり自分ではありえないのですが、無いはずの記憶が甦ってくるような思いがします。



さて、今回も蔵での展示があり、カメラマン・鬼海弘雄さんの写真が展示されていました。
鬼海さんは1973年から浅草の市井の人々の肖像を写されている方で、写真にはかなりの衝撃を受けました。
また、鬼海さんは第23回土門拳賞を受賞されているカメラマンでもあります。



写真を見ていて、思い起こされたのはフリークスを撮ったアメリカの写真家・ダイアン・アーバスです。
写真から人の奥底に潜むもの、生々しさがイメージとして伝わってくるという意味で、その写真からは無表情ながらも人間の性のようなものが鬼気迫るように訴えかけてきます。

写真は中庭に6枚、蔵の中に10枚の展示があり、浅草で45年間に撮った人は実に1000人に及ぶといいます。
それぞれの写真に付けられたシンプルなキャプションからは想像力を掻き立てられ、被写体の人物の気配が伝わってくるような錯覚を起こしそうになるものまであります。



写真は蔵の中3面に展示されており、上は入口より右の反面、下は左側の反面となります。
どの写真も正面を向いたポートレートですが、撮られた人の生き様(生のエネルギー)ようなものまでも想像させる写真だと思います。



若い女性が太ももに彫った鯉に刺青を見せている写真で「むろん本物よ・・・・・という女 2007」



「ただ頷くだけで一言も発しなかった人 2015」


「28年間、人形を育てているというひと 2001」


NO-MA美術館の中庭にも写真が数点展示されており、3つのボードには表裏に写真があります。
蔵へ入る時に片面を見て母屋に戻る時には裏側を見ます。下の2枚の写真は左「カラスを飼う男」「髪を長くのばしているOL」というキャプションが付けられています。
鬼海さんは浅草のポートレートの他にもインドやトルコでの「スナップ紀行」のシリーズがあるのですが、そちらの作品群はこの浅草とは幾分異なる写真を撮られているようです。



ところで、NO-MA美術館から出る時に入口にあるリーフレットやパンフレットを見ていると、A4のクリアファイルが配布されていましたので頂いて帰りました。
「日本精神科看護技術協会」が“アールブリュットの認知・サポート”の一環として配布されているようですが、これはとても嬉しい配布でした。
作品は「稲田萌子」さんと「小津誠」さんの作品で両方ともアールブリュットの魅力を伝えるに充分な作品です。






ボーダレス・アートミュージアムNO-MAは元は町家ですから大きな美術館ではありませんが、1階・2階(あるいは階段の踊り場)や蔵をうまく使って展示され、企画の素晴らしさに毎回驚きます。
アールブリュットには福祉の意味合いも確かにありますが、作品には人をひきつける魅力があり、アート作品にはボーダー(境界)は無いということだと思います。


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吸湖山 青岸寺~枯山水庭園から池泉庭園へと変貌した庭園~

2019-07-21 14:28:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 米原市にある「青岸寺」に初めて参拝したのは今年3月の終わりのことでしたが、庭園の見事さも然ることながら、ゆったりと落ち着けて何とも居心地の良い寺院だったと記憶しています。
その時に知ったのは、青岸寺の名勝「青岸寺庭園」は通常「枯山水庭園」で、一定量の雨が降ると「池泉庭園」に姿を変える珍しい造りの庭になっていることでした。

梅雨の雨でそろそろ池泉庭園になっているだろうと思い訪れた処、庭園は見事な池泉庭園へと変貌を遂げていました。
青岸寺には「喫茶去 Kissa-ko」という茶寮があり、縁側をカフェに池泉庭園を眺めるひとときも楽しみの一つになります。



「名勝 青岸寺庭園」の石碑のある場所にある木の洞には、石のフクロウの姿があります。
青岸寺のいいところは、細部にさりげなく気遣いがあるところで、室内にも季節の植物が一輪飾ってあったりして、実にセンスが良い。



青岸寺は南北朝期、近江守護職でバサラ大名:佐々木京極道誉によって建立された「米泉寺」が始まりとされます。
しかし、米泉寺は1504年の兵火で焼失してしまい、江戸時代になって再建、寺名を「青岸寺」と改め曹洞宗の寺院となったといいます。



山門を抜けて境内に入ると、イワヒバ(岩檜葉)が大事に育てられています。
イワヒバはシダ植物の一種ですが、今の時期は緑が豊かになっていて、サルスベリが花を付けるようになればまた違った風景となりそうです。



堂内の入り口には僧呂の姿をした信楽焼のタヌキが托鉢をしています。
何とも愛嬌のあるタヌキで、托鉢のお椀に賽銭を入れていく方もおられるようです。



本堂には五七の桐をはじめとして複数の紋が見られますが、青岸寺は江戸時代に“井伊家三代直澄候から寺領及び援助を賜り”とあり、各紋との関連はよく分かりません。
堂内の隅には座禅座布団が積まれてあり、毎月第二土曜日には坐禅会が開催されているようです。



