僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~東近江市 石崎山 瓦屋寺(瓦屋禅寺)~

2020-01-31 06:12:12 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「石崎山 瓦屋寺」は、聖徳太子が四天王寺創建の際に当地の土を採って瓦10万8千枚を焼かせ1寺を建立したのが始まりとされます。
寺院の説明では、この山麓では白鳳時代より瓦が焼かれており、箕作山の山麓で瓦製造に携わっていた百済からの渡来人の菩提寺が始まりであったとも書かれてあります。

聖徳太子が四天王寺建立にあたって瓦屋寺を建立したという話には諸説あるようですが、百済の渡来人が住み着いていたという話は確かなようで滋賀と渡来人の深い関係が伺われます。
寺院は891年に東大寺の源仁僧都が再興し華厳宗・東大寺の末寺となったといいます。
その後、天台宗寺院となり織田信長の兵火に罹災して堂宇を消失するも、1644年頃には奥州松島・瑞巌寺の高弟・香山祖佳和尚によって中興され臨済宗妙心寺派の寺院となったという。



瓦屋寺は山中の古刹ではあるもののアクセスは非常によく、太郎坊宮(阿賀神社)の参集殿への林道から車で境内まで行くことが出来ます。
初詣に太郎坊宮のある赤神山の北峰へ登った時にも「従是瓦屋参詣道」の石碑がありましたので、両者は同じ尾根筋にあるということになります。



寺院へ向かう道筋にはジョギング・ウォーキングの方がチラホラと居られ朝のひと時を楽しんでおられるようです。
歩かれている方は道の最上部にある瓦屋寺まで来て、折り返して帰っていかれますので静まり返った寺院の境内には当方一人となります。



瓦屋寺は江戸初期に始まった「近江西国三十三所霊場」巡礼の霊場だといい、「近江西国三十三所霊場」では十八番札所になっているようです。
城郭のような石垣に囲まれた参詣路を進みますが、風通しのいい山の上ですから晴れているとはいえ、さずがに寒さがこたえる。



瓦屋寺の山号は「石崎山」となっており、石の山の上に建てられているかのような寺院です。
太郎坊宮のある赤神山とつながっている山ですから、まさに岩石から成る石山という表現が出来ます。



参詣路には不動池の向こうに不動明王が祀られ、観音さまを描いた石碑も祀られています。
歩いている時に聞こえるのはツグミの声のみ。何とも爽快な気分になります。





ところで、山の中にある瓦屋寺へ道路が出来るまでどうやって参詣していたのか。
一つは太郎坊宮から尾根沿いに行く山道がある。そしてメインの参詣道だったのは麓から2000段あるというこの石段だったようです。
石段の途中には「聖徳太子御腰掛石」があるというのですが、1000段だとか2000段の石段登りはパスさせていただきました。



参道には「磐石岩」という巨石が鎮座し、古代には磐座として祀られていたのかと思わせる雰囲気があります。
湖東一帯には石/岩を信仰の対象としてきたとしか考えられない石の文化が多くみられます。



本堂は1672年頃に再建された建造物で、背景の山の緑にとけ込むように苔むした茅葺屋根の味わい深い古寺です。
少し老朽化が進んでいるようにもみえますが、2023年10月から12月の特別開帳期間までには50年振りの本堂修理が行われるようです。





須弥壇には三十三年に一度御開帳されるという「十一面千手観世音菩薩立像(平安期)」や「聖徳太子像(南無佛・南北朝期)」が秘仏として安置されているといいます。
2023年の御開帳では修復後の御堂で、十一面千手観世音菩薩立像の御開帳と共に聖徳太子像も聖徳太子御崩御1400年法要として御開帳されるそうです。



須弥壇には秘仏「十一面千手観世音菩薩立像」の御前立が厨子の前に立たれ、四方を「四天王像(平安期)」が守護しています。
本尊の十一面千手観世音菩薩立像は真数(手が1000本)有る千手観世音菩薩だといい、疱瘡(天然痘)や流行り病・難病に霊験あらたかとして参拝者が訪れたといいます。
その際に、薩摩芋を供えて諸願を念じたことより「芋観音」と称されてきたようです。



本堂の横には「地蔵堂」があり、「地蔵菩薩半跏像(平安期)」が本尊として祀られ、脇侍として「聖観音」「不動明王」が祀られています。
地蔵菩薩が半跏像なのも魅力的ですが、古色のままのお姿に仏像の良質さを感じます。





山の上部の展望台へと続く石段には大きな「西澤真蔵氏表彰碑」がありました。
西澤真蔵という方は滋賀県の愛荘町に生まれ、麻布や綿布の販売で財を成し、愛知県の「枝下用水」の開削に私財を投じた方だそうで、近江商人の三方よしの精神を持っていた方のようです。



眼下に広がるのは蒲生野の風景。
奥にある山は湖東三山か鈴鹿山系か?蒲生野の盆地はいつ見ても心安らぐ風景が広がります。




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御朱印蒐集~三重県津市 高田山 専修寺~

2020-01-26 17:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 日本の仏教の宗派は大きくは「奈良仏教系」(法相宗・律宗・華厳宗)、「密教系」(真言宗・天台宗)、「鎌倉仏教系」(日蓮宗・浄土宗・浄土真宗・融通念仏宗・時宗)、「禅系」(臨済宗・曹洞宗・黄檗宗)の13宗派があるといいます。
13宗派とはいっても実際には各宗派の中に更にいくつかの宗派があるのですが、「浄土真宗」にも「真宗十派」があり、今回「真宗高田派」の本山である「専修寺」へ参拝しました。

専修寺で紛らわしいのは三重県にあるのが「本山専修寺」で、栃木県真岡市高田にあるのが「本寺専修寺」となり、本山と本寺の2つの専修寺があること。
歴史的には専修寺は栃木県に始まり、三重県の一身田専修寺に中心を移していき、現在に至るとされます。



「本寺専修寺」は1225年、54歳の親鸞上人が関東各地を御教化中に明星天子の夢のお告げにより栃木県真岡市高田に根本道場を建立したのが始まりだといいます。
しかし、高田の本寺専修寺が戦国時代に兵火によって炎上したことにより荒廃し、江戸時代に入ってから再建されたようです。

三重県の「本山専修寺」の方は、第十世真慧上人により伊勢国の中心寺院として建てられ、後土御門天皇綸旨「皇室の御祈願所」となったといいます。
また本寺が炎上したことなどもあり歴代上人がこちらに居住するようになって、本山として定着していったようです。



