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【京都幕間旅情】退耕庵,関ヶ原の戦いと鳥羽伏見の戦いの歴史舞台となった小野小町所縁寺院

2017-10-25 20:06:41 | 写真
■退耕庵,東福寺塔頭の一つ
 紅葉に輝く東福寺は千余年の歴史と共に多くの拝観者と散策の人々を惹きつけますが、との途上に退耕庵という寺院があります。

 退耕庵、明治維新の志士、冥福を祈念する塔とともに東山区の下の方に在り、京阪本線やJR奈良線の東福寺駅から東福寺へ歩みを進めますとその途上にある小さな寺院です。東福寺塔頭の一つに数えられ、応仁の乱以降一時荒廃しましたが再建となり、今に至ります。

 東福寺第四三世の性海霊見が1346年に建立しました。東福寺の通天橋から歩みを進めて三分という指呼の距離にあり、しかし創建当時の伽藍は応仁の乱の戦禍に崩れましたが、安土桃山時代後期の慶長年間に臨済宗の高僧安国寺恵瓊により再建される事となりました。

 小野小町に所縁ある寺院として知られ、拝観には数日程度の特別公開が年に一回ある他には、拝観予約を行い茶室や庭園を拝観する事は出来ます。地蔵菩薩坐像の参拝は通年を通じ参拝者に広く扉を開けており、地蔵菩薩坐像との縁を願う探訪者は快く迎えてくれる。

 地蔵菩薩坐像と共にある退耕庵ですが、幾度も歴史の転換点を左右する舞台となります。安国寺恵瓊が応仁の乱にて荒廃した退耕庵を再建したのは慶長年間の初めごろ、安土桃山時代後期です。この時代には日本の歴史を左右する大きな出来事の渦中にここ京はあった。

 豊臣秀吉の治世下、京都は漸く応仁の乱寄りの大規模な復興に至りました。寺院は堀と壁の要塞の如くの戦時色と応仁の乱後のその廃墟の一群から個々の寺社仏閣の防御から御土井により天下人が京都そのものを防護する都市へ改造なり、平和都市へ転換を果たします。

 客殿と昨夢軒と、そして庭園は池泉観賞式と庭園枯山水庭園という四季折々の風景を湛える情感とともに造営されました。この再興も安土桃山時代、京都の秀吉による再興と新都市計画に合せ進められたのですが、秀吉の没後、退耕庵は歴史を左右する密議の場となる。

 昨夢軒は四畳半の茶室、ここは秀吉の没後に石田三成と宇喜多秀家により徳川家康討伐、関ヶ原の戦いへと続く一連の構成への密議を行った場所で、すぐ南の伏見城が徳川陣営である最中の密議へ、護衛の軍勢を待機させた伏侍の間と併せ、歴史を動かす議事を進めた。

 石田三成と宇喜多秀家の密議の茶室は特別公開の折に今なお風情を伝える現存の建物です。宇喜多秀家は備前国岡山も城主次男として戦国時代に生を受け、豊臣秀吉の備中高松城攻略や中国攻めへ参陣、四国攻めでは讃岐上陸先鋒、朝鮮出兵ではソウルを攻略しました。

 宇喜多秀家は、朝鮮出兵の文禄の役では明軍の李如松将軍を破って京畿道の平定を果たし、慶長の役では順天倭城の築城で連絡線を防衛します。五大老の一人に任じられしかし関ヶ原の戦いにて防御陣地が隣接する小早川秀秋陣地であり、結果、壊滅する事となりました。

 関ヶ原の戦いで潰走した宇喜多秀家はその後伊吹山へと敗走しますが、奇跡的に矢野五右衛門により匿われ、京都太秦を経て薩摩の島津義弘の下へ落ち延びました。しかし、江戸時代に入り流石に無理があり、家臣島津家仕官を条件に幕府へ投降、八丈島配流となる。

 幕末へと時は大きく流れ、退耕庵は再び歴史の舞台へと登場します、鳥羽伏見の戦いにて長州軍が東福寺に司令部を置いた。宇喜多秀家は1616年に刑を解かれ加賀藩所領一部を譲る打診があるもこれを断り、1655年に八丈島で没しましたが、始まりは退耕庵の密議です。

 鳥羽伏見の戦いにて長州藩戦死者は退耕庵に手厚く葬られました。戦闘は接敵行軍の形を取らない幕府軍を長州軍は有利な地形で待伏せ圧勝しました。退耕庵での供養は、しかし恰も関ヶ原に至る密議の無念が、縁の形で結ばれたような、不思議な感慨を抱くものです。

北大路機関:はるな くらま
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