青岸寺の御本尊は曹洞宗寺院ながら「聖観世音菩薩坐像」で、かつての米泉寺時代の仏像とされる観音像は1504年の兵火で難を逃れ、その後復興まで村人の手により小堂で守られてきたといわれます。
この聖観世音菩薩は天台宗系の密教像として製作されたとあり、比叡山から湖南・湖東・湖北へとつながる天台密教仏の流れを考えさせられる仏像となります。



脇陣に安置されている「十一面観音立像」は平安時代末期作とも鎌倉後期作ともいわれており、青岸寺では最古の仏像ではありますが、仏像様式については不明な点が多く今後検討を要するとあります。
像高56cmと大きな仏像ではなく、腰がくびれて少し首を傾げた独特のお姿をされていますが、なぜ鎌倉期の仏像が青岸寺に祀られているのか気になります。



小雨がパラつく中、「青岸寺庭園」を訪れたのは正解だったと思ったのは、やはり池泉庭園の美しさです。
驚くほど透き通った水に浸かった池の底には緑の水苔。
この庭園は、観音さまがお住まいになる補陀落山の世界を表現しているといいます。



石組みの多いのが特徴的ですが、背後に迫る太尾山を借景として奥行があるため、煩くは感じない。
左に見える建物は書院「六湛庵」といい、接化に赴いた地方寺院から永平寺に変える途中に立ち寄り休憩するために用いられたといいます。



さて、庭園が池泉庭園へと変わる仕掛けとなっているのが「降り井戸形式の蹲」で、元々は茶道の習わしで客人が這い蹲るようにして身を清めたのが蹲の始まりとされています。
水量に合わせて降りられるように石段が付いていて、溜まった水が少ない時期でも手を清めることが出来ます。

梅雨の時期など雨の多い季節に井戸に一定量の水が溜まると、庭園に水が流れるようになっている見事な仕掛けがされています。
確かに前回訪れた時には水は2割程度しかなく枯山水庭園でしたが、今回は溢れんばかりの水が溜まり、池泉庭園へと変貌していました。



枯山水庭園と池泉庭園の比較をしてみると、庭園は同じものでありながらも全く違った姿を見せてくれることが分かります。
下は池泉庭園としての姿と、枯山水庭園としての姿との比較です。
六湛庵への渡り廊下の裏側には、庭に水が溜まりすぎることがないように排出出来るようになっており、常に水が循環する設計の巧さに驚きます。


池泉庭園


枯山水庭園

庭園の最上部には「三尊石」が組まれ、ゴツゴツとした印象はあるが、緑の中にうまく溶け込んでいて味わい深い。



庭園は本堂側の縁側から見るのが広い視野で見られますが、書院(六湛庵)側から見る庭園もまた雰囲気があります。



庭園の片隅には古田織部が創案したとされる「キリシタン灯篭」があり、この灯篭はキリシタンの信者や茶人の好みに合うよう造られたといいます。
六角の火袋には地蔵菩薩が彫られてあり、灯篭としての姿は和洋折衷の少し変わった様式の灯篭となっています。
また、一説によると火袋に彫られた六体地蔵は鎌倉時代の物ではないかと推測されているようでもあります。





もう一つの楽しみの「喫茶去 Kissa-ko」では、今回は“抹茶のガトーショコラとコーヒー”のセットをいただきました。
サイフォンで淹れた香り高いコーヒーと庭園の水苔を現すかのような抹茶のケーキを楽しみながらお地蔵さんの置物と庭を眺めている時間は至福の時間です。





青岸寺ではお洒落なカフェがあるだけではなく、現在秋に開催されるライトアップのためのクラウドファンティングを行われているそうです。
ライトアップイベントでは“シタールとお経のコラボ”“アカペラで歌う女性合唱団”のイベント、“経画”という仏教ア-トイベントなどが計画されているといいます。
まさに新しい時代の寺院のモデルとなりそうな寺院ですが、お若い住職とその奥さん(かな?)のきめ細やかな気遣いはとても気持ち良く、過ごす時間が楽しい寺院だと思います。


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御朱印蒐集~京都市東山区 霊山観音(八坂神社)~

2019-07-18 07:20:20 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 若い頃から京都は身近な都市として馴染んできたつもりでしたが、何でこんな大きな物を見落としていたのかと呆れかえる事がありました。
TVで京都の旅番組を見ていた時に“八坂の塔”の左奥に大きな観音大仏があるではないですか。
東山界隈はよく車で通るにも関わらず、なぜか今まで見えていなかったのです。

高台寺に参拝した時、山の向こうに巨大な観音さまが居られるのを見て、正確な位置が分かった訳ですが、この観音さまはメディアではあまり取り上げられていないこともあって知らなかったということなのでしょう。
メディアに登場しないのは古都・京都にあって、新しい宗教法人による寺院だということも影響しているのかもしれません。





「霊山観音」は1955年に第二次世界大戦の戦没者の慰霊のために建立されたといいます。
建立は“帝産グループ”の創始者である石川博資氏によるものだとされ、運営は霊山観音教会が行っているようです。