皇室の御祈願所だったことから築地塀は五本筋塀と高貴な寺院であることが示され、塀には『祝国宝 如来堂 御影堂』の横断幕が掛けられている。
「如来堂」と「御影堂」は2017年に国宝指定を受けたばかりの建造物で、国宝以外にも専修寺には11棟の重要文化財建造物がある。

専修寺の周囲は寺内町として独立した町のように作られていて、山門の少し手前には「釘貫門」という門が石橋と共にあり、結界をなす装置となっています。
現存するのはこの一ヶ所だけですが、宝暦年間の絵図には他に3ヶ所の釘貫門(矢来)が描かれているということから、かつては4ヶ所の結界があったようです。



専修寺には「山門」「唐門」「太鼓門」の3つの門があり、まずは「山門」から入山します。
山門は1704年に再建された門で、入母屋造の五間三戸二階二重門となっており、幅は約9mの実に見応えのある大きな山門です。
山門もそうですが、堂宇の大きさなどを見ていると、京都の大寺に来たような巨大さを感じたのが最初の印象です。





専修寺は、11棟もの重要文化財建造物を有する寺院ですから、どの建物を見ても全て重要文化財なのが凄い。
お土産の販売所とお茶屋がある「茶所」までもが重要文化財なのですから驚くほかありません。
中でも中心を成すのが国宝の「御影堂」と「如来堂」になります。



御影堂は1666年に上棟(再建)された御堂で、間口42メートル73、奥行33メートル50、畳に至っては780枚が敷かれているというとてつもない大きさ。
外観は巨大ではあるものの地味な造りになっているが、外陣に入るとその煌びやかさに厳粛さを感じる。





御本尊は宗祖親鸞聖人の「御木像」で中央須弥壇に祀る。
両脇壇および両余間に歴代上人の絵が敬置されており、浄土真宗らしい壇となっているが、仏像拝観とは別の意味で手を合わせ、ナムアミダブツ...と唱えたくなる敬虔さがある。



さて、今度は「唐門」から入山することにします。
唐門は如来堂の正面にある四脚門で1844年に上棟された建造物で、一般的な寺院では唐門は通行禁止となっているが、専修寺では通らせてもらえるのがありがたい。






「如来堂」は屋根を2重にしているため、大仏殿のように見えるが2階はなく、単層の建物となっている。
寺院の外観で見事なのは「詰組」と呼ばれる唐様の建築方法で造られ、圧倒されるかのような美しさを感じる。





寺院としては如来堂が本殿ということになり、本尊としてお祀りされているのは「証拠の如来」と呼ばれる「阿弥陀如来立像」です。
「証拠の如来」とは、第10世真慧上人の時代に本願寺の蓮如の教えを誤って解釈して悪行に走るものが出てきた時、真慧上人が比叡山に登って真宗の正意を講ぜられたといいます。
比叡山の僧侶たちは真慧上人の言葉に感動して、その証拠として阿弥陀如来尊像を真慧上人に献じられたと伝わったことが由来とされます。



如来堂と御影堂は「通天橋(重文)」でつながっており、往来することが出来ますが、この回廊も実に雰囲気があります。
通天橋の外には巨大な霊木の切り株が奉納されており、そこからは生き物のような強い生命感が伝わります。





何度も門を出たり入ったりしていたのですが、最後は「太鼓門」の入出をします。
太鼓門は、平屋建ての長屋門の上に三層の櫓をのせた珍しい門となっており、最上階に大太鼓を吊っていることから太鼓門と呼ばれているそうです。
1872年の暦制改正までは、この大太鼓が寺内町の人々に時刻を知らせていたといいますから、江戸時代の寺内町の様子が少し想像が出来ます。



専修寺でどうしても見たいものがあって寺院の人に聞いて探したのが、「環濠」の跡でした。
専修寺は江戸時代初期に津藩藤堂家より土地の寄進を受け、伽藍の復興と共に周囲に環濠を廻らせて寺内町の形成を行ったといいます。

環濠は東西500m・南北450mの範囲を取り囲み、町へ入る3つの門は明け六つ開き、暮六つに閉門されたといいますから、環濠の中の寺内町は独立した地域だったといえます。
明治の廃仏毀釈によって寺領を失って、寺内町は様変わりして環濠も改修されて縮小しているといい、今はかつての姿の一部しか垣間見ることは出来ません。




水色の波線の部分が環濠

浄土真宗寺院に御朱印がないのは周知の事になりますが、専修寺では御朱印ではなく「参拝記念」の印を頂くことが出来ます。
親鸞聖人は念仏の教えに生きられた方ですから、お参りしてどんな教えに出逢ったかということが大事だと考えられており、御朱印巡りに満足などせず本当の拠りどころとして教えを聞き続けることが重要だとされます。


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御朱印蒐集~三重県津市 恵日山 津観音~

2020-01-23 18:07:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 三重県津市は三重県の県庁所在地であり、人口は28万人で三重県内では四日市市の30万人に次ぐ臨海都市となり、江戸時代には藤堂家の津藩の城下町として栄えたといいます。
三重県は伊勢神宮を始めとする「神都」の印象が強かったため、三重の寺院のことは全く知らない状態の中、津市へ行く機会を利用して寺院への参拝へ向かいました。

津市の市街地にある「恵日山観音寺」は、東京浅草の「浅草観音(浅草寺)」・名古屋大須の「大須観音」と並ぶ「日本三大観音」とされているようです。
浅草寺に参拝したことはありませんが、大須は訪れたことが記憶にある。しかし、津は全く初めての都市になります。



津観音は709年、伊勢阿漕ヶ浦の漁夫の網にかかった聖観音立像を本尊として開山したといい、1430年には足利幕府第6代将軍・義教の勅命により、三重塔や恵音院が建立。
1490年には「天台真盛宗」の開祖、真盛上人が観音堂において説法をされ天台真盛宗を広めたとされますが、現在は「真言宗醍醐派」の寺院となっているようです。



江戸時代の1608年になると藤堂高虎が伊予国から津藩に転封されると、“観音寺が津城の鬼門に当たる”として藤堂家の寄進によって堂宇が建立されていったといわれてます。
観音寺が明治の神仏分離令によって保護を失った津観音の境内には小学校や役場、商工会議所・銀行集会所などが建つようになり、寄席の開設など庶民の祈願所といった形に変貌していったようです。



