静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2024年02月25日 | 天のマナ
「あなたのうなだれたかしらを起こす神」 
 
 主日第一礼拝式では「マルコによる福音書」、第二礼拝式では「テトスへの手紙」、合同礼拝式では「民数記」、午前の祈祷会では「ダニエル書」、早天祈祷会では「ヨハネ黙示録」を終え「詩篇」の神のみ言葉をいただいております。(伊東教会祈祷会ではヨブ記)。

 昨日の早天祈祷会では、詩篇3編でした。「しかし主よ、あなたこそわが盾、わが栄光、私の頭を起こす方(新改訳:私のかしらを高く上げてくださる方)」(3節)のみ言葉が心に響き魂が潤されました。ダビデが息子アブシャロムによって王座を奪われ都落ちしていく中で、多くの者が「ダビデには神の救いはない」と言う中、ダビデは「しかし」と神を見上げ信仰の告白の祈りをささげたのでした。逆境の中で、主なる神が私を守り支え、重くなりうなだれる私のかしらを起こし、それも高くあげてくださる(栄光を与え、誇りをもたせるように高める)との祈りでした。主なる神は、ダビデとの契約を誠実に守り、彼を王座に戻したのでした。ダビデのかしらを起こした方は、あなたのかしらも起こして下さる方であります。
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天のマナ

2024年02月18日 | 天のマナ
 「認罪、悔い改め、そして溢れる義の宣言と赦しの恵みに気づく」

 「クリスチャンになる前とクリスチャンになった後では、認罪(罪を認める)の深さはどう変わりましたか?」という質問に皆さんはどう応えるでしょうか?もし、「認罪が浅くなった」とか「認罪は変わらない」というなら困ったものです。しかし、「認罪が深まった」というなら、聖なる神の前に出て、み言葉に照らされている方でありましょう。神によって罪赦されクリスチャンになれば、良心も目覚めますし、今までのように都合の良い自分の基準でなく、聖書が基準になりますので、罪深い自らの姿に気づくに違いありません。しかし、クリスチャンに気づくのは「自分の罪深さ」だけではありません。「そんな私を愛し赦してくださって受け入れて下さっている主の大きな愛と恵み」に気づくのです。主の義の宣言と赦しの大きさ気づいておられるでしょうか?「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠のいのちへと導くのです。」(ローマ5章20~21節)。
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ウエルカムフラワー

2024年02月11日 | 生花
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講壇の花

2024年02月11日 | 生花
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講壇の花

2024年02月11日 | 生花
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天のマナ

2024年02月11日 | 天のマナ
 「人を贖い、全世界を贖う神がおられる」

「神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった」(創世記1:31)とあるように、神が創造された世界は非常に麗しかった。病も死も災害もなかった。しかし、アダムとエバが罪を犯して以来、「あなたのゆえに、土は呪われてしまった」(3:17)。豊かな肥沃の地が、苦しんで食べ物を得なければならない荒れ地となった。その後のノアの時代の洪水壊もあり、自然界も主イエスの再臨によって贖われることを待ち望んでいる(ローマ3:19~23)。

「神がいるなら、神が愛なら、なぜこのような苦しみに遭うのか」と叫び問われることがある。私達クリスチャンに出来ることは、第一に「寄り添うこと」。痛んでいる者の痛みを自分の痛みに、悲しんでいる者の悲しみを自分の悲しみにすること。これなしには始まらない。第二には「祈ること」。慰め主で癒し主なるイエスが、この方に触れて慰められ癒され立ち上がれるように。第三に「悟りがあたえられること」。神が苦しみを与えたのではなく、人間の罪が苦しみを招きもたらしたこと。そして神が万事に働いて人を助け、人を始めとするこの世界を贖ってくださること、病も死も災害もない天の御国の確実な到来に希望を持つことである。「私たちは、この希望のうちに救われているのです」(ローマ8:24)。
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天のマナ

2024年02月04日 | 天のマナ
「救いの確信を持つ」
「あなたはいつ救われたの?」「あなたは救いのみ言葉は?」と聞かれるたびに、中学生の私は、明確に答えられず困っていました。なぜ、明確に答えられなかったのかは、二つの理由がありました。
 一つ目は、クリスチャンホームで生まれ育った私は、小学生の頃から、毎年教会のキャンプに行っておりました。毎年のように、イエス様を救い主として信じる決心をし、救いのみ言葉を頂き、悔い改めの祈りと信仰告白の祈りをしていました。どれが救いの時だったのだろうかと思っていたからでした。
 二つ目は、救いの土台を自分の感情や行動においていたことでした。感情が高ぶっている時や行いが良い時には救われていると考え、感情が落ち込んでいたり思いや行動が失敗すると救われていないと考えていたからです。
 高校生のある時に、聖霊に導かれ次のように自問自答しました。「あなたはイエス・キリストを自分の救い主と信じ、自分の罪を認め悔い改めましたか?」「はい、そうしました」。「今も信じていますか?」「はい、信じています」と。そこで、一番印象の強いかった中学一年の夏の伊豆大島のキャンプでの信仰告白を救いの時とし、一番頭に残り心に響いている第一ヨハネ1章9節のみ言葉を救いのみ言葉としました。さらに、自分の感情や行動を救いの土台とすることを止め、変わらない神のみ言葉を救いの土台にしました。それ以降、救いの確信をいただいておりぶれることがありません。
 「この書物(聖書)は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに至る知恵を与えることができます。」(テモテへの手紙二3章15節)。
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