石川博資氏は1934年に帝國産金興業を設立して、金の採掘をしていたといい、その帝國産金興業を前身として帝産自動車を設立したといいます。
バスに詳しくない当方でも車体にオレンジのラインの入った帝産観光バスには見覚え聞き覚えがありますが、その会社の創業者ということになるようです。

大提灯は吊るされているものの、入口は如何にも近代風で入るのに少しためらわれましたが、門の左右には金剛力士像が安置されており、寺院としては特に違和感は感じません。
金剛力士像は1963年に仏師・松久朋琳と記されており、昭和の名仏師の作の力強い仁王様でした。





受付で火のついた線香を渡されて境内に入りますが、あまり見ることのない太く長い線香です。
火がついているので持ち歩く訳にもいかず、香炉まで一直線に向かいます。



仁王門から入った霊山観音の境内の中央奥に巨大な観音坐像が鎮座されています。
有名寺院が集中するこの地域に、突如現れる巨大な観音大仏から醸し出される独特の雰囲気には異質さを感じます。





霊山観音は高さ24mあり、お顔だけでも6mあるという巨大な大仏で、総重量は何と500㌧といいます。
観音は第二次大戦の戦没者に限らず、戦争犠牲者の慰霊のために建てられたといいますから、戦争のない世界を目指すメモリアルのような意義もあるのかもしれません。





観音様の内陣には涅槃仏などが祀られており、胎内の空洞部分には「十二支守りご本尊」が安置されています。
胎内の仏像もしっかりとした造りになっていますので、当寺を信仰する方が多いのだろうと思われます。



境内には「愛染明王堂」「地主権現社」「ふぐ塚」などがあり、驚くのは観音大仏に合わせたかのような巨大な「仏足石」でした。
仏足石が大きいため近くからではよく見えず、かと言って全景を見下ろせる場所もなかったため、この角度になりますが、足の裏には複雑な紋様が刻まれているようです。



本堂の手前には「願いの玉」という願い事を念じながら右手で玉に触れて周囲を3回回ると大きな力が得られるとありました。
仏教の言葉では「如意宝珠」と呼び、“意のままに願いをかなえる宝”という捉え方をする考えがあるそうです。



霊山観音の右奥には「護摩堂」があり、毎月8の付く日には本山修験宗山伏達により護摩が焚かれるそうです。
護摩堂の近くには戦争犠牲者の碑などがあり、戦没者を弔う寺院としている事を再認識することになります。



境内にある建物にある一角には帝産オートの創設者であり、霊山観音の創設者でもある石川博資氏が開発したマイクロバスの“帝産オート 三菱ライトローザ”が保存されています、
また、氏が生前に愛用していた「キャデラック・フリートウッド」もあり、この寺院のもう一つの側面が伺われます。

さて、寺院を出た後は円山公園を歩いて車を停めていた駐車場へ向かいますが、せっかくなので途中にある八坂神社にも参拝していきました。
八坂神社は四条通と東大路通の交差する地点にある西楼門の前から入る方が多いのですが、今回は南楼門から入ることになります。



さすがに八坂神社は参拝者が多く、今回は本殿に参拝だけ済ませて円山公園へと向かいました。
年間通して参拝者の多い神社ですが、7月の祇園祭の頃には更ににぎわうのかと思います。





京都には膨大な数の神社・仏閣があり、それぞれ多種多様の信仰が見られます。
驚くのは小さな寺社でも僧や禰宜や対応者が常駐して、それぞれ成り立っていることです。
観光収入も大きいかとは思いますが、いろいろな寺社が成立していく土壌が京都にはあるということなのでしょう。


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御朱印蒐集~京都市東山区 鷲峰山 高台寺~

2019-07-15 16:30:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 高台寺は豊臣秀吉の菩提を弔うために秀吉の正室・北政所が創建した寺院として知られており、ねね様の亡骸が葬られている「霊屋」がTVなどで紹介される寺院です。
最近では「アンドロイド観音」の拝観が期間限定で始まっているようで、アンドロイド観音とプロジェクションマッピングの拝観の是非はともかく、新しい形の寺院の姿として注目を集めています。

豊臣秀吉の死後、菩提を弔うために北政所(ねね。出家後は高台院湖月尼)が1606年に開創し、1624年に建仁寺の三江紹益禅師を開山として高台寺と号したとされます。
造営には徳川家康が多大の財政的援助を行ったとされ、寺観は壮麗を極めたといいます。
家康は豊臣家の血筋を滅亡させたものの、北政所や木下家には配慮があったようですね。

 

高台寺のある一帯には清水寺や建仁寺、八坂神社・知恩院など有名な寺社が多く、風情のある町並みが続くと共に訪れる人の波も凄い場所となっています。
日本人の数も然ることながら、中国系などのアジアから欧米からと外国人観光客の比率が高く、静かに拝観とはいかないのですが、幸いにして高台寺はさほど混雑していないのは助かった。



石畳の“ねねの道”から高台寺に向かって台所坂歩くと、参道を覆うトンネルように樹木が生えています。
奥にある門は台所門になるのでしょうか、楓のカーテンで門の様子がよく見えない状態になっています。