しかし、昭和20年(1945年)に太平洋戦争の戦火により、塔頭7ヶ寺を含む41棟の大伽藍が一夜にして焼失し、国宝を含む多くの寺宝を失ってしまったようです。
ただし現在も約600点の寺宝は残されており、1968年の観音堂の再建から復興を始め、平成の時代まで再建が続けられてきています。
「仁王門」の再建は1980年。金剛力士像は昭和の仏像ということになります。





仁王門から入山すると正面には「観音堂」。
入山口の中央にあるのは「撫で石」で、四国八十八所の第六十番札所「横峰寺」から齎された石だとされ、石を撫でた手で身体の悪い所をさするとその箇所が良くなるといいます。
横峰寺は遍路の中でも最大の難所のようですので、ここで弘法大師と円を結ぶといつか参拝出来るかもしれないと思いつつ石を撫でる。





境内に入ると視野に入ってくるのは「観音堂」と「五重塔」。
写真には写してはいませんが、驚くのは参拝者の多かったことで、毎年数十万人の方が参拝する寺院のようです。



手水の龍が吐く水も勢いがあり、大きな手水鉢の水は底まで透き通ていて気持ちが良い。
寺院でも神社でも同じなのですが、手水が綺麗なところではありがたみが増すように思います。



境内で一際目を引くのは「丈六地蔵」の大きさでしょうか。
「護摩堂(1994年再建)」と比較しても大きさが分かると思いますが、半跏座の地蔵さんが境内に祀られているのはあまり記憶にありません。



護摩堂には中央に三鈷杵を持った「弘法大師」が、左に「愛染明王」右に「不動明王」に守護されて祀られています。
津観音がいつから真言宗醍醐派の寺院となったのかは不明ですが、三重県には「三重四国八十八箇所」の巡礼札所があり、真言宗の信仰が江戸期にはこの地に根付いていたのかもしれません。



津観音には三重県初の「五重塔」があり、草創期にあったとされる三重塔を偲ばせます。
五重塔は2001年に建造され、総高21m・間口奥行き3間の木造五重塔だといいます。
また、五重塔の内陣には「大日如来」「釈迦如来」「阿弥陀如来」「薬師如来」が祀られ、内陣一二柱には極彩色の「金剛界十六大菩薩」、壁面には「真言八祖」が描かれているようです。





「観音堂」の御本尊は「聖観音菩薩」で、脇侍に「毘沙門天」と「不動明王」を従えており、「伊勢の津七福神」めぐりの第一霊場としては、津観音の毘沙門天が選ばれているといいます。
また、通常非公開で天照大神の本地仏とされる「国府 阿弥陀三尊」が須弥壇の中に安置。
江戸時代の伊勢参りの参拝者が“阿弥陀に詣らねば片参宮”“津に参らねば片参り”と言われて多くの信仰を集めていたようです。





本堂の前には「「抜苦地蔵」「与楽地蔵」が独特の姿で安置されており、名前の如く苦を抜き楽を与える地蔵様ということになります。
この地蔵様は津市民の有志の方により、津市の美杉地域の木材で造られたもののようで独特の味わいのある像だと思います。





境内には「西国三十三所巡礼」の本尊石仏めぐりが奉納されており、津観音に対する信仰の深さが感じられます。
興味深いのはこのような聖域を取り巻く地域(大門の外)から漂ってくる歓楽街の空気でした。

飲食店が並ぶアーケード通りは、夜は営業しているのかもしれないが、昼の時間帯は寂れた印象が強い。
営業中の風俗店があったが、午前中から風俗に遊びにくる人がいるのかしら?と思いつつ前を通りすぎる。



津観音のある津市大門は、まさに清濁併せ飲む混沌とした町に見えましたが、津観音に参拝する人は多い。
庶民のための祈願所としての信仰と娯楽の中心としての面を併せ持った町を含めて、日本三大観音(浅草寺・大須観音・津観音)と呼ばれるのも分かるように思います。


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御朱印蒐集~京都市伏見区 城南宮~

2020-01-19 13:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 何年か前、心身共に行き詰っていた時に“なんでこんな状態なんだろう。”と思い調べてみたら「八方塞がり(陰陽道でどの方角に向かっても不吉な結果になる)」の年だったことがあります。
余りに苦しかったので“方位除け(八方避け)”のご祈祷を受けて気持ちを楽にしたいと思い、方位除けの祈祷のある神社を探すと、それほど数はない中で候補にあがった神社の一つが「城南宮」でした。
結局、違う神社で八方避けのご祈祷を受けましたが、御利益があったかどうかはともかく、気持ちはとても楽になった記憶があります。



所用にて国道1号線を西向きに走行していたところ、「城南宮」の鳥居が見えてきて、これも縁かと思い参拝してきました。
車での移動ならとても利便性のある場所に位置していて、ちょうど七五三の季節だったこともあり、参拝する方の多い神社でした。



神社仏閣に入る時は大鳥居または山門から入ると意識していますので、境内にある駐車場に車を停めた後、改めて大鳥居から入らせて頂きます。
先の経緯により陰陽道の色濃い神社かと思い込んでいましたが、参拝してみると実際は平安色の色濃い離宮神社だったのは意外な印象。





参道を進と手水舎がありますので身を清めますが、ペットボトルに水を詰めている方もおられ、尺ですくった水で口をすすぐというよりゴクゴクと飲んでいる方がいるのに驚く。
看板を読んでみるとこの水は「菊水若水」という病気平癒の霊験あらたかな名水だといいます。

東大寺のお水取りの香水は、若狭国の遠敷川から城南宮の「菊水若水」の下を通り、二月堂の若狭井に達するとの伝承があり、水の流れは文化の流れを表しているのかもしれません。
伏見は良質で豊富な水に恵まれたこともあって酒蔵が多く酒作りが盛んに行われた地で、伏見の名水スタンプラリーと題して「菊水若水」を含む11ヶ所の名水巡りのイベントもあるようです。



城南宮は平安京遷都に際し、国の安泰と都の守護を願って国常立尊・八千矛神・息長帯日売尊を主祭神として創建されたといいます。
また、平安後期になると白河上皇や鳥羽上皇により、城南宮を取り囲むように城南離宮(鳥羽離宮)が造営され、院政の拠点となったともされています。
熊野詣に出かける際には方位の災いがないように方違(かたたがえ)の宿所として、7日ほど滞在して身を清めてから旅立ったというのは陰陽道の考え方なのでしょう。



