高木晴光の 『田舎と都市との ・ 日々こうかい記』

「新田舎づくり」を個人ミッションとし、田舎と都市とを行き来する人生・仕事のこうかい(公開・後悔・航海)日記

田舎の価値を見直そう

2013-11-05 17:34:58 | 主義・主張

 原発の是非は、将来のエネルギー問題、廃炉や東電の経営、大間原発は規制庁では安全審査ができないという課題・・・、既存廃棄物の処理問題・・・・どこで議論されているのだろう。 いつ再稼働するか、原発プラント輸出が経済優先で先行し、ホントの議論がされていない・・・、もしくは、解決への道筋すべてが見えなくなってきている・・・・。

それでも、経済成長のために原子力発電を続けるべきなのか、これから原発とどう向き合うかは、国民ひとりひとりが「自分の暮らし方」の問題として捉え考える必要がある。

ましてや北海道後志に住む我々は、泊村に原子力発電所を事実抱えています。たとえ廃炉になったとしても、電源開発の恩恵を直接受けて来た地域の振興、放射能汚染廃棄物の処理の問題と難題がなくなるわけではありません。

今、後志に住む私達は、これからの「生活・暮らし方」を、未来の子ども達のために、しっかりと自分事として考えなければならない、また、それができる絶好な立ち位置にいます。

この文章の前半は、次のブログにあります。

http://blog.goo.ne.jp/haruneos2/e/fe03b57c8d06798b72659b45ddc8c19f

 (以下、長文です)

◆いなか(後志)の価値を見直そう

  後志には豊かな大地があります。日本海の注ぐ尻別川の源流は支笏洞爺国立公園です。広葉樹も針葉樹もある針広混交の深い森が広がり、大型哺乳類のヒグマを始め数多くの野生動物が住んでいます。広く大きな空を目指すように羊蹄山が聳え立ち、その周囲の大地は広大な農業生産地です。そして、小樽から積丹の海岸線には砂浜や磯が続く多様性ある見事な風景が連続しています。さらに半島を回り寿都、島牧まで続く国道を南下しても、様々な奇岩・岩礁風景を切れることなく堪能することができます。その合間に次々と小漁港が続き日本海の海の幸が水揚げをされています。

 この豊かな大地での暮らしを一瞬に失うのが原発の過酷事故です。

  人々は都会に集中し生活をしています。人々と経済が集中すればするほど、森は消え、食料生産の場は都会から遠くに押しやられてゆきます。食糧は田舎から供給をされるようになります。さらに、今回の原発事故を契機に、電気エネルギーも田舎から都会に供給されている事実に、日本国民は改めて気づかされたはずです・・・・。

 基礎自治体は(町村)は人口が少なくとも人が暮らすために必要な機能があります。行政サービスを担う役場はもとより、消防や病院、福祉施設も銀行、自動車整備工場や商店もあります。それは都会に比べて選択肢が少ないですが、生活基盤となるインフラは世界中のどの国に比べても遜色ない程に整っています。我が黒松内町に年に1,2度、中南米、極東ロシア、中央アジア、アフリカ等から環境・観光行政や観光業、ガイドの研修生がJICAプログラムで1泊します。彼らが一様に驚くことが、「田舎のインフラ整備が整っていることです」 そして、豊かな自然とそこに根づく第一次産業です。そして、地域住民が登場して研修生に対応ができる「心豊かな人間関係性」です。

  先人達がたゆまぬ努力で築き上げて来た、これら田舎の社会資源を田舎に住む私達自身が見直す必要があります。グローバリゼーションに翻弄されずに、改めてローカルな価値を見つめ直し、人口減社会を前提にした地域コミュニティのあり方を考えたいものです。 

◆  生きる・暮らすことがリアルないなか(後志)

  女性たちは、男どもより「いのち」に対して敏感な感性を持っていると思います。生きるか死ぬかはビジネス社会の闘いの問題ではありません。今を生活すること、そして、目の前にいる小さな「いのち」を育てること、明日生まれてくる「いのち」を大切にすることが上手だと思えます。私は原発の是非は経済の問題ではなく、生き死に関わる生理的な問題、暮らし方の前に「生活できるか否か」の生存権の問題だと思います。