門をくぐった先には庫裡がありますが、京都の寺院にはこのような造りの庫裡や境内配置がよく見られますね。



趣のある茶室「遺芳庵」の横を通り、境内に入ると見えてくるのは「観月台」。
遺芳庵は江戸時代の豪商で文化人でもあった灰屋紹益が妻の吉野太夫を偲んで建てたといわれる茶室で、壁一面の大きな円形の窓は「吉野窓」と呼ぶそうです。
高台寺の境内には他にも「傘亭」「時雨亭」という伏見から移建したという利休の意匠による茶室がありますが、外観的にはこの遺芳庵の方が好きかなと思います。



「書院」と「開山堂」を結ぶ「楼船廊(渡り廊下)」の途中にある「観月台(重文)」は、「偃月池」と「臥龍池」にまたがるように建てられており、屋根の下から観月出来るようになっているそうです。
写真は観月台が松の陰になってしまいましたが、季節や月の角度によっては月が池に映り込むことがあるかもしれず、実に優雅な建物になっています。



創建当時の高台寺の「方丈」は伏見城から移築したものだそうですが、数度の火災により現在の方丈は1912年の再建だといいます。
とはいえ、方丈の前には広い方丈前庭が拡がり、かつては勅使門からの使者を受け入れていた様子が伺われます。



「勅使門」も方丈と同じく1912年の再建ですが、白砂の前庭と大きなしだれ桜の木があしらわれ、盛り砂もあります。
方丈前庭の盛り砂は画像などを見ると複雑な紋様で造られている場合がありますが、この日は2つの山だけがありました。
その時々によって紋様を使い分けられているのかもしれませんね。



「開山堂」を向こう正面にして偃月池と臥龍池に挟まれた一角には小堀遠州作といわれる庭園があります。
枯山水の庭ではあるとはいえ、緑色に染まった庭園は後方の東山の緑と相まって、あまり見慣れない趣きのある庭園となっていました。



境内をさらに歩くと「臥龍池」の横に出ますが、その色彩は全体が黄緑色に染められたような光景になっています。
臥龍池の辺りは春の新緑、秋の紅葉が楽しめそうな場所で、紅葉の季節に訪れたいがおそらく人の多さに悩まされるのでしょう。



「開山堂」は重要文化財に指定されている建築物で、開山・三江紹益禅師を祀っているとされます。
彩色天井には北政所の御所車の天井、秀吉の御船の天井が用いられているそうですが、内部拝観は不可。



高台寺の堂宇は、書院と開山堂をつなぎ観月台の設けられている回廊と、開山堂から「霊屋」へと続く「臥龍廊」があり、臥龍廊は龍の背中を思わせるような特徴的な回廊になっていました。
急な角度をせり上がっていくような龍の背のようなこの回廊を見ると、おね様の菩提を守る水龍の姿をつい連想してしまいます。





臥龍廊は立ち入り禁止となっているものの、「霊屋」からは内側を見ることが出来ます。
勢いが感じられる外観とは違って、女性的な緩やかな石段を見ると、やはり女性であるおね様をお護りしている寺院であることがよく分かります。



寺院の高い場所に建てられているのは「霊屋(おたまや)」。
中央の厨子は閉じられているものの、右に秀吉公・左に北政所の人仏像が安置されています。

須弥壇や厨子には美しい蒔絵が施されており、桃山時代に流行した蒔絵の様式を代表して“高台寺蒔絵”と呼ばれるようです。
霊屋の北政所の像の2m下には北政所の亡骸が葬られているといい、運命に逆らわずひっそりと余生を過ごしたおね様の生き様に思いを馳せることになります。





参拝が終わると今度は竹林の小路を通って出門することになります。
すでに竹の葉が黄色くなって落葉の時期になっており、時に葉が落ちてくる小路は中々気持ちが良い。
所々にライトが設置されていましたので、ライトアップされる時期があるのでしょう。



寺院の出口までくると「高台寺天満宮」の社があり、その横には奉納された「マニ車」が置かれている場所がありました。
高台寺のマニ車の筒の中には般若心経を写経したものが入っていて時計回りに回すことで功徳が得られるとされます。



ところで、高台寺では2枚の御朱印を頂きましたが、2枚目の「夢」の御朱印は高台寺の鎮守社である「高台寺天満宮」で頂いたものです。
高台寺天満宮は北政所が高台寺を創建した際に日ごろ崇拝していた綱敷天満宮の祭神・菅原道真公を勧請して高台寺の鎮守社としたといわれます。



高台寺天満宮の絵馬には「夢」の文字が書かれてあり、当日も絵馬を奉納されている若い方がおられました。
学問の神様である菅原道真公にあやかって学業成就の祈願をされていたのかと思います。