城南宮の建造物は本殿・神楽殿・拝殿・摂社ともに新しい建築物が多く、やや古そうなのが「拝殿」でした。
拝殿では春の方除大祭では芸能の奉納が行われるといい、「神楽殿」の表舞台では季節に合わせて「梅」「藤」「菊」の花を手にした巫女さんが巫女神楽を舞われるようです。



「本殿」は、1977年に焼失してしまったといい、1978年に再建された昭和の建造物。
平安後期の建築様式で建てられている本殿には、千木・鰹木はなく玉垣の内側に祀られた7社の末社には11神の御祭神が祀られている。





本殿では巫女神楽が舞われているのが向拝から垣間見える。
御祈祷を受ける前に舞われるのかと思いますが、何とも雅で優雅な雰囲気が伝わってきます。



城南宮には「神苑-源氏物語花の庭ー」と名付けられた庭園があり、それぞれ趣きの違う5つの庭園が鑑賞出来ます。
神苑には「源氏物語」に描かれた80種あまりの草木が植栽されているといいますが、こと花に関しては季節柄、花期を迎えているものはなかったのは残念。



上の「春の山」は椿や枝垂れ梅、三つ葉ツツジなどの春の花が美しい庭園だといい、枝垂れ梅が紅梅・白梅が入り混じるように咲くそうです。
下の「平安の庭」は平安貴族の邸宅に造られた庭を写したものだとされ、段落ちの滝から池に水が注ぎ込み、周囲を取り巻く木々は紅葉の頃はさぞや見応えがあることでしょう。





この平安の庭では春と秋に、色とりどりの平安時代の装束を身につけた7名の歌人が和歌を詠んで神様に奉納される「曲水の宴」という雅な儀式が行われるそうです。
平安衣装の男女が座るのは苔の庭で、扇形の板に説明が書かれてあり、この扇の説明板は神苑の各所に設置されています。





趣きが全く違うのは、池泉回遊式庭園の「室町の庭」、枯山水様式の「桃山の庭」と「城南離宮の庭」。
庭園を見ていてふと感じたのは、京都妙心寺の塔頭寺院「退蔵院」にある庭園「余香苑」が思い起こされたこと。

後に知ったことですが、城南宮の神苑も退蔵院の余香苑も「昭和の小堀遠州」と呼ばれる中根金作の作庭によるものだとのことです。
時代ごとの様式を模しながらも完成度の高さから近代的な印象があったのは実はこれが理由だったのかもしれません。







城南宮の境内には天照大神を御祭神とする「三照宮社」、菅原道真公を御祭神とする「芹川天満宮」、真幡寸大神・応神天皇を御祭神とする「真幡寸神社」摂社として祀られています。
真幡寸神社には、稲荷山の山頂から麓へ伏見稲荷大社が遷座し、その地にあった藤森神社が藤森に遷座し、藤森にあった真幡寸神社が城南宮に遷座したという伝承があるようです。



城南宮は平安遷都の頃より都の南に祀られ、城南離宮(鳥羽離宮)が造営されてからは天皇や上皇の行幸が度々あったといいます。
また、幕末には官軍の勝利を決定づけた「鳥羽・伏見の戦い」の主戦場となったようであり、いろいろな歴史を持つ神社であると言えます。




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御朱印蒐集~京都市右京区 退蔵院(妙心寺塔頭)~

2020-01-15 18:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都や奈良には有名寺院がたくさんあり、寺名はよく聞くにも関わらず一度も参拝したことのない神社仏閣が数多くあります。
京都市右京区の「妙心寺」もいまだに参拝したことのない寺院なのですが、今回は妙心寺の境内は歩いただけで、その境内にある「退蔵院」へと参拝しました。

立ち寄った動機の一つは、庭園を眺めながらゆっくりとしたいという気持ちと、もう一つは「瓢鮎図(国宝)」をあしらった御朱印帳の購入でした。
瓢鮎図は室町幕府4代将軍・足利義持の公案(禅問答)「丸くすべすべした瓢箪で、ぬるぬるした鮎を抑え捕ることができるか」を描いたおそらく誰でも一度は見たことのある水墨画です。
(実物は京都国立博物館へ寄託)



これまでも妙心寺の近くは何度も通り過ぎながらも初めて足を踏み入れたのですが、建築物の大きさと塔頭寺院の多さ、どこまで続くのか分らないほどの境内の広さには驚かされました。
表現はおかしいですが、「南総門」から中に入ると寺院の敷地が一つの町か村ほどの大きさで寺町が形成されているような印象すら受けます。





南総門の横には「勅使門」があり、その道筋には放生池にかかる石橋がありました。
この石橋は平時は閉じられていて妙心寺住持の入山・晋山時に新住職がこの門からはいられるようで、勅使門は1610年の建立だといいます。





境内を歩き一直線に配置されている「三門」「仏殿」「法堂」「大方丈」へと向かいますが、とにかく広い敷地を歩いていると感じが強い。
妙心寺の境内は、大徳寺を思い起こされるような寺院でもあり、それぞれの伽藍の巨大さに圧倒される。
臨済宗の総本山寺院には建築物の壮大さが共通していえると思いますが、妙心寺にも重要文化財に指定された13の伽藍が並びます。





法堂では狩野探幽の「雲龍図」が拝観出来るのですが、今回は見送って塔頭寺院の「退蔵院」へと向かいます。
退蔵院は庭の寺院となっていて、壮大な妙心寺とは打って変わって落ち着いた佇まいの静かな空間となります。





雰囲気のある石畳の参道を進むと「陰陽の庭」が見えてきます。
枯山水の2つの庭は敷砂の色が異なり、物事や人の心の二面性を伝えているといいます。





枯山水の「陰陽の庭」と趣きが全く異なるのが「余香苑」で、緑豊かな庭園には茶屋や藤棚があり、最奥には滝石組から水が流れ落ちています。
古寺にあって現代的な感じがする庭園なのですが、それもそのはずで1963年から3年かけて造園された庭だということでした。
桜・藤・蓮・サツキの花期にはさぞや華やかな庭へと変貌すると思われますが、今の季節は金木犀の香りがよく香る中で緑を楽しむ“昭和の庭園”となります。





歩き回って少し腰を降ろしたくなってきましたので「放生」の縁側に座って正面の庭を鑑賞します。
放生の奥へ回り込むと「元信の庭」と呼ばれる画聖・狩野元信が作庭した枯山水の庭が望めますので鑑賞します。
整って美しい庭園だとは思いますが、実際のところ庭の表現の意図は説明出来ない世界ではあります。