  いなか(後志)の農林水産業に関わる男は、都会の男より自然の中で「生きる」ことに対して、リアルに向かい合っています。毎日、空を見やり明日の天気を予想し、作物の日々の成長を思いやり、明日の仕事の段取りを考えています。せっかく育てた作物が風水害で一日にしてだめになることもあります。海水の温度が漁業に影響をします。波に揉まれる網は破れ常に補修し、農作業機械の整備も怠りません。常に道具に対して気をかけ整備しています。牛が健康に少しでも快適にするためには労力を惜しみません。何が安心して消費者に買ってもらえる収穫物なのか、どのようにしたら安全に作業をできるのか、生き物を収穫する仕事は、人間も生き物としてリアルに対峙しています。

  このリアルさが、都会の暮らしからどんどんとなくなっています。

先日、都会の量産販売のスーパーへ行くと、オーストラリア産の玉ねぎが198円で、その隣に北海道産が298円で売られていました。大量生産と大量輸送による流通の結果、安い食材が都会に届けられています。品質と量に違いがなければ多くの消費者は198円を選びます。しかし、その生産過程と流通のありさまを消費者は想像することはありません。目の前の値段と品質だけです。圃場で農家が玉ねぎを生産した何か月もの時間や労働は購買の目安にはなりません。

これで、本当にいいのでしょうか? 

このままでは、海外からの食物が安くどんどんと輸入されればされるほど、日本の生産現場は消滅してゆきます。グローバル化のひとつの現象です。世界的な異常気象が起こる時代です。被害を受けた地域からの輸入ができなくなる、穀物は先物相場で投資の対象ともなり、突然に価格が高騰することもあります。はたまたTPPはもはや避けられない国際情勢に追いやられていると思います。 

  ここ2年の間に、中国大陸の各地へ行ってきましたが、中国人の食品、農業生産物への安心安全に対する需要の高まりを実感してきました。有機農家も増えています。自然学校や環境保全の草の根NGOと地元農家や資本家が協働する土づくりから丁寧に実践し始めた農場もあれば、なんと、有機土壌の土づくりをしている会社もありました。

中国の農業技術の進歩は日本が何十年をかけてきたものを一気に数年で追い抜くかもしれません。日本への輸出量は増えてゆくでしょう。しかし、一方ではすでに何億人もの超大金持ちと中間層が登場し、購買力、国内需要は高まっています。ひとたび生産ができない気候となれば、輸出ができない事態も簡単に想像できます。

シンガポールのように人口が少ない国なら、食料は輸入に頼り、工業生産の輸出で国家経済を作り上げてゆけばいいと思います。しかし、日本は人口減社会に入ったとはいえ、1億人前後の人口をここ30年は抱えなければならないのです。

 この国では農業者の高齢化の問題もあり、農業生産そのものが危機に瀕している。豊かな圃場を持ちながらも食糧が生産できなくなるかもしれない。これは、核を持つか持たないかよりも大事な国家安全保障の問題だと思います。

 この事実を国民はもっと真剣に受け止めなければなりません。

  だからこそ、今、都会の消費者にもっと日本の生産現場を見てほしい、体験してほしいと思います。生きるということのリアルさを感じてほしい。

 ◆  協働の概念形成

  異なるセクター同士が一緒に仕事をすることを協働と言います。たとえば、異なる分野のNPO同士、市民参加型、行政と民間、大学や企業との産学共同、商工会等との協働は今、新しいシゴト創造、地域づくりを目指し、その道筋が開かれようとしています。単独でたこつぼ的に活動をしていても、なかなか実効性があがる社会貢献活動・雇用ができる社会的事業になりにくい程に、社会の仕組みが混在化し複雑になっています。

人口が少ない地域では、高齢者ケアをするにも、医療・介護、地域交通、ITや買い物支援、地域との関わりなど同時に解決してゆかなければならない課題が複層的に存在します。農業地域に大農法だけを導入しても、効率化され永住できる人は少なくなります。高齢化の進行で、結局のところ若者は少なくなるでしょう。