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御朱印蒐集~京都市東山区 黄台山 長楽寺~

2019-07-10 06:20:19 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都では令和の新天皇即位を記念して、春の「京都非公開文化財特別公開」が開催されましたが、東山区にある長楽寺には天皇の即位の際にのみ開帳される秘仏があります。
秘仏は「准胝観音像」で、前回は平成に元号が改められた時に開帳されたということですので、今回の改元を逃すともう一度拝観することは叶わないかもしれない仏像になります。

長楽寺は805年、桓武天皇の勅命により伝教大師を開基として創建されたといいます。
天台宗・比叡山延暦寺の別院として創建された長楽寺は、室町時代になると一遍上人を宗祖とする時宗に改まり、時宗遊行派寺院として現在に到るとされます。



近代までの長楽寺の寺域は「円山公園」の大部分を含む広大な寺域を有した寺院だったようですが、幕命による「大谷廟」建設(1746年)により境内地を割られ、明治初年には境内の大半が円山公園に編入されたといいます。
円山公園の市営駐車場から公園内を歩きましたが、知恩院・八坂神社・東大谷祖廟に囲まれた円山公園はかなり広い敷地面積であり、どこまでが長楽寺の寺域だったかはともかく広大な寺域を有していた寺院だったことが想像出来ます。



老舗の料理屋さんなどが林立する円山公園を歩いていると長楽寺の参道が唐突に現れ、覆いかぶさる楓の下の参道を進んでいきます。
参拝した日には特別公開の参拝のピークは過ぎていたと思われるものの、やはり天皇即位の時ににしか拝観出来ない秘仏の拝観を求めて参拝される方は多いようでした。



東山の中腹に向かって堂宇は建てられており、まずは「三門」から入山します。
長楽寺は一見こじんまりとした寺院に見えましたが、境内は起伏に富み広さを感じます。
当初は、将軍塚からの山越えルートも考えていたのですが、直接来て良かったかなと思います。



三門から入山すると、庫裡・客殿を横目に本堂までの石段を登ることになります。
きつい石段ではありませんので、すぐに本堂が見えてきますが、実に緑豊かな寺院です。



本堂では開帳された御本尊の「准胝観音」から鰐口紐まで五色の紐でつながっており、外陣で参拝した後、本堂内へと入らせていただきます。
本堂では正面左から「法然上人像」、鎌倉時代に聖一国師が三国(インド・中国・日本)の土で造ったとされる泥像の「布袋尊像」、御本尊の「「准胝観音」が安置。

更に右の脇陣には「弁財天(伝・最澄作)」と「御本尊のお前立ち」、「阿弥陀三尊」が安置されています。
阿弥陀三尊の右の脇侍の「勢至菩薩」は右目だけ瞼を閉じたように見えましたが、これは何を意味するのか?



秘仏本尊の「准胝観音」は立ち上がるかのような2頭の龍に支えられた蓮台の上に立たれています。
像高40cmほどの仏像ですので細部までは見えないものの、尊顔は穏やかな表情をされており、寺伝では最澄が唐への渡航時に難破しそうになった船を救った観音様に謝意を示すため彫ったとあるそうです。

秘仏本尊が安置されている厨子は東福院和子(徳川2代将軍秀忠と正室・お江の娘)が寄進したものとされます。
須弥壇の写真は看板から撮ったものですが、特別公開のない通常は阿弥陀三尊が厨子の前に安置されているようです。



本堂を出てすぐ横には「平安の滝(名水・八功徳水)」と呼ばれる小さな滝がありました。
かつては法然上人の高弟・隆寛律師や建礼門院の御修行々場とされる場で、飲料出来る名水といわれます。



平安の滝の石組には八体の石仏が組み込まれており、石組の上部にはさらに多くの石仏が見られます。
八体の石仏を確認しましたが、修行の場らしい荘厳な場所だと感じました。





本堂から鐘楼にかけての場所は楓が堂宇を埋め尽くすかのように生えています。
秋の紅葉が美しそうですが、今の季節の青紅葉も実に美しい。



長楽寺には7躰の重要文化財の祖師像を収蔵する収蔵庫があり、暉幽・尊恵・一遍・尊明・太空など室町期の祖師像が並びます。
この7躰の祖師像は下京区にあった金光寺に祀られていたものが、金光寺が廃仏毀釈により衰退していき、長楽寺に集像されるようになったようです。



長楽寺は建礼門院が髪を剃り出家した寺院としても知られており、境内にはその名残として「建礼門院御塔」が祀られています。
建礼門院は平清盛の娘にして高倉天皇の皇后で安徳天皇の母。
壇ノ浦の戦いで平家滅亡後に出家されて大原寂光院で菩提を弔われたとされますが、出家されたのはこの長楽寺ということだそうです。



長楽寺には「相阿弥作庭園」があり、解説書きによると“八代将軍・義政の命により銀閣寺庭園の試作として造園されたと伝わる”とあります。
この日は日差しが強すぎたものの、縁側に座って眺めていると落ち着いた気持ちとなります。





境内を100mほど行った先に墓所と展望所があるということで歩いていくと、そこは竹林が拡がります。
地面から大きく頭を出している筍が多く見られましたが、なかには大きく育って竹の皮が離脱している竹も見られます。
竹の成長の速さが伺い知れますね。