放生にはレプリカの「瓢鮎図」があり、将軍義持は京都五山の禅僧31人に賛詩を書かせたといいます。
禅僧は答えを漢詩にして、しかも漢詩を連句のように詠み継ぎ漢詩独特の韻(いん)を踏んでいるといわれます。(画の上半分)
当時の日本有数の知識人・文化人と足利将軍家が創り出した禅文化が花開いた作品といえるかもしれません。



「瓢鮎図」では滑りやすい鮎を瓢箪で押さえようという無理難題な公案となっており、そもそも瓢箪を持つ手からして瓢箪を落としてしまいそうな手付きになっている。
画は瓢鮎図と鮎の文字がありますが、実際はナマズの意であるといい、描かれた魚も鮎ではなくナマズと見えます。



御朱印(御朱印帳)を頂くと31人の禅僧が瓢鮎図に書いた賛詩の解説が1人分頂けます。
頂いたのは「其の十五」古篆周印の賛詩でしたが解説そのものが理解出来ません。

 瓢のあつかい顔許ほど慣れてはいまいに、鮎を狙ってのぞき込むのは唯だ深い淵。
 くっついたと思えばと還たくっつかず、一生懸命こちらやあちら。

全く理解出来ませんので解説の解説で花園大学国際禅学研究所の「瓢鮎図・再考」から引用すると...。
まず「蒙求」という唐の教科書に瓢にちなむ話として登場する“顔回と許由”という人物が前提。

 顔回と許由のように瓢箪を持っているが、その目的が違う。ねらいは淵にひそむ鮎。
 さておさえられるかどうか。力を尽くして、あちこちおさえまわる。(瓢鮎図・再考から転記)


御朱印帳

禅問答は分かったような分らないような話が多いのですが、面白いのは「瓢鮎図」の風刺画があること。
大津絵に「瓢箪鯰」という猿が瓢箪を担いでナマズを押さえている図案があり、これは「瓢鮎図」を皮肉ったものに見えます。
禅問答にしても風刺画にしても日本人には広い意味でのユーモアや自由度があったようですね。


大津絵「瓢箪鯰」


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切り絵作家 早川鉄平 絵本原画展『白鳥になった王子』~長浜市「さざなみタウン」~

2020-01-13 18:12:00 | アート・ライブ・読書
 切り絵作家 早川鉄平さんの作品を初めて見たのは2019年5月に長浜の大通寺(真宗大谷派長浜別院)で行われた「親鸞上人の七百五十回御縁忌」で展示された障子アートでした。
大通寺本堂の正面に連なる18枚の障子には阿弥陀如来や自然界の生き物、仏教に縁のある生き物などの切り絵が張られ、堂内から見える外の光に透かし出された切り絵の荘厳で素晴らしかったこと。

早川さんは金沢(石川県)に生まれ、モンゴルや北海道、小笠原諸島などで大自然に生きる野生動物を被写体としたカメラマンをされていたといいます。
米原の自然と人の中で暮らしながら写真を撮りたいと米原市の「みらいつくり隊員」となったのは29才の時だとか。
その後は奥伊吹に家族と共に居を構えて、森の生き物や自然の姿を切り絵作品で創作されているといいます。



会場となった「さざなみタウン」は、長浜市の「ながはま文化福祉プラザ」と「長浜商工会議所・長浜ビジネスサポートセンター」の2つの建物で構成され、図書館や音楽室・研修室などの施設があります。
「さざなみタウン」がオープンしたのは2019年12月のことで、オープンを記念して開催された『さざなみタウンオープニング祭』ではジャンルを超えた57コマの授業が行われたのは記憶に新しいところ。



オープニング祭りでは『クセになる!脱力系仏像めぐりとは』の授業を受けましたが、同じ時間帯に7~8コマの授業が時間割されていることもあってタウン内は活気に溢れていました。
今回の絵本原画展にあわせて「さざなみタウン」では玄関前に早川さんの作品が展示され、建屋内にも図書室や階段・フロアーなど各所に作品が溢れるように展示されてあります。





今回書籍化された『白鳥になった王子』は早川さんにとって初めての刊行物となるそうで、原画展は2階の一角の通路で開催。
『白鳥になった王子』を出版されたのは賤ケ岳の麓にある「能美舎」です。
昨年は 『星と祭』復刊プロジェクトで「星と祭」や「観音ガールと巡る 近江の十一面観音」を出版され、精力的に出版活動をされている出版社です。



 白鳥の姫と結婚し幸せに暮らしていた王子
 ある日「山の神」の元へ力試しに出かけることに 
 白鳥の姫の懇願も聞かず
 行く先々で出会う動物たちの忠告も聞かず
 とうとう山の神と相対した王子は・・・・(能美舎のHPから転記)





登場する生き物は伊吹山に住む生き物ばかりとなっており、イヌワシ・ニホンカモシカ・フクロウ・ツキノワグマ・シカ・・アナグマなどが王子への忠告を行います。
カメラマンの今森光彦さんも切り絵で里山を表現されていますが、昆虫・蝶・鳥・花などカラフルな雰囲気があるのに対して、早川さんの作品は黒で統一され、幻想的・空想的な作品といった印象があります。





以前は野鳥を探して山へ入ることがありましたので経験的に分かりますが、伊吹山や湖北の山々は生き物が数多く生息する自然豊かな場所が多いと思います。
早川さんの切り絵に登場する生き物でもツキノワグマ以外は出会ったことがありますので、湖北で馴染みのある生き物が登場するところにも魅力を感じています。





伊吹山は古代よりの霊峰で、ヤマトタケルが伊吹山の山の神を倒そうとして返り討ちにあったとされる伝説も残る山。
王子は生き物たちの忠告を聞かず、山の神と戦うのですが...。



ハクチョウは遠きシベリアから日本に越冬しに渡ってきて、冬は琵琶湖の周辺に飛来してきて越冬します。
切り絵の物語で飛び立っていった白鳥はシベリアへと北帰していくのか、別の場所へ旅立っていくのか。



さざなみタウンの談話スペースには後方から光を当てた“山の神”の切り絵が展示され目を引きます。
やはり早川さんの作品はライトアップされると美しさが増しますね。また大きな作品が多いのも見応えがあります。



今森光彦さんの切り絵展に入った時もそうでしたが、今回も切り絵を始めてみようと思い立ち、さっそく本屋へと向かい「心を整える 仏像の切り絵ブック」を購入してきました。
仏像を絵で描くとか彫るのは難易度が高く不器用な当方には到底無理ですが、型で作る切り絵なら何とか出来るかもしれません。
必要な道具は100均で手に入りますので仏像切り絵に挑戦してみます。




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「長浜豊国神社 十日ゑびす」の福餅まき~滋賀県長浜市~

2020-01-11 09:30:00 | 風景・イベント・グルメ
 兵庫県の西宮神社では「十日えびす」の「福男選び」が毎年ニュースなどで取り上げられ話題になりますが、長浜の豊国神社でも“商売繁盛でササ持ってこい”のお囃子にのって十日ゑびすの神事が行われます。
長浜豊国神社は「豊国大明神(豊臣秀吉)」と 「事代主大神」、「加藤清正」、「木村重成」を主祭神として祀り、長浜城で一国一城の主となった秀吉の3回忌に神社は建立されたといいます。
しかし、江戸時代には江戸幕府により秀吉信仰が禁じられると、祭神は町年寄によって密かに祀られていたとされ、明治維新後に豊国神社として復活したようです。



各地方には当地ゆかりの人物を奉ることが多く、例えばこの長浜の秀吉さん、彦根の井伊さんなど地域に関係があった人を崇敬することがあります。
長浜では秀吉縁の豊国神社、秀吉の砂金の振る舞いに起源を持つ「長浜曳山祭」などの行事があり、秀吉が長浜城主だったのは3年ほどだったにも関わらず秀吉愛のようなものが浸透しています。



JRの長浜駅から5分ほどの距離にある豊国神社のお囃子は、長浜駅のホームや商店街からでも聞こえるほど市中に響き渡り、福餅まきの時間には多くの方が神社に集まられます。
神社へ参拝される方は、まかれた餅に今年の繁栄を祈り、福餅を掴むことで今年一年の繁栄を期待してのハレの時間となります。



まず本殿に参拝して今年の繁栄を祈念致しますが、それほど人の数が多くないのは皆さん餅まきの場所取りをされているからであります。
参道には福笹などの縁起物を売るお店が並び、巫女さんたちが店頭に立たれて戎講のにぎやかな光景がひろがります。



長浜は、滋賀県の北部の田舎町にありながらも神社は豪奢な造りになっていて、拝殿は1898年の秀吉三百回忌に合わせて再建されたという建築物です。
譜代大名筆頭の井伊家がおさめる彦根藩に属しながら、恵比須さんをカモフラージュにして密かに秀吉を祀っていた長浜城下の町衆の意気が感じられる話です。

本殿の横には「出世稲荷神社」が建てられており、秀吉の出世物語にあやかりたいと参拝者が絶えません。
出世稲荷神社は内部が回廊になっていて周回することができ、回廊を歩いて行くと拝殿の裏側にも拝所がある。





さて、そろそろ餅まきが始まりそうなので境内を移動します。
驚くのは集まった人の多さと餅が飛んできそうな場所への密集状態でしょうか。
福娘さんたちが手に持っているのは“福”のシールが貼られた福餅で、皆さんこの餅を狙っています。



舞台の前に並ぶ人はリタイヤされた世代の方が多く、緩やかな餅まきになるかと始まる前は思っていましたが...。
最初の餅がまかれた瞬間から修羅の如くの押し合い圧し合い奪い合いが始まります。

飛んできた餅に手を伸ばせば他の方が伸ばした手の爪でひっかかれて血が滲む。
押されて後ろに倒れてしまいましたが、後方にいたおばぁさんも一緒に倒れてしまい支えながら起こすことにもなった。
とはいえ、周囲に居た人より多少背が高くリーチが長いのでお餅はキャッチしましたけどね。でも福餅はなし。



餅まきが終わりかけると混雑を避けて早々に甘酒の御接待を受けに行く。
大きな釜で甘酒を煮られていますが、餅まき会場から移動された方が次々と来られるのでここは大賑わい。
ご奉仕の方は大変そうでしたが、神社でのこういう活気は気持ちが晴れますね。



お店では立派な福笹や熊手の縁起物が並びますが、お値段もかなりのもの。
景気を反映してか大きな縁起物を買って帰られる人は少なく、小ぶりな縁起物を買われる方がチラホラといった感じ。



福餅まきは、福を掴みたい参加者の激しさに少しあさましいと恥じ入ってしまうほどでした。
餅まきが終わった時に自分の後ろで倒れた小柄なおばぁちゃんが餅が取れてなかったら分けようかと声をかけようとしたら、福の貼った餅を2個しっかり握っておられました。
福は奪い合っても得られるものではなく、福が来るべき人のところへ訪れるのでしょう。(教訓)


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【初詣】 「太郎坊宮」赤神山北峰を目指せ!その2~滋賀県東近江市~

2020-01-08 06:38:18 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 太郎坊宮(阿賀神社)での初詣を済ませた後、今回の目的であった赤神山北峰を目指します。
赤神山は山自体が神体山として崇められ、太郎坊天狗の伝承もある修験道・磐座信仰に神道と天台密教が混合した山伏の山と認識しています。

赤神山は350mほどの低山ではあるものの、尾根筋に箕作山がある湖東の霊山の一つであるといえます。
また、赤神山には北峰と南峰の2つのピークはあるものの、南峰は神の領域として立ち入り禁止となっているため、登れるのは北峰のみとなります。



鳥居の奥に見えるのが中腹に太郎坊宮の社がある赤神山で、推古天皇の時代には「正哉吾勝勝速日天忍穂耳命」を祀る社を建立し、「阿賀神社」としたといいます。
御祭神は天照大神の第一皇子にあたるといい、名前に“勝勝速”の字が含まれることから「神験即現」の大神、神様の御利益がすぐに現れる、勝利の神として信仰を集めているとされます。

山の右中央部の見えるのが参集殿で、そこから左に向かって少し上に見えるのが、夫婦岩や本殿がある場所。
ゴツゴツした岩の頂上が神の領域である南峰で、その裏側にあるのが北峰となりますが、正面からは見えない位置になる。



「龍神舎」という龍神を祀る手水舎の横に登り口から入り、少し入った所には「従是瓦屋参詣道」と彫られた石碑から、この道が「瓦屋禅寺」に通じていることが分かる。
瓦屋禅寺は、聖徳太子が摂津に四天王寺を建立した際に用いた瓦を造らせたのが寺名の由来とされる寺院で、太郎坊宮(阿賀神社)とは同じ時期に建立された寺院だといいます。



このハイキング道は約700mほどだとはいうが、どんな道か分からないため、太郎坊宮さんの参集殿まで車で上がり、石段登りを500段ほどショートカットして体力温存をしておきました。
最初はなだらかな道が続き、歩くのは辛くはないが、雨の後で落ち葉が濡れていて滑りやすいのが難点でした。



歩く道筋には巨石がゴロゴロと見られ、麓から眺めた赤神山の巨石の領域へ入っているのが分かって楽しい。
「夫婦岩」のとてつもない大きさの巨石を通った後では驚異は感じないものの、山頂の磐座へ関心が高まる。



山道は単調な螺旋道が続くが、そろそろ(早々と)息が切れてくる。
どこからかシロハラらしき声も聞こえ、静寂の中で突然羽ばたく野鳥の羽音にドキリとしたりもする。



登り口から200mほど登った所の崖側に巨石があったものの、まだ僅かしか登ってきていない。
早々と休んでしまうと登るのが辛くなってしまうのでとにかく登るしかないと上を目指す。



10分近く歩いて赤神山まであと200mとなる分岐点へ到着。
箕作山山頂へは2km。ここは迷う事なく赤神山方面へと足を進めることになる。



もう少しの所まで来ているのだけど、道の傾斜が強くなって岩の段が増えてくる。
山頂に近づいているのだから当然傾斜も強くなるが、あと少しが中々進まない。



ここまで来るまで岩を登ることはなかったが頂上近くになって大岩が立ちはだかる。
この岩の先に道が続いていて迂回路もないため、どっこいしょとばかりに岩を登って先へと進む。



そして登り切った場所に鎮座する大岩が赤神山(太郎坊山)の北峰の頂上であり、頂上に坐する磐座でもある。
“岩に登るな”とは書いていなかったので、手を合わせてから登るとそこには蒲生野を見渡せる眺望が拡がる。



岩の後方に生える赤松の枝にはピークを示す看板が何枚も掛けられている。
また、木札を奉納されている方もおられるようで、岩場には木札と積まれた小石がありました。



北峰のすぐ向こうに見えるのは神の領域である南峰で立入は出来ない場所。
おそらく南峰の向こう側の斜面に我々が知る赤神山の光景があるのでしょう。



赤神山と尾根伝いにある箕作山のピークが近くに見える。奥に見えるのは繖山でしょうか。
こうして眺めるとこの一帯には古くからの信仰の文化が根付いていた山が林立していることが分かります。



蒲生野の美しい田園地帯が眼下に広がり、山に囲まれた盆地が見える。
滋賀県の面積は琵琶湖の面積が1/6と人が思うよりは狭く、山林は約半分を占めるといいます。
残りの3割強程度が盆地になりますから、自然が多く残されているのも理解できます。



頂上部には磐座の他にも巨石がゴロゴロとしているが、山を神社鳥居の正面側から眺めた姿ほど多くは感じない。
とはいえ周囲に高い山がないため、雲が多いにも関わらず眺望は抜群です。



もと来た道を下る途中には山頂の磐座が裏側が見える。
全景がフレームに収まらないほど大きな巨石で、まさに巨大な岩の壁となっている。



小雨がパラついていた天気は登っている間に晴れ間が見えるようになり、少し汗をかくほど体が温まってくる。
下り道では女性2人組と登山スタイルの2人組に出会った。
女性2人は時々会話しながら登っていかれ、登山スタイルの2人は赤神山から先へも行かれるのであろう、息は全く切れていない。



摩崖仏や石仏、磐座を求めて山の中へ入ることが多くなってきていますが、やはり体力の衰えを実感します。
そのため、低山の一部分だけを歩くことになりますが、苦しいながらもそこにどうしても見たいものがあるので行くのでしょう。


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【初詣】 「太郎坊宮」赤神山北峰を目指せ!その1~滋賀県東近江市~

2020-01-05 17:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 太郎坊宮(阿賀神社)へ参拝するのは2年振りとなりますが、今年はある想いを持って太郎坊さんへ参拝しました。
それは太郎坊宮のある赤神山北峰へ登り「神体山」の頂上の磐座を拝むことでした。

赤神山は、山自体がご神体として信仰されていて、天狗の太郎坊が住む山として崇め祀られている霊山と呼べる山。
山には南峰と北峰の2つのピークがあり、南峰は太郎坊宮側の頂上となるため立ち入り禁止ですが、北峰へは登ることが出来ます。



本来なら「成願寺」へと続く石段から740段の石段を登っていくわけですが、今回は体力温存のため参集殿近くにある中腹駐車場を利用してショートカットします。
従いまして今年は成願寺への参拝は諦め、この最初の石段登りは行っておりません。



到着した時は小雨がパラついていて朝も早い時間帯だったこともあって人の姿は少なく駐車場にもすぐに入れましたので、さっそく残りの260段の石段登りを始める。
初詣の時期、この石段には毎年長蛇の列が出来ますが、雨の中長い石段登りをしないと参拝できない太郎坊宮参拝を躊躇われた方が多かったのかもしれません。



石段の近くには十二支の石造が並んでおり、「子(子授)」の石像。
子年は、新しい生命が種子の中に萌し始める状態だといいますので「子授」と御利益の言葉が彫られているのでしょう。



参集殿から鳥居を抜けて石段を登ることになりますが、登っていく人が少ないためすぐに登りきれる。
この鳥居から上は“表坂”を進んで「夫婦岩」から「本殿」に行って参拝し、“裏坂”を下りて「地主社」「一願成就社」「七福神」「不動尊」を経て「絵馬殿」へと戻ることになる。



石段の途中にある「龍神舎」の横に赤神山北峰への登り道はあるが、まず手水で心身を清めて本殿への参拝を行う。
龍神舎は岩の窟の部分に設けられており、奥には竜神様が祀られ手水の龍の吐水するにも勢いがあって気持ちが良い。





龍神舎から「愛宕社」「稲荷社」「二見稲荷社」の祠を越えると、「夫婦岩」の巨石へと到着する。
山側にある岩を“男岩”、谷側にある岩を“女岩”といい、高さは数十mあり、幅80cmの道が約12m続く。



夫婦岩は“”この岩の間を通って参拝する者は、即座に病苦を除き諸願が成就するが、悪心あるものは岩に挟まれる”との戒めの場となっている。
人の列を待つこともなく夫婦岩の間を進めるのはありがたいことで、やはり神社仏閣は早い時間に参拝するものだと実感する。



夫婦岩を抜けて振り返ると“女岩”の巨大な岩肌が見える。
この岩の上に赤神山の南峰があるのであろうが、そこは神体山の神の領域となる。



初詣に太郎坊宮へ参拝に来た時に楽しみにしているのは、この場所から見る真っ赤なタマミズキの実の美しさ。
蒲生野を見下ろすこの位置からでないとこのタマミズキは見えず、冬の殺風景な景色に鮮やかな紅の色を添えている。



“裏坂”には各所に七福神の石像が祀られており、中でも興味深いのは弁財天が祀られている下にある「鎮魂窟」の祠でしょうか。
鎮魂窟の中で修行や瞑想が出来るようではありますが、古神の儀式の心得が必要になるといい、とても入れる場所ではない。



「お百度道」には太郎坊の「天狗像」が祀られており、これから登る赤神山北峰への往路復路の安全を祈願する。
登り口へはもう一度手水舎まで戻らなければいけませんので、絵馬殿で販売している甘酒を飲んで休憩です。



絵馬殿の辺りには縁起物の販売所や麺屋さん、今回は買わなかったけど大好きな「太郎坊だんご」などのお店が並ぶ。
縁起物である十二支の土鈴の子年をまだ持っていなかったため、紅白・福寿の土鈴をここで買う。



太郎坊宮(阿賀神社)を一通り参拝している間に話が長くなってしまいましたので、赤神山北峰の話は次回にさせていただきます。
赤神山北峰は350mの低山でしかも中腹からのスタートでしたので簡単そうに思えますが、登るとなるとそれなりに辛いもの。
とはいえ頂上の眺望は良かったですよ。...続く。


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【初詣】御猟野乃杜 賀茂神社~滋賀県 近江八幡市~

2020-01-03 18:08:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 2020年は「鼠」年で、十二支の1番目にあることから“サイクルの始まりの年”、あるいは鼠は子供をたくさん産むことや大黒天の使いとも呼ばれることから“繁栄の年”といわれます。
十二支と十干を組み合わせた暦の読み方では「庚子」の年とされ、“変化の年”と言われることもあるようです。

近江八幡市にある「賀茂神社」のある場所は、天智天皇が大陸の影響を受け、この地に国営牧場を築き、馬の調教と繁殖に力を注いだ地だとされます。
奈良時代の717年、元正天皇の勅命によりこの地を神社の地と定められ、736年には聖武天皇によって神社は創建されたと伝わります。



聖武天皇は、天変地異が起こり、危機的な状況にあった国の安寧を願い、陰陽道の祖ともされる吉備眞備に命じて、「気」の集まる当地に賀茂大神を祀ったといいます。
吉備眞備は奈良時代の学者で右大臣にまで上り詰めた方ですから陰陽師とは言い切れませんが、賀茂神社の本殿が表鬼門に建てられ、本殿が裏鬼門に向いているのは陰陽道の影響だとされます。



「連理の眞榊(産霊社)」は2本の榊が1本に結ばれていることから、縁結び・子授け・安産等に霊験があるといい、鳥居を抜けたすぐ先にあります。
鳥居の正面には「拝殿」が建てられ、その前には御神木「明神杉」があったはずだが...。



「明神杉」は樹齢800~1000年といわれる大木で、御神木には白蛇がすみ、白蛇を見ると一生幸せになるとの白蛇伝説があります。
過去に参拝した時も明神の杉を見上げて、見えるはずもない白蛇を探した記憶があるが、見るのも辛いほど無残な姿に変わってしまっている。



明神の杉は平成30年(2018年)9月4日、台風21号によって倒木したといいます。
2018年の台風は各地に大きな傷跡を残しましたが、この御神木が倒木したのは知らず、現地で見た時は声もあげられないほどのショックを受けました。



しかも神社創建の縁起から「馬の聖地」と呼ばれ、境内にあった大きな神馬像も木の下敷きになってしまっています。
賀茂神社には「足伏走馬」という平安時代から1千年以上行われている古式の競馬神事があり、そのシンボル的な存在だったはずが...。自然の驚異は怖ろしい。



賀茂神社にはかつて1寺2坊の「圓珠寺」という寺院があったといい、現在は「不動堂(護摩堂)」と「庚申堂」が残されています。
不動堂は護摩祈祷が行われていたとされる御堂ですが、普段は開いていないはずが、正月ということもあって内部拝観が出来るようになっていました。



ところで、圓珠寺は密教系(天台宗)の寺院だったとされており、堂内には「大日如来坐像」を中心に、五大尊(不動明王、降三世明王、軍茶利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)が安置されていました。
向かって左端に安置された仏像が何の仏かは不明ですが、神社の本殿と並ぶかのように仏教の御堂があるのは珍しい配置です。



また、拝殿の横には「庚申堂」があり、青面金剛尊が祀られています。
庚申信仰は中国の道教の「三尸蟲」によるもので、庚申の日に眠ると体内にいる三尸の虫が抜け出て天帝に罪過を告げ、早死にさせるという説によるものだといいます。

庚申の夜に行われる「庚申待」は平安時代に陰陽師によって広がったとされ、「庚申堂」の屋根には庚申(かえのさる)と“三尸”にちなんでか三猿の姿があります。
これは“身を慎んで悪いことは見ざる・言わざる・聞かざるという様に過ごせば幸せに過ごせます”との戒めのしるしだといいます。


見ざる


言わざる


聞かざる

本殿には四柱大神様が祀られ、四柱として賀茂氏の氏神である「賀茂建角身命」「賀茂玉依比賣命」「賀茂別雷命」「火雷命」が祀られる。
参拝者は元旦にしては多くもなく少なくもなくといったところだが、祈祷控室には何組かが待機されていました。



本堂や不動堂の後方には森が拡がっており、祭祀跡だとされる「祈りの斎庭」という小さな山がある。
この場所は天より光の柱が降り注ぐ地といい、大地のエネルギーが集まる所、日本の「気」が集まる場だとされています。



賀茂神社では「足伏走馬」が行われる400mの馬場が駐車場となっており、馬場に沿って森の横を通る帰り道、「御旅所(御生所)」がありました。
賀茂神社で大祭「賀茂祭」が行われる時に、大神がこの御旅所に渡御される御休息の地であるといい、奥にある4本の榊の木には賀茂大神の荒魂が宿っているとされます。





明神の杉の今の姿には参拝された方も大きなショックを受けたかと思いますが、変化のスタートの年として再生されていくことを祈念しています。
また、おみくじで大吉など引いたことのない当方には珍しく“大吉”を引きましたので、気分を一新して新たなスタートの年としたいと思います。


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