静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2019年10月27日 | 天のマナ
 「完全な神のみ手の中にすべでてがある」

 両親の腕の中で小さい子供が、平安な顔をして寝ている姿を私たちは見ます。決して完全な親はいませんし、精一杯子育てする中で失敗を時々してしまいますが、小さな子供は不安な顔をしていません。それは、親に対する信頼があるからです。時に、この自転車の運転で大丈夫かと思うようなお母さんもいますが、子供は後ろで笑っています。
 この世では、理不尽なことが起こり苦悩しますし、不公平さを味わい非難したくもなるのです。どんなに精一杯なしたからとて評価されず報われないこともあります。それがこの世であります。しかし、だからあきらめてしまう、投げ出してしまってはいけません。誰が見ていていなくても、誰にも評価されなくても、私たちを見ておられる神がおられるのです。私たちの信じている神は完全です。すべてを見ておられ全知全能の主権者なる神が、最善をなしておられるという信頼、神の許しの中で起こっていることという信頼を私たちがもっているなら、平安があり、笑いがあるのです。「わたしの時はあなたのみ手にあります」(詩篇31:15)
 
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天のマナ

2019年10月20日 | 天のマナ
 「太く繋がる」   

「なし、かき、ぶどう、くり、まつたけ、さつまいも、さんま・・・」と秋にはおいしいものがたくさんあります。収穫の秋と言われる所以です。果樹園では多くの木が実をつけています。よく見ると、木の幹と枝はしっかりと繋がっています。根から吸収された水や栄養分が幹から枝に流れ込んでいます。地面に落ちている枝は細く枯れ、実は一つもついていません。幹と繋がっていないからです。幹から命が流れ込んでいないからです。
主イエスは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし、人がわたしとつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」(ヨハネ15:5)と言われました。「つながる」とは、主イエスとの交わりであります。礼拝をささげ、賛美し、祈り、デボーションでもみ言葉を頂く交わりです。この繋がりを太くして行く時、幹なる主から命が枝なる私たちに流れ多くの実を結ばせるのです。多くの実とは、御霊の実、悔い改めの実、伝道の実です。「実を結ばなくては」と力むのではなく、主イエスと太く繋がることを心がける時、主イエスが「実を結ばせてくださる」のです。
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天のマナ

2019年10月13日 | 天のマナ
 「備え」  「気をつけて、目をさましていなさい」(マルコ13:33)

 今朝までの台風の風と雨は非常に強いものでした。その中でも神の守りがあり、兄弟姉妹と共に礼拝をささげられていますことを感謝します。被災された方々に主の助けと励ましがありますように祈ります。金曜日でしたか、近くのドラック・ストアーに行ってみますと、多くの人がいて、いつもは高く積まれている2リットルのミネラル・ウォーターの箱が一つもなく、ボトルもありませんでした。カップラーメンもほとんどなく、電池も品薄でした。ニュースでは、発電機、ブルーシート、カセットコンロ、カセットボンベも多く買われていたとのことでした。また、どこのガソリンスタンドも車が並んでいました。一か月前の台風のこともあり、多くの人が警戒し備えていることを見ました。
 やがて主イエスは再臨されます。私たちの備えはできているでしょうか。何か特別なことをするわけではありませんが、主がいつ来られても慌てることなく、「お待ちしておりました」と、今日も明日もいつものように主と深く交わり、真実な歩みを続けてまいりましょう。
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天のマナ

2019年10月06日 | 天のマナ
  「一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(マタイ6:34)

 N姉がすい臓癌であるとのことを聞きました。体重も40キロを割っており、肉体の弱さの中にあります。普通の人では、さそがしショックで落胆し思い悩むことですが、彼女は違っております。祈祷会の恵みの分かち合いにて、主を土台とした揺るがない信仰を持ち、最善をなされる主に信頼して、次のように話されました。「さらっと歩んでいきたい」と。この言葉の背景には、信仰による神からの平安をいただいること、永遠の神の国に入る確信があること、残された地上での歩みを精一杯生きる、ラストスパートをしようという思いがあるに違いありません。敬老愛餐会の時の天のマナにも記させていただきましたが、あえて年長者の兄姉に、「ごゆっくり過ごして下さい」とは記さずに、「今まで以上に主の愛を溢れさせて下さい」と記させていただきました。主が「良し」とされお迎えに来られた時、「待っていました。私は一日一日精一杯やってきました」と共に申し上げる者でありたいのです。
 
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