北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【日曜特集】横須賀地方隊伊勢湾展示訓練2010【4】伊勢湾上の観閲式(2010-08-21)

2017-10-08 20:04:42 | 海上自衛隊 催事
■高嶋博視横須賀地方総監へ敬礼
 群青の大海原と快晴の伊勢湾上において、観閲式へ艦隊がいよいよ洋上で会合します。

 伊勢湾展示訓練2010、観閲部隊は、横須賀地方総監高嶋博視海将がミサイル護衛艦こんごう艦上から観閲を行い、観艦式のような観閲部隊編成でした。観閲部隊は、ヘリコプター搭載護衛艦しらね、護衛艦しらゆき、掃海艦つしま、と既に除籍された艦艇が参加です。

 単縦陣で、ヘリコプター搭載護衛艦ひゅうが、護衛艦しらゆき、ヘリコプター搭載護衛艦しらね、掃海艦つしま、多用途支援艦えんしゅう、が伊勢湾を進む情景は勇壮ですが、当方が乗艦する多用途支援艦えんしゅう、は単縦陣では後ろの方、文字通り後塵を拝する。

 第1護衛隊群司令糟井裕之海将補はヘリコプター搭載護衛艦ひゅうが艦上に海将補旗を掲げ、受閲部隊を指揮しました。群司令糟井裕之海将補は着任が8月20日、つまりこの伊勢湾展示訓練前日に着任したとの事で、着任と共に即座に展示訓練へ臨んだとの強行軍です。

 伊勢湾展示訓練2010は一般公開日が一日のみであった事から、実任務の増大故に一般公開は一日のみなのか、と思ってはいたところですが、群司令着任の翌日と聞けば、成程致し方ない、それにしても艦隊は20日既に名古屋に入港中、名古屋で交代したのでしょうか。

 第1護衛隊群司令糟井裕之海将補前任の群司令は山下万喜海将補、部隊を鍛え上げ交代を果たしました。山下海将は2016年12月22日に第49代 自衛艦隊司令官に就任、海上自衛隊の護衛艦隊や潜水艦隊に掃海隊群と戦闘部隊を一手に担う要職に就かれています。

 横須賀地方総監高嶋博視海将は、護衛艦しらゆき、ミサイル護衛艦こんごう、掃海母艦うらが、と観閲部隊の中央、ミサイル護衛艦こんごう艦上から観閲、高嶋博視海将はこの八か月後に管内で発災の東日本大震災にて統合任務部隊海上指揮官として重責を担いました。

 地方隊、という海上自衛隊の部隊は、全国の沿岸防衛及び災害派遣と基地の補給などに当たる機構となっています。そして有事の際には地方総監を統合任務部隊指揮官として、必要な部隊を自衛艦隊や全地方隊から集約し、任務に当る。地方隊は司令部であり拠点です。

 横須賀地方隊、海上自衛隊には全国の沿岸へ地方隊を配置していまして、横須賀地方隊、呉地方隊、佐世保地方隊、舞鶴地方隊、大湊地方隊、この5地方隊には海上自衛隊から地方総監を配置し、海上防衛任務や艦艇の補給維持と要員教育、情報収集に当たっています。

 海上防衛と云えば護衛艦、護衛艦と云えば護衛艦隊です、しかし、護衛艦は今日の海上自衛隊編成に在っては自衛艦隊に集約されていますが、地方隊は過去には護衛隊を隷下に有していましたし、自衛隊史をみれば、実は海上自衛隊の歴史よりも永いものがあるのです。

 海上自衛隊よりも横須賀地方隊のほうが長い歴史、といいますと首を傾げられるかもしれませんが、これは海上自衛隊の前身にあたる保安庁海上警備隊の時代から横須賀地方隊が配置されていたためで、警察予備隊と改編による保安隊という歴史を視ればわかります。

 第二次世界大戦の敗戦とその後の占領とともに行われた第日本帝国海軍の解体、第二復員省への改編を経て、我が国はその必要上から占領軍により海上保安庁を発足させ、密漁船団や海賊船取締りという現代日本周辺では中々ない任務や機雷掃海任務へ当りました。