さて、展望所から見た京都市街の風景です。
ここから見えるのは河原町界隈でしょう。京都BALの“BAL”の文字が読み取れました。



長楽寺は、天皇即位の時にだけ御本尊が開帳されるという特殊な伝統を持つ寺院であり、それゆえに時代の幕開けの慶祝な気持ちとなります。
元号が移った時にしか公開されない秘仏中の秘仏を拝観出来たことは元より、寺院としても見所の多い寺院だったと感じています。


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御朱印蒐集~滋賀県大津市 瑞應山 盛安寺~

2019-07-05 18:11:11 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 2020年のNHK大河ドラマは明智光秀を主人公とした「麒麟がくる」に決定し、これまで逆賊や三日天下の将として語られてきた光秀がどう描かれるのか興味深いドラマとなりそうです。
また、謎の多い人物ともされている光秀がどのような生き方をしてきた人物として描かれるのかも楽しみになります。
大津市坂本の地は光秀とは深い関わりがあり、坂本の寺院には“明智光秀ゆかりの地”が幾つかあり、すでに光秀ブームが始まろうとしているようです。

坂本穴太の地は石工の技術者集団である穴太衆の発祥の地であり、神社・仏閣が密集していているため、平地の比叡山延暦寺とも言えるある種の宗教都市の印象があります。
そんな穴太地区(坂本)には「盛安寺」という重要文化財の「十一面観世音菩薩立像」をお祀りする寺院があり、光秀ゆかりの寺院の一つにもなっています。



盛安寺の十一面観音像は、井上靖の「星と祭」や白洲正子の「十一面観音巡礼」で取り上げられている仏像で、事前予約が必要な寺院ながら、年に数回ある開扉の日に寺院へ訪れました。
まだ「星と祭」の方は未読の本ではありますが、それはまだ拝観したことのない仏像に焦がれる事と同じく、これから読める本がある楽しみとなります。



盛安寺は、越前朝倉氏の家臣・杉若盛安が天文年間(1532~1555年)に再興した寺院とされ、同じ坂本の地にある西教寺を総本山とする天台真盛宗の末寺として現在に到るといいます。
道幅の狭い道路を進んで、穴太積みの石垣の間にある石段の上に盛安寺の山門はありました。



穴太衆は織田信長の安土城の石垣を施工するなど城郭の石垣建築を担ってきた集団で、比叡山延暦寺の里坊であった坂本の地には地元ということもあって多くの穴太積みの石垣が残されています。
重量の重い城を支える石垣の建築には特殊な技術が必要だったでしょうし、防衛としての利点から美観まで考慮された技術なのだと思います。



境内に入ると周辺が杉苔に囲まれた鐘楼がありました。
杉苔を踏まないように近づいて梵鐘を見ると“宝歴四年(1754)鋳造の梵鐘が太平洋戦争時に供出される 昭和二十二年(1947)復元され今日に到る”とあります。
ただし据え付けられた梵鐘は“天台宗開宗千二百年を迎え佛法興隆世界平和を記念して鋳造”とあり、“平成17年12月再興”ともありますので、銘からするとこの梵鐘は2005年の鋳造物のようです。



鐘楼の近くには少し変わった形をした“太鼓楼”という建物があり、中には入れませんが、中をのぞいてみると梵鐘が置かれています。
これが先代の梵鐘となる昭和に復元・鋳造された梵鐘かと思われます。
また太鼓楼の2階には、敵の急襲を知らせた恩賞として光秀より賜った“明智公陣太鼓”が保管されているようです。



盛安寺には“本堂・客殿・庫裡・太鼓楼・鐘楼”と、道路を挟んだ飛び地境内に“収蔵庫”という配置となっており、「客殿(重文)」には名勝庭園「聖衆来迎曼荼羅庭園」や長谷川宗圓の障壁画や狩野派の絵巻などがあるといいます。
本堂の建立は棟札から1652年とされ、何度か修理されてきたことが分かっているようですが、こちらも立ち入ることは出来ませんでした。





盛安寺の庭園は客殿の庭園以外にも前庭があり、一回りしてみましたが、杉苔が敷き詰められるように生えています。
境内に駐車されていた軽トラには掃いた落ち葉が積まれていたことから、ちょうど庭の手入れをされたばかりだったのかもしれません。



さて、坂本と光秀のつながりですが、信長による1571年の比叡山焼き討ちの後に、光秀に坂本城の建築を命じて、光秀は近江国滋賀郡の領主として坂本城主となります。
しかし、1582年に光秀は本能寺の変で信長を討ち、“山崎の戦い(天王山の戦い)”で秀吉に敗れた光秀は、坂本城へ退く途中に落ち武者狩りに遭い死去したとされます。
城主だった頃のつながりなのでしょう、坂本にある「西教寺」は光秀とその一族の菩提寺となっており、この盛安寺にも「明智光秀公供養塔」が祀られ菩提が弔われています。