農業と何か他産業、観光や教育とのかけ合わせによって地域を再生する必要があります。これは、「第1次産業の6次化・・1次x2次x3次で6次?」などと言われていますが、産業だけに焦点が当たり「地域での暮らし方」の視点が薄いように思います。都会から持ち込まれた概念に振り回され「売れるか売れないか」だけの損益分岐点を考えた商品開発ではなく、そこに生産コストや時間がかかっても、「暮らしが豊かになる」視点を入れたいものです。

  例えば、山菜の加工品を作ると計画します。ひとシーズンに500個を1000円で販売できたとしても、「50万円しか売り上げが上がらない、これでは人件費にもならない。」と諦めるのではなく、30%の利益で15万円を「良し」とする。しかし、その生産過程で、山菜の持続的な採取のために保全を考える、パッケージデザインに知恵を出し合うことで活力あるコミュニティを生み出す、若いボランティアと高齢者が一緒に採取に行くなど、お金で勘定できない社会福祉的付加価値という概念を明確に取り入れることが大切だと思います。

 協働事業を作る支援のメニューは国、地方自治体、基礎自治体にたくさんあり、また様々な民間補助金制度があります。しかし、これらは待っているだけでは委託や補助がされるわけではありません。知恵を絞って提案書を書いてプレゼンテーションをして採択されなければなりません。 しかし、残念ながらその結果評価は、なんぼ売上げられたか・・ であり、社会関係性資本の創造、構築という評価軸がどうも・・ない!!!

社会福祉的な観点もいれた協働事業の企画提案を書く、俯瞰的な大きな視野を持ったプランナー・知恵者はもちろん必要ですが、それだけでは実現に向けて動くことはできません。「出合い」を演出する、異なる人々、団体、行政など関わる主体を上手に繋げる役割を果たす「社会的なコーディネーター[1]」が必要です。しかし、その役割を担う人材が非常に少ないのが現状です。

 この役割は、誰か人材をポンと地域外から送り込む、または地域の人材を右から左に役割を変えて与えても簡単にできるものではありません。

社会的コーディネイターは誰もがすぐにできることではありません。訓練が必要なのです。

しかし、この役割を担う人材は育てないといけない・・、という認識がまだまだ一般化されていません。この人材不足の問題を課題化し解決してゆかなければならない。つまりは社会的コーディネイターを育成することを併行しながら事業を展開することが、協働プロジェクト推進には必要です。

 社会は優れたコーディネーターを求めている

 地域デザイン、地域コミュニケーターなど聞こえのいい言葉が氾濫し始めています。地域づくりが成功した事例がTVでもドキュメントで放映されることが多くなりました・・・。 けっこう、かっこイイ!!  しかし、そんな簡単にはゆかない・・・。

この人と人、知恵と知恵を重ね合わせる、重要な仕事をこなすには、営業コミュニケーションやネゴシエーション(交渉)、コーディネートのスキル(技能)が不可欠です。研修の機会はいっぱい設けられているようですけれど、協働の意義や本質的なアプローチの仕方がうまく伝えられていないな、と思うことも多い。

逆に言うと、それがしっかり身についている人材がいれば、その地域での新たな協働、コミュニティづくりは成長できると思います。

  コーディネートするステージは、市町村レベル、都道府県レベル、地方自治体と中央政府、あるいは国際レベルなど、複層的に存在しますが、コーディネーターの役目は基本的に同じです。「ねおす」のスタッフは「地べた」レベルが好きだし、得意にもしているので、市町村位の広さで、コーディネーションができる人材をたくさん育ててゆきたい、育つ場づくりをしてゆきたいと思っています。

このレベルでお客さんに満足いただけるスキルを身につけたら、どんなレベルに行っても通用するでしょう。

 ひとつ実例です。

「ねおす」は「森のコミュニティーセンター」、通称「コミもり」という事業メニューを用意しています。地元の森にいろんな年齢、立場の人たちに集まってもらい、森林アクティビティを通して森の魅力や大切さを学びながら、一緒に環境問題を考えようという活動で、若いスタッフたちが運営を任せています。

