静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2019年03月31日 | 天のマナ
  「牧師の第一の務め」
 
 先週、教団年会が行われまして、牧師夫妻は来年度も静岡教会に任命をされました。その任命式で、教団委員長が第一テサロニケ一章から、神の言葉を取り次いで下さいました。この箇所は、「テサロニケの信徒たちが、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、パウロらと主とにならう者となり、他の地域の模範となり、その信仰が響き渡っている」というものです。信徒の方々の信仰が響きわたるために、牧師の第一の務めは、み言葉を語ることであり、み言葉が語られるその時に聖霊なる神が働かれ、多くの患難のただ中でも一人一人がみ言葉を受け入れ、その信仰が響き渡るのであるということでした。「御言を宣へ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。」(Ⅱテモテ4:2~4)
 説教を語る時はもちろん、準備の時こそ、しっかりと静まりみ言葉に向き合って、神の御心を真っ直ぐに受け止め、まず自らが取り扱われ、変えられ満たされ、確信をもって大胆に語らせていただきたいと祈ってきました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2019年03月24日 | 天のマナ
 「栄光に輝く場と」
 昨日は教会の納骨堂で、昨年召されました故兄とその親族、故姉の納骨式の司式をさせていただきました。賛美がささげられ、み言葉が朗読され、祈りがなされました。式文を読む中で、次の文章が心に留まりました。

「主イエスは十字架にかけられて死に、墓に葬られましたが、三日目に死に打ち勝ち、よみがえられて、墓を輝く栄光の場に変えられました」。主イエスは、墓に葬られることをよしとされ、三日目にその墓から復活し、その墓を輝く栄光の場にしました。
 私の若い時の墓のイメージは、暗く、あまり行きたくない場所でありましたが、しかし今は違います。「その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり」(第一テサロニケ4:16)とありますように、主イエスが再臨される時、先に召された兄姉の体は栄光の体にされ、天に挙げられていくのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2019年03月17日 | 天のマナ
 「兄弟姉妹を通し神の愛を受けて」

 年が経つのは早いもので、52歳の誕生日を迎えました。特別な夕食を作ってご馳走して下さったご夫妻、ケーキを買ってプレゼントして下さった姉妹、不二家のペコちゃんのお菓子の詰め合わせを持って来てくださった兄弟、長い生ロールケーキを持って来て下さった兄弟、またハンナ・セルからは誕生日カードをいただき、教会の皆様からはお祈りをしていただき、牧師への敬意と愛を深く感じ、戦いの多い働きの中、大変励まされました。いいえ、誕生日に限らず、旅行のお土産をいただいたり、シャツを仕立てていただいたり、年末にプレゼントをいただいたりと愛を行動にあらわして下さり感謝に尽きません。

 まず愛を豊かに表して下さったのは、三位一体の神です。父なる神は、神の独り子なるイエスをこの世に送り、十字架に掛けてまで、私を救ってくださったのです。この主なる神の愛を今日もいただき、私も内にある愛が思いから言葉へ、言葉から行動へと表していきたいのです。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった」(ヨハネ3:16)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2019年03月10日 | 天のマナ
 「慰めの器とされる恵み」

 先日、一年前に天に召された方の記念会をいたしました。そこに集ったご家族は、2年前に父を、そして昨年母を病で天に送りました。二年間のうちに両親を天に送るという辛い中を通られたのです。事業を引き継いだ息子さんとしては、父に仕事のアドバイスをもっとしてほしかったでしょうし、二人の子を育てている娘さんとしては、母の経験による知恵を教えてもらい、子育てを助けてほしかったでしょう。「父、母がいたらなあ」と思います。私も30代で母を翌年には妻の父を天に送りました。人は辛い中を通ることがあります。その時は辛い経験ですが、この経験を通して私たちは神の慰めの器とされていくのです。やはり同じ辛い経験をした者でなければ、わからないということがあります。同じ辛い経験をしたからこそ、その只中にいる辛さがわかり、慰めることができるのです。
 主イエスは、人となり私たちの通る辛さを経験して下さいました(へブル4:16)。ですから、この方に慰められ、私たちも辛い中にいる人たちを慰める器とされていきましょう。「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神の慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」(Ⅱコリント1:4)」
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天のマナ

2019年03月03日 | 天のマナ
  「炎のランナーの続編」 ―DVDでレンタルされていますー

 1981年に「炎のランナー」が上映され、アカデミー賞4部門を受賞した映画を青年達は知らないかも知れない。一人のクリスチャン(エリック・リデル)が、その信仰から日曜日に行われる競技(100メートル)を棄権するも、別種目(400メートル)で劇的な優
勝をし、パリのオリンピックで金メダルを得たという実話を描いた映画である。今回の続編
「最後のランナー」は、その後、彼には多くの企業からスポンサーの声がかかるが、彼は翌年、宣教師として中国に渡るのである。中国では福音を伝えると共に、子供たちに英語や化学などを教える。時は太平洋戦争に入り、日本軍が中国の一部を支配下に置き、欧米人を強制収容所に送る。彼は妻と子供らを先に帰すが自らは残り、宣教師としての使命を果たしていくが、彼も収容所に送られる。そこで彼は、ひどい仕打ちをする日本兵のためにも祈り、子供たちと収容所内を走ることを止めず、時には日本軍の士官とも走り、信仰者としてもアスリートとしても走り続けるのである。

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」(ヘブル12:2)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする