はんどろやノート

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内藤大山定跡Ⅲ  大山の「角交換振飛車」、そして内藤の王位獲得

2013年08月09日 | しょうぎ

内藤国雄-大山康晴

 初手より、「7六歩、3四歩、2二角成」の、“3手目2二角成”戦法は1970年に棋聖戦で内藤国雄が始めました。
 調べますと、それ以前に1964年の順位戦(C2)「北村秀治郎-関屋喜代作戦」ですでに指されてはいますが、その一度きり。その将棋は後手の「角換わり棒銀」の将棋となっています。北村さんは、後手の関屋さんの得意とする振り飛車をけん制するためにこの作戦を採ったとおもわれ、ということは、この作戦採用の思想としては、内藤国雄のそれと同じといえます。
 内藤さんは、対大山康晴戦で何度もこの作戦“3手目2二角成”を用いています。

 しかしこの戦術は、後手が「角換わり相居飛車」を得意とする相手に対しては、先手は単に「一手損」で、先手の利をいきなり放棄するだけとなり、そういう意味でプロ的には「本筋ではない」と、本格派や理想主義の人には眉をしかめられそうな戦術です。
 内藤国雄は、そういう批判が出るかもしれないということは覚悟の上で、思い切って使ったのだと思います。


 内藤さんはその時「棋聖」だったのですが、そういうトッププロがやるのですから、そうなると他の棋士もこれをやってみようと思う棋士も出てくるわけです。
 今回はまず、僕が「内藤大山定跡」と名付けたこの作戦を、内藤国雄以外の人が指した例を紹介します。
 

芹沢博文-佐藤大五郎 1971年
 芹沢博文の“3手目2二角成”戦法。後手の佐藤大五郎は何でも指すタイプですが、敢えて振り飛車にしました。「角交換四間飛車」に。
 飛車を振るなら、角交換している場合、「四間飛車」というのは自然です。他の場所に振ると、先手から6五角があるからです。今ではよく見る「角交換四間飛車」ですが、昔はなかった。そしてこの場合、先手(居飛車)から角交換しているところが、今の角交換振飛車と違います。


 「角交換振飛車は指しにくい」というのが、この当時は、なんとなくの“常識”として根付いていました。実際のところはほとんど指されていないので、よくわからなかったのですが、佐藤大五郎さんは、わりと「角交換振飛車も指せる」と思っていたように思われます。
 「角交換振飛車」の場合、3三の銀が単に2四を守る駒になっていることが、“面白くなさそう”にみえる原因だと思われます。逆にいえば、振り飛車の3三銀が働く展開になれば、“振り飛車が面白い”となる。
 さあ、佐藤から仕掛けました。


 中盤。4四ととすれば先手は銀が取れるのですが、それを保留して芹沢は4二馬と飛車に当てました。(芹沢は先に飛車を捨てている。)
 4五銀、5三歩成、同歩、2四馬、5六銀。
 佐藤は飛車を取らせて、銀を進めました。


 なんと! ここで先手芹沢、投了。
 佐藤大の飛車取りを放置しての4五銀~5六銀が芹沢の読みからすっぽりと抜けていたのかもしれません。
 駒割は「後手の桂得」ですが、先手はと金が4三にいます。しかし後手から7六桂があってこれが厳しく、先手のと金が働く展開にはならないということでしょうか。
 角交換振飛車の“3三銀”が働いた例となりました。


塚田正夫-佐藤大五郎 1973年
 次は元名人塚田正夫の“3手目2二角成”戦法。
 これも後手番は佐藤大五郎で、やはり「角交換四間飛車」。
 この佐藤さんが(居飛車でなく)振り飛車にしそうなので、それならと先手の塚田正夫がこの“3手目2二角成”戦法を採用したのかもしれません。
 図は、後手佐藤が5二飛~5五歩~5五飛と動いたところ。振り飛車から動くところが“薪割り大五郎”らしいところ。
 しかし飛車が動くと図のように3二角があるが。
 5一飛と佐藤は受ける。


 2三角成と先手は馬をつくって、後手が4一角と合わせると、先手塚田は3三の銀を取って、同桂に、図のように、4二銀。これはどちらが読み勝っているだろうか。
 5七飛成、同金、7四角、5三飛、2五桂、2六歩、とすすむ。
 先手は桂馬を取れば、7五歩~7四桂があるというのが、塚田のねらい。 


 佐藤は9筋から攻め、塚田は7五金と打った。次は8四金がある。
 8八と、同玉、9九香成、8四金、5二香… 


 手番は塚田。どう決めるか。
 7三角と打ち込んだ。同桂、同歩成、同金、7四桂、8三玉、9二角まで、塚田正夫の勝ち。
 “3手目2二角成”戦法、成功です。
 これはA級順位戦の一局でした。塚田正夫が名人に就いたのは1947年からの2期で、この対局の1973年には59歳でした。59歳でA級ですから凄いものですが、63歳まで生きて、現役棋士のまま死にました。
 敗れた佐藤大五郎にとっては、この対局の黒星は実に痛かった。4勝6敗でA級から降級してしまいました。


池田修一-森安正幸 1977年
 池田修一さんは青森八戸の出身で、子供の時、宮城に強い子供がいると聞いて、お父さんに連れられて出かけて行ってその子供と対戦していますが、それが中原誠でした。その将棋は中原少年優勢の将棋を池田少年が逆転勝ちしたのです。後に名人になった後で中原さんはその棋譜をふりかえって「気合いに押されて逆転負け」と題して自戦記を書いています。
 また、池田修一さんは、中井広恵さんによる1993年の「女流棋士の対男性棋士一般公式戦初勝利」の相手でもあります。
 その池田さんの“3手目2二角成”で始まったこの対局(C2順位戦)は、これもやはり後手森安正幸の「角交換四間飛車」となり、この図のようになった。後手は3三桂~2五桂で「一歩得」である。次に3七桂成~3六歩の攻めがある。
 森安正幸は、タイトルを獲ったこともある森安秀光のお兄さん。弟子に、畠山成幸・鎮のふたごの兄弟棋士がいます。
 図から、池田は4八飛とまわった。
 以下、3七桂成、同桂、3六歩、7四歩、3七歩成、4九飛、7一玉、7三歩成、同銀、8五桂、8四銀、5五桂…


 こうなった。これは玉の安定度が違いすぎる。先手池田が勝った。
 この将棋は、後手の3四金がまったく働かない勝負となって、「玉頭位取り」の先手が勝利した。“3手目2二角成”、ここでも成功。
 「角交換四間飛車」には、居飛車側の「玉頭位取り」がたいへんに有力な戦法といえそうだ。



 さて、“前菜”はここまで。
 いよいよ“メインディッシュ”の「内藤大山戦」の棋譜に移りましょう。

 1971年の十段リーグの一戦。


内藤国雄-大山康晴 1971年
▲7六歩 △3四歩 ▲2二角成(図) △同銀 ▲8八銀 △3三銀
▲4八銀 △3五歩 ▲6八玉 △3四銀 ▲7八玉
 内藤大山戦4度目の“3手目2二角成”。


△3二飛
 後手大山名人(ここではまだ大山が名人で三冠王だった)は、3五歩~3四銀という形をつくって、それから3二飛と「三間飛車」に。
 創造的な構想である。
 なるほど、このように3四銀型をさきにつくれば、4三の地点は守っており、先手からの6五角には心配がいらないので、飛車をどこにでも振ることができるのだ!


▲7七銀 △6二玉 ▲5六歩 △7二玉 ▲6八金 △2四歩 ▲9六歩 △2五歩
▲9五歩 △2二飛 ▲5七銀 △5二金左 ▲6六角
 大山は2筋の歩を伸ばし、2二飛と向かい飛車に。


△3三角 ▲5五歩 △6四歩 ▲5六銀 △6二銀 ▲4六歩 △6三銀 ▲7五歩 △4四歩
▲5八金上 △5四歩 ▲同歩 △同銀 ▲7六銀 △8二玉 ▲7七桂 △7二金
▲8六歩 △6三銀 ▲1六歩 △4五歩 ▲3三角成 △同桂 ▲6六角 △2三飛
▲9四歩 △同歩 ▲9三歩 △2六歩 ▲同歩 △2七歩 ▲4八飛 △3九角
 内藤は角を打った。大山も3三角と受ける。
 先手は玉頭位取りから9筋の端を攻める。振り飛車も反撃。


▲7四歩 △同歩 ▲9四香 △4八角成 ▲9二歩成 △同香 ▲同香成 △同玉
▲4八金 △7五歩 
大山3九角。こうなるともう先手は飛車を取られてその飛車で攻められる展開は覚悟しなければならない。


▲8七銀 △9六歩 ▲9八歩 △9七歩成 ▲同歩 △5九飛 ▲5八金右 △2九飛成
▲8五桂 △8四歩 ▲4五銀 △7四桂
 この7五歩が大山の好手。
 このあたり、大山の巧妙な指し手が続く。
 内藤は4五銀と勝負手。これもなかなかの手だったが…。


▲3四銀 △8五歩 ▲7五角 △8三桂 ▲8四角 △8六歩 ▲9六銀 △8七歩成
▲同銀 △8五香
 内藤の4五銀に、大山、7四桂。(自分なら絶対、4五同桂とすると思う。)
 次の3四銀は飛車取りだが、かまわず、8五歩。なんだか、すごいぞ。(ここ、6六桂と角を取ると、あとで王手竜取りをくらう。)
 そして7五角に、8三桂。玉頭に拠点をつくっていく。


▲5九歩 △8七香成 ▲同玉 △7五銀 ▲8五銀 △2六飛 ▲9四香 △8二玉
▲9一角 △7一玉 ▲7三歩 △8六歩
 96手目、2六飛。結局この飛車は取られることがなかった。この飛車まで働いてくると先手きびしい。
 内藤は、9四香~9一角と後手玉を追ったが、9一角は疑問手だった。単に7三歩とし、同金に8三香成で勝負だった。


▲9六玉 △9五歩 ▲同角 △7三桂 ▲9三香成 △8七歩成 ▲8三成香 △同金
▲8七玉 △8五桂
 大山の8六歩に、内藤は9六玉と逃げた。
 この手が敗着となった。8八玉なら、まだ形勢不明ということだ。

投了図
まで112手で後手の勝ち

 内藤・大山戦らしい激闘譜でした。
 しかし大山名人は強いですね。「内藤大山定跡」も、ここまで内藤の1勝3敗です。



関根茂-大山康晴 1971年
 上の「内藤-大山戦」の2か月後、関根茂が、やはり大山康晴を相手に、「内藤大山定跡」の“3手目2二角成”。
 相手が振り飛車にするとわかっていれば、ちょっとこれをやってみたくなりますね。「新しい将棋」になり、新鮮な気持ちで将棋がさせるのも魅力です。 


 「内藤-大山戦」と同じ3四銀型からの「三間飛車」に。


 関根が1六角、そして大山が1二角と打った。


 大山はこの1二角をうまく活用する。図は、後手からの4五銀、同銀、4六歩という調子良さそうな攻め。


 関根も、1六角~5二銀と角をつかって反撃。


 さあ、終盤だ。
 1六馬、2九竜、5六歩、同成桂、同金、同角、6七歩、6五桂、4九歩、2七銀。


 後手からの攻めがきびしいので、先手は4九歩としたが、ここで2七銀という手があった。
 大山康晴の勝ち。



 1972年6月、そびえ立つ大山康晴の名人位の城がついに落城し、中原誠が新しい名人となりました。中原は24歳、大山49歳です。


 大山康晴のもつタイトルは「王将」と「王位」の2つになった。(当時のタイトルは5つ)
 王座戦は当時もあったが、これはタイトル戦ではまだなかった。その王座戦のトーナメント準決勝で、内藤国雄と大山康晴が激突。
 内藤が先手番で、また、“アレ”になったのである。


内藤国雄-大山康晴 1972年
 「7六歩、3四歩、2二角成」の「内藤大山定跡」から、3三銀とした後、大山康晴二冠、2二飛!
 そう、これは「角交換ダイレクト向かい飛車」である!
 これを最初に指した棋士は、大山康晴だったのである!
 ここで「6五角」という手があるが…、しかし内藤はその手を見送って3八銀と指したのである。


 その将棋の中盤はこのようになった。今、内藤が3一角と打ち込んだところ。
 2一飛、5三角成、6二角、2二歩、同飛、3一馬、2一歩、2五桂、3二銀。
 

 2二馬、同歩、3三桂成、同銀、3六飛、3二歩、4六飛、2八角、1六飛、3七角成、9五歩、6三金。
 内藤は飛車を取って、9五歩と端攻め。この攻めが厳しいようだ。


 大山、6三金。これは次に7四歩、8六銀として、6二の角の活用をみた手のようだ。
 内藤は3一飛。
 結局、大山の7四歩を内藤が逆用する形となった。


 先手勝ち。内藤国雄の快勝譜。

 「内藤大山定跡」、内藤国雄の2勝3敗。


 そして、ここまでの内藤国雄の対大山戦の対戦成績は、 

 ●●●●●●○●○●●○●●●○●○○  6勝13敗です。  


 1972年、内藤国雄は名人になったばかりの中原誠のもつ「棋聖位」に挑戦しましたが1勝3敗で奪取ならず。



内藤国雄-中原誠 1972年 王位挑決
 内藤は著書『横歩取り空中戦法』の中でこう書いている。
 〔空中戦法の相手は、中原氏が断然多い。理由は、中原氏が受けて立つ棋風だから。大器というか、横綱の貫録というか、この人は逃げを打つということをしない。いつも堂々と向かってきます。〕
 これで勝った方が王位戦の挑戦者となります。王位は大山康晴。
 先手9六歩型の「先手横歩取らせ」の空中戦となりました。
 図は、8五銀で中原の飛車を捕獲したところ。
 中原は7三歩。対して内藤は、6三角成、同玉と捨てて、それから8四銀。この順がよかった。
 以下、5二玉、7五銀、6三歩、6五桂、4四角、5六飛、4二金、3七桂、5四角。


 中原の5四角は、先手のねらう4五桂跳ねを防ぎつつ、6五桂取りになっている。
 これを内藤は、同飛と取る。以下、同歩、4五桂、3七歩、2八金、6二金、5三角。
 しかしこの先手内藤の攻めは、後の、80年代の中原流相掛かりを見ているようだ。


 5三角で先手勝ち。 5三同金右、同桂左成、同金、7二飛、6二飛、4二金まで、中原名人、投了。


 こうして、1972年夏、内藤国雄が、大山康晴の持つ王位戦の挑戦者と決まりました。

 

 さて、その王位戦七番勝負のゆくえは?

内藤国雄-大山康晴 1972年 王位1
 第1局は、内藤国雄の「先手三間飛車」。
 「6五歩」と内藤は角交換を挑む。後手大山康晴の銀が7五まで出てくると先手はいそがしくなるので、これで勝負する。
 8八角成、同飛、3三角、9八飛、8二飛、7八飛。


 後手が9九角成なら、7四飛、7三香、同飛成となるが、これでやれるというのが内藤の読み。
 7五歩、7七金、8六歩、同歩、7三桂。
 そこで4六歩がいい手だった。同歩なら、4八飛がねらい。
 大山は5五歩。以下、4七銀、6五歩、4五歩、4四歩、同歩、同銀、3六銀、4五歩、1五歩…。
 さらに内藤は1筋に目をつけた。


 7七桂成、同飛、4三金、1四銀、2四金、4七角、8六飛、2六香、4六歩、7四角、1四金、7五飛、4二金上、6五角、6四歩。 
 大山の4三金では8六飛としたいが、それは5四角がある。5四角、4三金、8七飛は後手がまずい。
 内藤は、大山の飛角が働かないうちに攻めたい、4七角~2六香が内藤期待の手。


 後手の6四歩(角取り)に、内藤は1二銀。


 5四桂に、同金、4三歩、同金、2一成銀、4二玉、3三成香、同玉、4一竜、4七歩成、3二角まで、大山投了。
 内藤国雄が勝った。七番勝負の緒戦を勝利。
 これが内藤・大山での3度目のタイトル戦番勝負になるが、内藤が勝ち星をリードしたのはこれが初のことだった。


大山康晴-内藤国雄 1972年 王位4
 2勝1敗で内藤がリードして第4局。大山・内藤戦はいつもどっちが飛車を振るかの様子を見ながらの妙な序盤になる。(そこが見どころでもある。)結局、この第4局は後手番の内藤が飛車を振らず6二銀。それを見て大山が5八飛と飛車を振った。


 大山が序盤を失敗して、内藤がリードを保つ。そして終盤へ。
 図の4六香が決め手となった。
 内藤の勝ち。3-1。あと一つ勝てば、「王位」獲得である!


内藤国雄-大山康晴 1972年 王位5
 相手は強敵の大山康晴である。内藤はなんとしてもここで勝ってタイトル奪取を決めたい。
 内藤は「鳥刺し」戦法。
 この戦法は幕末に、四宮金吾という人物が編み出した戦法と伝えられている。
 内藤が対大山にこれを用いるのはこれが3度目となる。(これまでは1勝1敗)

投了図
 内藤国雄の勝ち。

 内藤国雄新王位の誕生である。勝った内藤に記者たちの質問が発せられたが、内藤の顔面は蒼白で、しばらくは声が出ず、盤を見つめていた、という。




 この内藤国雄新王位が誕生したシリーズは、しかし、内藤の“3手目2二角成”は出なかったのです。

 内藤さんの4つの勝利のうち、2つは「鳥刺し」の作戦でしたが、この2つの将棋はしかし、「鳥刺し」といっても、結局は7九角と引き角にすることなしに「7六歩」と角道を開けていますから、「鳥刺し」の作戦で勝ったとも言い切れない。
 ですが、この王位戦七番勝負のシリーズの途中で、王座戦の決勝戦があったのですが、そこで採った内藤の作戦は、これまた「鳥刺し」。

内藤国雄-大内延介 1972年 王座戦決勝
 この将棋。決勝戦の相手は大内延介。
 内藤の角は、7九→5七→6六と活用したもの。7六歩としないのが「鳥刺し」の特徴。
 内藤さんが勝利して、王座戦優勝です。


 こんな具合に、この時期の内藤国雄は、“絶好調!!!” なのでした。

 なお、内藤さんの「鳥刺し」の採用は5局、成績は3勝2敗です。うち大山康晴戦が4つ(2勝2敗)です。「鳥刺し」は内藤さんにとってゲンのいい戦法と言えそうです。
 


 1972年までの内藤国雄の対大山戦の対戦成績は、このようになりました。 

 ●●●●●●○●○●●○●●●○●○○○●●○○○●  10勝16敗



 『内藤大山定跡Ⅰ  内藤国雄の「いきなり、2二角成」戦法
 『内藤大山定跡Ⅱ  大山康晴の 「筋違い角、and 振飛車」』 
 『内藤大山定跡Ⅲ 大山の「角交換振飛車」、そして内藤の王位獲得
 『内藤大山定跡Ⅳ  大山康晴の「角交換ダイレクト向かい飛車」』 
 『内藤大山定跡Ⅴ 「筋違い角戦法」の研究』 
 『内藤大山定跡Ⅵ 燃え尽きた闘将(前)』
 『内藤大山定跡Ⅵ 燃え尽きた闘将(後)
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