 小さなマチだったら相手の顔も見えやすいし、多少怒られても、地元の人に助けてもらいながら、何とかプログラムを仕込んでいくことができます。初めは試行錯誤の連続ですが、その中で時間をかけて悩みながら、自分の立てたプランを実現するための道筋を考え、タイミングを計り、実践で訓練していく。初めは現場で汗をかく「チーフディレクター」に過ぎませんが、だんだん、地域資源を組み合わせながら事業をプランニングする「コーディネーター」の顔になっていく。「コミもり」はお客様に対するサービスメニューであると同時に、「ねおす」の事業全体の中ではそういう「若手育成プログラム」でもあります。

 「ねおす」は昨年3月以降、東日本大震災の復興支援で岩手県釜石市の被災地に入りました。「ねおす」のスタッフたちは、それまで地域で人と人とのつながりをつくりながら、四苦八苦しながらスキルを磨いてきたので、被災地でも「人との出会い方」に長けていました。震災10日後くらいにはもう地元の保育園を借りて活動拠点を構えることができました、間もなく、独自にボランティアセンターも立ち上げました。初めての場所、しかも大混乱の現場でしたが、スタッフたちはみんな「匂い」がわかります・・・。ここで誰と出会い、」どういう順番でつないでゆけば、関係性ができるかそのポイントが直感的にわかる。ひごろのトレーニングのたまものだと思いました。

 私の最近の活動コンセプトは、若い人たちがそういうトレーニングを詰める「育ち場づくり」です。

どんどん自分たちで新しいものをつくっていく場、プラットフォームがないと、次の動きもできないでしょう? これは、営利企業みたいに優秀な人材を自社に囲い込むためのインターンシップ[2]ではなく、あくまで当人たちが社会性を身につけるための「社会的インターンシップ」でなくてはなりません。そのためには、ぼくら受け入れる側の立ち位置もきっちり確保していかなければならなりません。

 いま日本の社会全体を見渡してみても、領域を超えて活動できるさまざまなタイプのコーディネーター=仲人役が必要とされているとつくづく感じます。

それで食べていくことは大変ですが、仕事は増えていて、何とか生きていくことは(笑)できています。すでに首都圏にはフリーランスのコーディネーターがたくさんいます。 

地域と自然をリアルに体験してほしい

  この20年、多くの若者たちが「ねおす」を通過していきました。NPO法人化10周年(2008年)の時に調べてみたら、全国で100人くらいの消息が分かりました。結婚や出産の話がいろいろ聞こえてきて、これは単純にうれしい。世代が交代してひと回りだと考えれば、「ねおす」もやっとひと回りしてきた感じです。ともあれタネ蒔きの季節は過ぎて、芽が出て茎が伸び始めた段階にはきていると思います。

 これからは、私達のような者がどんどん田舎に移住していって、必要な役割を果たしてくれるといいなと考えています。

人口減少と高齢化にともなって、田舎はますます人が減っていきます。逆に都市部にはいっそう人口が集中していくでしょう。その時、地方に残る地域社会と自然をどう保全し、どう維持していくか。エコツーリズムにその答えがあります。

ツーリズムやコーディネーションに関心のある若者には、だからぜひ田舎に移り住んでリアルな体験をしてほしい。チャンスはすごくいっぱいあると思う。


 

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2 コメント

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Unknown (BNB)
2013-11-05 23:34:11
今回の記事、じっくりと読ませていただきました。

私も、叔父の養殖場を引き継いでそこで何か出来ないかと最近は真剣に考えていますが、まだまだ勇気と踏ん切りがつきません。

岐阜に来て、学校の受け入れ、体験、次の年度への準備など様々なことを経験してきました。

北海道に居た頃よりも、わずかではありますが色々な力も付けたと思います。

そろそろ、北海道に戻るべきか悩んでいます。
黒松内へ行った時に、色々とお話させてください!
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ありがとう (Jett)
2013-11-06 16:51:38
BNB、長文を読んでくれてありがとう。 養魚場があるの?。  とりあえず、冬の期間、黒松内に逗留して助っ人になってくれるかい? 
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