 このなかで沿岸警備任務の延長線上では対応できない機雷掃海任務などへ対応するべく、1952年に海上保安庁から海上警備隊を独立させました、自衛隊発足は防衛庁設置法が衆参両院で可決されました1954年ですので保安庁創設や海上警備隊発足はその2年前です。

 今日では想像が難しいのですが、第一線の要員の認識としまして海上保安庁と海上警備隊、どちらが帝国海軍の継承者か、という認識もありました、この経緯は興味深い。海上保安庁が帝国海軍の継承、という認識は今日では少々時代が違いますが、当時は顕著でした。

 海上保安庁、旧海軍艦艇と同名の巡視船が多数運用されているところに往事の面影を見いだす程度ですが、当時の海上保安庁は旧海軍海防艦を多数運用していまして、海防艦を巡視船というかたちで継承していた訳です。海防艦を継承する海上保安庁が海軍を継承する。

 海防艦といいましても、鵜来型海防艦などは現在の小型護衛艦に匹敵し、排水量では海軍駆逐艦と同規模、大戦では船団護衛にてアメリカ潜水艦と死闘を繰り広げた殊勲艦の生き残りを運用していたわけで、1954年の映画“ゴジラ”にもその雄姿が描かれています。

 戦艦大和や戦艦榛名、重巡洋艦摩耶、戦間期の巡洋戦艦鞍馬と比較しても海防艦は小型ではありますが、それでも歴とした海軍艦艇を継承していたのは海上保安庁のほうでした。海上警備隊はアメリカ海軍の退役艦艇から運用を始めまして、海軍の継承は人材中心です。

 旧海軍からは掃海艇さえも継承していません。掃海艇さえ継承していないが掃海任務を受けた海上警備隊は過酷な任務のように見えますが、実は旧海軍の掃海艇は外洋航行能力を重視しすぎ、この後大戦中の掃海特務艇まで、新型機雷へ対応する事が出来ませんでした。

 旧海軍は磁気機雷や音響機雷といった新型の機雷への対処ではなく従来型の係維機雷、水中に浮かんでいる機雷への対処を重視していたため、旧式駆逐艦へパラベーンという係維機雷の係維索を断ち切る処分装置を搭載し運用していまして、日露戦争時代の運用でした。

 旧式駆逐艦原型掃海艇、これが処分不十分のまま航行し、元駆逐艦の鉄製船体と重厚なエンジン音が機雷に察知され掃海艇が撃沈されるという残念な結果にいたったわけでした。すると、旧海軍は駆潜特務艇という小型艦艇を末期に数百隻建造していまして重宝します。

 駆潜特務艇、これが木造船体を採用していましたので、掃海艇へ転用されることとなったわけです。駆潜特務艇は機関銃と爆雷を搭載し、簡易ソナーにより船団護衛に当てられたもので、小型ではありますが限られた要員と人材で間に合わせた装備としては活躍します。

 小型艇ですので、少々任務は厳しいといいますか、アメリカの最新鋭の潜水艦や空母艦載機が乱舞するなかで運用は大変な犠牲と筆舌につくし難い苦労もあったようですが、大戦末期、既に資源が枯渇する中で船団護衛を行うにも限度があるなかで、苦肉の策です。

 全国の漁船建造能力を持つ小規模造船所を全て動員し、性能は限られていましたが数百の建造に着手し200隻以上の就役をもって船団護衛に当たりました。過酷な運用で犠牲も少なくはなかったものの、大量に建造されましたので生き残りも多く、多数残っていました。

 海上保安庁巡視船とともに新設された海上警備隊へも多数が配備、木造船体を応用し掃海艇に用いられたほか、朝鮮戦争支援への海上保安庁派遣でも掃海任務に当てられています。なにしろ、末期戦で動いた装備をアメリカの補給の下使うのですから、間違いないもの。

 ここで、駆潜特務艇を中心に継承した海上警備隊と、海軍海防艦を巡視船として継承した海上保安庁、どちらが海軍の後継者になるのか、海上保安庁と海上警備隊も構成する要員は海軍出身者、このような後継の認識があったわけですね。要するに縄張り争いともいう。

北大路機関:はるな くらま
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