盛安寺の仏像は「収蔵庫」に納められており、かの「十一面観音菩薩像」はここに安置されています。
元々は収蔵庫の近くにある「観音堂」に納められていたそうですが、今の観音堂は門と御堂だけが残されていて、仏像群は収蔵庫にあります。



盛安寺は“穴太の里 高穴穂宮跡”のあったところで、天智天皇の勅願によって創建された「崇福寺」の遺物だとされています。(御朱印の文字は“崇福大悲殿”とある)
崇福寺は奈良時代末期には十大寺(大安寺・川原寺・元興寺・薬師寺・興福寺・東大寺・法隆寺・四天王寺・西大寺・崇福寺)とされるほど栄えたようですが、その後衰退していき室町時代には廃寺となってしまったとされる寺院です。

戦国時代に建立された盛安寺に平安時代の仏像が残るのは崇福寺伝来の仏像だからといわれていますが、確かに辻褄のあう話になります。
「十一面観音菩薩像」は像高180.5cmで檜の一木造り。平安期の仏像で重要文化財指定を受けています。



十一面観音にしては珍しい四臂の仏像で、左手には錫杖、右手には蓮華を持たれています。
第一手は合掌されており、ふっくらとした顔はとても穏やかな表情に見えます。

仏像の一部に後補の部分もあるようですが、くっきりと彫られた腕の臂釧にも特徴があり、見事な十一面観音だと思います。
近所の方の話では“いつもは閉まっているのに今日は開いていて良かったね。”ということでしたが、ぽつんと建てられた収蔵庫には誰も居られず、誰も来られずで、独りでゆっくりと拝観させて頂くことが出来ました。



収蔵庫の中は正面中央に十一面観音菩薩像が安置され、その左には平安時代の「聖観音立像」が安置されています。
この聖観音菩薩像は少し腰をひねった姿で尊顔には微笑みを浮かべておられ、部分的に金箔が残る截金文様も細かな細工の美しい仏像です。





正面左側には「阿弥陀如来立像」と「地蔵菩薩立像(室町期)」が安置されています。
盛安寺のリーフレットには「片袖の阿弥陀」が紹介されていますが、安置されている阿弥陀如来は別の仏像のようですね。
地蔵菩薩立像は左手に宝珠、右手に錫杖を持たれており、切れ長の目をしておられます。



十一面観音像に思いを巡らす内に、どうしても先に書いた2冊の本が読みたくなり、まず入手可能な白洲正子の「十一面観音巡礼」を購入・読了しました。
写真や寺院の地図が挿入され、淡々とした文体で十一面観音巡礼の旅について書かれた、まさに十一面観音に導かれた旅。
井上靖の「星と祭」は絶版となっていますが、この秋には復刻されるといいますから、読める日が来るのが待ち遠しくなります。




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『八木浜文殊院の密教美術』展~高月観音の里歴史民俗資料館~

2019-07-01 06:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「高月観音の里歴史民俗資料館」は、あの美しい国宝「十一面観音立像」をお祀りする「向源寺(渡岸寺観音堂)」のすぐ隣にある資料館で、観音の里・高月の仏像や「オコナイ」の民俗行事を展示しています。
現在は特別陳列として『八木浜文殊院の密教美術』展が開催されており、文殊院が所蔵していた主に江戸期の仏像・仏画等の展示がされておりました。

八木浜地区は琵琶湖に面した集落で、小さな漁港と広い田園地帯、よし葺き屋根の民家が残る村というのは知ってはいましたが、「八木浜文殊院」という寺院は全く知らない寺院でした。
八木浜文殊院は真言宗豊山派の寺院で、仏像・仏画類はこの春に「高月観音の里歴史民俗資料館」に寄託され、特別陳列に至ったということです。



文殊院の仏像は全て江戸期の仏像で、美形の顔をした「弘法大師坐像(像高47.3cm)」、真っ赤な眼で睨みつける「不動明王坐像(像高39.3cm)」、智拳印を結ぶ「大日如来坐像(像高25.2cm)」と「如来形坐像」などが並びます。
仏画は室町期・江戸期のものになりますが、非常に状態の良いものが多く、特に「地蔵菩薩・十一面観音・吉祥天三尊図」は珍しい3尊画かと思います。



「大黒天像」の書画では七福神の姿をしながらも顔や肌は真っ黒な大黒天が描かれています。
ヒンドゥー教のシヴァ神のマハーカーラが由来になっているのか、日本的なものとインド的なものが混じったような書画です。



歴史民俗資料館には今回の特別陳列の他にも数多くの仏像や神像が展示されており、苦しみに満ちた「釈迦苦行像」や朽ちそうになりながらも姿を残す「いも観音」などが展示され、観音の里の一端を知ることが出来ます。
以前に来た時になかったのは「金銅十一面観音不動毘沙門懸仏(長浜城歴史博物館蔵)」で、裏面の銘文には“石道寺 奉造立十一面観音御体并(不動/毘沙門)”とあり、応安元年(1368年)に造られた美しい懸仏です。



高月観音の里歴史民俗資料館が建てられたのは昭和59年(1984年)。「一億総中流」といわれながらも「○金・○ビ(マルキン・マルビ)」が流行語大賞を受賞し、経済が右肩上がりだった時代。
場所が渡岸寺観音堂の横ですから十一面観音を拝観された後に立ち寄られる仏像好きの方も少なくはないでしょう。





せっかくなので久しぶりに「向源寺(渡岸寺観音堂)」へ参拝することにして、水量豊かな川の横を歩き出します。
地元の方に“水量が多いですね。”と話しかけると、“今は田圃に水がいる時期だから高時川から引き込む量を多くしている。”とのことです。



「向源寺(渡岸寺観音堂)」の山門へとつながる岸辺には大きなケヤキの木。
このケヤキは樹高10m・幹周囲3.2mで樹齢は推定300年とされ、しめ縄が巻かれていることから地域では御神木として守られているのでしょう。



金剛力士像が安置された仁王門から向源寺へと入山しますが、この仁王門は以前とは随分と雰囲気が変わっています。
以前は仁王門の前を斜めに横切るようにして松の木がありましたが、今はその跡形すらない。
切ってしまったのか、台風等で倒れたのかは分かりませんが、見通しはよくなっていますね。



湖北の信仰の面白いところの一つには“神社と密教系寺院が並立されていること。”があり、向源寺(渡岸寺観音堂)も仁王門の横に「天神社」があります。
また、湖北は浄土真宗の信仰が盛んな地でありながら、真宗信仰と観音信仰が並び立つ地域でもあります。

湖北には「己高山仏教文化圏」と呼ばれる文化があり、古代から霊山・修行の場とされてきた己高山信仰と北陸から流入した泰澄の白山信仰、比叡山からの最澄の天台宗の影響が融合して形成されてきたものといわれます。
湖北の観音を祀る寺院の大半は無住の寺院となっていて、地域の観音堂で地元の方が守り続けておられ、村の神社・村の寺・村の観音堂のそれぞれを隔たりなく信仰されているようです。



本堂には「阿弥陀如来坐像(平安後期)」が本尊として祀られ、横には十一面観音像を抱いた「小川清平之像」が安置されています。
小川清平という方は村人の一人で、向源寺再建のための浄財の募金活動に力を注がれた方だといいます。

向源寺の仏像群は本堂の隣にある観音堂に安置されており、観音堂内には国宝「十一面観音立像」、智拳印を結ぶ胎蔵界の重文「大日如来坐像」。
かつて文殊菩薩・普賢菩薩が乗っていた「象と獅子」の木像や厨子に入った40cmほどの「十一面観音立像」、痛みはひどいが平安期の「不動明王坐像」などが安置されています。

向源寺(渡岸寺観音堂)の「十一面観音」については今さら言うことはありませんが、やはりその姿は完璧なまでに美しい。
一般的には頭上にある化仏が両耳の所にあるのは珍しく、そのおかげでそれぞれの化仏が大きく造られ、全体のバランスに安定感をもたらしているように思えます。



十一面観音像は博物館展示のように全方向から拝観できるようになっているのですが、興味深いのは観音様の後頭部にある「暴悪大笑面」でしょう。
寺院の方の話ではこの笑いは嘲笑いで、“表面上だけはええカッコしているが、腹の中は汚い。その汚い部分をのぞき見してええ加減にせえよ!と嘲笑っているんです。”といわれます。

美しく慈悲深い観音像にしてその心には二面性を持っているということになりますが、そもそも菩薩は“仏の悟りを求める人”ですから、未だ悟りに至らず人間臭い一面もあるということなのでしょうか。
少し調べてはみたものの「暴悪大笑面」について納得のいく解釈には出会えておりません。

ところで、湖北の地は織田信長と浅井・朝倉軍が戦った「姉川の戦い」の舞台になったところで、近隣の堂宇民家はことごとく兵火によって焼き払われたといいます。
その時に観音像を地中に埋めて守った場所が「埋状地」として今も残されています。



また、参道の横には「星と祭」を書かれた作家・井上靖さんの文学碑があり、湖北の十一面観音信仰と井上靖のつながりが感じられます。
“慈眼 秋風 湖北の寺  井上靖書” 
現在は志を持った有志によって井上靖『星と祭』復刊プロジェクトが進められている最中でもあります。



高月町渡岸寺の観音さまや湖北の観音さまと井上靖のつながりを示すものとして、渡岸寺からすぐ近くにある長浜市立高月図書館には「井上靖記念室」があります。
井上靖直筆の原稿や愛用の品々、資料類と再現された書斎などがあり、今も湖北でリスペクトされ続けられていることが分かる記念室となっています。



向源寺(渡岸寺観音堂)では観光バスの到着はなかったものの、人が絶えることなく参拝に来られていました。
近年、湖北の仏像は東京の美術館への出張や、「びわ湖長浜KANNON HOUSE」での展示などで遠方から訪れてこられる方が多くなっているとも聞きます。
湖北で拝観したことのない仏像はまだ数多いのですが、そこは機会と縁ということになりますので、少しづつ拝観していきたいと思います。


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